諸法実相抄  文永十年(1273年)五月十七日  聖寿五十二歳御著作
 

 質問致します。

 法華経の第一巻の方便品第二には、「諸法実相とは、所謂、諸法の相・性・体・
力・作・困・縁・果・報、そして、諸法の本末が究竟して等しく実相ということ
である。(所謂諸法・如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是困・如是
縁・如是果・如是報・如是究竟等)」と、説かれています。
 この経文の意義は、どういうことでしょうか。

 お答えします。

 十界(注、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・
菩薩界・仏界)において、下は地獄界から上は仏界に至るまで、依報(注、正報
の対応語。正報の拠り所となる非情の草木や国土等のこと。)の当体も、正報(注、
依報の対応語。生を営む有情の主体のこと。)の当体も、悉く、一法も残さずに、
妙法蓮華經の姿(当体)であることを説き明かした経文であります。

 草木や国土等の依報が存在するのであれば、必ず、そこには、生物や有情等の
正報が住んでいるのであります。 
 このことを、妙楽大師は、『法華文句記』に、「依報も正報も、常に、妙法蓮
華經を宣説している。」等と、解釈されています。

 そして、妙楽大師は、『金ペイ論』に、「実相は、必ず、諸法として現れる。そ
して、諸法は、必ず、十如(相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等)
を具えている。そして、十如は、必ず、十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・
声聞・縁覚・菩薩・仏)を具えている。そして、十界には、必ず、身(正報)と、
土(依報)が存在する。」と、云われています。

 また、妙楽大師は、『金ペイ論』に、「阿鼻地獄の依報と正報は、すべて、仏
自身の心中に存在する。仏の身(正報)も、仏の土(依報)も、凡夫の一念の外
には存在しない。」と、云われています。

 これらの妙楽大師の解釈の義は、明確であります。誰人も、疑問を生じる余地
はありません。
 であるならば、十法界(注、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・
声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界)の姿は、妙法蓮華經の五字以外の何物でもない、
ということです。

 釈迦如来・多宝如来の二仏も、妙法蓮華經の五字が作用して、衆生に利益を施
されようとする時に、事相(注、具体的な姿)として、釈迦如来・多宝如来という
二仏の姿でお顕れになって、虚空会の儀式の際に、宝塔の中でうなずき合われた
のであります。

 このような法門は、日蓮を除いて、他に言い出した人は、一人もおりません。

 天台大師・妙楽大師・伝教大師等は、内心ではそのことを知っていました。け
れども、言葉に出して説かれずに、御自身の胸中に深く秘められていました。
 それも、道理であります。
 何故かと云えば、第一に、天台大師・妙楽大師・伝教大師等は、釈尊から付嘱
を受けていなかった。第二に、時が、未だに到来していなかった。第三に、久遠
からの釈尊の弟子ではなかった。この三つが、その理由となります。

 従って、地涌の菩薩の中で、上首(最上位)であり唱導の師である、上行菩薩
・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩以外の者は、末法の始めの五百年に出現し
て、法体の妙法蓮華經の五字(三大秘法)を弘めることは出来ません。

 ましてや、虚空会の儀式における、宝塔の中の二仏並座の儀式(御本尊)を作
り顕すべき者ではありません。
 その理由は、これが、法華經本門寿量品の肝要である、事の一念三千(三大秘
法)の法門になるからであります。
 
 従って、釈迦如来・多宝如来の二仏と雖も、妙法蓮華經の用(作用)として現
れた仏であります。そして、妙法蓮華經の体(本体)こそ、本仏にて御座してお
られます。
 その根拠は、法華經如来寿量品第十六の「如来秘密 神通之力」の經文にあり
ます。

 「如来秘密」は、妙法蓮華經の体(本体)の三身(法身・報身・応身)を具え
られた、本仏(日蓮大聖人)であります。
 「神通之力」は、妙法蓮華經の用(作用)の三身(法身・報身・応身)を具え
られた、迹仏(釈尊)であります。

 故に、末法の我等衆生に取りまして、釈尊は主・師・親の三徳を備えられてい
るように思われておりますけれども、実際には、そうではありません。
 かえって、迹仏である釈尊に、主・師・親の三徳の用(作用)を与えていたの
は、本仏である凡夫(日蓮大聖人)なのであります。

 その理由は、天台大師が『法華文句』において、「十方三世(注、東・西・南
・北・東北・東南・西北・西南・上・下の十方。過去・現在・未来の三世。)の
諸仏、二仏(釈迦如来・多宝如来)、三仏(法身・報身・応身)、本仏、迹仏。
これら一切の仏の通号が“如来”である。」と、判釈されていることであります。

 この天台大師の判釈において、本仏とは、凡夫(日蓮大聖人)になります。そし
て、迹仏とは、仏(釈尊)になります。

 しかしながら、衆生は迷っている存在であり、仏は悟りを開いている存在であ
る、という点に異なりがあります。
 その異なりが生じる理由は、「本来、仏も衆生も、倶体倶用の三身(注、如来
の体も用も、倶に備わっている法身・報身・応身)である。」ということを、迷
える衆生が認知していないためであります。

 さて、そこで、諸法という概念によって、十界(注、地獄界・餓鬼界・畜生界
・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界)を示された上で、十界
の諸法が実相であることを説かれています。
 そして、実相ということは、妙法蓮華經の異名であります。すなわち、諸法は、
妙法蓮華經ということになります。

 地獄は地獄の相(すがた)を見せることが、実の相(すがた)であります。
 その地獄の相(すがた)が餓鬼へと変じてしまったら、それは、もはや、地獄の
実の相(すがた)ではありません。

 仏(釈尊)は仏の相(三十二相)、凡夫(日蓮大聖人)は凡夫の相(無作の三身)、
そして、万法(諸法)の当体の相(すがた)が実相であり、妙法蓮華經の当体であ
るということを、『諸法実相』と申し上げているのであります。

 天台大師は、「実相の極理は、本有(注、本来ありのままの存在)の妙法蓮華
經である。」と、云われています。
 この解釈の意味は、「『実相』の御金言は、法華經迹門の立場からお示しにな
られた一念三千の法門であり、『本有の妙法蓮華經』と仰せになられていること
は、法華經本門の立場からお示しになられた一念三千の法門である。」というこ
とになります。
 この解釈を、よくよく心中に、お考えになって下さい。

 日蓮は末法の世に生まれて、上行菩薩が弘められるべき所の本門の題目である、
南無妙法蓮華經を他の者に先立ってほぼ弘めてから、更に、法華經本門寿量品の
古仏である釈迦如来や、法華經迹門宝塔品の時に涌出された多宝如来や、法華經
本門涌出品の時に出現された地涌の菩薩等を、真っ先に作り顕させていただいた
こと(注、日蓮大聖人が御本尊を建立されたこと)は、私の分際としては意義深
いことであります。
 
 たとえ、どれほど日蓮を憎んだとしても、日蓮の内証(本仏の覚り)に対して
は、如何にしても及ばないことでしょう。

 であるならば、このような日蓮を、この佐渡島まで遠流した罪は、無量劫とい
う長い年月を費やしても消滅させることは出来ない、と、思われます。

 法華経譬喩品第三に、「もし、法華経の行者を迫害する者の罪の重さを説こう
とすれば、たとえ、どれほどの劫をかけて説いたとしても、到底、説き尽くすこ
とは出来ない。」と、仰せになられているのは、このことであります。

 また、その反対に、日蓮を供養して、日蓮の弟子檀那となることの功徳は、仏
の智慧を用いても、計り尽くすことは出来ません。

 法華経薬王菩薩本事品第二十三に、「仏の智慧を以て、その功徳が多いか少な
いかを計ろうとしても、到底、その功徳の量を計り尽くすことは得られない。」と、
仰せになられているのは、このことであります。

 地涌の菩薩の先駆けは、日蓮ただ一人であります。あるいは、地涌の菩薩の数
の中に入っているのかも知れません。
 もし、日蓮が、地涌の菩薩の数の中に入っていれば、日蓮の弟子檀那も、地涌
の菩薩の流類(眷属)ではない訳がありません。
 
 法華経法師品第十には、「よく、ひそかに一人のために、法華経の一句だけで
あっても説くならば、まさに、この人は、如来の使いであり、如来から派遣され
て、如来の為すべき事を行じているのである。」と、仰せになられています。
 この経文は、決して、日蓮や日蓮の弟子檀那以外の者のことを、説き示されて
いるのではありません。
 
 さて、人間というものは、余りに人から褒められると、どのようなことでも、
成し遂げていこうとする意志が出てくるものです。
 これは、褒められる言葉によって、起こる意志であります。
 
 末法の世に生まれて、法華経を弘める行者(日蓮大聖人)は、三類の敵人(注、
俗衆増上慢・道門増上慢・僭聖増上慢)によって、流罪・死罪に及ぶことでしょ
う。

 けれども、これらの大難に耐えて、法華経を弘める行者(日蓮大聖人)には、
釈迦仏が衣を覆って下さいます。
 諸天善神は、法華経の行者(日蓮大聖人)に供養を致して、肩にかけて背にお
ぶって下さいます。
 法華経の行者(日蓮大聖人)は大善根の者であり、一切衆生のためには大導師
であります。

 以上のようなお言葉を以て、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏菩薩・天神七代・地
神五代の神々・鬼子母神・十羅刹女・四大天王・大梵天王・帝釈天王・閻魔法王・
水神・風神・山神・海神・大日如来・普賢菩薩・文殊師利菩薩・大日天王・大月
天王等の諸尊たちから褒められるが故に、日蓮は無量の大難を耐え忍んできたの
であります。
 
 褒められた時には、我が身が損なわれることも顧みずに、また、謗られた時に
は、我が身が破れることも知らずに、振る舞う事は凡夫の常であります。

 如何なる難に遭遇することがあったとしても、この度は信心を致して、法華経
の行者であることを貫いて、日蓮一門と成り通しなさい。

 日蓮と同意であるならば、あなたも、地涌の菩薩の眷属でありましょう。
 地涌の菩薩の眷属と定まったならば、あなたも、釈尊の久遠からの弟子である
ことに、疑いの余地はありません。

 法華経涌出品第十五に、「私(釈尊)は、久遠の昔から、これらの衆生を教化
してきた。」と、お説きになられているのは、このことであります。

 末法の世において、妙法蓮華經の五字を弘める者は、男女の分け隔てをしては
なりません。
 皆、地涌の菩薩の眷属の出現でなければ、唱えることが出来ない題目でありま
す。

 日蓮一人が、最初に、南無妙法蓮華經を唱えましたが、それから、二人・三人・
百人と、次第に唱え伝わって来ました。未来においても、また、同様のことでし
ょう。
 これこそ、まさしく、地涌の義(注、法華經涌出品第十五において、六万恒河
沙の地涌の菩薩が、大地より涌出されたこと)であります。

 その上、広宣流布の時には、日本国一同に、南無妙法蓮華經と唱えることは、
大地を的として弓を射ることのように、確かなことであります。

 ともかくも、法華經(御本尊)に名を立てて、身を任せていきなさい。

 釈迦如来・多宝如来・十方の諸仏や菩薩がお集りになられた、虚空会の儀式に
おいて、釈迦如来・多宝如来の二仏がうなずき合って、定められたことは他のこ
とではありません。
 ただ、ひとえに、末法の世に令法久住(注、「法をして、久しく、住せしめん」
法華經見宝塔品第十一の經文。未来永久に渡って、妙法が伝わるようにしていく
こと)をさせるためでありました。

 既に、虚空会の儀式において、釈迦如来のために、多宝如来が半座を分けて譲
られた時、妙法蓮華經の旗を指し顕して、釈迦如来・多宝如来の二仏が大将となっ
て定められたことに、断じて偽りのあるはずがありません。
 それは、まさしく、我等衆生を、仏に成そうとするための御談合でありました。

 日蓮は、虚空会の儀式の座にいたわけではありません。けれども、経文を拝見
してみると、虚空会の儀式の模様は、少しも曇り無く、明らかであります。

 あるいは、日蓮は、虚空会の儀式の座にいたのかも知れません。けれども、凡
夫でありますので、過去を知ることは出来ません。

 しかし、現在のことは、よく見えております。現在、日蓮は、法華経の行者と
なっています。
 また、未来においては、即身成仏の境涯を得ることが決定しています。

 これらのことから、過去を推察していけば、おそらく、日蓮は、虚空会の儀式
にも列なっていたことでしょう。
 何故なら、過去・現在・未来の三世は、それぞれ、別々ではないからでありま
す。

 このように思い続けてきますと、日蓮は流人の境遇ではありますが、喜悦は計
り知れません。
 「嬉しい時にも涙、辛い時にも涙。」と云われるように、涙は、善悪に通ずる
ものであります。

 釈尊の御入滅後に、千人の阿羅漢が集まって、釈尊のことを思い出しながら、涙
を流していました。
 そして、同じように涙を流していた文殊師利菩薩が、『妙法蓮華經』と唱えられ
ると、千人の阿羅漢の中の代表格であった阿難尊者は泣きながら、『如是我聞(こ
のように、私は釈尊の説法を聞いた。)』と、答えられました。
 そして、他の九百九十九人の阿羅漢たちは、泣いて流した涙を硯の水として、
再び、『如是我聞』と記された上に、『妙法蓮華經』と書きつけられました。

 それと同様に、今、日蓮も、涙を流しているのであります。

 このような流罪の身となったのも、妙法蓮華經の五字七字(三大秘法の御本尊)
を弘めたからであります。
 釈迦如来・多宝如来の二仏が、未来の日本国の一切衆生のために留め置かれた
妙法蓮華經(三大秘法の御本尊)である、と、日蓮も聞いていたからであります。

 現在の大難を思い続けてみても、涙が溢れてきます。そして、未来の成仏を思
って喜んでみても、涙が溢れて止まりません。
 鳥や虫は、いくら鳴いても、涙が落ちることはありません。
 日蓮は、泣くことはありませんが、涙が暇なく溢れてきます。

 しかし、この涙は、世間のことで流している涙ではありません。
 ただ、ひとえに、法華經(三大秘法の御本尊)のための涙であります。
 もし、そうであるならば、甘露の涙とも云えることでしょう。

 涅槃経には、「父母・兄弟・妻子・眷属と別れて流す涙は、四大海の水よりも
多い。けれども、仏法のためには、一滴の涙も流すことはない。」と、仰せの経文
が見受けられます。

 法華経の行者となる事は、過去世からの宿習であります。
 同じ草木であっても、仏として作られることは、宿縁に因るのであります。
 一方では、たとえ仏であっても、実教の仏ではなく、権教の仏に作られること
は、また、宿業に因るのであります。

 この文には、日蓮の大事な法門を書き記しておきました。
 よくよく、御覧になってください。そして、意味を理解するようにしてくださ
い。

 一閻浮提第一の御本尊を信じてください。
 発心に発心を重ねて、信心を強くして、三仏(釈迦如来・多宝如来・十方分身
の諸仏)からの守護をいただけるようにしてください。

 行と学の二道を励んでください。行と学が絶えるようなことがあれば、仏法は
滅んでしまいます。
 御自身も行と学の二道に励み、他の人をも教化してください。行と学は、信心
から起こるものであります。
 そして、力があるならば、たとえ一文一句であっても、仏法のことを語るよう
にしてください。

 南無妙法蓮華經 南無妙法蓮華經 恐々謹言

 文永十年五月十七日  日蓮 花押

 最蓮房御返事


 追伸を申し上げます。

 日蓮が相承を受けた法門等につきましては、前々から、書いてお伝えしており
ます。
 そして、殊更に、この文には、大事な法門のこと等を記しておきました。

 こうしてみると、過去世からの不思議な契約があったのでしょうか。
 それとも、法華経涌出品第十五に記されている、六万恒河沙の地涌の菩薩の上
首である、上行菩薩等の四菩薩が、形を変えて出現されたのでしょうか。

 必ず、何か理由があることでしょう。 

 総じて、日蓮の身に当たる法門を、あなたにお渡ししました。
 日蓮は、もしかすると、六万恒河沙の地涌の菩薩の眷属かも知れません。
 それは、南無妙法蓮華經と唱えることによって、日本国中の男女を導こうと思
っているからであります。

 法華經涌出品第十五に、「一人は上行菩薩と名づく。(中略)この人は唱導の師
である。」と、お説きになられているではありませんか。

 あなたは、誠に深い宿縁によって、私の弟子となったのです。
 この文を、しっかりと秘して、大切にしてください。この文には、日蓮の己心
に悟った法門を書きつけています。

 以上で、筆を止めることに致します。



目次へ