転重軽受法門 文永八年(1271年)十月五日 聖寿五十歳御著作


 『修利槃特』と云われているのは、兄弟二人のことであります。
 兄は『周利』・弟は『槃陀伽』という名前を合称して、『修利槃特』と呼ばれてい
ました。
 そして、兄弟のうち、お一人であっても、『修利槃特』と云われていました。

 各々方三人(太田乗明殿・曽谷教信殿・金原法橋殿)も、また、『修利槃特』と同
様であります。
 つまり、「お三方のうち、お一人が来られたとしても、お三方揃って来られたよう
に感じられた。」ということです。

 さて、涅槃経においては、『転重軽受』という法門があります。

 それは、「前世の悪業が重いため、今世では尽くしきれずに、未来世において、地
獄の苦しみを受けるべき人がいたとする。その人が、今生において、それに代わる重
苦を受けることにより、地獄の苦しみは忽ちに消えて、死後は、人界、天界、三乗(声
聞界・縁覚界・菩薩界)、一乗(仏界)の利益を受ける事が出来る。」という法門で
あります。

 例えば、不軽菩薩が悪口・罵詈をされたり、杖や木で打たれたり、瓦や礫を投げら
れたりした事も、理由がない訳ではありません。
 その理由は、「不軽菩薩が、過去世において、正法を誹謗したからである。」と、
見受けられます。

 法華経常不軽菩薩品第二十において、「その罪、畢(お)え已(おわ)って」と仰
せになられているのは、不軽菩薩が難に遭われた事を以って、過去の罪が消滅された
事を説き明かされたものと思われます。  〈第一〉
                
 また、釈尊から仏法を伝えられた付法蔵の二十五人において、仏(釈尊)を除いた
他の方々は、皆、仏(釈尊)が、予め、記し置かれていた権化(注、仏・菩薩が仮の
姿で化現されること)の人であります。

 付法蔵の第十四番目の提婆菩薩は、外道によって、殺されています。
 付法蔵の第二十五番目の師子尊者は、檀弥栗王によって、首を刎ねられています。
 その他、第八番目の仏陀密多、第十三番目の竜樹菩薩等の方々も、多くの難に遭わ
れています。

 その一方で、付法蔵の二十五人の中には、難に遭われることもなく、国主の御帰依
も篤く、順調に仏法を弘教された人もいらっしゃいました。


 これは、世間において、悪国と善国が存在する故です。
 また、仏法において、摂受と折伏がある故と思われます。

 正法時代・像法時代の天竺(インド)でさえ、このように、数多くの難に遭われた
方がいらっしゃいました。
 中国においても、同様の状況でした。

 それに引きかえ、日本国は、釈尊御生誕の地から離れた辺土であります。
 そして、今の『時』は、末法の始めであります。

 故に、身命にも及ぶ大難が発生する事は、当初から覚悟していたことであります。
 寧ろ、その事を期して、待っていました。 〈第二〉

 以上、二つの法門は、既に、以前から、申し渡しておりました。
 特段、珍しい事ではありません。 

 円教においては、凡夫から仏に至るまでの修行の段階を六種類に分けて、『六即』
(理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即)の位を立てています。


 その『六即』における、第三の『観行即』に対して、「自らの行ずる事が、言う事
と一致している。また、言う事が、行う事と一致している。」と、天台大師が『摩訶
止観』において、仰せになられています。

 故に、第一の『理即』・第二の『名字即』の人は、たとえ、円教を信ずる人であっ
たとしても、言葉の上だけであって、真に、行ずる事は難しいのであります。

 例えて言えば、中国の外典において、理想的な政治を行った三皇(伏羲・神農・黄
帝)・五帝(少昊・センギョク・高辛・唐堯・虞舜)の事跡が綴られている、三墳・
五典の書を読む人は、数多くいます。

 けれども、それらの書の通りに、世を治めて、自らの振る舞いを正す者は、千万人
に一人もいないでしょう。
 従って、世が治まる事も、また、難しいのであります。

 その例えと同様に、法華経は、紙に書き付けられた通りに、声を出して読んだとし
ても、その経文の通りに振る舞う事は、非常に難しいのであります。

 法華経譬喩品第三においては、「法華経を読誦し、書持しようとする者を見て、軽
んじたり、賤しめたり、憎んだり、嫉んだりして、結恨を懐くであろう。」と、仰せ
になられています。

 法華経法師品第十においては、「如来(釈尊)の御在世でさえ、なお、怨嫉が多い。
ましてや、如来(釈尊)の御入滅後においては、尚更である。」と、仰せになられて
います。

 法華経勧持品第十三においては、「刀で斬られたり、杖で打たれたり、(中略)度
々、所を追い払われるであろう。」と、仰せになられています。

 法華経安楽行品第十四においては、「一切世間には怨が多い。故に、この法華経は
信じ難い。」と、仰せになられています。

 これらの経文において、釈尊は、「後世において、法華経を信行することは難事で
ある。」ということを、御予言されていらっしゃいます。

 ところが、これらの経文においては、「如何なる時代に、このような難が起こるの
か。」ということを、知り得る事は出来ません。

 釈尊の過去世の時代においては、「不軽菩薩や覚徳比丘等が、これらの経文を、口
先だけでなく、身に当てられて、お読みになられた方々である。」と、拝察されます。

 釈尊の御在世以降においては、正法時代・像法時代の二千年間のことを、取りあえ
ず、置いておきます。
 末法の時代に入ってからは、この日本国において、これらの経文の通りに、法華経
を身読した者は、日蓮一人だけのように見受けられます。

 「昔、悪王が暴威を震っていた時に、多くの聖僧が難に遭われると、その聖僧に付
き従っていた眷属・弟子・檀那等が、どれ程、嘆かれたことか。」ということを、今
回の一件(龍口法難)を以って、推し量ることが出来ます。

 今、日蓮は、法華経一部(全体)を身読したのであります。
 一句・一偈の経文を読んだ人でさえ、この法華経においては、成仏の記別を受けら
れています。
 ましてや、法華経一部(全体)を身読したのでありますから、いよいよ、頼もしく
思っております。

 ただ、身の程知らずではありますが、国土全体の安泰を念願して、国主を諌暁致し
ました。けれども、未だに、国主から用いられておりません。
 このような世の状況でありますから、私(日蓮大聖人)の力が及ばない事を、残念
に思います。

 これ以上は、煩雑になりますので、筆を止めることに致します。

 文永八年(1271年)〈辛未〉 十月五日         日蓮 花押 

 大田左衛門尉殿 蘇谷入道殿 金原法橋御房 御返事



 ■あとがき

 本日より、『転重軽受法門』を連載致します。

 『転重軽受法門』の対告衆は、太田乗明殿・曽谷教信殿・金原法橋殿です。
 そして、『転重軽受法門』の御真跡は、中山法華経寺に現存しています。

 金原法橋殿の人物像は不明ですが、太田乗明殿・曽谷教信殿は、共に、富木常忍殿
の折伏によって入信されています。


 下総地方(千葉県)に在していたお三方の中で、お一人が日蓮大聖人の御許(依智
の地)を訪れた際の返書として、『転重軽受法門』が御著述されたものと推察されま
す。

 なお、日蓮大聖人が『転重軽受法門』をお認めになられたのは、文永八年十月五日
であります。
 文永八年十月五日という時期は、龍口法難の直後・佐渡御流罪の直前であったこと
に、ご留意下さい。   了
 


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