四条金吾殿御返事 文永十二年(1275年)三月六日 聖寿五十四歳御著作


 『此経難持』(注、この経は持ち難し、法華経見宝塔品第十一の経文)の事に
つきまして、申し上げます。

 先日、弁阿闍梨(注、日昭師、後の六老僧の一人)は、「四条金吾殿が、この
ようなことを仰っていた。」と、言っていました。

 その内容は、こういうことでした。

 「日蓮大聖人の御指南通りに信仰を持つ者は、『現世安穏後生善処』(注、現
世は安穏にして、後生は善き処に生ずる、法華経薬草喩品第五の経文)と、承っ
ていました。

 既に、去年から今日に至るまで、型通りに、信心を致して参りました。

 けれども、『現世安穏後生善処』どころか、まるで雨が降ってくるかのように、
次から次へと、大難が押し寄せてきます。」と。

 この伝聞は、真実なのでしょうか。それとも、弁公(日昭師)が聞き間違って
いるのでしょうか。その真相は分かりません。

 でも、よい機会でありますので、あなたの不審を晴らすことに致しましょう。

 実は、法華経法師品第十の経文に、『難信難解』(注、信じ難く、解し難い)
と、お説きになられているのは、このことであります。

 この法華経(御本尊)を聞き受ける人は多いのです。
 しかし、法華経(御本尊)を聞き受けた時を思い出して、現実に大難が来た
場合に、『憶持不忘』(注、記憶に留めて忘れないこと。法華経の結経である、
観普賢菩薩行法経の経文)の人は、極めて稀であります。

 法華経(御本尊)を受けることは易く、持っていくことは難しいのです。
 されば、成仏とは、法華経(御本尊)を持つことにあります。
 そして、この法華経(御本尊)を持っていこうとする人は、難に遭うことを
心得た上で、持っていかなければなりません。

 そうすれば、『則為疾得無上仏道』(注、妙法を信受することによって、速
やかに成仏の境涯を得ること。法華経見宝塔品第十一の経文)は、疑いありま
せん。
 「三世の諸仏の大事である、南無妙法蓮華經を念ずることを以て、法華経
(御本尊)を持つ。」と、云うのであります。

 法華経勧持品第十三には、「護持仏所嘱」(注、釈尊から受けた付嘱を、未来
世に護持して、弘通を誓うこと。)と、云われています。

 天台大師は、『法華文句』に、「信力の故に受け、念力の故に持つ。」と、云
われています。

 また、法華経見宝塔品第十一には、「この経は持ち難い。もし、しばらくの間
でも、この経を持つ者に対して、私(釈尊)は歓喜する。諸仏も、また、同様で
ある。」と、云われています。

 火に、薪を加えた時には、盛んに燃えます。
 大風が吹けば、求羅(注、迦羅求羅という架空の虫のこと。身は微細であって
も、風を得れば非常に大きくなる。)は、倍増します。
 松は、万年の寿命を持つ故に、枝を曲げられてしまいます。

 法華経の行者は、火と求羅のようなものであります。
 薪と風は、大難のようなものであります。

 法華経の行者は、久遠長寿の如来であります。
 従って、松の枝のように、修行の枝を切られたり曲げられたりすることは、疑
いありません。

 これより以後は、法華経見宝塔品第十一の「此経難持」の四字の経文を、僅か
な時も忘れずに、案じていきなさい。

 恐々。

 文永十二年三月六日   日蓮 花押 

 四条金吾殿



■あとがき

 先日まで連載していた、『四条金吾殿御返事』(俗称、陰徳陽報御書、弘安二
年御著作)をお書きになられた五年ほど前に、日蓮大聖人は『四条金吾殿御返事』
(俗称、此経難持御書、文永十二年御著作)を、お著しになられています。

 この文永十二年から弘安二年までの五年間には、四条金吾殿の身の上に、様々
なことが起きています。

 一説によると、この『此経難持御書』を頂戴した、文永十二年に、四条金吾殿
の御自宅が火災によって全焼していた、とも云われています。

 また、皆様も御承知の通り、四条金吾殿は、主君の江間(北条)光時殿を折伏
されたことによって、主君からの不興を買っています。
 そのため、文永十二年の翌年である建治二年の九月に、四条金吾殿は、減俸と
越後の国への領地替えの内命を、主君の江間光時殿から受けます。

 日蓮大聖人の御指南に従った四条金吾殿は、領地替えの内命を受けずに、鎌倉
の地から離れることを断りました。
 その結果、周囲の人々の讒言もあって、建治三年に、四条金吾殿は、主君から
所領を没収させられています。(その折りに、日蓮大聖人から頂戴した御書が、
有名な『八風抄』です。)

 しかし、江間光時殿が建治三年の秋頃から流行していた疫病を感染した際に、
四条金吾殿の投薬治療によって病氣が完治したため、建治四年の正月頃から事態
が好転していきました。

 そして、翌年の弘安二年には、没収された所領が戻ってきただけでなく、新た
な所領が与えられるようになり、江間光時殿と四条金吾殿の主従関係や信頼は、
以前にも増して強固になりました。

 つまり、「かかるりしゃうにもあづからせ給ふぞかし。此は物のはしなり。大
果報は又来るべしとをぼしめせ。」と仰せの『陰徳陽報御書』を頂戴するに至る
までには、四条金吾殿が艱難に耐えている時期が存在していたことになります。

 四条金吾殿は、この激動の五年間に、どのような思いで、『此経難持』と『陰徳
陽報』の御金言を受け止めていたのでしょうか。     了


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