四条金吾殿女房御返事の「あとがき」


■あとがき

 今週より、“ウィークエンドバージョン”は、『四条金吾殿女房御返事』を連載
します。

 『四条金吾殿女房御返事』の対告衆は、ご想像の通り(笑)、「四条金吾殿の奥
様(日眼女)」です。
 そして、『四条金吾殿女房御返事』の御真蹟は、京都の妙円寺外三ヶ所に、断簡
が散在しています。

 『四条金吾殿女房御返事』だけでなく、数多くの御書の御真蹟がバラバラの断簡
となって、各地の寺院等に散在している理由は、「日蓮大聖人御入滅後に、不心得
者の僧侶・弟子どもが、『形見分け』や『何でも鑑定団』みたいなノリで、御書を
切って断簡にして、贈与・売買等をしたから。」
等が推測されます。

 以前、「『聖人御難事』の御真蹟には、日蓮大聖人以外の何者かの異筆によって、
『四月二十八日』の“四”の字を消して、その隣に“三”の字を書き加えて、宗旨
建立の日付を『四月二十八日』から『三月二十八日』へ変更しようとした痕跡が残
っている。」ということを、“あとがき”(阿部宗門の宗旨建立・初転法輪二回説
の邪義を破折する)で御紹介しました。
http://nichiren-daisyounin-gosyo.com/atogaki-nikaisetsu.html

 『富士一跡門徒存知事』に曰く、「一、聖人御書の事。付けたり十一箇条。彼の
五人一同の義に云はく、聖人御作の御書釈は之無き者なり。縦令少々之有りと雖も、
或は在家の人の為に仮字を以て仏法の因縁を粗之を示し、若しは俗男俗女の一毫の
供養を捧ぐる消息の返札に、施主分を書きて愚痴の者を引摂し給へり。而るに日興
は聖人の御書と号して之を談じ之を読む、是先師の恥辱を顕はす云云。故に諸方に
散在する処の御筆をば或はすきかえしに成し或は火に焼き畢んぬ。此くの如く先師
の跡を破滅する故に具に之を註して後代の亀鏡と為すなり。」と。

 我見の強い不届き者の坊主の仕業によって、『先師の跡を破滅する』行為は、“戒
壇の大御本尊と不二の尊体”の阿部日顕師だけでなく、日蓮大聖人御入滅直後の五
老僧から現在の宗門の悪僧に至るまで、絶滅する事なく、行われてきました。

 まるで、どれだけ消毒しても、時間が経てば、続々と、雑菌が繁殖するように・・・。

 佐渡御書に曰く、「外道悪人は如来の正法を破りがたし。仏弟子等必ず仏法を破
るべし。『師子身中の虫の師子を食む』等云云。」と。  了




■あとがき

 本日配信分の御書における「ふびん」には、様々な解釈が成り立ちます。
 具体的、かつ、少しだけ、生々しく云うと・・・。 (笑)

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 1.ふびんな女→不便な女→都合の悪い女 (?)
 2.ふびんな女→不敏な女→ドン臭い女 (?)
 3.ふびんな女→不憫な女→可哀そうな女
 4.ふびんな女→不憫な女→かわいい・愛おしい女

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 『1』~『4』の中で、筆者は、『4』の「不憫な女→かわいい・愛おしい女」
を選択しました。
 「不憫な女→かわいい・愛おしい女」の方が、より、前後の御金言の内容と合致
するからです。

 けれども、「ふびん」は、まだ、ウォーミングアップの問題なんです。(笑)
 もう一段階上の難問があります。
 それは、上記御金言の「なにかたつまじかるベき」です・・・。

 創価学会版の『御書全集』では、上記箇所が「なにか・くるしかるベき」と、記
載されています。

 けれども、近年、名古屋市の大光寺に保管されている御真蹟の断簡が、『四条金
吾殿女房御返事』と合致している事が判明した為、平成の時代に編纂された宗門版
の『新編御書』においては、「なにかたつまじかるベき」と、御真蹟に沿った記述
に改められています。

 では、「なにかたつまじかるベき」とは、どういう意味でしょうか?

 思案した結果、ふと、筆者が思い当たったのは、「今日一日決して腹をたつまじ
く事」(今日、一日、決して、腹を立ててはならない事)と云う、渡辺崋山の『教
訓』です。(誠に素晴らしい『教訓』であり、『名言』でもあります。)

 渡辺崋山は、田原藩士であり、儒学者・農学者でもあり、蘭学者の取りまとめを
して、文人でもあり、画家でもあった人です。今で云うところの『マルチな才能』
を持った方ですね。

 幼年から、御苦労をされて、勉学に勤しむ姿は、『修身』の教科書にも取り上げ
られています。
 そのため、筆者は、渡辺崋山のことを、とても、尊敬しています。

 ちなみに、テレビの『何でも鑑定団』では、何度も、「渡辺崋山の『贋作』は、
たいへん多く出回っているんですよ。今回のお宝も、『贋物』ですね。『本物』で
したら、国宝級ですよぉ。 (笑)」というシーンに出くわします・・・。

 そんな事もあって、「なにかたつまじかるベき」の御金言を拝した時に、「今日
一日決して腹をたつまじく事」の「たつまじく」を連想した次第です。

 その上で、筆者は、「なにかたつまじかるベき」→【 『反語』の「なにか」+
「たつまじく」+『尊敬・受身』の「る」+『当然・義務』の「べき」 】と考え
てみたのですが、皆さんの御意見は、如何でしょうか。 (笑)

 更には、「たつまじかる」の「たつ」を、「立つ→身を立てる→地位に就く→名
誉を受ける」と、解釈・意訳しました。

 その結果、「法華経(御本尊)にさえ、褒められ奉るのであれば、何を以て、こ
れ以上の名誉に替える事が出来るのでしょうか。否、これ以上の名誉はございませ
ん。」と、あえて、『反語』の形態を残しつつ、直訳と意訳の入り混じった『二重
否定』の訳文にしました。 (笑)

 まぁ、御書全体の意味が通じれば、あまり、細かい箇所に拘泥しても、仕方がな
いんですけどね。 了




■あとがき

 ♪ もう 恋なんて しないなんて 言わないよ 絶対 ♪

 槇原敬之さんの名曲、『もう恋なんてしない』のサビのフレーズです。

 日本語の文法的に云うと(笑)、【なんて~しない】+【なんて~言わない】の
組み合わせで、『二重否定』→『強い肯定』を意味します。

 『もう恋なんてしない』は、歌の主人公が恋人と別れた後に、“強がり”を言っ
ている曲です。

 歌の主人公のせつない心情を伝えるために、天才・槇原敬之さんが、あえて、こ
ういう回りくどい歌詞にしたのでしょう・・・。

 ということで、本題です。
 『四条金吾殿女房御返事』の「なにかたつまじかるべき」の“訳文の再考”につ
いて、です! (笑)

 一昨日のメルマガ配信の直後、筆者の知人から、「みづからは・え・なむ・思ひ
たまへ・たつまじき」(源氏物語・桐壺)という用例を提示されて、「なにか(く
るし)(思ひ)たつまじかるベき」という読み方の御提案を頂きました。

 「なにか(くるし)(思ひ)たつまじかるベき」という補足をつけて、『四条金
吾殿女房御返事』の訳文を作ってみると、「法華経(御本尊)にさえ、褒められ奉
るのであれば、何か、苦しいと思い立てる事があってはならないのでしょうか。否、
そんな事はありません。」となります。

 そして、源氏物語の『藤壺』を読んでみると・・・。

 「かしこき仰せ言をたびたび承りながら、みづからはえなむ思ひたまへたつまじ
き。」 (原文)

 「畏れ多い仰せ言を、度々、承りながらも、私自身は、とても思い立ち申し上げ
る(決心する)ことが出来そうにありません。」 (訳文)

 副詞『え』+係助詞『なむ』+助動詞『まじ』で「とても~出来そうにない」に、
『思ひ+たまへ(たまふの下二段活用)+たつ』で「思い立ち申し上げる(決心する)」
が加わる構文ですね。

 つくづく、学生時代に、古文の文法を、真面目にやってこなかった事のツケを感
じています。
 意外に思われるかも知れませんが、筆者は、高校時代に、古文も漢文も、ロクに
勉強していなかったんですよ・・・。 (笑)

 「釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏乃至梵王・帝釈・日月等にだにも、ふびんとをも
はれまいらせなば、なにかくるしかるべき。法華経にだにもほめられたてまつりな
ば、なにかくるしかるベき。」 (昭和27年に編纂された学会版の御書全集)

 「なにかくるしかるべき。 」→「何か、苦しい事でもあるのでしょうか。(否、
ございません。)」を、二回重ねている形になっています。

 「釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏乃至梵王・帝釈・日月等にだにも、ふびんとをも
われまいらせなば、なにくるし。法華経にだにもほめられたてまつりなば、なにか
たつまじかるベき。」(平成6年に編纂された宗門版の新編御書)

 「なにくるし。」+「なにかたつまじかるベき。」→「何か、苦しい事でもある
のでしょうか。(否、ございません。)」+「何か、立ててはならない事でもある
のでしょうか。(否、ございません。)」

 御書には、「なにかたつまじかるベき」の【立ててはならない対象】がお記しに
なられていない以上、『推測・補足』をするしかありません。
 単純に、日蓮大聖人のお書き誤りかも知れませんけど、そういう可能性は低いで
しょう。

 メルマガを配信した時には、源氏物語の『藤壺』の記述を認識していなかったの
で、『四条金吾殿女房御返事』の前後の御文の関連性から判断すると、「なにかた
つまじかるベき。」→「何か、立ててはならない事でもあるのでしょうか。(否、
ございません。)」と解釈する事が、「一番、『自然な流れ』(御書の訳文作りで
は、この感覚を大切にしています。)になるだろう。」と、筆者は考えていました。

 その際には、『なにか』の反語+『まじ』の打消の助動詞で、『二重否定』→『強
い肯定』と考えましたが、読者の皆さんは、どのように、お思いでしょうか?

 また、「立てる→身を立てる→名誉を受ける」の一方で、「立てる→顔を立てる
→満足する」の意訳も考えていました。

 「何だよ、法華経に褒められる事が、名誉じゃねぇっつうのかょ!名誉に決まっ
てんだろぅ。」

 「何だよ、法華経に褒められる事じゃあ、満足しねぇっつうのかょ!満足してん
だろぅ。」

 柄の悪い人間なので、こんな解釈(スギちゃんのワイルドだろぅ風)しか出来な
いんですけど、そういう感覚で作ったんですね、一昨日の訳文は。 (笑)

 他には、「立てる→目立つ→明確に示す」の意訳が、成り立つかも知れません。

 「法華経(御本尊)にさえ、褒められ奉るのであれば、明確にしない(控え目に
する)ようにすべきでしょうか。否、表面に出して、喜ぶべきです。」

 前後の御書の関連性からみると、イマイチの訳かも? (笑)

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 1.ふびんな女→不便な女→都合の悪い女 (?)
 2.ふびんな女→不敏な女→ドン臭い女 (?)
 3.ふびんな女→不憫な女→可哀そうな女
 4.ふびんな女→不憫な女→かわいい・愛おしい女

-------------------------------------

 1.「法華経(御本尊)にさえ、褒められ奉るのであれば、何か、苦しいと思い
立てる事があってはならないのでしょうか。否、そんな事はありません。」

 2.「法華経(御本尊)にさえ、褒められ奉るのであれば、明確にしない(控え
目にする)ようにすべきでしょうか。否、表面に出して、喜ぶべきです。」

 3.「法華経(御本尊)にさえ、褒められ奉るのであれば、何の不満があるので
しょうか。否、そんな事はないはずです。」

 4.「法華経(御本尊)にさえ、褒められ奉るのであれば、何を以て、これ以上
の名誉に替える事が出来るのでしょうか。否、これ以上の名誉はございません。」

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 「ふびん」に関しても、「なにかたつまじかるべき」に関しても、『1』~『4』
のいずれの訳も成り立つ事でしょう。どれも、決して、間違いではないと思います。

 その中で、筆者は、双方とも、『4』の訳を選択しました。
「最も、四条金吾殿の奥様を励ますための『前向き』な内容になるから。」です。

 そして、「仮に、筆者が、『法華経(御本尊)にさえ、褒められ奉る』のであれ
ば(仮定でも、絶対にあり得ない? 笑)、これ以上の『名誉』はない。加えて、
『褒められ奉る』の『褒』と、『名誉』の『誉』は、共に、『ほめる』で繋がる。」
ということで、「なにかたつまじかるべき」の訳を、『4』にした次第です・・・。

 いずれにしても、未熟な筆者は、「まだまだ、学ぶべき事がたくさんあるなぁ。」
と、痛感しています。 了



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