種々御振舞御書の“あとがき”


■あとがき

 今回から、『種々御振舞御書』を連載致します。
 『種々御振舞御書』の対告衆は、安房に在住していた光日房です。

 『種々御振舞御書』には、文永五年から建治二年までの九年間に渡る、日蓮大聖
人の“御振舞”が御記述されています。

 この九年間の日蓮大聖人の“御振舞”は、末法の御本仏・久遠元初自受用報身如
来としての『発迹顕本』をお示しになられた“御振舞”であり、法華経を御身読さ
れた『法華経の行者』としての“御振舞”でもあります。

 なお、今回の連載は、「日蓮大聖人御一代の御化導を拝していくためには、『種々
御振舞御書』を取り上げた方が良いのではないか。」という読者の方からのご要望に、
お応えさせていただきました。    了



■あとがき

 『種々御振舞御書』の“その1”において、「去ぬる文永五年後の正月十八日」→
「去る文永五年正月(閏月)十八日」という訳を付けさせていただきました。

 それに対して、ある読者の方から、「(閏月)ではなくて、(閏年)の間違いで
はないか。」とのお問い合わせを頂戴しました。
 そこで、『閏月』につきまして、若干のご説明をさせていただきます。

 『閏月(うるうづき)』とは、旧暦の『太陰太陽暦』において、暦が実際の季節と
ずれることを防ぐために、挿入される月のことです。
 『閏月』の挿入の有無が、『(純粋)太陰暦)』と『太陰太陽暦』との大きな違
いになります。

 『(純粋)太陰暦)』による12か月は354日となり、『太陽暦』の1年間に
比べると、11日ほど短くなります。
 このずれは、11日×3年間=33日となり、3年間で約1ヶ月分ほどになります。

 そこで、『太陰太陽暦』では、19年に7回(約3年に1回)ずつ、1ヶ月を挿
入して、ずれを解消することにしました。
 この挿入された月のことを、『閏月』と云います。

 『閏月』の月名は、前月の月名に、『閏』を付けます。
 例えば、十一月の次に挿入された『閏月』は、『閏十一月』となります。
 つまり、『閏月』のある『閏年』は、1年が13ヶ月になっています。

 『閏月』を19年に7回ずつ挿入すると、誤差なく暦を運用できることは、古代
から知られていました。
 古代の人々の天文学的知恵には、本当に驚かされます。   了



■あとがき

 この原稿を執筆している合間に、神奈川県のロードマップを眺めています。

 龍口法難の舞台となった鎌倉市の片瀬から、本間六郎左衛門尉殿の邸があった厚木
市の依智(現在の住居表示は『依知』)へ、日蓮大聖人が向かわれた道を探索するた
めです。

 鎌倉市片瀬と厚木市依智の間は、直線距離で換算しても、20km以上あります。

 光り物が到来した午前2時頃から、本間六郎左衛門尉殿の邸にお入りになられた正
午頃迄の約10時間で、日蓮大聖人御一行は、その間を移動されたことになります。

 『種々御振舞御書』には、その間の道中の記載がお記しになられていません。

 従って、詳細は分かりかねますが、「その道こそが、依智に向かう道でございます。」
と、ある兵士が云ったことから判断すると、「現在の国道467号線を北上して、国道
246号線に差し掛かった辺りで、西に向かわれる道程を辿られたのではないか。」と、
推測しています。

 カーナビをお持ちの方は、“ルート検索”を何通りか行ってみると、興味深いかも
知れません。

 いずれにしても、若干の小休止を挟んではいるものの、徹夜の長距離移動であった
ことは、疑いありません。

 この時、御年五十歳であらせられた日蓮大聖人も、同行された四条金吾殿も、兵士
たちも、本間六郎左衛門尉殿の邸にお入りになられた際には、疲労困憊であったよう
に思われます。

 そんな折に、日蓮大聖人は、御自身を殺害しようとしていた兵士たちに対して、怨
みを持たれるどころか、御自らがお酒を振る舞われています。
 おそらく、疲れ切っていた兵士たちは、寛大なる御慈悲に感激したことでしょう。

 此処に、日蓮大聖人の巧みな人心掌握術を、拝することが出来ます。

 この際、日蓮大聖人は兵士たちに対して、難しい理論を説かれたり、念仏の邪義を
徹底的に論破された御様子はありません。

 にもかかわらず、龍口での偉大なる御力用や、暖かい御人格に触れたことを機縁と
して、兵士たちの多くが、念仏の邪義を捨てて、日蓮大聖人に帰依しています。

 翻って、現在、“日蓮大聖人の正法正義を継承する教団”が、機関誌やインターネ
ット等を用いて、醜い中傷記事を至る所に掲載しています。

 自らの教団の正当性を訴えることによって、対立する教団から、一人でも多くの信
徒を獲得しようとする目論見を懐いているためでしょう。

 しかし、そのような愚を犯せば犯すほど、却って、人心が離れていく結果になるこ
とを、本間六郎左衛門尉殿の邸における日蓮大聖人の御振舞が、雄弁に物語っている
のではないでしょうか。

 「今一度、“正統なる日蓮門下”の面々は、日蓮大聖人の巧みな人心掌握術を学ぶ
必要がある。」と、考える次第です。    了



■あとがき

 では、ここで、クイズです。 (^v^)

 上記の文永八年九月十三日の夜の月は、どんな月だったのでしょうか?
 満月だったのでしょうか、それとも、三日月だったのでしょうか、それとも・・・。

 答は、「満月から、やや欠けた月」になります。
 
 旧暦では、月の満ち欠けを、一ヶ月の単位として、換算しています。
 旧暦の一日は、「朔(新月)となる瞬間を含んだ日」となります。
 そして、旧暦の十五日が、ほぼ、「望(満月)の日」となります。
 そのため、旧暦の十三日の夜は、必然的に、「満月から、やや欠けた月」になります。

 もう一問、クイズです。 (^v^)

 片見月(かたみつき)とは、何でしょうか?

 答は、「『十五夜の月』と、『十三夜の月』は、両方とも、同じ庭で見るものである。
よって、別の場所で見たり、十五夜もしくは十三夜の片方だけ月見をすることを、
『片見月』と表して、誡めた風習のこと。」になります。

 おそらく、「年に一・二度の月見ぐらい、同じ場所で、『十五夜の月』と『十三夜
の月』を、両方とも愛でることが出来るように、余裕を持って生きなさい。」という
教訓なのでしょう。
 現代流の表現では、「“スローライフ”の勧め」になるのでしょうか。

 皆さんも御承知の通り、中秋の名月(旧暦の八月十五日)は、『十五夜の月』にな
ります。
 今年の新暦では、9月11日が中秋の名月になっていました。
 中秋の名月は、元来、中国で行われていた風習が、日本に伝わってきたものです。

 一方、『十三夜の月』は、中秋の名月の翌月の十三日、つまり、旧暦の九月十三日
の月を愛でる風習であります。

 この『十三夜の月』は日本独特の風習であり、一説には、宇多法皇が九月十三日の
夜の月を、『無双』と賞したことが始まりであるとも、醍醐天皇の時代に開かれた、
『観月』の宴が風習化されたものとも、云われています。

 中秋の名月に一ヶ月ほど遅れてから、非対称的な晩秋の月の美しさを愛でるところ
に、日本文化の粋が感じられます。

 そして、日蓮大聖人は、年に一度の『十三夜の月』の日であった、文永八年九月十
三日の夜に、『月天子』を諫暁されています。
 そこに、深い意義と因縁を、拝する次第でございます。

 ちなみに、今年の『十三夜の月』は、新暦で十月八日の夜でした。
 来年の『十三夜の月』は、新暦で十月二十六日の夜になります。

 来年の十月二十六日の夜には、日蓮大聖人も愛でられた『十三夜の月』を、皆さん
も、御覧になっては如何でしょうか。   了



■あとがき

 龍口法難の際に、土籠(土造の牢屋)に投獄されていた日蓮大聖人の弟子は、日朗・
日心・坂部入道・伊沢入道・得業寺入道の五師であった、と、云われています。  了



■あとがき

 日蓮大聖人は、文永八年一月十六日の時点で、鎌倉に戦が起こること(文永八年二
月十一日に勃発した二月騒動)を、本間六郎左衛門尉殿に予言されていました。

 今回連載分の御金言には、その模様が御描写されています。   了



■あとがき

 「かかる日蓮を用ひぬるとも、あしくうやまはば国亡ぶべし。」

 日蓮大聖人の教えを信奉しているはずの教団でありながら、この御金言の誡めに背
いている事例が多々あります。

 ましてや、教団の長へ就いた途端に、自らの存在を御本仏日蓮大聖人と同格に並び
立てて、悪しく敬わさせている狂態も、数多く見受けられます。

 これらの狂態は、まさしく、『亡国の邪義』以外の何物でもありません。   了



■あとがき

 今回連載分は、日蓮大聖人の『第三の国諫』(立正安国論御提出時・龍口法難時・佐
渡流罪御帰還時の国家諫暁)に関する御記述であることを、一言申し添えておきます。

 なお、このメルマガを、海外でお読みになっている方々がいらっしゃいます。
 海外在住の方々の便宜を計るためにも、これからの連載では、西暦年代も併記するこ
とに致します。   了



■あとがき

 明確な御記載はありませんが、「『種々御振舞御書』の対告衆は、安房国に在住して
いた光日房である。」と、云われています。
 そのため、安房国の僧侶の臨終の姿を、日蓮大聖人は御記述されたのでしょう。
 
 なお、清澄寺の起源は、宝亀二年(771年)に遡ることが出来ます。
 その後、承和三年(836年)には、慈覚大師が清澄寺の地を訪れています。
 寛平八年(896年)には、比叡山の静観僧正を迎えて、清澄寺開山の祖としています。

 その影響もあって、清澄寺は、日蓮大聖人が清澄寺に上られた天福元年(1233年)
頃には、天台密教(台密)の流れを受けた寺院であったようです。 

 筆者は、「上記の御金言に御記述されている清澄寺の円智房は、おそらく、天台密教
(台密)の修行僧であったのではないか。」と、推測しています。    了


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