崇峻天皇御書 建治三年(1277年)九月十一日 聖寿五十六歳御著作


 白小袖一枚、銭一結、また、富木殿からのお手紙と、何よりも、柿・梨・生ひじき・干
ひじき、その他様々な品物を、御使いに託して、お届けいただきました。
 そして、それらの品物を受け取りました。

 さて、何よりも、主君(北条光時殿)の御病氣のことを、嘆き入っております。

 たとえ、主君(北条光時殿)からは、貴殿(四条金吾殿)に対する御信用がないように
見受けられますけれども、貴殿(四条金吾殿)は、その一門の内にいらっしゃって、主君
(北条光時殿)に対する御恩の陰で、法華経(御本尊)を信行しておられます。

 因って、貴殿(四条金吾殿)の御祈念は、偏(ひとえ)に、主君(北条光時殿)の御病
氣を平癒するための御祈念となることでしょう。

 例えば、大木の下に生えている小さな木は、直接、雨に当たることはありません。
 また、大河のほとりに生えている草は、直接、大河の水を得ることが出来ません。

 けれども、露が小さな木に伝わっていったり、ほとりの草が大河の水氣を得たりするこ
とによって、繁っていくのであります。

 主君と臣下の関係も、これと同様であります。

 阿闇世王は、提婆達多に騙されて、釈尊の御敵となっていました。

 しかし、阿闇世王の臣下であった耆婆大臣は、仏に対する信仰心の志を持って、常に御
供養を行なっていたので、その功徳が、阿闇世王に帰していったように見受けられます。

 仏法の中には、『内薫外護』(衆生の内に存在する仏性が薫発されて、自らを外護する
こと。)という、極めて大事な宗論があります。

 法華経常不軽菩薩品第二十には、「我は、深く、汝等を敬う。」と、仰せになられてい
ます。

 涅槃経には、「一切衆生には、悉く、仏性が有る。」と、仰せになられています。

 馬鳴菩薩が著した『起信論』には、「真如の法が、常に薫習していく故に、迷いの妄心
が滅して、覚りの法身が顕現する。」と、云われています。

 弥勒菩薩が著した『瑜伽論』には、自然に、隠れていた善事が、徳となって現れてくる
ことを示されています。

 であるならば、貴殿(四条金吾殿)の同僚の人々に、天魔が付いて、この法華経の法門
を供養する貴殿(四条金吾殿)のことを、以前より知っていたが為に、この度の大妄語を
造り出して、妨げようとしたことになります。

 しかし、貴殿(四条金吾殿)の御信心が深かったので、諸天善神である十羅刹女が、貴
殿(四条金吾殿)を助け奉ったのであります。
 それ故に、主君(北条光時殿)が発病されたのでしょう。

 主君(北条光時殿)は、貴殿(四条金吾殿)のことを、御自分の敵とは思っていないか
も知れません。
 けれども、一旦は、彼等(四条金吾殿の同僚)の妄言を用いたことにより、御病氣が重
くなって、長引くことになったのではないでしょうか。

 加えて、彼等が柱と頼む竜象房は、既に倒れてしまいました。
 竜象房と一緒に讒言した人も、同じ病に冒されてしまいました。

 極楽寺良観は、また一段と重い大罪の者であるために、大変な問題に遭遇して、大きな
事件を引き起こすことでしょう。そして、如何なることになっても、不思議ではありませ
ん。
 決して、ただでは済まないことになります。

 それにつけても、貴殿(四条金吾殿)の身の上も、危険であるように、思われて参りま
す。
 必ずや、敵に狙われることでしょう。

 双六では、石が二つ並んでいると、相手に取られることがありません。
 また、車の輪も二つ揃っていれば、悪路でも、あまり傾きません。
 それと同様に、敵も、相手が二人いると、攻めにくいものです。

 従って、どのような過ちがあったとしても、貴殿(四条金吾殿)の弟たちを、少しの間
も、身の回りから離してはなりません。

 貴殿(四条金吾殿)は、必ず、腹あしき(短氣な)相が、顔に現れます。
 如何に大事な人物と思われても、「腹あしき(短氣な)者には、諸天が守護をされるこ
とはない。」と、承知しておきなさい。

 仮に、貴殿(四条金吾殿)が人から危害を加えられたとしたら、たとえ仏に成ることが
出来たとしても、彼等は悦びの言葉を発するでしょう。
 一方、それは、当方の歎きとなることですから、たいへん口惜しいことになります。

 彼等が何とかして、貴殿を陥れようとしているのに、以前にも増して、主君(北条光時
殿)から引き立てられているので、外見の姿は静まっているように見えても、彼等の心中
は、怒りで燃え上がっているばかりでしょう。

 従って、平常は、彼等から目立たないようにして、以前よりも、一門の家の子を大事に
してください。
 また、公達(朝廷の貴族)が主君の許を尋ねて来る際には、主君からのお呼び出しがあっ
たとしても、しばらくの間は、同伴を慎んでください。

 入道殿(北条光時殿)に、万一のこと(死去)があったとしたら、貴殿(四条金吾殿)
に讒言をした人々は、世迷い人になってしまいます。

 彼等はそういうことを顧みずに、分別のない心を以って、貴殿(四条金吾殿)が益々
出仕されるのを見るたびに、必ずや、胸の中に炎を燃やしたり、息を逆さまに吐いたり
して、敵愾心を盛んにすることでしょう。

 もし、公達(朝廷等の貴族)や重臣の女房たちから、「主君の御病状は、どのような状
態ですか。」と問われた時には、相手が如何なる人であったとしても、膝をかがめて掌を
合わせてから、「自分の力では及ばない御病氣であります。そのため、固く、辞退を申し
上げました。しかし、厳命を仰せになられましたので、主君に御奉公させていただく者とし
て、治療を行っている次第です。」と、答えなさい。

 そして、髪を梳かさず、直垂も立派でないものを用いて、鮮やかな小袖や色付きの衣服
等も着ずに、しばらくの間は、忍耐をして、状況の推移を御覧ください。

 返す返す、御心得の上とは思われますが、末法の世の有様を、釈尊は、このようにお説
きになられています。

 「末法の濁世には、聖人も、居し難い。あたかも、大火の中の石のようなものである。
 しばらくの間は、堪えられるけれども、最終的には、焼け砕かれて、灰になってしまう
からだ。」と。

 賢人も、五常(仁・義・礼・智・信)を口では説いていますが、実際、我が身に引き当
てて、五常(仁・義・礼・智・信)を振舞っていくことは難しいものです。

 一般的にも、「高い地位に就いたら、早く、その座を去れ。」と、云われています。

 何人かの者が、貴殿(四条金吾殿)を讒言によって、陥れようとしました。
 けれども、貴殿は陥れられずに、早くも、勝者の身となりました。

 しかし、最後に、些細なことで陥れられたとしたら、世間で云われているように、船の
漕ぎ手が目的地の直前でひっくり返ったり、食事の後に白湯が用意されていないことのよ
うな、詰めの甘い結末になってしまいます。

 貴殿は、主君(北条光時殿)から部屋を与えられて、居住しておられますので、その場所
は、安全で何事もないように思われます。
 けれども、彼等は、日暮れ時や暁の時や出入りの時などを選んで、必ずや、狙って来る
ことでしょう。

 また、貴殿の家の妻戸(家の隅にある両開きの戸)の脇や、持仏堂(仏間)、板間の下、
天井の裏などを、充分に注意しながら、行動してください。

 今度は、前回の時よりも、彼等は、一段と考慮した上で、対応をしてくるでしょう。

 何と申しても、鎌倉の荏柄(注、現在の鎌倉市二階堂周辺。鎌倉幕府の重臣の館があっ
た。)で、夜廻りをしている弟たちが頼りになります。
 どれだけ、心に合わないことがあったとしても、親しく語らってください。

 源義経は、どのようにしても、平家を攻め落とすことが出来ませんでした。
 けれども、田口成良(成能)を味方にすることによって、平家を滅亡させることが出来
ました。

 また、大将殿(源頼朝)は、長田忠宗のことを、「親の仇である。」と、認識していま
した。
 けれども、平家を陥落させるまでは、長田忠宗の頸を切らなかったのです。

 ましてや、貴殿(四条金吾殿)のご兄弟の四人は、遠くは法華経を信じているために、
近くは日蓮を信じているために、命を懸けて入手した屋敷を、主君に召し上げられていま
す。
 故に、日蓮と法華経を信ずる人々に対して、以前に、貴殿(四条金吾殿)のご兄弟が如何
なる事をしていたとしても、配慮をしてあげなければなりません。

 その上、貴殿の家へ、ご兄弟がいつも通って来れば、敵は怖れて、夜間に近寄って来る
ことはないでしょう。
 敵と雖も、元々、親の仇というわけではありませんので、「まさか、昼間に正体を顕して、
襲って来ることはない。」と、思われます。

 また、夜の闇に隠れて、襲って来るような者に対しては、貴殿のご兄弟の四人ほど、勝
れた力量を持った兵士はいません。
 そういう意味合いを込めて、常に、ご兄弟とは仲良くして下さい。

 しかし、貴殿は、腹悪しき(短氣な)人でありますので、なかなか、私(日蓮大聖人)
の忠告を用いないことでしょう。
 もし、そのようなことになれば、日蓮の祈りの力が及ばないことになります。

 竜象房と貴殿(四条金吾殿)の兄上は、貴殿の御為には、悪い人でありました。
 しかし、諸天の御計らいによって、貴殿の御心の通りになりました。

 にもかかわらず、何故に、諸天の御心に背くようなことをお考えなのでしょうか。
 たとえ千万の財産に充ち足りていたとしても、主君から捨てられるようなことになれば、
何の意味もありません。

 既に、貴殿は、主君(北条光時殿)から、親のように思われています。
 あたかも、水が器に随うように、子牛が母牛を慕うように、老人が杖を頼りにするよう
に、主君が貴殿のことを思っておられるのは、まさしく、法華経の御加護によるものです。

 一門の人々は、「なんと、羨ましいことであろうか。」と、思っていることでしょう。

 一刻も早く、貴殿のご兄弟四人と仲良く相談して、その結果を、日蓮に聞かせて下さい。

 そのようにしていただければ、強盛に、諸天へ申し上げましょう。

 また、貴殿の亡くなられた御父・御母の御事につきましても、「左衛門尉(四条金吾殿)
が、たいへん歎いておられます。」と、諸天に申し入れましょう。
 必ずや、釈迦仏の御前で、丁重な扱いを受けることになります。

 返す返すも、今でも忘れられないことは、私(日蓮大聖人)が龍口で頸を切られそうに
なった時、貴殿(四条金吾殿)が私(日蓮大聖人)のお供をして、馬の口に付いて、泣き
悲しんだことであります。
 その時のことは、如何なる世になったとしても、絶対に忘れられません。

 たとえ、貴殿(四条金吾殿)の罪が深かったために、地獄に入るようなことになったな
らば、日蓮に対して、「是非とも、仏に成るように。」と、釈迦仏からお誘いを受けたと
しても、そのお誘いを用いるわけには参りません。
 貴殿と同様に、私(日蓮大聖人)も、地獄に入ります。

 日蓮と貴殿が、共に地獄に入るならば、必ずや、釈迦仏・法華経も、地獄に在している
ことでしょう。
 そのことを譬えると、暗夜に月が入っていくようなものであり、湯の中に水を入れるよ
うなものであり、氷の中に火を焚くようなものであり、日輪(太陽)に闇を投げるような
ものであります。

 これまで述べてきたことに対して、少しも、違背してはなりません。
 もし、違背するようなことがあれば、後になって、日蓮を恨んではなりません。

 現在、世間に流行している疫病は、貴殿(四条金吾殿)が仰っているように、年が新た
になると、身分の高い人々に対しても、蔓延していくように思われます。
 それは、十羅刹女の御計らいかも知れません。
 今しばらく、在家のままで、世間の物事を、御覧になって下さい。

 また、世間において、過去に辛いことがあったとしても、歎き事を、他人に聞かせない
ようにしなさい。
 それは、賢人の生き方から外れた行為になります。

 そして、今、出家をすれば、これもまた、賢人の生き方に外れた行為になります。
 もし、貴殿が出家をしたならば、後に残った妻子が、夫の恥を言うつもりはなくても、
夫と別れた悲しさから、他人に向かって、自分の夫の恥を、全て語るようなことになっ
てしまうものです。

 これは、ひとえに、貴殿の妻子の過失ではありません。
 御自身の振舞いの悪さに、原因があるのです。

 人間の身を受けて、この世に生まれてくることは、難しいものです。
 あたかも、多くの土を爪の上へ載せた時に、ほんのわずかな土しか残らないようなもの
です。

 また、人間として生まれてきても、その身を持っていくことは、難しいものです。
 あたかも、草の上の露が、朝日を浴びた途端に、消えてしまうようなものです。

 ならば、百二十歳までも身を持って、名を腐らせて死ぬ事よりは、生きて、一日であっ
ても、名を挙げる事こそが大切であります。

 そして、「中務三郎左衛門尉(四条金吾殿)は、主君(北条光時殿)の御為にも、仏法
の御為にも、世間における心根においても、たいへん良い人である。」と、鎌倉の人々の
話題になって、誉められるようにして下さい。

 穴賢穴賢

 蔵の財(財産)よりも、身の財(健康)の方が勝れています。
 また、身の財(健康)よりも、心の財(人間としての徳性)が第一であります。

 この御文を御覧いただいた後には、心の財(人間としての徳性)を積むようにして下さい。

 さて、最も秘蔵の物語があります。
 これから、書いてさしあげることに致しましょう。

 日本の国が始まって以来、二人の天皇が暗殺されています。
 その一人は、崇峻天皇であります。
 崇峻天皇は、欽明天皇の皇太子であり、聖徳太子の伯父に当たる人でありました。

 崇峻天皇は、人王第三十三代の天皇でありましたが、ある時、聖徳太子をお召しになら
れて、このように勅宣を下されました。
 「汝は聖者の者、と、聞いている。朕の相を、占ってみよ。」と。

 聖徳太子は、崇峻天皇の勅宣を、三度まで辞退しました。

 しかし、崇峻天皇が頻繁に勅宣を下されるので、止むなく、聖徳太子は、崇峻天皇の相
を占い奉りました。
 その上で、聖徳太子は、「君(崇峻天皇)は、人に殺される相をしておられます。」と、
申し上げました。

 すると、崇峻天皇の御氣色がお変わりになって、「何の証拠を以って、太子が云う事を、
信じるべきであるのか。」と、仰りました。

 聖徳太子は、このように、お答えになりました。
 「陛下の御眼に、赤い筋が通っておられます。これは、人から恨まれる相であります。」
と。

 重ねて、崇峻天皇は、「どのようにすれば、この難を免れることが出来るのか。」と、
勅宣を下されました。

 聖徳太子は、再び、このように、お答えになりました。

 「残念ながら、この難は、免れがたいものです。

 ただし、『五常』(仁・義・礼・智・信)と申す、強兵の如き教えがございます。
 『五常』を身から離さずに行動していけば、害を免れることが出来るでしょう。

 この強兵の如き『五常』の教えのことを、仏教では『忍波羅蜜』と申して、『六波羅蜜』
(布施・持戒・忍辱・精進・静慮・智慧)における、第一の修行(忍辱)に挙げられて
おります。」と。

 崇峻天皇は、しばらくの間、『五常』(仁・義・礼・智・信)の教えをお持ちになって
いました。
 しかし、崇峻天皇は、ややもすると、腹あしき(短氣な)天皇であったために、『五常』
(仁・義・礼・智・信)の教えを破るようになってしまいました。

 そんなある時、猪の子を献上してきた人がいました。

 すると、崇峻天皇は短刀を抜いて、猪の子の眼をずぶずぶと突き刺しながら、「いつか、
憎いと思っている奴を、このようにしてやるんだ!」と、仰せになりました。

 すると、その座にいた聖徳太子は、「なんと、浅ましいことでしょうか。なんと、浅ま
しいことでしょうか。陛下は、必ずや、人から恨まれることになるでしょう。」と、云わ
れました。

 聖徳太子は、「このままでは、崇峻天皇の発せられた御言葉が、陛下御自身を害する剣
になってしまう。」と、考えました。

 そのために、聖徳太子は多くの財宝を取り寄せて、崇峻天皇の御前で、先ほどの御発言
を聞いた人々に、御引出物として財宝を与えました。

 けれども、或る人が、蘇我馬子という大臣に、崇峻天皇の御発言の内容を語ってしまい
ました。
 すると、蘇我馬子は、自分の事を指しているのであろうと思い込んで、東漢直駒・直磐
井という者の子を教唆して、崇峻天皇を殺害してしまいました。

 このように、王位の身であっても、思った事を、たやすく、口に出してはならないのです。

 孔子という賢人は、『九思一言』と申して、九度考えてから、一度発言するようにして
いました。

 周公且という人は、客人が尋ねてくると、髪を洗っている時であっても、三度髪を握った
だけで、出向くようにしていました。
 また、食事の時であっても、食べた物を三度吐き出してから出向いた故に、客人を待た
せるようなことがなかった、ということです。

 しっかりと聞いておきなさい。私(日蓮大聖人)を恨んではなりません。
 仏法を信行する意義は、ここにあるのです。

 釈尊御一代の仏法の肝心は、法華経にあります。
 そして、法華経の修行の肝心は、不軽品にあります。

 では、不軽菩薩が人々を礼拝する修行をしたことには、如何なる意味があったのでしょ
うか。
 教主釈尊の出世の本懐は、人間としての振る舞いのあり方を、お説きになることにあっ
たのです。

 穴賢穴賢

 賢く振る舞う者のことを『人』と云い、愚かに振る舞う者のことを『畜』と云うのであります。

 建治三年九月十一日                          日蓮 花押  
 
 四条左衛門尉殿御返事 


  
■あとがき


 『崇峻天皇御書』の対告衆は、四条金吾殿です。
 そして、『崇峻天皇御書』の御真蹟は、明治時代の身延の大火で焼失しています。

 『崇峻天皇御書』と云う御書の題号は、蘇我馬子の指図によって、崇峻天皇が暗殺され
た故事を、日蓮大聖人が御引用なさっていることに由来します。       了



■参考文献

 『頼基陳状』

 頼基不法時病にて起請を書き候程ならば、君忽ちに法華経の御罰を蒙らせ給ふべし。
 良観房が讒訴に依りて釈迦如来の御使ひ日蓮聖人を流罪し奉りしかば、聖人の申し給ひ
しが如く百日が内に合戦出来して、若干の武者滅亡せし中に、名越の公達横死にあはせ給
ひぬ。是偏に良観房が失ひ奉りたるに候はずや。
 今又竜象・良観が心に用意せさせ給ひて、頼基に起請を書かしめ御坐さば、君又其の罪
に当たらせ給はざるべしや。

 (新編御書1136ページ、御書全集1162ページ)

                     ◇◆◇◆◇◆

■あとがき

 上記の『崇峻天皇御書』の御金言の内容からも伺うことが出来ますが、四条金吾殿は、
信仰を貫いたが故に、主君の北条光時殿から、建治二年(1276年)までに、謹慎・所領
替え等の難を受けられていました。

 また、ここぞとばかりに、主君からの信頼が厚かった四条金吾殿に対して、嫉みを持っ
ていた同僚の者どもから、誹謗・中傷を加えられていました。

 建治三年(1277年)に入ると、六月九日に、鎌倉の桑ヶ谷において、『桑ヶ谷問答』
が行われています。
 そして、『桑ヶ谷問答』では、日蓮大聖人の御弟子であった三位房が、破戒僧の竜象房
を完膚無きまでに破折しています。

 そのことに恨みを持った竜象房や極楽寺良観が、『桑ヶ谷問答』に遅れて同席していた
だけの四条金吾殿を貶めようとして、「北条光時殿の家来である四条金吾は、桑ヶ谷の問
答の場で狼藉を働いた。」等と、執拗な讒言を繰り返しました。

 その讒言を真に受けた北条光時殿は、建治三年(1277年)六月二十三日に、四条金
吾殿へ『下し文』を出して、法華経の信仰を止める旨の『起請文』の提出を要求しました。

 上記の参考文献に御引用させていただいた『頼基陳状』は、四条金吾殿からの要請をお
受けになられた日蓮大聖人が御代筆をなされた上で、建治三年(1277年)六月二十五
日に、北条光時殿に対して御提出なされた“陳述書”になります。

 『頼基陳状』には、『桑ヶ谷問答』の経緯、及び、四条金吾殿に『起請文』を書かせる
ようなことをすれば、北条光時殿自身に仏罰が下るであろうこと等を、日蓮大聖人が御記
述なされています。

 それから約3ヶ月後の建治三年(1277年)九月十一日に、日蓮大聖人は、『崇峻天
皇御書』をお書きになられています。

 日蓮大聖人の御予言通り、北条光時殿は、この時、悪質の疫病に罹患していました。
 その治療に当たったのが、医学・薬学の心得があった四条金吾殿です。

 それをきっかけにして、四条金吾殿は、主君の北条光時殿からの信頼を、再び得るよう
になりました。

 その折に当たって、日蓮大聖人は同僚からの嫉みへの対応・護身術・処世術等に対する
綿密な御教示を、『崇峻天皇御書』を通して、四条金吾殿に御指南なされています。

 ところで、四条金吾殿と云えば、龍口法難での対応や「腹悪しき(短氣な)人」等の御
金言によって、勇猛・直情径行(?)のイメージをお持ちになっている方が多いようです。

 しかし、四条金吾殿は、識字率が極めて低かった鎌倉時代において、漢文等も自在に読
みこなすだけでなく、医学や薬学の知識も持ち合わせており、代々の執権の近親者であった
北条光時殿の有力家臣でもありました。

 現代流に置き換えると、「英語がベラベラで、医師免許も所持している、インテリの高級
官僚。」ということになるのでしょうか。

 これで、四条金吾殿がイケメンだったなら、絶対に、女性からモテなかったわけがあり
ません・・・・・。                              (^v^)

 相変わらず、いい加減な筆者の“あとがき”でした。   了


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