当体義抄 文永十年(1273年) 聖寿五十二歳御著作


 問ふ、妙法蓮華経とは其の体何物ぞや。答ふ、十界の依正即ち妙法蓮華の当体な
り。
 問ふ、若し爾らば我等が如き一切衆生も妙法の全体なりと云はるべきか。答ふ、
勿論なり。
 経に云はく「所謂諸法乃至本末究竟等」云云。
 妙楽大師云はく「実相は必ず諸法、諸法は必ず十如、十如は必ず十界、十界は必
ず身土」云云。
 天台云はく「十如・十界・三千の諸法は今経の正体なるのみ」云云。
 南岳大師云はく「云何なるを名づけて妙法蓮華経と為すや。答ふ、妙とは衆生妙
なるが故に、法とは即ち是衆生法なるが故に」云云。
 又天台釈して云はく「衆生法妙」云云。

 問ふ、一切衆生の当体即妙法の全体ならば、地獄乃至九界の業因・業果も皆是れ
妙法の体なるや。
 答ふ、法性の妙理に染浄の二法有り。染法は薫じて迷ひと成り、浄法は薫じて悟
りと成る。悟りは即ち仏界なり、迷ひは即ち衆生なり。此の迷悟の二法、二なりと
雖も、然も法性真如の一理なり。
 譬へば水精の玉の日輪に向かへば火を取り、月輪に向かへば水を取る、玉の体一
なれども縁に随って其の功同じからざるが如し。

 真如の妙理も亦復是くの如し。一妙真如の理なりと雖も、悪縁に遇へば迷ひと成
り、善縁に遇へば悟りと成る。悟りは即ち法性なり、迷ひは即ち無明なり。
 譬へば人夢に種々の善悪の業を見、夢覚めて後に之を思へば、我が一心に見る所
の夢なるが如し。一心は法性真如の一理なり。夢の善悪は迷悟の無明・法性なり。
 是くの如く意得れば、悪迷の無明を捨て、善悟の法性を本と為すべきなり。

 大円覚修多羅了義経に云はく「一切の諸の衆生の無始の幻・無明は、皆諸の如来
の円覚の心より建立す」云云。
 天台大師の止観に云はく「無明の癡惑は本是法性なり。癡迷を以ての故に法性変
じて無明と作る」云云。
 妙楽大師云はく「理性は体無し、全く無明に依る。無明は体無し、全く法性に依
る」云云。
 無明は所断の迷、法性は所証の理なり、何ぞ体一なりと云ふやと云へる不審は、
此等の文義を以て意得べきなり。
 大論九十五の夢の譬へ、天台一家の玉の譬へ、誠に面白く思ふなり。

 南岳大師の云はく「心体に染浄の二法を具足して而も異相無く一味平等なり」云
云。
 又明鏡の譬へ真実に一二なり。委しくは大乗止観の釈の如し。
 又能き釈には籤の六に云はく「三千理に在れば同じく無明と名づけ、三千果成す
れば咸く常楽と称す、三千改むること無ければ無明即明、三千並びに常なれば倶体
倶用なり」文。此の釈分明なり。

 問ふ、一切衆生皆悉く妙法蓮華経の当体ならば、我等が如き愚癡闇鈍の凡夫も即
ち妙法の当体なりや。
 答ふ、当世の諸人之多しと雖も二人を出でず。謂ゆる権教の人、実教の人なり。
 而して権教方便の念仏等を信ずる人をば、妙法蓮華の体と云はるべからず。実教
の法華経を信ずる人は、即ち当体の蓮華、真如の妙体是なり。
 涅槃経に云はく「一切衆生、大乗を信ずる故に大乗の衆生と名づく」文。

 南岳大師の四安楽行に云はく「大強精進経に云はく、衆生と如来と同共一法身に
して清浄妙無比なるを妙法華経と称す」文。
 又云はく「法華経を修行するは此の一心一学に衆果普く備はり、一時に具足して
次第入に非ず。亦蓮華の一華に衆果を一時に具足するが如し。是を一乗の衆生の義
と名づく」文。
 又云はく「二乗声聞及び鈍根の菩薩は、方便道の中の次第修学なり。利根の菩薩
は正直に方便を捨て、次第行を修せず。若し法華三昧を証すれば衆果悉く具足す、
是を一乗の衆生と名づく」文。

 南岳の釈の意は、次第行の三字をば、当世の学者は別教なりと料簡するなり。然
るに此の釈の意は、法華の因果具足の道に対して方便道を次第行と云ふ故に、爾前
の円・爾前の諸大乗経並びに頓漸大小の諸経なり。証拠は無量義経に云はく「次に
方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説いて、菩薩の歴劫修行を宣説す」文。

 大強精進経の同共の二字に習ひ相伝するなり。法華経に同共して信ずる者は妙経
の体なり。不同共は念仏者等なり、既に仏性法身如来に背く故に妙経の体に非ず。
 此等の文の意を案ずるに、三乗・五乗・七方便・九法界・四味・三教・一切の凡聖等を
ば大乗の衆生、妙法蓮華の当体とは名づくべからず。設ひ仏なりと雖も、権教の仏
には仏界の名言を付くべからず。権教の三身は未だ無常を免れざる故なり。何に況
んや其の余の界々の名言をや。
 故に正像二千年の国王大臣よりも、末法の非人は尊貴なりと釈するは、此の意な
り。

 所詮妙法蓮華の当体とは、法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是
なり。
 南岳釈して云はく「一切衆生、法身の蔵を具足して、仏と一にして異なり有るこ
と無し。是の故に法華経に云はく、父母所生の清浄の常の眼・耳・鼻・舌・身・意、
亦復是くの如し」文。
 又云はく「問うて云はく、何れの経の中に眼等の諸根を説いて、名づけて如来と
為るや。答へて云はく、大強精進経の中に衆生と如来と同共一法身にして清浄妙無
比なるを妙法蓮華経と称す」文。
 文は他経に有りと雖も、下文顕はれ已はれば通じて引用することを得るなり。

 正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦
の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の
所住の処は常寂光土なり。
 能居・所居、身土・色心、倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、
日蓮が弟子檀那等の中の事なり。是即ち法華の当体、自在神力の顕はす所の功能な
り。敢へて之を疑ふべからず、之を疑ふべからず。

 問ふ、天台大師、妙法蓮華の当体・譬喩の二義を釈し給へり。爾れば其の当体・
譬喩の蓮華の様は如何。
 答ふ、譬喩の蓮華とは施開廃の三釈、委しく之を見るべし。
 当体蓮華の釈は、玄義の第七に云はく「蓮華は譬へに非ず、当体に名を得。類せ
ば劫初に万物名無し、聖人理を観じて準則して名を作るが如し」文。
 又云はく「今蓮華の称は是喩へを仮るに非ず。乃ち是法華の法門なり。法華の法
門は清浄にして因果微妙なれば、此の法門を名づけて蓮華と為す。即ち是法華三昧
の当体の名にして譬喩に非ざるなり」と。

 又云はく「問ふ、蓮華定めて是法華三昧の蓮華なりや、定めて是華草の蓮華なり
や。答ふ、定めて是法の蓮華なり。法の蓮華は解し難し、故に草花を喩へと為す。
利根は名に即して理を解すれば譬喩を仮らず、但法華の解を作す。中・下は未だ悟
らず、譬へを須ひて乃ち知る。易解の蓮華を以て難解の蓮華を喩ふ。故に三周の説
法有って上・中・下根に逗ふ。上根に約すれば是法の名なり、中・下に約すれば是
譬への名なり。三根合論し双べて法譬を標す。是くの如く解する者は誰と諍ふこと
を為さんや」云云。

 此の釈の意は、至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・
不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。
 此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減無し。之を修行する者は仏
因仏果同時に之を得るなり。
 聖人此の法を師と為して修行覚道したまへば、妙因妙果倶時に感得し給ふ。故に
妙覚果満の如来と成り給ふなり。

 故に伝教大師云はく「一心の妙法蓮華とは因華果台倶時に増長する当体の蓮華な
り。三周に各々当体・譬喩有り。総じては一経に皆当体・譬喩あり。別して七譬・
三平等・十無上の法門、皆当体の蓮華有るなり。此の理教を詮ずるを名づけて妙法
蓮華経と為す」云云。
 妙楽大師の云はく「須く七譬を以て、各蓮華、権実の義に対すべし、乃至、何ん
となれば、蓮華は只是為実施権・開権顕実、七譬皆然なり」文。

 又劫初に華草有り、聖人理を見て号して蓮華と名づく。此の華草、因果倶時なる
こと妙法の蓮華に似たり。故に此の華草同じく蓮華と名づく。水中に生ずる赤蓮華
・白蓮華等の蓮華是なり。
 譬喩の蓮華とは此の華草の蓮華なり。此の華草を以て難解の妙法蓮華を顕はす。
 天台大師云はく「妙法は解し難し、譬へを仮るに彰はし易し」と釈するは是の意
なり。

 問ふ、劫初より已来、何人か当体の蓮華を証得せしや。
 答ふ、釈尊五百塵点劫の当初、此の妙法の当体蓮華を証得して、世々番々に成道
を唱へ、能証所証の本理を顕はし給へり。
 今日又中天竺の摩訶陀国に出世して、此の蓮華を顕はさんと欲すに機無く時無し。
 故に一の法の蓮華に於て三の草華を分別して三乗の権法を施し、擬宜誘引せしこ
と四十余年なり。
 此の間は衆生の根性万差なれば、種々の草華を施し設けて終に妙法の蓮華を施し
たまはず。

 故に無量義経に云はく「我先に道場菩提樹下乃至四十余年未だ真実を顕はさず」
文。
 法華経に至って四味三教の方便の権教、小乗種々の草華を捨てて、唯一の妙法蓮
華を説き、三の華草を開して一の妙法蓮華を顕はす時、四味三教の権人に初住の蓮
華を授けしより始めて開近顕遠の蓮華に至って、二住三住乃至十住等覚妙覚の極果
の蓮華を得るなり。

 問ふ、法華経は何れの品、何れの文にか正しく当体・譬喩の蓮華を説き分けたる
や。
 答ふ、若し三周の声聞に約して之を論ぜば、方便の一品は皆是当体蓮華を説ける
なり。譬喩品・化城喩品には譬喩蓮華を説きしなり。
 但し方便品にも譬喩蓮華無きに非ず。余品にも当体蓮華無きに非ざるなり。

 問ふ、若し爾らば正しく当体蓮華を説きし文は何れぞや。
 答ふ、方便品の「諸法実相」の文是なり。
 問ふ、何を以て知ることを得ん、此の文が当体蓮華なりと云ふ事を。
 答ふ、天台・妙楽今の文を引いて今経の体を釈せし故なり。
 又伝教大師釈して云はく〈当世の学者此の釈を秘して名を顕はさず。然るに此の
文の名を妙法蓮華経義と曰ふなり〉「問ふ、法華経は何を以て体と為すや。答ふ、
諸法実相を以て体と為す」文。此の釈分明なり。

 又現証は宝塔品の三身、是現証なり。或は涌出の菩薩、竜女の即身成仏是なり。
 地涌の菩薩を現証と為す事は、経文に「如蓮華在水」と云ふ故なり。菩薩の当体
と聞こえたり。
 竜女を証拠と為す事は、「霊鷲山に詣で、千葉の蓮華の大いさ車輪の如くなるに
坐す」と説きたまふが故なり。

 又妙音・観音の三十三・四身是なり。解釈には「法華三昧の不思議・自在の業を
証得するに非ざるよりは、安んぞ能く此の三十三身を現ぜん」云云。
 或は「世間相常住」文。
 此等は皆当世の学者の勘文なり。
 然りと雖も、日蓮は方便品の文と、神力品の「如来一切所有之法」等の文となり。
 此の文をば天台大師も之を引いて、今経の五重玄を釈せしなり。殊更此の一文正
しき証文なり。

 問ふ、次上に引く所の文証・現証殊勝なり。何ぞ神力の一文に執するや。
 答ふ、此の一文は深意有る故に殊更に吉きなり。
 問ふ、其の深意如何。
 答ふ、此の文は釈尊の本眷属・地涌の菩薩に結要の五字の当体を付嘱すと説きた
まへる文なるが故なり。

 問ふ、当流の法門の意は、諸宗の人来たって当体蓮華の証文を問はん時は、法華
経の何れの文を出だすべきや。
 答ふ、二十八品の始めに妙法蓮華経と題す、此の文を出だすべきなり。
 問ふ、何を以て品々の題目は当体蓮華なりと云ふ事を知ることを得ん。故は天台
大師今経の首題を釈する時、蓮華とは譬喩を挙ぐると云って譬喩蓮華と釈し給へる
者をや。
 答ふ、題目の蓮華は当体・譬喩を合説す。天台の今の釈は譬喩の辺を釈する時の
釈なり。玄文第一の本迹の六譬は此の意なり。同じく第七は当体の辺を釈するなり。
故に天台は題目の蓮華を以て当体・譬喩の両説を釈する故に失無し。

 問ふ、何を以て題目の蓮華は当体・譬喩合説すと云ふ事を知ることを得ん。
 南岳大師も妙法蓮華経の五字を釈する時「妙とは衆生妙なるが故に、法とは衆生
法なるが故に、蓮華とは是譬喩を借るなり」文。南岳・天台の釈に既に譬喩蓮華な
りと釈し給ふは如何。
 答ふ、南岳の釈も天台の釈の如し云云。但当体・譬喩合説すと云ふ事経文に分明
ならずと雖も、南岳・天台既に天親・竜樹の論に依って合説の意を判釈せり。

 所謂法華論に云はく「妙法蓮華とは二種の義有り。一には出水の義、乃至泥水を
出づるをば、諸の声聞、如来、大衆の中に入って坐すること、諸の菩薩の蓮華の上
に坐するが如く、如来無上の智慧、清浄の境界を説くを聞いて、如来の密蔵を証す
るを喩ふるが故に。二に華開とは、諸の衆生、大乗の中に於て、其心怯弱にして信
を生ずること能はず。故に如来の浄妙の法身を開示して、信心を生ぜしめんが故に」
文。

 諸の菩薩の諸の字は、法華已前の大小の諸の菩薩、法華経に来たって仏の蓮華を
得んと云ふ事、法華論の文に分明なり。故に知んぬ「菩薩処々に入ることを得」と
は方便なり。
 天台此の論の文を釈して云はく「今論の意を解するに、若し衆生をして浄妙法身
を見せしむと言はば、此は妙因の開発を以て蓮華と為るなり。若し如来、大衆の中
に入って蓮華の上に坐すと言はば、此は妙報国土を以て蓮華と為るなり。」と。

 又天台が当体・譬喩合説する様を委細に釈する時、大集経の「我今仏の蓮華を敬
礼す」と云ふ文と、法華論の今の文とを引証して釈して云はく、「若し大集に依ら
ば行法の因果を蓮華と為す。菩薩上に処すれば即ち是因の華なり。仏の蓮華を礼す
れば即ち是果の華なり。若し法華論に依らば依報の国土を以て蓮華と為す。復菩薩
は蓮華の行を修するに由って、報に蓮華の国土を得。当に知るべし、依正・因果悉
く是蓮華の法なり。何ぞ譬へをもって顕はすことを須ひん。鈍人の法性の蓮華を解
せざるを為ての故に世の華を挙げて譬へと為す。亦応に何の妨げかあるべけん」文。
 又云はく「若し蓮華に非ずんば何に由ってか遍く上来の諸法を喩へん。法譬双び
弁ずるが故に妙法蓮華と称するなり」文。

 竜樹菩薩の大論に云はく「蓮華とは法譬並び挙ぐるなり」文。
 伝教大師が天親・竜樹の二論の文を釈して云はく「論の文、但妙法蓮華経と名づ
くるに二種の義有り。唯蓮華に二種の義有りと謂ふには非ず。凡そ法喩とは相似す
るを好しと為す。若し相似せざれば何を以てか他を解せしめん。是の故に釈論に法
喩並び挙ぐ。一心の妙法蓮華とは因華・果台倶時に増長す。此の義解し難し、喩へ
を仮るに解し易し。此の理教を詮ずるを名づけて妙法蓮華経と為す」文。

 此等の論文・釈義分明なり、文に在って見るべし。包蔵せざるが故に合説の義極
成せり。
 凡そ法華経の意は、譬喩即法体、法体即譬喩なり。
 故に伝教大師釈して云はく「今経は譬喩多しと雖も大喩は是七喩なり。此の七喩
は即法体、法体は即譬喩なり。故に譬喩の外に法体無く、法体の外に譬喩無し。
 但し法体とは法性の理体なり、譬喩とは即ち妙法の事相の体なり。事相即理体な
り、理体即事相なり。故に法譬一体と云ふなり。是を以て論文の山家の釈に、皆蓮
華を釈するには法譬並べ挙ぐ」等云云。
 釈の意分明なり、故に重ねて云はず。

 問ふ、如来の在世に誰か当体蓮華を証得せるや。
 答ふ、四味三教の時は、三乗・五乗・七方便・九法界、帯権の円の菩薩並びに教
主乃至法華迹門の教主、総じて本門寿量の教主を除くの外は、本門の当体蓮華の名
をも聞かず、何に況んや証得せんをや。
 開三顕一の無上菩提の蓮華、尚四十余年には之を顕はさず。故に無量義経に「終
に無上菩提を成ずることを得ず」とて、迹門開三顕一の蓮華は爾前に之を説かずと
なり、何に況んや、開近顕遠、本地難思、境智冥合、本有無作の当体蓮華をば、迹
化の弥勒等之を知るべけんや。

 問ふ、何を以て知ることを得るや、爾前の円の菩薩・迹門の円の菩薩は、本門の
当体蓮華を証得せずと云ふ事を。
 答ふ、爾前の円の菩薩は迹門の蓮華を知らず、迹門の円の菩薩は本門の蓮華を知
らざるなり。
 天台云はく「権教の補処は迹化の衆を知らず、迹化の衆は本化の衆を知らず」文。
 爾前の円の菩薩等の今経に大衆八万有って具足の道を聞かんと欲す。
 伝教大師云はく「是直道なりと雖も大直道ならず」云云。或は云はく「未だ菩提
の大直道を知らざる故に」云云、此の意なり。

 爾前迹門の菩薩は、一分の断惑証理の義分有りと雖も、本門に対するの時は当分の
断惑にして跨節の断惑に非ず、未断惑と云はるるなり。
 然れば「菩薩処々に入ることを得」とは釈すれども、二乗を嫌ふの時は一往得入
の名を与ふるなり。
 故に爾前迹門の大菩薩が仏の蓮華を証得する事は本門の時なり。真実の断惑は寿
量の一品を聞きし時なり。

 天台大師、涌出品の「五十小劫、仏の神力の故に、諸の大衆をして半日の如しと
謂はしむ」の文を釈して云はく「解者は短に即して長なれば、五十小劫と見る。惑
者は長に即して短なれば、半日の如しと謂へり」文。
 妙楽之を受けて釈して云はく「菩薩已に無明を破す、之を称して解と為す。大衆
仍賢位に居す、之を名づけて惑と為す」文。
 釈の意分明なり。爾前迹門の菩薩は惑者なり、地涌の菩薩のみ独り解者なりと云
ふ事なり。

 然るに、当世天台宗の人々の中に本迹の同異を論ずる時、異なり無しと云って此
の文を料簡し、解者の中に迹化の衆を入れたりと云ふこと大いなる僻見なり。経の
文、釈の義分明なり。何ぞ横計を為すべけんや。
 文の如くんば、地涌の菩薩五十小劫の間如来を称揚したまひ、霊山迹化の衆は半
日の如く謂へりと説き給ふを、天台は解者・惑者を出だして、迹化の衆は惑者の故
に半日と思へり、是即ち僻見なり。地涌の菩薩は解者の故に五十小劫と見る、是即
ち正見なりと釈し給へるなり。

 妙楽之を受けて、無明を破する菩薩は解者なり、未だ無明を破せざる菩薩は惑者
なりと釈し給ひし事、文に在って分明なり。
 迹化の菩薩なりとも、住上の菩薩をば已に無明を破する菩薩なりと云はん学者は、
無得道の諸経を有得道と習ひし故なり。
 爾前迹門にも当分には妙覚の仏有りと雖も、本門寿量の真仏に望むる時は、惑者
仍賢位に居すと云はるる者なり。権教の三身の未だ無常を免れざる故は、夢中の虚
仏なるが故なり。

 爾前の衆と迹化の衆とは、本門に至る時は未断惑の者、正しく初住に叶ふと云は
るるなり。
 妙楽の釈に云はく「開迹顕本せば皆初住に入る」文。「仍賢位に居す」の釈、之
を思ひ合はすべし。
 爾前迹化の衆は、惑者未だ無明を破せざる仏菩薩なりと云ふ事、真実なり真実な
り。
 故に知んぬ、本門寿量の説顕はれての後は、霊山一会の衆皆悉く当体蓮華を証得
するなり。二乗・闡提・定性・女人等も悪人も本仏の蓮華を証得するなり。

 伝教大師、一大事の蓮華を釈して云はく「法華の肝心、一大事の因縁は、蓮華の
所顕なり。一とは一実の行相なり、大とは性広博なり、事とは法性の事なり、一究
竟事は円の理教智行、円の身・若・達なり。若し一乗に達すれば三乗・定性・不定
性・内道・外道・阿闡・阿顛、皆悉く一切智地に到る。是の一大事、仏の知見を開
示悟入して一切成仏す」云云。
 女人・闡提・定性・二乗等の極悪人、霊山に於て当体蓮華を証得するを云ふなり。

 問ふ、末法今時、誰人か当体蓮華を証得せるや。
 答ふ、当世の体を見るに大阿鼻地獄の当体を証得する人之多しと雖も、仏の蓮華
を証得せるの人之無し。
 其の故は無得道の権教方便を信仰して、法華の当体、真実の蓮華を毀謗する故な
り。
 仏説いて云はく「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断
ぜん。乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」文。
 天台云はく「斯の経は遍く六道の仏種を開す。若し此の経を謗せば、義断に当た
る」文。
 日蓮云はく、此の経は是十界の仏種に通ず。若し此の経を謗せば、義是十界の仏
種を断ずるに当たる。是の人無間に於て決定して堕在す。何ぞ出づる期を得んや。
 然るに日蓮が一門は、正直に権教の邪法邪師の邪義を捨てて、正直に正法正師の
正義を信ずる故に、当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕はす事は、本門寿
量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱ふるが故なり。

 問ふ、南岳・天台・伝教等の大師、法華経の一乗円宗の教法に依って弘通し給ふ
と雖も、未だ南無妙法蓮華経と唱へたまはず、如何。若し爾らば、此の大師等は未
だ当体蓮華を知らず、又証得したまはずと云ふべけんや。
 答ふ、南岳大師は観音の化身、天台大師は薬王の化身なり云云。
 若し爾らば霊山に於て本門寿量の説を聞きし時は之を証得すと雖も、在生の時は
妙法流布の時に非ず。故に妙法の名字を替へて止観と号し、一念三千・一心三観を
修し給ひしなり。

 但し此等の大師等も南無妙法蓮華経と唱ふる事をば、自行真実の内証と思し食さ
れしなり。
 南岳大師の法華懺法に云はく「南無妙法蓮華経」文。
 天台大師云はく「南無平等大慧一乗妙法蓮華経」文。又云はく「稽首妙法蓮華経」
云云。又「帰命妙法蓮華経」云云。
 伝教大師の最後臨終の十生願の記に云はく「南無妙法蓮華経」云云。
 問ふ、文証分明なり。何ぞ是くの如く弘通したまはざるや。
 答ふ、此に於て二意有り。一には時至らざるが故に。二には付嘱に非ざるが故な
り。
 凡そ妙法の五字は末法流布の大白法なり。地涌千界の大士の付嘱なり。
 是の故に南岳・天台・伝教等は内に鑑みて末法の導師に之を譲って弘通し給はざ
りしなり。

 日蓮 花押



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