四条金吾殿女房御返事 文永十二年(1275年)一月二十七日 聖寿五十四歳御著作


 所詮、日本国の一切衆生の目を抜いて、魂を迷わす邪法は、真言師の教法に過ぎ
るものはありません。
 但し、この事については、しばらく、置いておきます。

 法華経薬王菩薩本事品第二十三の『十喩』(注、法華経が最高の教えである事を
示される為に説かれた、十種類の譬喩のこと。水喩・山喩・衆星喩・日光喩・輪王
喩・帝釈喩・大梵王喩・四果辟支仏喩・菩薩喩・仏喩)においては、一切経(爾前
経)と法華経との勝劣をお説きになられているように見受けられます。
 けれども、仏(釈尊)の御心は、それに留まるものではありません。

 一切経(爾前経)の行者と法華経の行者を並べられた上で、「法華経の行者は、
日月(太陽・月)の如き存在である。諸経(爾前経)の行者は、衆星(ありふれた
星)や灯火の如き存在である。」と云う事を、詮(要点)とお思いになられている
のであります。
    
 「如何なる根拠を以て、その事を知ることが出来るのか。」と申しますと、法華
経薬王菩薩本事品第二十三の『十喩』の第八番目の譬え(四果辟支仏喩)の中に、
最も大事な経文があるからです。

 所謂、その経文とは、「有能受持 是経典者 亦復如是 於一切衆生中 亦為第
一」(よく、この法華経の経典を受持する者も、また同様に、一切衆生の中におい
て、第一と為す。)」になります。

 この二十二字の経文は、一経(法華経)第一の肝心であり、一切衆生の眼目であ
ります。

 つまり、この経文の御真意として、「法華経の行者は、日月(太陽・月)・大梵
天王・仏の如き存在である。それに対して、大日経の行者は、衆星(ありふれた星)・
河川・凡人の如き存在に過ぎない。」と、お説きになられているのです。
                    
 ならば、この世の中の男・女・僧・尼を嫌う(区別する)べきではないのです。
 「法華経を持っていく人は、一切衆生の主である。」と、仏(釈尊)は御覧にな
られて、大梵天王・帝釈天王も仰がれていることでしょう。
 そう思うと、申しようのない嬉しさであります。

 また、この経文(法華経薬王菩薩本事品第二十三の「有能受持 是経典者 亦復
如是 於一切衆生中 亦為第一」の経文)を昼夜に案じて、朝夕に読んでみると、
「是経典者」(この経典の者)の『者』とは、一般的に云われている所の『法華経
の行者』(法華経を修行する人)ではないように、お見受け致します。

 (注記、この箇所の『法華経の行者』とは、末法の御本仏・日蓮大聖人御一人に
対する御尊称の『法華経の行者』ではなく、単なる『法華経を修行する人』の意味
である。)

 「是経典者」(この経典の者)の『者』の文字を、『人』と読み替えてみれば、
「比丘(僧)・比丘尼(尼)・優婆塞(男信徒)・優婆夷(女信徒)の中で、『法
華経を信じられている人々』であろう。」と、拝察したのですが、実は、そのよう
な事ではないのです。

 何故ならば、前記の法華経薬王菩薩本事品第二十三の経文以降に、この『者』の
文字を、仏(釈尊)が、重ねてお説きになられている際には、「若有女人」(もし、
女人が有って)と、お述べになられているからです。
 つまり、『法華経を修行する女人』に対して、特別に、言及されているのです。


 日蓮が、法華経以外の一切経(爾前経)を拝見する限り、「女人にはなりたくな
い。」と、思ってしまいます。

 或る経には、女人のことを、「地獄の使いである。」と、定められています。
 或る経には、「大蛇」と、説かれています。
 或る経には、「曲がった木のようなものである。」と、説かれています。
 或る経には、「仏の種を煎ってしまった(成仏する事が出来ない)者」と、説か
れています。

 仏法の経典だけでなく、外典(中国の古典・『列子』)においても、栄啓期とい
う者が孔子に対して、『三楽』(人生の三つの楽しみ→三つの幸運)を伝えた際に、
『無女楽』と云って、「天地(地球)の中で、女人に生まれなかった事が楽しみ(幸
運)の一つである。」と、主張しています。

 また、「災いは、『三女』より起こった。」(注、『夏』の桀王・『殷』の紂王・
『周』の幽王の悪政は、妲己・妹喜・褒似という三人の悪女によって、引き起こさ
れていたこと。)という定説が、巷間、伝えられています。

 しかし、この法華経においては、唯一、「この経(法華経)を持つ女人は、一切
の女人に超越しているだけでなく、一切の男子にも超越している。」という教え(女
人成仏・男女平等)を、拝する事が出来るのであります。
            
 結局のところは、一切の人に誹られる事よりも、女人の御為には、秘かに、愛お
しいと思っている男から、「不憫」(かわいい・愛おしい)と、思われる事以上の
喜びはないのです。

 一切の人が憎みたければ、憎めばいいのです。

 釈迦如来・多宝如来・十方の諸仏、及び、大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月
天王等(注、御本尊の御相貌の隠喩でもある。)にさえ、「不憫」(かわいい・愛
おしい)と、お思いになって頂けるのであれば、何の苦しみがあるのでしょうか。

 そして、法華経(御本尊)にさえ、褒められ奉るのであれば、何を以て、これ以
上の名誉に替える事が出来るのでしょうか。否、これ以上の名誉はございません。

 今年、貴女(四条金吾殿の奥様)は、三十三の御厄(三十三歳の女性の厄年)と
いうことで、御布施(御供養)を送って頂きましたので、釈迦仏・法華経・大日天
王(注、御本尊の御相貌の隠喩でもある。)の御前に、御布施(御供養)をお供え
申し上げました。

 人間の身には、左右の肩があります。
 この両肩には、二つの神がいらっしゃいます。

 その一つの神は、『同名神』と申します。
 もう一つの神を、『同生神』と申します。

 この二つの神は、大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王が、その人を守護さ
れようとする為に、お母様がお腹の内に子供を宿した当初から、一生を終えるまで、
影の如く、眼の如く、付き添っていくのです。

 そして、その人が、悪業を作ったり、善行を為したり等々ということを、露塵ば
かりも残さず、天(大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王等の諸天善神)に御
報告をされるのであります。

 上記の内容は、華厳経の経文において、説かれています。
 その事を、天台大師は、『摩訶止観』の第八巻において、御解説なさっています。

 但し、信心の弱い者に対しては、法華経(御本尊)を持つ女人であったとしても、
捨てられる(功徳を受けられない)ように見受けられます。

 例えば、大将軍の心が弱ければ、従う者(従卒・家来)も甲斐がない(士気が上
がらない)ことでしょう。
 弓が弱ければ、弦も緩みます。風が弱ければ、波も小さくなります。それは、自
然の道理であります。

 さて、左衛門殿(四条金吾殿)は、俗(在家)の中において、日本に、肩を並べ
る者がいない程の『法華経の信者』です。
 そして、この方(四条金吾殿)に相連れ添う人(四条金吾殿の奥様)は、『日本
第一の女人』です。

 貴女(四条金吾殿の奥様)のことを、「法華経の御為(おかげ)によって、『女
人成仏』をされた、『竜女』(注、蛇身の畜生の女性。法華経提婆達多品第十二に
おいて、『女人成仏』『即身成仏』の義が示されている。)に匹敵するような女性
である。」と、仏(釈尊)は、お思いになられていることでしょう。
 
 『女』と云う文字は、「かかる」と読みます。

 (注記、『女』という文字の形象が、相互の線に掛かって成立している故に、「か
かる」と読まれたのではないか、と、拝察される。)

 藤が松に掛かることによって、美しい花を咲かせます。
 それと同様に、女(妻)が男(夫)に掛かる(協力する)ことによって、素晴ら
しい関係を築く事が出来ます。

 今、貴女(四条金吾殿の奥様)は、左衛門殿(四条金吾殿)を『師』とされる事
によって、法華経(の信仰)ヘ導かれる(教導される)ようになさってください。

 また、『三十三の厄』(女性の三十三歳の厄年)は、転じて、『三十三の幸い』
と成るのであります。
 仁王経において、「七難即滅・七福即生」と仰せになられている経文は、その事
を意味しています。
 年は若くなり、福は重なることでしょう。

 あなかしこ、あなかしこ。

 
正月二十七日 (一月二十七日) 日蓮 花押

 四条金吾殿女房御返事


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