当体義抄の「あとがき」


■あとがき


 本日より、『当体義抄』を連載させて頂きます。

 『当体義抄』の対告衆は、最蓮房日栄(日浄)です。

 『当体義抄』の御執筆時期に関しては、若干の異論があるものの、概ね、「文永十年(1273年)頃であろう。」と、推定されています。

 そして、富士門流においては、「開目抄が『教の重』、観心本尊抄が『行の重』、当体義抄が『証の重』。」と、仰せの『御相伝』がございます。 了



■あとがき

 都合により、昨日は、休載致しました。ご了承ください。

 さて、昨日の『日本代表対Jリーグ選抜』を、後半途中からテレビで見る事が出来たのですが、その直後に、44歳のカズ選手のゴールが・・・。

 日本サッカー史上に残る、『名場面』でしたね。 了



■あとがき

 昨日、関東地方においては、元旦早々から、地震がありました。

 かなり、長い時間、揺れましたね・・・。

 『観心本尊抄』に曰く、「此の菩薩仏勅を蒙りて近く大地の下に在り。正像に未だ出現せず、末法にも又出で来たり給はずば大妄語の大士なり。三仏の未来記も亦泡沫に同じ。此を以て之を惟ふに、正像に無き大地震・大彗星等出来す。此等は金翅鳥・修羅・竜神等の動変に非ず、偏に四大菩薩を出現せしむべき先兆なるか。」と。

 『瑞相御書』に曰く、「問うて云はく、在世よりも滅後の瑞後の大なる如何。答へて云はく、大地の動ずる事は人の六根の動くによる。人の六根の動きの大小によて大地の六種も高下あり。爾前の経々には一切衆生・煩悩をやぶるやうなれども実にはやぶらず。今法華経は元品の無明をやぶるゆへに大動あり。末代は又在世よりも悪人多々なり。かるがゆへに在世の瑞にもすぐれてあるべきよしを示現し給ふ。疑って云はく、証文如何。答へて云はく『而も此の経は如来の  現在にすら猶怨嫉多し、況んや滅度の後をや』等云云。去ぬる正嘉・文永の大地震・大天変は、天神七代・地神五代はさておきぬ。人王九十代、二千余年が間、日本国にいまだなき天変地夭なり。人の悦び多々なれば、天に吉瑞をあらはし、地に帝釈の動あり。人の悪心盛んなれば、天に凶変、地に凶夭出来す。瞋恚の大小に随ひて天変の大小あり。地夭も又かくのごとし。」と。

 元旦に発生した地震が、本年の良き『瑞相』である事を願っています。 了



■あとがき


 たいへん長い、日寛上人の『当体義抄文段』からの引用となってしまいました。 (笑)

 未熟者の筆者が、あれこれ申し上げるよりも、「本日配信分の御金言に関する日寛上人の御指南を、そのままお伝えした方が、この御書の正意が伝わるであろう。」と、判断した故に・・・。

 『御相伝』においては、『教の重』としての『開目抄』、『行の重』としての『観心本尊抄』、そして、『当体義抄』が『証の重』と称されています。
 その所以の一端を、今回配信分の御書に拝することが出来ます。

 「これだけの超重要御書の御説明を過不足なく行っている、この『当体義抄文段』の御指南こそ、全日蓮門下必読の書である。」と、筆者は考えています。

 もしかしたら、『当体義抄』の本文や『当体義抄文段』の御指南を拝読しても、「何が何だか、訳がわからない。」と、思われる方がいらっしゃるかも知れません。

 けれども、取りあえず、さらっと、字面を一読するだけでも、結構です。

 読者の皆様におかれましては、是非、今回配信分の『当体義抄』の本文、及び、『当体義抄文段』に御目を通して頂けると、最高に嬉しく思います。

 『当体義抄文段』に曰く、「当に知るべし、四義具足する則は成仏疑いなきなり。『正直に方便を捨て但法華経を信じ』とは、是れ信力なり。『南無妙法蓮華経と唱ふる』とは、是れ行力なり。『法華の当体』とは、是れ法力なり。『自在神力』とは、是れ仏力なり。法力・仏力は正しく本尊に在り。之を疑うべからず。我等応に信力・行力を励むべきのみ。」と。 了



■あとがき

 日寛上人が『文段』にお記しになっているように、『当体義抄』『総勘文抄』『三大秘法抄』のいずれの御書に於いても、「久遠実成の当初」「五百塵点劫の当初」とは、単なる『久遠実成』『五百塵点劫』ではなく、その御真意が『久遠元初』になります。

 また、「久遠実成の当初」「五百塵点劫の当初」→『久遠元初』の教主釈尊とは、『印度応誕の釈迦如来』ではなく、その御真意が『久遠元初自受用報身如来=御本仏日蓮大聖人』になります。

 ぶっちゃけて云うと、「当初」とは、日蓮大聖人の御書の謎を解くための暗号→“大聖人コード”の一つなんですね。

 おまけに、“ダヴィンチコード” とは比較にならないほど、難信難解です。御書の『文底』に秘し沈められた、“大聖人コード”は。  (笑)

 そして、日蓮大聖人の御書の謎を解くための暗号→“大聖人コード”が理解出来なければ、いくら、『開目抄』『観心本尊抄』等の重要御書を通読しても、「何が何だか、御書の意味がわからない。」という迷路に陥ります・・・。

 総本山六十五世日淳上人は、「それ故大聖人の御化導の終窮究竟の全貌と、大綱とを拝察申し上げるには此の御書(三大秘法抄)に依らなければなりません。よって大聖人の御書を拝するには第一に此の御抄(三大秘法抄)を拝して、大綱を了解し奉って、後に他御書を拝するといふことにしなければなりません。此の順序をとりませんでやたらと御書を拝すると、御書の文を拝しても大聖人の御正意を了解し奉ることはできないのであります。日蓮大聖人の門下と申す程の者は御書を拝し御書によってをるのでありますが、それにも拘らず御本尊より御題目に重点を置いたり、行者の住処を戒壇としたり、御釈迦様が本尊だといったりして、飛んでもないことを申してをりますが、これ皆大聖人の御一代の施化の大綱を拝察せずして御書の一文一義に執するからであります。(日淳上人全集上巻384ページ)」と、仰せになっています。

 本日配信分の御書を拝する度に、日淳上人の御指南の重要性を痛感する次第でございます。 了



■あとがき

 今回の配信を持ちまして、『当体義抄』及び『当体義抄送状』の連載は終了しました。

 『当体義抄』の訳文を作り終えた、現在の感想を、一言。

 ヴィトゲンシュタインは、「人間の言葉が珈琲の特色ある香りを表現出来ないのであれば、何故に、神の如き微妙なものに対して、人間の言葉が取り組めるのであろうか。」と、云っています・・・。

 筆者は、中学生の頃から、ほぼ一日一回以上は、珈琲豆を挽いて、珈琲を淹れて、珈琲を飲んでいます。

 それから三十年以上が経過しているので、これまでに、一万回以上は、その作業を繰り返している勘定になります。

 そんな筆者であっても、『珈琲の特色ある香り』を言葉で表現することは、『無理』ですね。

 ましてや、『神の如き微妙なもの』は・・・。

 『当体義抄』の訳文を作成していると、よく、「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない。」という、 ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の「命題7」を思い出しました。

 「語り得ないものを語り得ると思い込む余り、言説を飾って、何かを得ようと試みる行為自体が、『宗教』『哲学』『倫理』等の形而上学の限界であり、そういう安易な『言説化』に対して、我々は、『沈黙』しなければならない。」という主旨の内容を、ヴィトゲンシュタインが述べていたように思います。

 四半世紀近く前に読んだ、『論理哲学論考』のテーマの重み。

 『当体義抄』の訳文を作成している最中、ずっと、その重みを感じていました。

 ところが、ある時、ふと、「語り得ないものを語ろうとすれば、『無理』が生じる。そうではなく、『何が語り得るものであり、何が語り得ないものであるのか。その仕分けや線引きを、明確にしていくこと。』が、肝要ではないか。もし、そうであるならば、未熟な俺にも、その行為は可能だ。」と、思うようになりました。

 そして、当事者でなければ、なかなか、御理解頂けないとは思いますが(笑)、「珈琲豆を挽いて、珈琲を淹れて、珈琲を飲む作業。その一方で、御書の訳文を配信する作業。つまり、御書の一文一文を拝読して、当時の背景や仏教用語等を調べてから、訳文のメルマガをネットで送信する作業との間には、本質的な思惟の部分において、類似点が多い。」とも、感じるようになりました。

 すると、だいぶ、気が楽になりました・・・。

 ヴィトゲンシュタインは、「我々は、言葉にて語り得るものを、語り尽くした時、言葉にて語り得ぬものを、知ることがあるだろう。」とも、述べています。

 その心境を目指して、筆者は、命のある限り、御書の訳文を作り続けます・・・。

 大晦日の夜を迎えました。よいお年をお迎えください。

 明日の元旦より、『如説修行抄』を連載します。 了


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