盂蘭盆御書 弘安二年(1279年)七月十三日 聖寿五十八歳御著作


 孟蘭盆の由来について、申し上げることにしましょう。

 仏(釈尊)の御弟子の中に、目連尊者という人がいらっしゃいました。
 目連は、『智慧第一』と云われた舎利弗と並んで、『神通第一』と云われていました。

 目連と舎利弗は、あたかも、須弥山に、日と月が並んでいるような関係であり、また、
大王(釈尊)の左右に付き添っている大臣のような関係でありました。

 目連の父は、吉懺師子と云いました。また、目連の母は、青提女と云いました。

 目連の母の青提女は、慳貪(物を惜しんで貪ること)の罪によって、餓鬼道に堕ちてい
たところを、息子の目連が救い出したことから、孟蘭盆の由来は起こっています。

 盂蘭盆に関する、目連と青提女の因縁について、これから述べます。

 目連の母の青提女は、餓鬼道に堕ちて、嘆いていました。
 けれども、目連は、凡夫であったがために、そのことを知らなかったのであります。

 幼少の頃、目連は、外道の家に弟子入りして、バラモンの四種類のヴェーダ(聖典)や
十八大経という外道の一切経を習い尽くしました。

 しかし、未だに、「自分の母が、死後、どこに生まれ変わっているのか。」ということ
を、知ることは出来ませんでした。

 その後、十三歳の時、目連は、舎利弗と共に、釈迦仏の下へ参って、御弟子となりまし
た。

 目連は、まず最初に、見惑(物事に迷う煩悩)を断じて、初果の聖人(小乗教における
聖人)となりました。
 更に、目連は、その上の煩悩である修惑(思惑)を断じて、阿羅漢の位に昇り、三明六
通(仏や阿羅漢が有する神通力)を得ました。

 目連は天眼を開いて、三千大千世界を、まるで明鏡へ反映させるかのように、御覧にな
りました。
 目連が大地を見通して、三悪道(地獄界・餓鬼界・畜生界)を見渡す様子は、あたかも、
凍った池の氷の下にいる魚を、我々が朝日に透かして見るようなものでした。

 すると、三悪道の中の餓鬼道という所に、目連の母がいたのであります。

 目連の母の青提女は、飲む物もなく、食べる物もなく、痩せ細っていました。
 そのため、皮は、金鳥の羽根をむしり取ったような状態になっていました。

 骨は、すっかり磨り減って、丸い石を並べたようになっていました。
 頭は、髪の毛が抜けてしまって、毬(まり)のようになっていました。
 首は細くなって、糸のようでした。
 腹は、大海のように膨らんでいました。

 青提女が口を大きく開けて、手を合わせながら物乞いをする姿は、あたかも、飢えた蛭
が人間の臭いを嗅ぎつけるような有様でした。

 前世で産んだ我が子を見て、母が泣いている姿や、餓えている状態を目にすると、例え
ようもないほど、目連は、悲しい氣持ちになりました。

 昔、天台宗・法勝寺で執行を務めていた舜観(俊寛)という僧侶が、硫黄島に流された
ことがあります。

 ある時、髪が首に巻きついて、痩せ衰えた姿の舜観(俊寛)が、裸のままで海岸に出て
きては、藻屑を取って腰に巻きつけて、魚を一尾見つけた途端に、右手に取り、口で噛み
付こうとしました。

 その姿を、かつて自分に仕えていた童子が、硫黄島へ舜観(俊寛)を尋ねていった際に、
ちょうど、目撃されてしまいました。

 舜観(俊寛)が童子に目撃されたことと、目連尊者が餓鬼界に堕ちた母を見たことと、
どちらの方が、悲嘆の度合いが大きかったのでしょうか。

 少々、目連尊者の方が、悲嘆の度合いは大きかったことでしょう。

 あまりの悲しさに、目連尊者は、大神通力を現じられて、ご飯を差し出すと、母は喜ん
で、右手でご飯を握り、左手でご飯を隠しながら、口ヘ押し入れようとしました。

 ところが、どうしたことでしょうか。

 ご飯が変じて火となり、やがて、燃え上がってしまいました。
 まるで、灯を集めて火をつけたように、ばっと燃え上がったために、目連の母は、身体
の至る所で火傷をしてしまいました。

 目連は、この様子を見ると、たいへん慌てて騒ぎました。
 そして、再び、大神通力を現じられて、沢山の水をかけたところ、逆に、その水が薪と
なって、ますます、母の身を焼いてしまいました。

 それは、あまりにも、哀れな惨状でした。

 目連は、その時に、自らの神通力では、母を救い出せないことを認識しました。

 走り帰ってから、目連は、直ちに、仏(釈尊)の許に参詣して、嘆きながら、このよう
に語りました。

 「我が身は、外道の家に生まれました。

 しかし、仏(釈尊)の御弟子となり、阿羅漢の位を経て、三界(欲界・色界・無色界)
の生死を離れ、三明六通(仏や阿羅漢が有する神通力)を得ることが出来ました。

 けれども、母の大苦を救うために力を尽くしたものの、却って、母の大苦を増してしま
う結果になってしまいました。 とても、悲しいことです。」と。

 すると、仏(釈尊)は、このようにお説きになられました。

 「汝の母は、とても罪が深いのです。

 従って、汝一人の力では、救うことが出来ません。
 たとえ、人数を多くしても、無理でしょう。 

 また、天神・地神・悪魔・外道・道教の士・四天王・帝釈天王・大梵天王の力も、及ば
ないことでしょう。」と。

 重ねて、仏(釈尊)は、目連に対して、このように仰せになられました。

 「どうしても、汝の母を、餓鬼界から救い出したければ、七月十五日に、十方の聖僧を
集めて、百味の飲食(種々の美味な飲食物)を整えることによって、母の苦しみを救いな
さい。」と。

 そこで、目連は、仏(釈尊)の仰せの通りに、実行しました。
 その結果、目連の母は、一劫という長い期間に及んだ餓鬼界の苦しみから、脱出するこ
とが出来ました。

 以上の主旨のことが、『孟蘭盆経』という経典に、お説きになられています。

 その故事を由来として、釈尊御入滅後の末代の人々は、七月十五日に、孟蘭盆の法要を
修しています。
 そして、この法要は、毎年の常として催されています。

 日蓮は、下記の如く、考えております。

 目連尊者という人は、十界の中で、声聞界の人になります。

 二百五十戒を堅く持つことは、石の如き人でありました。
 三千の威儀(徳が備わった行動、戒律の異名)を備えて、欠けた様子が全くないことは、
十五夜の満月のようでありました。
 智慧は、太陽の如く、明らかでありました。
 神通力は、須弥山を十四周もするほどであり、大山を動かせる人でもありました。

 このような聖人であったにもかかわらず、目連尊者は、重恩のある母親に報いることが
出来なかったのです。
 ましてや、母親の恩に報いようとすればするほど、却って、大苦を増す結果となりまし
た。

 ところが、今の世の僧侶どもが、二百五十戒を持っている姿は、名ばかりであります。
 事を戒律に寄せて、人を騙すだけであり、彼等には一分の神通カもありません。
 あたかも、大きな石が天に上ろうとするようなものであって、実現不可能なことです。

 また、今の世の僧侶どもの智慧は、牛と同じ程度であり、羊とも異なるものではありま
せん。
 このような僧侶どもが、たとえ千万人集まったとしても、たった一つの父母の苦しみさ
え、救うことは出来ません。

 結局のところ、目連尊者が、母の苦しみを救えなかった理由は、小乗の教法を信じて、
小乗教の二百五十戒の持斎(注、斎戒を持つこと→行為を慎み、心身を清浄にすること)
であったからに、他なりません。

 従って、浄名経という経典には、浄名居士という男が目連房を責めながら、「汝を供養
する者は、三悪道(地獄界・餓鬼界・畜生界)に堕ちる。」と、云っています。

 この経文の意味は、「小乗教の二百五十戒を持っている、尊き目連尊者を供養した者は、
悉く、三悪道(地獄界・餓鬼界・畜生界)に堕ちてしまう。」ということです。

 また、これは、ただ目連一人が聞くべきことではなく、一切の声聞及び末代の持斎(注、
斎戒を持つこと→行為を慎み、心身を清浄にする者)等が聞くべきことでもあります。

 この浄名経という経典は、法華経の御立場から考えると、数十番も末席の郎従(家来)
に等しい教えになります。

 しかし、結局のところは、未だに、目連尊者自身が仏に成っていないことに、問題があ
るのです。

 自分自身が仏に成らずして、どうして、父母を救うことが出来ましょうか。
 それは、絶対に、不可能なことであります。
 ましてや、他人を救うことは、それ以上に、不可能なことであります。

 ところが、目連尊者という人は、法華経という経典で、「正直捨方便」と仰せの教えを
承ったために、小乗教の二百五十戒を立ちどころに投げ捨てて、「南無妙法蓮華經」と唱
えました。

 そのため、やがて、仏に成って、多摩羅跋栴檀香仏という名号を得たのであります。
 そして、この時にこそ、初めて、目連の父母も、仏に成ることが出来たのです。

 故に、法華経授学無学人記品第九には、「我が願いも、既に満たされて、衆人の望みも、
また、満たされるであろう。」と、仰せになられています。

 目連の色身(身体)は、父母が遺してくれたものです。
 従って、目連の色身(身体)が仏に成ることが出来たならば、父母の身も、また、仏に
成るのであります。

 例えば、日本国第八十一代の安徳天皇の御代に、平氏の大将であった、安芸守・平清盛
という人がいました。

 平清盛は、度々の合戦で、平氏の敵を滅ぼした結果、最高位の太政大臣まで、官位を極
めました。
 その当時の天皇は、平清盛の孫に当たる方が前後に就任しており、また、平氏一門の人
も、平清盛に倣って高官に就任しました。

 その結果、平清盛は、日本国中の六十六箇国及び佐渡島・壱岐島を掌握しました。
 平清盛が人々を従わせる姿は、あたかも、大風が草木をなびかせるようなものでした。

 次第に、平清盛は、心が驕り、身の振る舞いも、傲慢になっていきました。

 最終的には、神仏を軽視して、神官や諸僧をも掌握しようとしたために、比叡山や奈良
・七大寺(東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺)の諸僧との間に、
紛争が発生しました。

 結局、平清盛は、去る治承四年(1180年)十二月二十二日に、奈良・七大寺(東大寺
・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺)のうち、東大寺と興福寺の二箇寺
を焼いてしまいました。

 その大重罪が平清盛入道の身にふりかかり、翌年の養和元年(1181年)閨二月四日に、
高熱の病に罹患して、身は炭が赤く熱したような状態となり、血は火のように燃えるよう
な状態となりました。

 平清盛の最期は、身体中から炎が出るような病状となり、高熱に冒されて、死んでしま
いました。

 その大重罪を、二男の平宗盛が譲り受けたために、源氏の軍勢に攻められて、西海(壇
の浦)へ沈められそうになりました。
 一旦は、海中から東天に浮かび上がったものの、結局は捕えられて、右大将・源頼朝の
御前に、縄をつけられたまま引き出されて、最期を遂げてしまいました。

 三男の平知盛は、海中に没して、魚の糞となりました。

 四男の平重衡は、縄で縛られたまま、京都から鎌倉へ引き回されて、更に、最終的には、
奈良・七大寺(東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺)に引き渡さ
れました。

 奈良・七大寺(東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺)では、十
万人の大衆が、「我等が信仰している仏の仇である。」と言いながら、平重衡の身を一刀
ずつ刻んで、殺してしまいました。

 悪の中の大悪は、我が身に、その苦しみの報いを受けるだけではなく、子から孫へと、
末七代までも続いて、その苦しみの報いを受けることになります。

 一方、善の中の大善も、又々、同様のことであります。

 目連尊者が法華経を信じ奉った大善は、我が身が仏に成るだけでなく、目連尊者の父母
もまた、仏に成るのであります。
 そればかりか、上七代の祖先から下七代の子孫まで、更には、上無量生(数え切れない
ほど繰り返して生を受けること)・下無量生の父母等も、漏れなく仏に成るのであります。

 それに加えて、代々の子息・夫妻・所従(家来)・檀那・無量の衆生等も、三悪道(地
獄・餓鬼・畜生)を離れることが出来るだけでなく、皆、初住(菩薩の不退の位)・妙覚
(五十二位の最高位→無上の仏の位)の仏と成ることが出来ます。

 故に、法華経の第三巻の化城喩品第七には、「願わくは、この功徳を以って、普(あま
ね)く、一切の人に及ぼして、我等と衆生とが、皆、共に仏道を成ずることが出来るよう
に。」と、仰せになられています。

 そこで、これらの事例から考えると、貴女(治部房の祖母)は、治部殿という孫を、僧
侶にもっておられます。

 この僧侶(治部房)は、無戒であり、無智の者であります。
 二百五十戒のうちで、一つの戒たりとも、持っておりません。
 また、三千の威儀(徳が備わった行動、戒律の異名)のうちで、一つの威儀たりとも、
持っておりません。
 智慧は牛馬に類しているようなものであり、威儀は猿猴に似ているようなものでありま
す。

 しかしながら、この僧侶(治部房)が仰ぐところは釈迦仏(日蓮大聖人)であり、信じ
ている法は法華経(御本尊)であります。
 それを例えると、蛇が珠を握っているようなものであり、竜が法身の舎利(骨)を戴い
ているようなものです。

 藤の蔓(つる)は松に掛かって千尋の谷をよじ登り、鶴は羽を頼りにして万里を飛びま
す。
 これらは、自分自身だけの力によって、達せられるものではありません。

 治部房も、また、これらの事例と同様であります。
 
 治部房の身は、藤の蔓(つる)のようであります。
 けれども、法華経(御本尊)という松に寄りかかって、妙覚(五十二位の最高位→無上
の仏の位)の山に登ることも出来るでしょう。
 また、法華一乗の羽を頼りにして、寂光の空を飛ぶことも出来るでしょう。

 治部房は、この羽を以って、父母・祖父・祖母、乃至、七代の末までも、菩提を弔うこ
との出来る僧侶であります。
 なんと、貴女は、尊い御宝(治部房)をお持ちになっている女人なのでしょうか。

 彼の竜女は、宝の珠を捧げることによって、成仏することが出来ました。
 この女人(治部房の祖母)は、孫に当たる治部房を、法華経の行者である僧侶に育てた
ことによって、成仏の道へ導かれることになります。

 事々が多忙のために、詳しくは、申し上げることが出来ません。
 又々、申し上げることに致しましょう。

 恐々謹言。

 弘安二年七月十三日            日蓮 花押

 治部殿祖母御前御返事


  追伸  

 貴女が御供養された白米一俵・焼米・瓜・茄子等を、御仏前へお供えして、貴女の御志
を申し上げました。



■あとがき

 『盂蘭盆御書』の対告衆は、「治部殿うばごぜん」=「治部房日位師の祖母」になりま
す。

 白米一俵・焼米・瓜・茄子等の御供養を、治部房日位師の祖母が日蓮大聖人に申し上げ
た際に、返礼として賜った御書が、この『盂蘭盆御書』であります。

 なお、『盂蘭盆御書』の御真蹟は、京都妙覚寺に現存しています。

 今、日本では、8月15日を前後として、お盆休みを取る企業等が多いようです。

 この風習は、旧暦の7月15日に奉修されていた盂蘭盆会の法要を、新暦対応として、
1ヶ月遅れの8月15日に行っていることに由来するのでしょう。
 一部の地域では、新暦の7月15日に、盂蘭盆会の法要を行っている所もあるようですが。

 ちなみに、今年は8月30日が『旧盆』、つまり、旧暦の7月15日に当たります。   了



■あとがき

 上記の御書にお記しになられている、舜観(俊寛)の逸話は、歌舞伎でも、『俊寛』の
演目で上演されています。 

 『俊寛』は、初代中村吉右衛門の当たり役として、知られています。

 その芸を引き継いだ二代目中村吉右衛門(時代劇の“鬼平”で有名)や、中村勘九郎(現中村
勘三郎)等が盛んに『俊寛』を演じています。

 なお、中村勘九郎(現中村勘三郎)は、硫黄島の現地でも、『俊寛』を演じています。     了


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