富木殿御書 文永十一年(1274年)五月十七日 聖寿五十三歳御著作
飢渇がひどいことは、申し上げようもありません。
米一合すらも、売ってはくれません。このままでは、餓死してしまうかも知れ
ません。
そのために、同行した弟子たちを全員帰して、ただ一人で、この地(身延の波木
井の郷)へ向かいました。
この様子を、富木殿の近隣の弟子たちにも、お話し下さい。
五月十二日には酒輪で一泊、十三日には竹下で一泊、十四日には車返で一泊、
十五日には大宮で一泊、十六日には南部で一泊。
そして、本日、五月十七日に、この地(身延の波木井の郷)へ到着しました。
どこの場所で隠栖するかにつきましては、未だに定まってはおりません。
けれども、この身延の山中は、概ね、私(日蓮大聖人)の心中に叶う場所であり
ますので、しばらくの間、滞在しようかと思っています。
結局、私(日蓮大聖人)は、一人になって、日本国を流浪する身であります。
この身延の場所に滞在する身となったならば、再び見参していただいて、貴殿
(富木常忍殿)とお目にかかりたいと存じます。
恐恐謹言
文永十一年五月十七日 日蓮 花押
富木常忍殿
■あとがき
日蓮大聖人に対する佐渡流罪の赦免状は、文永十一年二月十四日に、鎌倉幕府
から発せられています。
そして、赦免状は、三月八日に、佐渡へ到達しました。
その後に、佐渡の念仏僧達から殺害を企てたられたものの、難を逃れられた日
蓮大聖人は、三月十四日に、佐渡から出帆されました。
そして、日蓮大聖人は、三月二十六日に、鎌倉へ到着されています。
鎌倉において、日蓮大聖人は平左衛門尉頼綱と対面されて、文永十一年四月
八日に、三度目の国家諫暁をされています。
その結果、日蓮大聖人は『種種御振舞御書』に、「本よりごせし事なれば、三
度国をいさめんにもちゐずば国をさるべしと。」と仰せの如く、鎌倉の都を離れ
て、御隠栖されることをお決めになられます。
そして、文永十一年五月十二日に鎌倉を出発された日蓮大聖人が、五月十七日
に身延へ到着された御様子をお記しになられた御書が、この『富木殿御書』にな
ります。
また、その一ヶ月後の六月十七日に、日蓮大聖人が身延の地でお建てになられ
た庵室が、先日のメルマガで紹介させて頂いた、『庵室修復書』の庵室となりま
す。 了
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