撰時抄 建治元年(1275年)六月十日 聖寿五十四歳御著作


                                    釈子・日蓮が述べます。 

 そもそも、仏法を学ぼうとするためには、必ず、先んじて、『時』を習うべきで
あります。

 過去の大通智勝仏は、御出世なされてから、十小劫という極めて長い間、一経た
りとも、お説きになられませんでした。
 
 その御様子を、法華経化城喩品第七においては、「一旦、お座りになられてから、
十小劫の間。」と、お説きになられています。

 また、法華経化城喩品第七においては、「大通智勝仏が、『時は、未だに、到来
していない。』と、御認識なされていた。故に、御説法を要請されても、黙然とし
て、お座りになられたままであった。」等と、お説きになられています。

 今(現在』の教主釈尊は、四十余年の間、法華経をお説きになられませんでした。
 その御様子を、法華経方便品第二においては、「真実の教えを説く時が、未だに、
到来していなかったからである。」と、お説きになられています。

 老子(道教の祖)は、「母の胎内に、八十年間も宿っていた。」と、云われてい
ます。

 弥勒菩薩は、「兜率天の内院に籠られてから、五十六億七千万年の間、成道の時
をお待ちになっている。その後に、衆生を救済される。」と、云われています。

 彼の時鳥(ホトトギス)は、春を過ぎた後に、初夏になってから、鳴き始めます。
 鶏は、暁を待ってから、鳴き始めます。

 このように、畜生でさえ、『時』の巡行に従っています。
 ましてや、仏法を修行しようとする際に、『時』を糾す必要があることは、申し
上げるまでもないことです。
     
 釈尊が最初の御説法をなされた、華厳経の寂滅道場の砌(みぎり)においては、
十方の諸仏が御示現なされました。
 そして、一切の大菩薩がお集まりになりました。

 大梵天王・帝釈天王・四天王は、衣を翻して、お喜びになりました。
 竜神や天竜等の八部衆は、掌を合わせました。
 大根性の凡夫(得道出来る機根が整っている凡夫)は、耳を澄まして、御説法を
聴こうとしました。
 生身得忍(注、父母から生じた身のままで、無生法忍という覚りの極果を得たこ
と。)の諸菩薩や解脱月菩薩等は、大衆を代表して、更なる御説法を要請されまし
た。

 けれども、華厳経の寂滅道場において、釈尊は、法華経の重要な法門である、『二
乗作仏』(注、声聞・縁覚の二乗が成仏すること。)・『久遠実成』(注、釈尊が
五百塵点劫という久遠の昔に、法・報・応の三身を具備なされた仏であった事実を、
お説きになられたこと。)に関して、その名目さえも、お秘めになられていました。
 ましてや、『即身成仏』・『一念三千』という肝心の法門につきましては、全く、
その法義をお述べになっていません。

 これらの事例が意味するところは、偏(ひとえ)に、「確かに、成仏する機根を
有する者は存在していた。けれども、『時』が到来していなかったので、釈尊は、
これらの法門をお述べにならなかった。」ということです。

 法華経方便品第二においては、「真実の教えを説く時が、未だに、到来していな
かったからである。」等と、お説きになられています。

 霊鷲山において、釈尊が法華経をお説きになられた砌(みぎり)には、閻浮(全
世界)第一の不孝の人であった阿闍世大王も、その座に連なっています。

 生涯に渡って、謗法を犯していた提婆達多に対しては、『天王如来』と名をお授
けになられた上で、釈尊が成仏の記別(注、仏が未来世における弟子の成仏を明ら
かにすること)をお与えになられています。

 五障(注、女人の五つの障りのこと。爾前経において、『女人は、梵天・帝釈・
魔王・転輪聖王・仏身にはなれない。』と定められていた。)の竜女は、蛇身を改
めることなく、仏に成っています。

 決定性(声聞・縁覚)の成仏は、あたかも、炒った種から花が咲き、果実が実っ
たようなものであります。

 『久遠実成』(注、五百塵点劫という久遠の昔、既に、釈尊が三身を具備なされた
仏であった事実を、お説きになられたこと。)の法門をお説きになられた際には、「ま
るで、百歳の老人が、二十五歳の子になったようなものだ。」と、人々が疑っていま
した。

 一方、法華経の『一念三千』の法門においては、『九界即仏界』『仏界即九界』
と、談じられていらっしゃいます。
 
 (注記、九界は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩という、
九種の界のこと。九界は、衆生の迷いの境界。仏界は、仏の覚りの境界。しかし、
元々、迷える衆生にも、仏の覚りの境界が備わっている。つまり、『九界即仏界』
『仏界即九界』は、「九界も仏界も、各別ではなく、不二の存在である。」という
意味。)

 ならば、法華経の一字は、如意宝珠(注、意のままに、宝物や衣服や食物を取り
出すことが出来る宝珠のこと。仏や経典の威徳の大きさを表すための譬え。)とな
ります。
 そして、法華経の一句は、諸仏の種子となります。

 釈尊が法華経の法門をお説きになられたのは、「衆生の機根は熟しているか。そ
れとも、まだ、衆生の機根は熟していないのか。」ということに因るものではあり
ません。
 まさしく、『時』が到来した故に、法華経が説かれたのであります。

 法華経方便品第二においては、「今、正しく、その時である。決定して、大乗(法
華経)を説こう。」等と、仰せになられています。


 質問致します。

 機根が熟していない者に、大法(法華経)を授けてしまえば、愚人は、必ずや、
誹謗を為して、悪道に堕ちることでしょう。
 そうなれば、大法(法華経)を説いた者の罪になるのではないでしょうか。

 お答えします。

 例えば、人が路を作ったとします。そして、その路に迷った者がいたとします。
 この場合、路を作った者の罪となるのでしょうか。

 同様に、良医が、病人に、薬を与えたとします。そして、その病人が、薬を嫌っ
て、服することなく、死亡したとします。
 この場合、良医の過失となるのでしょうか。

 では、お尋ね致します。

 法華経第二巻・譬喩品第三においては、「無智の人の中において、この経(法華
経)を説くことがあってはならない。」と、仰せになられています。

 法華経第四巻・法師品第十においては、「分布しながら、妄(みだ)りに、人に
授与してはならない。」と、仰せになられています。

 法華経第五巻・安楽行品第十四においては、「この法華経は、諸仏如来の秘密の
蔵である。諸経の中において、最上の位に存在する。それ故に、長夜に渡って、守
護する必要がある。因って、妄り(みだ)に、宣説してはならない。」等と、仰せ
になられています。

 これらの経文の意味は、「衆生の機根が熟していなければ、法を説いてはならな
い。」という事ではないでしょうか。
 貴殿は、如何に、お考えでしょうか。

 今から反対に、貴殿へ詰問します。

 法華経常不軽菩薩品第二十においては、「しかも、なお、不軽菩薩は、この言葉
を語っていた。『私(不軽菩薩)は、深く、あなた方を敬う。』と。」等と、仰せ
になられています。

 また、法華経常不軽菩薩品第二十においては、「四衆(注、比丘・比丘尼・優婆
塞・優婆夷→僧・尼・男性信者・女性信者)の中には、瞋恚(怒り)を生じて、心
の不浄な者がいた。その者どもが悪口・罵詈をしながら、不軽菩薩に向かって、『こ
の無智の比丘(僧)よ。』と言った。」等と、仰せになられています。

 また、法華経常不軽菩薩品第二十においては、「多くの人々は、杖木瓦石を以て、
不軽菩薩を殴打した。」等と、仰せになられています。

 法華経勧持品第十三においては、「諸の無智の人が悪口・罵詈等をしたり、及び、
刀杖を持って、危害を加える者がいるであろう。」と、仰せになられています。

 これらの経文には、『悪口罵詈』や『殴打されても』と、お説きになられていま
す。
 果たして、これらの場合には、大法(法華経)をお説きになられた人の過失とな
るのでしょうか。

 求めて、質問致します。

 この両説(注、前記の御文で御引用されている、法華経譬喩品・法師品・安楽行
品の経文と、法華経不軽品・勧持品の経文)の内容は、水火の如く、正反対です。
 如何に、心得るべきでしょうか。

 お答えします。

 天台大師は、「時に適うのみである。」と、仰せになられています。
 章安大師は、「取捨をする際には、宜しい方を得て、一方に偏るべきではない。」
等と、仰せになられています。

 上記の天台大師・章安大師の御解釈における真意は、こういうことです。

 「人々が誹謗している場合には、しばらくの間、説かない時もある。
 その一方で、人々が誹謗している場合であっても、強いて、説く時がある。

 機根の勝れた一部の人が信じていたとしても、機根の勝れていない万人が誹謗し
た場合には、説いてはならない時もある。

 その一方で、機根の勝れていない万人が一同に誹謗した場合であっても、強いて、
説くべき時がある。」と。

 釈尊が初成道(注、釈尊が三十歳の時に覚りを開いて、初めて成道されたこと。)
をなされた時には、法慧・功徳林・金剛幢・金剛蔵・文殊・普賢・弥勒・解脱月等
の大菩薩や、大梵天王・帝釈天王・四天王等の凡夫大根性の者(凡夫でありながら、
とても機根が勝れている者)が数え切れないほど、いらっしゃいました。

 その次に、鹿野苑の園において、釈尊が阿含経(小乗経)をお説きになられた際
には、倶鄰等の五人・迦葉等の二百五十人・舎利弗等の二百五十人・八万の諸天善
神がいらっしゃいました。

 続いて、方等部(権大乗経)の経典を御説法される儀式の際には、釈尊の慈父で
ある浄飯大王が御説法を懇願されています。
 その為に、釈尊は、宮殿にお入りになられてから、観仏三昧経をお説きになられ
ています。
 そして、釈尊は、悲母である摩耶夫人の御為に、トウ利天へ上られて、九十日間
お籠もりになられてから、摩耶経をお説きになられています。

 慈父・悲母の御為には、如何なる秘法であっても、釈尊が御説法を惜しまれるこ
とはないはずです。
 ところが、釈尊は、慈父・悲母に対しても、法華経をお説きになられていません。

 結局の所、「仏法というものは、『機』に拠るものではない。『時』が到来しな
ければ、如何なる事があったとしても、お説きになられるものではない。」という
ことです。


 質問致します。

 如何なる『時』に、小乗経や権大乗経を説くべきなのでしょうか。
 そして、如何なる『時』に、法華経を説くべきなのでしょうか。

 お答えします。

 十信の菩薩(注、菩薩行の五十二位→十信・十住・十行・十回向・十地・等覚・
妙覚における、最初の十信の位の菩薩。)から等覚の大士(注、等覚の位の菩薩の
こと。等覚は、五十二位の中で、菩薩としての最高位の五十一位となる。)に至る
まで、『時』と『機』に関しては、共に、知り難い事柄であります。

 ましてや、我等は、凡夫であります。
如何にして、『時』と『機』を知ることが出来るのでしょうか。

 求めて、質問致します。

 たとえ、少々であったとしても、『時』と『機』を知ることは、不可能なのでし
ょうか。

 お答えします。
 
 仏眼をお借りして、『時』と『機』を考えなさい。
 そして、仏日(仏の光)をお用いになって、『国』を照らしなさい。


 質問致します。

 その真意は、如何なるものでしょうか。

 お答えします。

 大集経においては、大覚世尊(釈尊)が月蔵菩薩に対して、未来の『時』を、こ
のように、お定めになられています。

 「我が滅度(釈尊の御入滅)の後の五百年間は、解脱堅固(仏道修行する者が比
較的容易に解脱出来る時代)である。

 次の五百年間は、禅定堅固(多くの衆生が禅定三味の修行に励む時代)である。
 〈以上、釈尊御入滅後・一千年間の正法時代。〉

 次の五百年間は、読誦多聞堅固(経典の読誦と御説法の聴聞が盛んに行われる時
代)である。

 次の五百年間は、多造塔寺堅固(衆生が多くの塔や寺院を造営する時代)である。
 〈以上、釈尊御入滅後・二千年間の像法時代。〉

 その次の五百年間(末法)には、我が法(釈尊の仏法)の中において、闘争・論
争が発生して、白法隠没(注、末法の時代には、釈尊の仏法の功徳が滅亡すること。)
となるであろう。」と。 

 大集経の『五箇の五百歳』(注、釈尊御入滅後の五百年ごとに、解脱堅固→禅定堅
固→読誦多聞堅固→多造塔寺堅固→末法へと時代が推移すること。)の御予言にお
ける、『仏滅後二千五百余年(末法)』に関しましては、人々の見解が様々です。

 漢土(中国)の道綽禅師(中国浄土宗の第二祖)は、「正法時代・像法時代の二
千年間、つまり、『四箇の五百歳』においては、小乗と大乗の白法(仏法)が盛ん
になる。しかし、末法に入ると、それらの白法(仏法)が、皆、消滅して、浄土の
法門と念仏の白法(仏法)を修行する人だけが、生死を離れることが出来る。」と、
云っています。


 日本国の法然(日本浄土宗の開祖)は、このような見解を残しています。

 「今、日本国に流布している法華経・華厳経、並びに、大日経・諸の小乗経、天
台・真言・律等の諸宗は、大集経に予言された、正法時代・像法時代二千年間の白
法(仏法)である。

 末法に入ると、それらの白法(仏法)は、皆、滅尽するであろう。
 たとえ、それらの白法(仏法)を修行する人がいたとしても、生死を離れること
は、一人も出来ない。

 その根拠は、竜樹菩薩の『十住毘婆沙論』、曇鸞法師の『難行道』、道綽の『未
有一人得者』、善導の『千中無一』に記されている。

 それらの白法(仏法)が隠没(滅亡)した後には、浄土三部経と弥陀念仏の称名
(唱題)修行だけが、大白法(大仏法)として出現するのである。

 この念仏の教えを修行しようとする人々は、如何なる悪人・愚人であったとして
も、『十即十生・百即百生』(十人が十人とも、百人が百人とも)、極楽浄土に往
生することが出来る。

 これが、『ただ、浄土の一門だけが極楽浄土へ通入する道となる。』ということ
である。」と。
          
 また、法然は、「ならば、後世の往生を願う人々は、比叡山・東寺・園城寺・南
都七大寺等の日本国中の諸寺・諸山への御帰依を止めるべきである。それらの諸寺・
諸山に寄進した田畑・郡郷を奪い取って、念仏堂に寄付すれば、往生は決定する。
ただ、南無阿弥陀仏と唱えよ。」と云って、念仏を勧めています。

 我が朝(日本国)が一同に、念仏の教えを信じるようになってから、既に、五十
余年になりました。

 それに対して、日蓮は、これらの悪義を論じて、破折しております。
 その行為を開始してから、長い歳月が経過しています。


 大集経でお説きになられている、『白法隠没』(注、末法において、釈尊の仏法
の功徳が滅亡すること。)の時とは、『第五の五百歳』、乃ち、当世(末法)であ
る事は疑いがありません。

 ただし、『白法隠没』(注、末法において、釈尊の仏法の功徳が滅亡すること。)
の次には、法華経の肝心である、『南無妙法蓮華経』の大白法(大仏法)が興りま
す。

 一閻浮提(全世界)の内に、八万の国があります。その八万の国々に、八万の王
がいます。

 あたかも、今、日本国において、四衆(注、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷→僧・
尼・男性信者・女性信者)が弥陀の称名(念仏の題目)を口々に唱えているように、
八万の国々の王が、各々の臣下や万民と共に、『南無妙法蓮華経』の題目を唱える
ことによって、広宣流布をさせていくべきであります。
     
 質問致します。

 その証文は、如何なるものでしょうか。

 お答えします。

 法華経第七巻・薬王菩薩本事品第二十三においては、「私(釈尊)の入滅の後に、
『後の五百歳(末法)』の中において、広宣流布して、閻浮提(全世界)において、
断絶することがないように。」等と、仰せになられています。

 上記の経文では、大集経で仰せになられている、『白法隠没』(注、釈尊の仏法
の功徳が滅亡すること。)の次の時を、『広宣流布』とお説きになられています。

 法華経第六巻・分別功徳品第十七においては、「悪世である末法の時に、よく、
この経(法華経)を持とうとする者は、」等と、仰せになられています。

 法華経第五巻・安楽行品第十四においては、「後の末世(末法)において、仏法
が滅びようとしている時において、」等と、仰せになられています。

 法華経第四巻・法師品第十においては、「しかも、この経(法華経)は、如来(釈
尊)の現在(御在世)でさえ、なお、怨嫉が多い。ましてや、如来(釈尊)の入滅
の後では、尚更である。」と、仰せになられています。

 法華経第五巻・安楽行品第十四においては、「一切世間においては、怨嫉が多い
ため、信じ難い。」と、仰せになられています。

 大集経の『第五の五百歳(末法)・闘諍堅固の時(教義に関する闘争が盛んに発
生する時代)』の経文に関して、法華経第七巻・薬王菩薩本事品第二十三において
は、「諸の悪魔・魔民・天・竜・夜叉・鳩槃荼(人の精氣を吸う悪神)等が、その
便り(間隙)を得ようとしている。」等と、ご説明になられています。

 大集経においては、「第五の五百歳(末法)では、我が法(釈尊の仏法)の中に
おいて、闘争や論争が起こるであろう。」等と、仰せになられています。

 法華経第五巻・勧持品第十三においては、「悪世の中の比丘(僧)」と、仰せに
なられています。

 また、法華経第五巻・勧持品第十三においては、「或いは、阿蘭若(閑静で仏道
修行に好適な場所)において、僭聖増上慢(注、聖人の姿に似せながらも、権力に
近づいて、正法の行者を迫害する強敵。)がいるであろう。」等と、仰せになられ
ています。

 また、法華経第五巻・勧持品第十三においては、「悪鬼が、その身に入る。」等
と、仰せになられています。


 上記の経文の意味は、「『第五の五百歳(末法)の時』には、悪鬼が身に入った
高僧(僭聖増上慢)等が国中に充満するであろう。そして、その時に、一人の智人
(日蓮大聖人)が出現するであろう。すると、悪鬼が身に入った高僧(僭聖増上慢)
等は、時の王臣・万民等を語らって、悪口・罵詈をしたり、杖木や瓦礫を投げつけ
たり、流罪・死罪等の刑罰を与えるであろう。」ということです。

 その時、釈迦如来・多宝如来・十方の諸仏は、地涌の大菩薩等に対して、御命を
仰せつけられます。
 そして、地涌の大菩薩は、大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・四天王等
に対して、御命を申し下されます。
 その時、天変・地夭が盛んになるのであります。

 もし、日本の国主等が、この天変・地夭の諫めを用いることがなければ、隣国に
対して、御命が仰せつけられることでしょう。
 そして、隣国の王が、日本の悪王・悪比丘(悪僧)等を責めることになれば、前
代未聞の大闘争が、一閻浮提(全世界)に起こるのであります。

 その時、太陽や月が照らす所に住んでいる、四天下(全世界)の一切衆生は、或
いは国を惜しみ、或いは身を惜しむが故に、一切の仏や菩薩に祈りを捧げます。

 ところが、「その祈りには、効力がない。」と認識した時点で、それまで憎んで
きた一人の小僧(日蓮大聖人)を信じて、無数の高僧や八万の大王や一切の万民等
が、皆、頭を地に擦りつけ、掌を合わせて、一同に、『南無妙法蓮華経』と唱える
事でしょう。

 その事を例えると、法華経如来神力品第二十一において、釈尊が『十神力』をお
示しになられた際に、十方世界の一切衆生は、一人も残らず、娑婆世界に向かって、
大音声を放ちながら、『南無釈迦牟尼仏・南無釈迦牟尼仏、南無妙法蓮華経・南無
妙法蓮華経』と、一同に、唱えたようなものであります。

 (注記、『十神力』とは、法華経如来神力品第二十一において、『吐舌相・通身
放光・謦ガイ・弾指・地六種動・普見大会・空中唱声・ゲン皆帰命・遙散諸物・十
方通同』という、十種の仏の神通力を、釈尊がお示しになられたこと。
 そして、上記の御金言においては、『十神力』の八番目の『ゲン皆帰命→衆生が
悉く仏法に帰依・帰命して、国土が仏の教法を受持する人々で充満すること。』の
状況を御暗示なされている。)
    
 質問致します。
 
 『南無妙法蓮華経』の題目が『第五の五百歳(末法)』に広宣流布していくこと
は、前記の経文において、明確に、御記述なされています。
 では、天台大師・妙楽大師・伝教大師等は、未来記の言(未来世の予見を書き記
された書物)を残されているのでしょうか。

 お答えします。
 貴殿の不審(疑問)は、逆さまであります。

 人師の『釈』を御引用する時にこそ、「『経』『論』において、如何なる記述が
あるのだろうか。」と、不審(疑問)を持つべきではないでしょうか。
 もし、『経』『論』において、明確な根拠があるならば、『釈』を尋ねる必要は
ないはずです。

 (注記、『経』とは、仏が説かれた教法のこと。『論』とは、仏が御自ら論議な
された哲理のこと。もしくは、仏弟子や菩薩が教法を論じられて、注釈なされた書
物のこと。『釈』とは、『経』『論』の義を解釈・宣揚なされた書物のこと。
 なお、『経』『論』は、“仏・仏弟子・菩薩”がお述べになられている。それに
対して、『釈』は、天台大師・妙楽大師・伝教大師等の“人師”がお述べになられ
ている。)

 さて、逆に、貴殿へお尋ねしますが、仮に、『釈』の文において、『経』に相違す
る記載があった際には、『経』を捨てて、『釈』に付くべきでしょうか。
 その事を、如何にお考えですか。

 それに対して、彼(質問者)は、このように、云いました。

 「貴殿(返答者)の道理は、至極、もっともです。

 しかしながら、凡夫(凡人)の習いとして、『経』は遠くに、『釈』は近くに、
感じられるものです。

 もし、凡夫(凡人)が身近に感じられる『釈』において、貴殿(返答者)の御主
張が明確に記されているのであれば、今、更に、信心を増すことが出来るでしょう。」
と。

 今、お答えします。

 貴殿の不審(疑問)は、懇ろ(真摯)です。故に、少々、『釈』を提示しましょう。

 天台大師は、『法華文句』において、「後の五百歳(末法)は、永遠に、妙道(文
底秘沈の三大秘法)が流布していくであろう。」と、仰せになられています。

 妙楽大師は、『法華文句記』において、「末法の初めにおいては、必ず、冥利(冥
伏している利益→下種仏法の冥益)がある。」と、仰せになられています。

 伝教大師は、『守護国界章』において、このように、仰せになられています。

 「正法時代・像法時代は、ほとんど過ぎ終わって、末法の時代が、大変、近づいて
きた。 
 法華経の一仏乗の教えが弘通される『機』は、今、正しく、その時(末法)である。

 何を根拠として、その事を知るのか。
 それは、法華経安楽行品第十四において、『末世(末法)・仏法が滅する時』と、
お説きになられているからだ。」と。

 また、伝教大師は、『法華秀句』において、このように、仰せになられています。

 「時代を語れば、則ち、像法時代の終わり、末法の初めである。

 場所を尋ねれば、『唐』の東・『羯』の西(注、中国内陸部の東・中国東北部の西、
つまり、『日本』のことを指している。)となる。

 人の性質を究明すれば、五濁(劫濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁)にまみれて、
闘いや諍いが絶えない状況である。

 釈尊が法華経法師品第十において、『如来(釈尊)の在世でさえ、なお、怨嫉が多
い。ましてや、入滅の後は、尚更である。』と仰せになられているのは、誠に意義深
いことである。」と。     

 そもそも、釈尊の御出世は、『住劫第九の減』・『人寿百歳』の時であります。

 (注記、『住劫第九の減』とは、住劫における第九番目の減劫のこと。住劫は、
四劫→成劫・住劫・壊劫・空劫の一つで、世界が継続する時期を云う。人寿無量歳
から、百年に一歳ずつ減じて、人寿十歳に至る間を、第一の減劫とする。十歳から、
百年に一歳を増して、八万歳に至ってから、また、次第に減じて、十歳に至るまで
を、第二の増劫と減劫とする。この増劫と減劫を十八回繰り返して、最後に、十歳
から次第に増して、無量歳に至るまでを、第二十の増劫とする。住劫は、これらの
二十劫から構成されている。住劫の中で、第九の減劫の期間のことを、『住劫第九
の減』と云う。釈尊は、『住劫第九の減』の『人寿百歳』→人の寿命が百歳の時代
に御出世された、と、云われている。)

 そして、『人寿百歳』と『人寿十歳』との中間(約一万年間)は、『釈尊御在世
の五十年』と『釈尊御入滅後の二千年(正法時代千年・像法時代千年)』と『末法
の万年』によって、構成されています。

 その期間内において、法華経の流布する時が二度あります。
 所謂、釈尊御在世においては、法華経が説かれた八年間。
 そして、釈尊御入滅後においては、末法の始めの五百年間であります。

 ところが、天台大師・妙楽大師・伝教大師等におかれましては、先に進んでは、
釈尊御在世において、法華経が説かれた八年間の御時にも、漏れてしまいました。
 後に退いては、釈尊御入滅後・末法の時代にも、生まれる事が出来なかったので
す。

 故に、天台大師・妙楽大師・伝教大師等は、釈尊御在世・法華経が説かれた八年
間と釈尊御入滅後・末法の時代との中間の時期(像法時代)に生まれてしまった事
を、お嘆きになられています。

 そして、前記の天台大師・妙楽大師・伝教大師の『釈』は、法華経が流布する末
法の始めの時代を、乞い願われている御筆となります。


 その事を例えると、悉達太子(釈尊)がお生まれになられた御様子を、阿私陀仙
人(インドの迦毘羅衛国の仙人)が御覧になって、「現世において、私(阿私陀仙
人)は、九十歳を超えた。従って、悉達太子(釈尊)の成道を見ることが出来ない。
後世において、私(阿私陀仙人)は、無色界(注、三界→欲界・色界・無色界の一
つ。物質を超越した精神世界。)に生まれることになるだろう。そのため、悉達太
子(釈尊)の五十年間の御説法の座にも、連なることが出来ない。正法・像法・末
法の時代にも、生まれることが出来ない。」と、悲しみながら、嘆いたようなもの
であります。

 道心を持とうとする人々は、天台大師・妙楽大師・伝教大師等の『釈』や、阿私
陀仙人の故事をお読みになったり、お聴きになった上で、お悦びになってください。

 正法時代・像法時代の二千年間において、大王となる事よりも、後世の成仏を願
う人々は、末法の今の時代において、民となる事を、選択するべきであります。
 何故に、この悦びを、信じられないのでしょうか。

 彼の天台宗の座主(管長)よりも、「南無妙法蓮華経」と唱える癩人になるべきで
あります。(遙かに、尊貴な存在であります。)

 梁(中国)の武帝は、『発願文』において、「寧(むし)ろ、提婆達多となって、
無間地獄に沈んだとしても、欝頭羅弗(注、釈尊御在世当時に、インドのマカダ国
で修行をしていた仙人。物質を超越した世界に住していたが、成仏出来なかった。)
には、なりたくない。」と、云っています。  
     
 質問致します。

 竜樹菩薩・天親菩薩等の『論師』の中において、それらの法義(『南無妙法蓮華
経』の題目が末法に流布すること)は存在しているのでしょうか。

 お答えします。

 竜樹菩薩・天親菩薩等は、内心、それらの法義(『南無妙法蓮華経』の題目が末
法に流布すること)を御承知していました。
 けれども、言葉に出して、それらの法義(『南無妙法蓮華経』の題目が末法に流
布すること)を、お述べにはなっていません。

 求めて、質問致します。

 如何なる理由を以て、竜樹菩薩・天親菩薩等は、それらの法義(『南無妙法蓮華
経』の題目が末法に流布すること)を、お述べにならなかったのでしょうか。

 お答えします。

 それには、多くの理由があります。

 第一に、竜樹菩薩・天親菩薩等の時代(正法時代)は、法華経の教え(『南無妙
法蓮華経』の題目)に有縁の『機』(機根)を有した衆生(末法の衆生)が、まだ、
存在していなかったからです。

 第二に、竜樹菩薩・天親菩薩等の時代(正法時代)は、まだ、法華経の教え(『南
無妙法蓮華経』の題目)が弘通される『時』(末法の時代)ではなかったからです。

 第三に、竜樹菩薩・天親菩薩等は、『迹化の菩薩』であるが故に、法華経の付嘱
をお受けになっていなかったからです。

 (注記、『迹化の菩薩』とは、迹仏に教化された菩薩のこと。それに対して、本
仏に教化された菩薩が『本化の菩薩』=『地涌の菩薩』となる。法華経の教法の弘
通は、『本化の菩薩』=『地涌の菩薩』に付嘱されており、『迹化の菩薩』には付
嘱されていない。)


 求めて、質問致します。
 
 願わくは、「この事(釈尊御入滅後における法華経の弘通)について、よくよく、
聴かせて頂きたい。」と、思っております。

 お答えします。

 そもそも、仏(釈尊)は、二月十五日に御入滅なさっています。
 その翌日の二月十六日から、正法時代が始まります。

 まず、迦葉尊者が仏(釈尊)の付嘱をお受けになってから、二十年間。
 その次に、阿難尊者が二十年間。
 その次に、商那和修が二十年間。
 その次に、優婆崛多が二十年間。
 その次に、提多迦が二十年間。

 以上の百年間は、ただ、小乗経の法門だけが弘通されて、諸の大乗経は、その名
目さえも見当たりません。
 ましてや、大乗経の中でも、実経(真実の教え)である法華経が、この百年間に、
弘まることはなかったのです。

 その次には、弥遮迦・仏陀難提・仏駄密多・脇比丘・富那奢等の四~五人が、正
法時代前半の五百年間に御出現されています。

 その際には、大乗経の法門が、少々、出来(登場)していました。
 けれども、取り立てて、大乗経が弘通されることはなく、ただ、小乗経を主とし
て、仏教が説かれていた時代でした。

 以上、大集経でお説きになられている、正法時代前半の五百年間・『解脱堅固』
の時代(仏道修行する者が比較的容易に解脱出来る時代)の概要であります。


 正法時代後半、釈尊御入滅後六百年から一千年までの間は、その中間に、馬鳴菩
薩・毘羅尊者・竜樹菩薩・提婆菩薩・羅ゴ尊者・僧伽難提・僧伽耶奢・鳩摩羅駄・
闍夜那・盤陀・摩奴羅・鶴勒夜那・師子等の十余人の方々が御出現されました。

 これらの方々は、最初に、外道の家に入って、外道の教えを学びました。
 その次には、小乗経の教えを極めました。
 最後に、諸の大乗経(爾前経)を用いられた上で、諸の小乗経を、散々に、破折
されたのであります。


 これらの大士(正法時代後半、釈尊御入滅後・六百年から一千年までに御出現さ
れた十余人の菩薩)等は、諸の大乗経(爾前経)を用いられて、諸の小乗経を破折
されていました。
 けれども、諸の大乗経(爾前経)と法華経の勝劣に関しては、明確に、お書きに
なっていません。

 たとえ、諸の大乗経(爾前経)と法華経の勝劣を、少々、お書きになっていたと
しても、『本迹の十妙』・『二乗作仏』・『久遠実成』・『已今当の妙』・『百界
千如』・『一念三千』等の法華経の重要な法門は、明確になっておりません。

 ただ、或いは、指を以て、月を指す程度(注、法華経に関しては、軽い御説明に
終始されていた事への御譬喩。)であったり、或いは、著書において、法華経に関
する事柄の一端だけをお書きになっていました。

 しかし、『化導の始終』・『師弟の遠近』・『得道の有無』等々、諸の大乗経(爾
前経)と法華経の勝劣に関する重要な法門に関しては、いずれの大士(正法時代後
半、釈尊御入滅後・六百年から一千年までに御出現された十余人の菩薩)の著書に
おいても、全く、御記述が見当たりません。

 以上、大集経でお説きになられている、正法時代後半の五百年間・『禅定堅固』
の時代(多くの衆生が禅定三味の修行に励む時代)の概要であります。

 正法時代の一千年間が終わった後には、月氏(インド)に、仏法が充満(流布)
しました。
 けれども、或いは、小乗経を以て大乗経を破ったり、或いは、権経(仮の教え・
爾前経)を以て実経(真実の教え・法華経)を隠没(滅失)していました。

 このように、仏法が様々に乱れたため、得道の人(仏法の覚りを得た人)が、次
第に、少なくなっていきました。
 その反対に、仏法を破る事によって、悪道に堕ちていく者が、数え切れないほど、
多くなりました。

 正法時代一千年間の後、像法時代に入ってから、十五年が経つと(後漢の永平十
五年・西暦67年)、仏法が月氏(インド)から東に伝わって、漢土(中国)へ渡
来しました。

 像法時代の前半・五百年間の内で、始めの百年間余りは、漢土(中国)の道士(道
教の僧)と月氏(インド)の仏法の僧が論争をしていました。
 その当時は、未だに、道教と仏教との勝劣が定まっていない状況でした。
 たとえ、道教と仏教との勝劣が定まっていたとしても、仏法を信ずる人々の心が、
まだ、それほど、深くなかったのです。


 それ故に、仏法の中において、『大乗経・小乗経』『権経(仮の教え・爾前経)・
実経(真実の教え・法華経)』『顕教・密教』と、勝劣を分けてしまったならば、
聖教(仏教)が様々に解釈される可能性がありました。
 そうなってしまうと、疑いが起こって、返って、外典(外道の教典)に伴ってい
く者が続出したかも知れません。

 これらの恐れがあった故に、摩騰迦・竺法蘭(注、御二人とも、インドから中国
へ仏教を渡来させた、中インド出身の僧侶。)は、御自身は認識していながらも、
あえて、大乗経と小乗経を分けることなく、また、権経(仮の教え・爾前経)と実
経(真実の教え・法華経)の違いを、最後まで、口外されなかったのです。

 その後、魏・晋・斉・宋・梁という、五代(中国の五代の王朝)の時代に、仏教
徒の間で、『大乗経・小乗経』『権経(仮の教え・爾前経)・実経(真実の教え・
法華経)』『顕教・密教』の勝劣に関する論争が起こりました。
 しかし、いずれの意見も、道理(正論)とは思われなかったため、上一人(皇帝)
より下万民(民衆)に至るまで、少なからず、不審(疑問)が起きていました。


 その当時(中国・南北朝時代)は、『南三北七』と云って、仏法は、十流(十の
流派)に別れていました。

 所謂、南(江南)には、『三時』・『四時』・『五時』の三流(三つの流派)が
ありました。
 北(河北)には、『五時』・『半満』・『四宗』・『五宗』・『六宗』・『二種
の大乗』・『一音』の七流(七つの流派)がありました。
 
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 注記、

 『南三北七』とは、中国・南北朝時代における、仏教の教相判釈に関する学派を、
天台大師が『法華玄義』において、南地(江南)の三流と北地(河北)の七流に分
類されたものである。

 ・南地(江南)の三流

 1.岌師は、有相(阿含)・無相(方等・般若・法華)・常住(涅槃)の三時教
を立てた。
 2.宗愛は、三時教の中の無相教から、法華経を取り出して、同帰教と名づけた。
そして、無相教の次に、四時教を立てた。
 3.僧柔・慧次・慧観は、浄名経等の方等経を抑揚教として、四時教に加えた。
その上で、五時教を立てた。

 ・北地(河北)の七流

 1.北地の論師は、人天・有相・無相・同帰・常住の五時教を説いた。
 2.菩提流支は、半字教(釈尊の成道から十二年間の阿含経の御説法)・満字教
(釈尊の成道から十二年間以後の大乗経の御説法)の二教を立てた。
 3.光統は、因縁(毘曇)・仮名(成実)・誑相(般若・三論)・常(涅槃・華
厳等)の四宗を立てた。
 4.自軌は、四宗の常宗から、華厳を取り出して、法界宗と名づけた。その上で、
五宗を立てた。
 5.安凛は、四宗を更に開き、真宗(法華)・円宗(大集)を加えて、六宗とし
た。
 6.北地の禅師は、有相大乗(華厳・瓔珞・大品般若等)・無相大乗(楞伽・思
益)の二種の大乗教を説いた。
 7.別の北地の禅師は、「仏は、ただ、一仏乗の教えだけを説いており、受け止
める衆生の機根によって、種々の異解が生ずる。」と主張して、一音教を説いた。

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 『南三北七』の者どもは、各々、法義を立てて、自らの主張に偏執していました。
 そのため、お互いに、水火の如く、対立していました。
 けれども、彼等の大綱(根本的な事柄)は、同一でした。

 所謂、「釈尊御一代の聖教の中においては、『華厳経第一、涅槃経第二、法華経
第三』となる。阿含経・般若経・浄名経(維摩経)・思益経等の経々と対比すれば、
法華経は、真実の教え・了義経(実経)・正見の経である。しかしながら、涅槃経
と対比すれば、法華経は、無常の教え・不了義経(権経)・邪見の経となる。」等
と、『南三北七』の者どもは主張していました。


 後漢の時代に、インドから中国へ仏教が伝来して以来、四百余年が経過しました。
 像法時代の五百年代に入ると、陳・隋(中国)の時代において、『智ギ』という
小僧が御一人いらっしゃいました。
 後には、『天台智者大師』と号し奉られた方であります。

 天台大師は、『南三北七』の邪義を破折された上で、「釈尊御一代聖教の中にお
いては、『法華経第一・涅槃経第二・華厳経第三』である。」等と、お定めになら
れました。

 以上、大集経でお説きになられている、像法時代前半の五百年間・『読誦多聞堅
固』の時代(経典の読誦と御説法の聴聞が盛んに行われる時代)の概要であります。

 像法時代後半の五百年間においては、唐の第二祖・太宗皇宗の時代に、玄奘三蔵
(中国法相宗の開祖)が月支(インド)に入ってから十七年間、月支(インド)の
百三十箇国の寺塔を見聞して、多くの論師にお会いになった上で、八万聖教・十二
部経の淵底を習い極めていました。

 その中で、玄奘三蔵が着目した宗派が二つありました。
 所謂、法相宗と三論宗であります。

 この二宗の中でも、法相大乗宗は、古くは、弥勒菩薩・無著菩薩に由縁がありま
す。
 近年においては、戒賢論師が、玄奘三蔵に宗旨を伝えています。
 その後、玄奘三蔵が漢土(中国)に帰国して、太宗皇帝に教えを伝授されていま
す。
   
 法相宗の宗旨は、このような内容でした。

 「仏教は、『機』に随うべきである。

 一乗(仏)の教えに適した機根の者の為には、三乗(声聞・縁覚・菩薩)の教え
が方便となり、一乗(仏)の教えが真実となる。
 所謂、法華経等が、その教典である。

 しかし、三乗(声聞・縁覚・菩薩)の教えに適した機根の者の為には、三乗(声
聞・縁覚・菩薩)の教えが真実となり、一乗(仏)の教えが方便となる。
 所謂、深密経・勝鬘経等が、その教典である。

 天台智者等は、この旨を弁えていなかった。」と。

 しかも、太宗(唐の第二祖)は、賢王でした。
 その当時、太宗は、高名を天下に轟かしていただけでなく、「三皇(注、古代中
国の伝説的皇帝、伏羲・神農・黄帝のこと。)や五帝(注、古代中国の伝説的皇帝、
伏羲・神農・黄帝・少コウ・ゼンギョクのこと。)よりも、太宗の方が勝っている。」
という評判が四海(周辺諸国)にも響き渡っていました。

 そして、太宗は、漢土(中国)を掌握するだけでなく、西は高昌(ウイグル周辺)・
東は高麗(朝鮮)に至るまでの一千八百余国を征服して、皇帝の権威を、国の内外
へ示していました。

 そのような賢王(太宗)が第一に御帰依していた僧こそ、玄奘三蔵でした。
 故に、天台宗の学者(僧侶)の中でも、玄奘三蔵に頸を差し出す(命懸けで異論
を唱える)人は、一人もいなかったのです。
 従って、法華経の実義は、既に、一国(中国全土)において、隠没してしまいま
した。


 その後、太宗の皇太子であった高宗、そして、高宗の継母・則天皇后の時代には、
法蔵法師と云う者がいました。

 法蔵法師は、天台宗が法相宗に襲来されている状況を見ながら、以前、天台大師
が御存命だった頃に責められていた、華厳経を取り出して、「釈尊御一代の中では、
華厳経第一・法華経第二、涅槃経第三である。」と、法義を立てています。

 そして、太宗から数えて第四代目となる、玄宗皇帝の時代の開元四年(716年)
には、西天印度(インド)から、善無畏三蔵が大日経と蘇悉地経を持って、長安に
渡来しています。
 また、開元八年(720年)には、西天印度(インド)から、金剛智三蔵と不空
三蔵が金剛頂経を持って、洛陽に渡来しています。

 こうして、唐(中国)に、真言宗が立てられたのであります。


 真言宗の立てた法義は、このような内容でした。

 「仏教には、二種類の教えがある。

 第一には、釈迦如来の顕教。所謂、華厳経・法華経等である。
 第二には、大日如来の密教。所謂、大日経等である。

 確かに、法華経は、顕教第一の教えとなる。
 この経典(法華経)を大日如来の密教と対比すれば、実相の極理(意密)は、少
々、似通っている。
 けれども、事相の印契(注、手で印を結ぶ修行→身密)と真言(注、口で真言を
唱える修行→口密)は、全く、見受けられない。

 所詮、身口意の三密が相応していない経典(法華経)は、不了義経(真実を顕し
ていない経典)である。」と。


 以上、法相宗・華厳宗・真言宗の三宗が、一同に、天台・法華宗を破っていく様
子を記しました。
 けれども、天台大師のような智人は、その当時の天台・法華宗の中にいなかった
のです。

 勿論、天台・法華宗の人たちは、「法相宗・華厳宗・真言宗の主張には、根拠が
ない。」と、内々で、認識していました。
 ところが、天台大師のように、仏法の正邪を、公場で論じられることがなかった
ため、上は国王・大臣から、下は一切の人民に至るまで、皆、仏法に迷って、衆生
の得道(成仏)は止められてしまいました。

 これらの出来事は、像法時代後半の五百年間における、二百余年頃に起きていま
す。


 像法時代に入って、四百余年が経過した頃、百済国(朝鮮)より、一切経・教主
釈尊の木像・僧や尼等が、日本国に初めて渡来してきました。

 これは、漢土(中国)における、梁の時代の末・陳の時代の始めに該当します。
 日本国においては、神武天皇から数えて第三十代目となる、欽明天皇の時代とな
ります。

 そして、欽明天皇の御子であらせられた用明天皇の皇太子に、上宮王子(聖徳太
子)という方がいらっしゃいました。
 上宮王子(聖徳太子)は仏法を弘通されるだけでなく、法華経・浄名経・勝鬘経
を、鎮護国家の法とお定めになられています。


 その後、人王第三十七代・孝徳天皇の時代には、百済国(朝鮮)から、観勒僧正
が三論宗・成実宗を渡来させました。
 同じく、孝徳天皇の時代には、漢土(中国)から、道昭法師が法相宗・倶舎宗を
渡来させました。

 人王第四十四代・元正天皇の時代には、天竺(インド)から、大日経が渡来して
きました。
 けれども、大日経が弘通されることはなく、経典を持ってきた僧は、漢土(中国)
へ帰っていきました。この僧の名前は、善無畏三蔵と云います。

 人王第四十五代・聖武天皇の時代には、新羅国(朝鮮)から、審祥大徳が華厳宗
を渡来させました。
 そして、華厳宗の教えを、良弁僧正が聖武天皇へ授けられた後に、東大寺の大仏
が造立されています。

 同じく、聖武天皇の時代には、大唐(中国)の鑑真和尚が天台宗と律宗を渡来さ
せています。
 鑑真和尚は、その二宗の中でも、律宗を弘通されて、小乗の戒場(戒壇)を、東
大寺に建立しています。

 けれども、法華宗(天台宗)の事に関しては、その名字(名前)さえも、申し出
されなかったのです。
 結局、鑑真和尚は、法華宗(天台宗)を弘通されることなく、入滅されました。


 その後、像法時代が八百年を迎える頃、人王第五十代・桓武天皇の時代に、『最
澄』と云う小僧が御出現されました。
 後には、『伝教大師』と号された方であります。

 当初、伝教大師は、三論宗・法相宗・華厳宗・倶舎宗・成実宗・律宗の南都六宗、
並びに、禅宗の教義等を、行表僧正等から習学されています。

 その後、伝教大師は、御自らが『国昌寺』を建立されました。
 この『国昌寺』が、後に、『比叡山(延暦寺)』と号されることになります。

 この地(比叡山)において、伝教大師は、南都六宗の所依の本経・本論と、南都
六宗の人師の釈(解釈)を引き合わせながら、御覧になられました。

 その際に、伝教大師は、「南都六宗の人師の釈(解釈)は、所依の経論に相違し
ている事が多い。その上、僻見(間違った見解)が、多々、存在する。もし、彼等
の教えを信受する人がいれば、皆、悪道に堕ちるであろう。」と、お考えになった
のであります。


 その上、南都六宗の人々は、「法華経の実義を、我も得たり、我も得たり。」と、
自讃していました。
 ところが、彼等は、決して、法華経の実義を習得していた訳ではなかったのです。

 一方、伝教大師は、「この事(南都六宗の主張が仏法に違背している事)を述べ
れば、喧嘩が発生するだろう。黙って、何も言わなかったら、仏との誓いに背いて
しまうことになるだろう。」と、思い煩っておられました。 
 けれども、最終的に、伝教大師は、仏からの誡めを恐れるが故に、桓武天皇へ奏
上を行われました。

 帝(桓武天皇)は、この事(南都六宗の主張が仏法に違背している事)を、たい
へん驚きになられました。
 そのため、帝(桓武天皇)は、南都六宗の碩学(高僧)を高雄寺に召集させて、
伝教大師と法論を行わせたのであります。

 当初、南都六宗の学者(高僧)等の慢心は、幢山(注、幢とは、小さな旗をつけ
た鉾のこと。幢山とは、幢が山のように、高くそびえ立っている有り様のこと。そ
の状態を、高慢な精神になぞらえた語句。)のようでした。
 そして、彼等の悪心は、毒蛇のようでした。

 けれども、結局、彼等は、王(桓武天皇)の御前において、伝教大師に責め落と
されて(論破されて)しまいました。
 その上、南都六宗の七大寺(東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・
法隆寺)は、一同に、伝教大師の御弟子となりました。

 例えると、漢土(中国)の南三・北七の諸師(諸宗派の僧侶)が、陳の皇帝の殿
上において、天台大師に責め落とされた(論破された)ことにより、御弟子となっ
たようなものです。

 しかしながら、天台大師御在世の際には、円教(法華経)の三学(円戒・円定・
円慧)の中で、円定・円慧だけが論議されていました。
 一方、伝教大師は、天台大師でさえも、未だに破折されていなかった、小乗教の
別受戒を責め落とされました(論破されました)。

 そして、伝教大師は、南都六宗の八大徳(八人の高僧)に対して、法華経を正依・
梵網経を傍依とした大乗別受戒をお授けになっただけでなく、比叡山において、法
華経の円頓別受戒の戒壇を建立されています。

 ならば、比叡山延暦寺における、法華経の円頓別受戒の戒壇は、日本第一であり
ます。
 そればかりか、仏(釈尊)の御入滅後一千八百余年間、身毒(インド)・尸那(中
国)・一閻浮提(全世界)においても、未だに存在していなかった霊鷲山の大戒(法
華経の円頓別受戒)が、日本国において、始めて授けられたのであります。


 従って、伝教大師の功績を論ずれば、竜樹菩薩・天親菩薩を超越して、天台大師・
妙楽大師にも勝っている聖人になります。

 それ故に、その当時の日本国において、東寺・園城寺・七大寺(東大寺・興福寺・
元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺)・諸国の八宗(倶舎宗・成実宗・律宗・
法相宗・三論宗・華厳宗・天台宗・真言宗)・浄土宗・禅宗・律宗等の諸僧等は、
誰人であっても、伝教大師がお定めになられた円戒を背くことが出来なかったので
す。

 彼の漢土九国(注、中国全土のこと。中国の古代では、全土を九つの国に分けた
ことに由来する。)の諸僧等は、円教(法華経)の三学(円戒・円定・円慧)にお
いて、円定・円慧の解釈が天台大師の御弟子に相似していました。

 けれども、法華経の円頓戒を一同に授ける戒壇は、漢土(中国)になかったので
す。
 そのため、円戒においては、天台大師の御弟子にならない者もいました。
 ところが、この日本国において、伝教大師の御弟子にならなかった者は、外道や
悪人のような扱いを受けました。


 勿論、伝教大師は、漢土(中国)や日本の天台宗と真言宗の勝劣を、御心中にお
いて、承知していました。
 けれども、天台宗と真言宗の勝劣は、南都六宗(倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・
三論宗・華厳宗)と天台宗(伝教大師)との法論のように、公場(桓武天皇の御前)
で勝負を決することがなかったのです。

 それ故に、伝教大師以降の時代になると、東寺・七大寺(東大寺・興福寺・元興
寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺)・園城寺等の諸寺、及び、日本国の人々は、
一同に、「真言宗は、天台宗より勝っている。」と、上一人(天皇)より下万人(万
民)に至るまで、思うようになりました。

 因って、天台法華宗が勝れていたのは、伝教大師の御時だけでした。
 この伝教大師の御時は、像法時代の末であります。そして、大集経でお説きにな
られた、『多造塔寺堅固』の時代になります。

 しかしながら、未だに、『於我法中・闘諍言訟・白法隠没』(注、我が仏法の中
において、闘争や言い争いが盛んになって、正法が隠没する時代。つまり、末法の
こと。)の時代には該当しておりません。

 今(建治元年・1275年)は、末法に入って、二百年余りが経過しています。

 大集経で仰せになられている、『於我法中・闘諍言訟・白法隠没』(注、我が仏
法の中において、闘争や言い争いが盛んになって、正法が隠没する時代。つまり、
末法のこと。)の時に当たります。
 仏の御言葉が真実であるならば、必ずや、一閻浮提(全世界)に、闘争が起こる
時節となります。

 伝え聞く所によると、「漢土(中国)は、三百六十箇国・二百六十余州が、蒙古
国に打ち破られた。」とのことです。

 花洛(長安の都)は、既に、破られております。
 そして、徽宗・欽宗の両帝が、北蕃(蒙古の部族)によって、生け捕りにされま
した。
 最終的には、韃靼(蒙古)の地において、徽宗・欽宗の両帝が崩御されています。

 徽宗の孫・高宗皇帝は、長安の都を攻め落とされてから、田舎(地方)の行在・
臨安府(注、現在の杭州)に逃げ込みました。
 今に至るまで、数年間も、都(長安)を見る事が出来ません。


 また、朝鮮半島において、高麗の六百余国も、新羅・百済等の諸国等も、皆、大
蒙古国の皇帝に攻め落とされてしまったことは、現在(日蓮大聖人御在世当時)の
日本国の壱岐・対馬、並びに、九国(九州)の有様のようであります。

 大集経の『闘諍堅固』(末法においては、闘争が多く起こるであろう。)と仰せ
の仏語(経文の予言)は、地に堕ちておりません。
まるで、大海の潮が、時を違えることなく、満ち干きを繰り返すようなものです。

 これらの事から考えても、大集経で仰せの『白法隠没』(末法においては、釈尊
の仏法が隠没するであろう。)の時に次いで、法華経の大白法(日蓮大聖人の仏法)
が日本国、並びに、一閻浮提(全世界)において、広宣流布していく事は、全く疑
う余地のないことであります。


 彼の大集経は、仏説の中の『権大乗経』(方便の教えとして、仮に説かれた大乗
経)に該当します。

 『権大乗経』には、生死を離れる道(覚りを開くための解脱の道)が説かれてい
ません。
 従って、法華経の結縁がない者(法華経によって、生死を離れる縁が結ばれない
者)のためには、『未顕真実』(未だ真実を顕さず)の教えとなります。

 けれども、『権大乗経』には、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)、四生
(卵生・胎生・湿生・化生)、三世(過去世・現世・来世)の事がお記しになられ
ています。
 その内容は、『実大乗経』(真実の教えとして説かれた大乗経)である法華経の
教えと、寸分も異なっておりません。

 ましてや、法華経方便品第二において、釈尊は、『要当説真実』(当に、必ず、
真実を説くべし。)と御宣言なさっています。
 また、多宝如来は、法華経見宝塔品第十一において、『皆是真実』(皆、これ、
真実なり。)と御判を添えられています。
 そして、十方の諸仏は、広く長い舌を梵天に付けられて、『誠諦』(真実)と指し
示されています。

 それから、釈尊は、重ねて、無虚妄の舌を、色究竟天(色界の頂天)にお付けに
なられて、「後五百歳(末法)において、一切の仏法が滅びようとする時、上行菩
薩(注、日蓮大聖人の外用の御姿)に妙法蓮華経の五字(御本尊)を持たせること
によって、謗法一闡提白癩病の輩(注、謗法によって、正法を信じないため、覚り
を求める心がなく、成仏する機縁を持たない末法の衆生の姿を、白癩病に例えられ
ている。)のための良薬としよう。」と、大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天
王・四天王・竜神等に対して、御命を仰せつけられています。

 その法華経の御金言が、果たして、虚妄であるのでしょうか。
    
 たとえ、大地が反覆したとしても、高山が崩落したとしても、春の後に夏が来な
かったとしても、太陽が東へ戻ったとしても、月が地に墜ちたとしても、この事(注、
末法において、日蓮大聖人の仏法が広宣流布していくこと)に、間違いはありませ
ん。

 もし、この事(注、末法において、日蓮大聖人の仏法が広宣流布していくこと)
に間違いがなければ、大集経で仰せの『闘諍堅固』(闘争が盛んに起こる)の時(末
法)において、日本国の王・臣下・万民等が、仏の御使い(上行菩薩→日蓮大聖人
の外用の御姿)として、南無妙法蓮華経を流布しようとしている人(日蓮大聖人)を、
或いは罵詈したり、或いは悪口を言ったり、或いは流罪したり、或いは殴打したり、
或いは弟子・眷属(仏や菩薩等に随う人)等を種々の難に遭わせる人々が、何故に、
安穏でいられるのでしょうか。

 ところが、こういう事を述べると、愚癡の者(愚か者)は、「日蓮が咒詛(怨み
ながら、相手を呪うこと)をしている。」と、思ってしまうのです。
 
 しかしながら、法華経を弘める者(日蓮大聖人)は、日本国の一切衆生の『父母』
であります。

 章安大師は、『涅槃経疏』において、「彼の為に、悪を除くことは、即ち、これ、
彼の親となる行為である。」等と、云われています。

 ならば、日蓮は、当帝(当代の天皇)の『父母』であり、念仏者・禅宗の僧俗・真
言師等に対する『師範』であり、また、『主君』となるのです。

 ところが、上一人(天皇)より下万民に至るまで、私(日蓮大聖人)に怨を為し
ているにも関わらず、日月(太陽と月→大日天王・大月天王)は、何故に、彼等の
頂(頭上)を照らすのでしょうか。
 何故に、地神は、彼等の足を戴せるのでしょうか。

 かつて、提婆達多は、仏(釈尊)を殴打した折に、大地が振動して、火災が発生
しました。

 北インド・ケイヒン国の檀弥羅王は、付法蔵の第二十四祖・師子尊者の首を切っ
た途端、右の手が刀と共に落ちてしまいました。

 中国・北宋の徽宗皇帝は、法道三蔵の顔に炎で熱した金型を当てて、江南の地(道
州)へ流罪しました。すると、半年もしない間に、金(女真族の国)の兵士の手によ
って、徽宗皇帝が生け捕られたまま、崩御してしまいました。

 今回の蒙古からの責めも、また、同様のことであります。
 たとえ、五天竺(インド全体)の強者を集めた上で、鉄囲山(須弥山を囲んでいる
山)を城として、蒙古の攻撃を防ごうとしても、決して、守り切れるものではありま
せん。
 必ずや、日本国の一切衆生は、兵難に遭遇することでしょう。

 ならば、「日蓮が『法華経の行者』であるのか、否か。」につきましては、これ
らの事柄を以って、判断をしなさい。

 教主釈尊は、法華経法師品第十において、「末代の悪世(末法)において、法華
経を弘通する者のことを悪口・罵詈する人は、一劫という極めて長い間、仏(釈尊)
を怨んだ者の罪よりも、百千万億倍超過するであろう。」という主旨のことを、お
説きになられています。

 ところが、現在の日本国の国主や万民等が我見に任せて、私(日蓮大聖人)のこ
とを、父母の宿世の敵よりも深く憎み、謀反・殺害の者よりも強く責めています。

 にもかかわらず、それらの人々が現身(存命)の間に、大地が割れてから、その
中へ落ちたりすることもなければ、天の雷がそれらの人々の身を裂かないことも、
不審であります。

 それとも、日蓮が『法華経の行者』ではないのでしょうか。
 もし、そうであるならば、大いに、嘆かわしいことであります。

 今生(現世)においては、万人に責められて、片時も、安らぐ事がありません。
 また、後生(来世)において、悪道に墜ちる事を思うと、『悲惨』と申す以外に、
言葉がありません。


 また、日蓮が『法華経の行者』でなければ、一体、如何なる者が、一乗(法華経)
の持者になるのでしょうか。

 法然が「法華経を投げ捨てよ。」と言ったり、善導が「法華経では、千人の中に
一人も成仏出来ない。」と言ったり、道綽が「法華経では、未だに、得道(成仏)
した者が一人もいない。」と言っています。
 その法然や善導や道綽が、果たして、『法華経の行者』になるのでしょうか。

 また、弘法大師は、『十住心論』において、「法華経を行ずることは、戯論であ
る。」と、云っています。
 その弘法大師が、果たして、『法華経の行者』になるのでしょうか。

 法華経分別功徳品第十七の経文には、「能持是経」(よく、この経を持つ。)と、
仰せになられています。そして、法華経見宝塔品第十一の経文には、「能説此経」
(よく、この経を説く。)等と、仰せになられています。
 法華経の「能持是経」「能説此経」の経文は、如何なる者に、該当するのでしょ
うか。

 法華経安楽行品第十四においては、「於諸経中最在其上」(諸経の中において、
最も、その上に在り。)と、仰せになられています。
 つまり、経文においては、「大日経・華厳経・涅槃経・般若経等よりも、法華経
は勝れている。」と申している者こそを、『法華経の行者』とお説きになられてい
るのであります。

 もし、経文の通りであるならば、日本国に仏法が渡来してからの七百余年におい
て、伝教大師と日蓮以外には、一人も、『法華経の行者』がいないはずです。


 にもかかかわらず、『法華経の行者』を怨んだり、難を与えたりしている者が、
現在まで、何の罰も受けていないことを不審に思っておりました。

 ところが、法華経仏陀羅尼品第二十六で仰せの『頭破作七分』(頭が七分に破れ
る)や法華経安楽行品第十四で仰せの『口則閉塞』(口が閉塞される)等の現罰が、
今までに発生していなかったことは、『道理』であったのです。

 何故なら、これらの罰は、浅い罰であります。ただ、一人・二人等の身上の事柄
に過ぎません。

 日蓮は、『閻浮(全世界)第一』の『法華経の行者』であります。
 この日蓮を謗ったり、この日蓮を怨んでいる人を重用している者は、『閻浮(全
世界)第一』の『大難』に遭遇するでしょう。

 それ故に、日本国中を揺り動かした正嘉元年(1257年)の大地震や、一天を
罰するような文永元年(1264年)の大彗星等が現れたのであります。
 これらの『大難』を、ご覧なさい。

 仏(釈尊)が御入滅された後、仏法を行じている者に対して、怨を為した者は、
多くいたことでしょう。
 けれども、今のような『大難』は、一度も発生しておりません。
 そして、『南無妙法蓮華経』の題目を、一切衆生に勧めた人は、一人もいません。

 この『法華経の行者』の功徳の大きさを思うと、一天・四海(全世界)において、
一体、誰人が、私(日蓮大聖人)と眼を合わせたり、肩を並べるような事が出来るの
でしょうか。
     
 疑問があります。

 正法の時代(釈尊御入滅後の千年間)は、仏(釈尊)の御在世と対比すれば、たと
え、衆生の機根が劣っていたとしても、像法の時代(釈尊御入滅後千年~二千年の間)
や末法の時代(釈尊御入滅後二千年以降)と対比すれば、最上の上機(最も良い機根
の衆生が輩出すること)となります。

 それ故に、正法時代の始めに、法華経が用いられなかったはずはありません。
 随って、馬鳴菩薩・竜樹菩薩・提婆菩薩・無著菩薩等も、正法時代の一千年間の内
に御出現されているのでしょう。

 『千部の論師』と称された天親菩薩は、『法華論』を造られて、「法華経は、諸経
の中において、第一である。」という法義を述べられています。
 真諦三蔵の相伝には、「月支(インド)には、法華経を弘通する家(人)が五十余
家(人)あった。天親は、その中の一家(人)であった。」と、記されています。

 以上が、正法時代の状況になります。


 そして、像法の時代に入ると、天台大師が像法時代の半ば頃に、漢土(中国)に
御出現されて、『法華玄義』と『法華文句』と『摩訶止観』の『天台三大部・三十
巻』の書を作られて、法華経の淵底(奥義)を極められました。

 像法時代の末になると、伝教大師が日本に御出現されて、天台大師の『円慧・円
定』の二法を、我が朝(国)に弘通させただけでなく、『一乗円頓の大戒場(法華
経迹門の戒壇)』を比叡山に建立されました。

 そして、日本一州(全国)が、皆、同じく、円戒の地となって、上一人(天皇)
から下万民に至るまで、比叡山延暦寺を師範と仰いだのであります。

 (注、『円教』 →『法華経』 においては、修学すべき『三学』→『戒・定・慧』
がある。『円教(法華経)』 の『戒学(禁戒を学ぶこと)』を、『円戒』と云う。
『円教(法華経)』 の『定学(禅定を学ぶこと)』を、『円定』と云う。『円教
(法華経)』 の『慧学(智慧を学ぶこと)』を、『円慧』と云う。)

 にも拘らず、何故に、像法の『時』が、法華経の広宣流布に該当しないのでしょ
うか。
  
 お答えします。

 「如来(仏)の教法は、必ず、『機』に随う。」という考え方は、世間の学者(僧
侶)が承知していることです。
 しかしながら、仏教は、そういうものではありません。

 もし、上根・上智の人(機根が良く、良き智慧を持っている人)のために、必ず、
大法を説かれているのであれば、初成道の時(釈尊が初めて覚りを開かれた時)にお
いて、何故に、法華経をお説きにならなかったのでしょうか。
 そして、正法時代(釈尊御入滅後千年間)の最初の五百年間に、大乗経を弘通すべ
きだったのではないでしょうか。

 もし、有縁の人に対して、大法をお説きになられているのであれば、浄飯大王(釈
尊の御父)・摩耶夫人(釈尊の御母)に対して、観仏三昧経・摩耶経のような爾前経
ではなく、法華経をお説きになるべきでしょう。

 また、「無縁の悪人や謗法の者に対して、秘法を与えてはならない。」ということ
であれば、覚徳比丘は、数え切れないほどの破戒の者に対して、涅槃経を授けるべき
ではなかったのです。

 そして、不軽菩薩は、正法を誹謗した四衆(僧・尼・在家の男・在家の女)に向か
って、何故に、法華経を弘通なさったのでしょうか。

 それ故に、「『機』に随って、法を説く。」と申していることは、大いなる僻見(誤
った見方)であります。
    
 質問致します。
 竜樹菩薩や世親(天親)菩薩等は、法華経の実義を、お述べになっていないので
しょうか。

 お答えします。
 お述べになっていません。

 質問致します。
 では、如何なる教えを、お述べになったのでしょうか。

 お答えします。
 華厳部・方等部・般若部・大日経等の権大乗経や、顕教・密教の諸経について述
べられるだけで、法華経の法門については、お述べになっていません。

 質問致します。
 何を以って、その根拠を知ることが出来るのでしょうか。

 お答えします。
 竜樹菩薩が作成された『論』(仏教の論述書)は、三十万偈に及んでいます。
 しかしながら、それらの『論』のすべてが、漢土(中国)や日本には渡来してい
ません。
 故に、その真意を知り難いものがあります。

 けれども、漢土(中国)に渡来した『十住毘婆娑論』や『中論』や『大論』等の
代表的著作を以って、天竺(インド)に残っている『論』を比較・推量することに
より、竜樹菩薩の『論』全体の真意を知る事が出来るのです。


 疑問があります。
 天竺に残った竜樹菩薩の『論』の中に、漢土(中国)・日本に渡来した竜樹菩薩
の『論』よりも、勝れた『論』がないのでしょうか。

 お答えします。
 竜樹菩薩の事に関して、私見を申し上げるべきではありません。

 仏(釈尊)は、『付法蔵経』において、「我が滅後(釈尊の御入滅後)に、竜樹
菩薩と云う人が南天竺(南インド)に出現するであろう。その人の所詮(中心的思
想)は、『中論』という『論』に有るであろう。」と、御予言をお記しになられて
います。

 翻って、竜樹菩薩の流派は、天竺(インド)に、七十家(人)あります。その七
十人ともに、大論師であります。その七十家(人)の人々は、皆、『中論』を本と
しています。

 『中論』の全四巻・二十七品の肝心は、『因縁所生法』の四句の偈であります。
 この四句の偈は、華厳経・般若経等の『四教(蔵教・通教・別教・円教)の三諦』
の法門となります。

 しかしながら、竜樹菩薩は、未だに、『法華開会(注、開会とは、方便の教えを
開き顕わして、真実の教えに会入させること。法華経以外の教えは、棄て去るべき
ものではなく、唯一の真実を分有するものとして、生かしていく考え方。)の三諦』
をお述べになっていないのです。

 (注記、三諦とは、空諦・仮諦・中諦のこと。空諦は、あらゆる存在について、
不変的な実我はなく、空であるものとする。仮諦は、あらゆる存在が因縁によって、
仮に存在しているものとする。中諦は、あらゆる存在が、空でもあり仮でもあり、
また、空でもなく仮でもなく、言語や思考を超越したものであるとする。この三諦
の捉え方には、二種類ある。三諦の各々を、個々の独立した真理として考えるのが、
爾前経における『隔歴の三諦』。それに対して、三諦の孤立性を廃した上で、法華
経の開会の法門によって、「空諦は即仮諦・即中諦、仮諦は即空諦・即中諦、中諦
は即空諦・即仮諦の関係にある。」と考えるのが、法華経における『円融の三諦』
である。それを、『法華開会の三諦』とも称する。)


 疑問があります。
 貴殿のように、料簡(認識)する人がいるのでしょうか。

 お答えします。

 天台大師は、『法華玄義』において、「中論を以て、法華経と相対・比較するこ
とがあってはならない。」と、仰せになっています。
 また、天台大師は、『摩訶止観』において、「天親菩薩や竜樹菩薩は、『内鑑冷
然・外適時宜』である。」等と、仰せになっています。

 (注記、『内鑑冷然・外適時宜』とは、内心が冷やかに澄んでいて、覚りの境地
に住しているが、外面では、『時』に適った法を説いていることを意味する。天親
菩薩や竜樹菩薩は、内心において、法華経が諸経最第一の教えであることを認識し
ていたが、外面においては、正法時代の『時』に応じた権大乗経の教えを便宜的に
説いていた。)

 妙楽大師は、『法華玄義釈籤』において、「もし、諸経に対する破折と会入を論
ずるならば、未だ、法華経に及ぶ経典はない。」と、御解釈されています。

 従義は、『法華(天台)三大部補注』において、「竜樹菩薩や天親菩薩は、未だ、
天台大師に及ばない。」と、仰っています。

 質問致します。

 唐の時代の末に、不空三蔵が一巻の『論』を中国に渡来させています。
 その名を、『菩提心論』と云います。そして、『菩提心論』は、竜猛菩薩(竜樹
菩薩)の著作です。

 弘法大師は、「この論(菩提心論)は、竜猛(竜樹菩薩)が作った千部の『論』
の中でも、第一・肝心の『論』である。」と、云っています。
 
 お答えします。

 この論(菩提心論)は、わずか一部・七丁の書物です。
 そして、『菩提心論』は、竜猛(竜樹菩薩)の言ではない所が多々あります。

 故に、目録(高僧の伝記)においても、「『菩提心論』は、竜猛(竜樹菩薩)の
著作である。」という説と、「『菩提心論』は、不空の著作である。」という説の
両方があります。
 未だに、この件については、見解が定まっておりません。

 その上、この論文(菩提心論)は、釈尊御一代の教えを包括した『論』でもあり
ません。
 また、論旨が荒量(杜撰)である箇所が多くあります。

 まず、『唯真言法中(ただ、真言の法の中において、即身成仏が出来る。)』と
いう、この『論』の肝心の文が誤りです

 その理由は、「文証と現証が存在する法華経の即身成仏を抜きにして、文証も現
証も跡形のない真言の経典に即身成仏を立てたから。」であります。

 また、『唯真言法中』という文における、『唯』の一字を以って、「即身成仏は、
真言の経典に限る。」と論じたことが第一の誤りとなります。

 これらの事柄の真相を鑑みると、「『菩提心論』は、不空三蔵が自分勝手に偽作
した『論』である。それを、その当時の人々に重要視させるため、『菩提心論』の
作者を竜猛(竜樹菩薩)に寄せた(偽装した)。」ということになるのでしょう。

 その上、不空三蔵は、誤っている事が数多いのです。

 所謂、法華経の観智の儀軌(注、不空訳の『観智儀軌』という書物)において、寿
量品(法華経如来寿量品第十六)の仏のことを、『阿弥陀仏』と書いていることは、
眼前の大僻見(大いに誤った見解)であります。

 そして、不空は、法華経陀羅尼品第二十六を、法華経如来神力品第二十一の次に
置いて、訳しています。
 また、法華経嘱累品第二十二を、法華経全二十八品の最後に移して、訳していま
す。
 これらは、言うまでの価値もない誤りであります。

 そうかと思えば、不空は、天台大師の大乗戒の法門を盗んで、中国の代宗皇帝に
宣旨(皇帝の詔)を願い出て、五台山の五寺に大乗戒壇を立てています。

 しかも、また、「真言の教相(注、教相判釈。釈尊の御一代の聖教を、御説法の
順序や教義の浅深等で分類して、教えの勝劣を判別すること。)には、天台宗の『五
時・八教』の教相判釈(注、『五時』は、華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華
涅槃時、『化法の四教』は、三蔵教・通教・別教・円教、『化儀の四教』は、頓教
・漸教・秘密教・不定教)を用いるように。」と、不空は云っています。

 これらのように、不空の言動には、色々と、誑惑の事(欺き惑わすこと)が多い
のです。
 まだ、他の人の訳ならば、用いる事が出来るかも知れません。しかし、この人(不
空)の訳した経論は、信用出来ないのです。


 総じて、月支(インド)より漢土(中国)に経論を渡した人は、旧訳・新訳(注、
漢訳された経典において、唐の玄奘三蔵以前の訳典を『旧訳』、それ以降の訳典を
『新訳』と称する。)合わせて、百八十六人になります。

 羅什三蔵一人を除いては、いずれの人々(訳者)にも、誤りがあります。
 その中において、特に、不空三蔵は、誤りが多い上に、誑惑の心(欺き惑わす心)
が顕わになっています。

 疑問があります。
 何を以って、「羅什三蔵以外の人々は誤っている。」ということを、知る事が出
来るのでしょうか。

 貴殿のお考えでは、禅宗・念仏・真言等の七宗を破るだけでなく、「羅什三蔵以
外には、漢土(中国)・日本に渡来した一切の経典の訳者を用いない。」というこ
とになってしまいます。
 如何に、お考えでしょうか。
     
 お答えします。

 この事は、私(日蓮大聖人)にとって、第一の秘事であります。その詳細は、対
面して、問うべきです。但し、少しだけ、申し上げる事にしましょう。

 羅什三蔵は、このように仰せです。

 「私(羅什三蔵)が漢土(中国)で訳された一切経を見てみると、皆、梵語(サン
スクリット語)のようになっていない。如何にして、この事を、顕わすべきなのだろう
か。

 そこで、一つの大願がある。

 私(羅什三蔵)は、身を不浄に為して、妻帯(結婚)した。
 しかし、舌だけは、清浄に為している。仏法においては、妄語(偽りの言動)を
していない。

 私(羅什三蔵)が死んだら、必ず、身を焼きなさい。
 その時、もし、舌が焼けるようであれば、私(羅什三蔵)の訳した経典を捨てな
さい。」と。

 常に、羅什三蔵は、高座において、この事をお説きになっていました。


 その一方、当時の上一人(国王)より下万民に至るまで、願いを込めながら、こ
う云っていました。
 「願わくば、羅什三蔵より、後に、死にたいものだ。」と。

 そして、遂に、羅什三蔵がお亡くなりになった後、その身を焼き奉ると、不浄の
身は、すべて、灰となりました。
 しかし、火の中に青蓮華が生じて、その上に御舌が在ったため、焼けることなく、
羅什三蔵の御舌だけが残りました。

 羅什三蔵の御舌が五色の光明を放っていた御様子は、まるで、夜が昼のようであ
り、昼は日輪(太陽)の御光を奪っているようでした。

 そういう経緯があったからこそ、一切の訳人の経々は軽く扱われて、羅什三蔵が
お訳しになられた経々、特に、法華経は、漢土(中国)に易々と弘まったのでしょ
う。

 涅槃経の第三巻(寿命品)と第九巻(如来性品)等を拝見すると、「私(釈尊)
の仏法は、月支(インド)より他国へ渡来していく時、多くの誤謬が発生して、衆
生の得道(成仏)が薄く(難しく)なるであろう。」と、お説きになられています。

 それ故に、妙楽大師は『法華文句記』において、「並びに、進退(訳の正誤の責
任)は、人(訳者)にある。何故に、聖旨(仏の御意)に関わることがあろうか。」
と、明確に、仰せになっています。

 当世の人々は、如何に、経のままに、後世を願ったとしても、もし、誤った経々
のままに願ったならば、得道(成仏)も出来るはずがありません。
 「そうであるならば、到底、仏の御過失ではない。」と、妙楽大師は『法華文句
記』において、お書きになっているのです。

 仏教を習う法としては、まず、大乗経・小乗経、権経・実経、顕教・密教の違い
を把握する必要があります。けれども、この事は、一旦、置いておきます。
 「仏法の経典の訳に、間違いがあるか、否か。」ということこそ、第一の大事で
はないでしょうか。


 疑問があります。

 正法時代一千年間に活躍された論師は、「法華経の実義は、顕教・密教の諸経よ
りも、超過している。」ということを、内心で認知されていながらも、対外的には、
その事を宣説しないで、ただ、権大乗経の法門だけを述べられていたのでしょう。

 その見解に対して、「その通りである。」とは思えません。けれども、その理由
については、少し、納得致しました。

 像法時代一千年間の半ばに、天台智者大師が御出現されて、法華経の題目である
「妙法蓮華経」の五字の法義を、『法華玄義』十巻・一千枚の紙上に書き尽くされ
て(説き明かされて)います。

 また、『法華文句』十巻においては、最初の「如是我聞」から最後の「作礼而去」
に至るまで、法華経の一字一句に『因縁・約教・本迹・観心』の四つの解釈を並べ
られて、『法華玄義』と同じく、一千枚の紙上に書き尽くされて(説き明かされて)
います。

 以上の『法華玄義』『法華文句』の計二十巻においては、一切経の心を『江河』、
法華経を『大海』に譬えられて、十方世界(注、全世界のこと。十方は、東・西・
南・北・東北・西北・東南・西南・上・下となる。)の仏法の露を一滴も漏らすこ
となく、「妙法蓮華経」の『大海』に入れられています。

 その上、天台大師は、天竺(インド)の大論師の諸義を一点も漏らさずに、漢土
(中国)における南三・北七の十師(江南の三師と河北の七師)の義を、破折する
べき所は破折されて、依用するべき所は依用されています。

 そして、天台大師は、『摩訶止観』十巻を著わされて、釈尊御一代の観心の法門
を『一念』に統括されて、十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・
菩薩・仏)の依正(注、『依報』と『正報』のこと。過去の因果の『報』を受ける
主体である有情の身心を『正報』と云い、この有情の身心が拠り所とする環境や国
土を『依報』と云う。)を『三千』に収められています。

 これらの書(摩訶止観・法華玄義・法華文句)の文体は、遠くは、正法時代一千
年間の月支(インド)の論師よりも超越して、近くは、像法時代前半の五百年間(注、
天台大師は、仏滅後一千四百八十七年・西暦538年に、中国で御生誕されている。)
の人師の『釈(解釈)』よりも勝れています。

 故に、三論宗の吉蔵大師は、江南・江北の百余人の先達と長者等と共に、天台大
師の講経(経典の講義)を開催するための招請状において、このように記していま
す。

 「『千年の内に、聖人が出現する。五百年の内に、賢人が出現する。』という伝
承は、実に、また、今日において、実現した。(中略)

 南岳大師の叡聖、及び、天台大師の明哲においては、昔(過去世)を尋ねると、
法華経の身・口・意の三業を受持されていた。
 そして、今(今世)は、二尊(観音菩薩が南岳大師、薬王菩薩が天台大師)とし
て承継されている。

 まさしく、仏法の甘露の教えを、ただ、震旦(中国)に注ぐだけでなく、また、
当に、法鼓(名声)が天竺(インド)に伝わっている。

 生知の妙悟(注、南岳大師・天台大師が生まれながらにして、妙なる法義を悟っ
たこと)は、魏・晉の時代以来、典籍(古い書籍)においても、風謡(流行の詩歌)
においても、実に、その類を見ない。(中略)

 従って、禅定を求める百余人の僧と、共に、智者大師(天台大師)を請じ奉って、
法華経の講義を願うものである。」と。


 終南山の道宣律師は、天台大師を讃歎されて、このように云っています。

 「天台大師が法華経の義を照らして、明らかにしていることは、あたかも、高く
輝いている太陽が深い谷を照らしているようなものである。

 天台大師が摩訶衍(大乗の法門)を説いている様子は、強い風が大空を自在に吹
いていることに似ている。

 たとえ、文字の師(文字に頼った僧侶・学者)が千人・万人いたとして、天台大
師のような巧妙な弁論が出来る者を、何度も探し出そうとしても、見つけることは
出来ないだろう。(中略)

 天台大師の法義は、明瞭でありながらも、一つ一つの文字に拘泥することがない。
まるで、指で月を示したとしても、指に執着しないことのようである。(中略)

 天台大師は、一極(法華経の真理の極地)に帰着している。」と。

 華厳宗の法蔵大師も、天台大師を讃歎されて、このように云っています。

 「思禅師(南岳大師)や智者(天台大師)等の行跡は、神異(超人的な神技)に
感通して、登位(注、中道の実相を一分でも実証する、円教の初住の位。この位に
登ると、初めて、聖人と云われる。)に達している。(中略)

 霊鷲山において、釈尊は、法華経の御説法をされていた。天台大師は、その御説
法を聴聞していた頃の記憶が、今でも残っている。」と。

 真言宗の不空三蔵と含光法師等が、師弟共に、真言宗を捨てて、天台大師に帰伏
する物語(宋高僧伝)においては、こう云っています。

 「不空三蔵と一緒に、私(含光法師)が天竺(インド)へ行った。すると、現地
(インド)に僧がいた。そして、このように、質問をした。

 『大唐(中国)には、天台大師の教迹(注、教相判釈。仏の教説の異同を分別す
ること。)が有る。最も、仏法の邪正を分別して、偏円(爾前経と法華経)の違い
を明らかにすることに適しているそうだ。天台大師の書物を訳して、何とか、この
土(インド)に持って来れないのか。』」と。

 この物語(宋高僧伝)は、含光が妙楽大師に語った話です。
 そして、妙楽大師は、この話をお聞きになってから、『法華文句記』において、
このように、仰せになっています。

 「まさしく、中国(注、俗に言うところの『中国』ではなく、『インド』のこと。)
に法を失ってから、返って、四維(四方の国々)に法を求めている証である。

 しかも、この方(中国)において、天台大師の教えを正しく識る者は少ない。
 あたかも、『魯』の国(孔子の出身国)の人が、孔子の教えを知らないようなも
のである。」と。

 もし、身毒国(インド)の中に、天台大師の三十巻(摩訶止観・法華玄義・法華
文句)のような大論の書があったならば、南天竺(南インド)の僧が、何故に、漢
土(中国)の天台大師の注釈書を願うのでしょうか。

 これこそ、まさしく、像法時代の中に、法華経の実義が顕れて、南閻浮提(世界
中)に広宣流布した証ではないでしょうか。


 お答えします。

 天台大師は、正法時代一千年及び像法時代の前半四百年、以上、仏滅後(釈尊御
入滅後)一千四百余年において、未だに、インドの諸論師が弘通されていなかった、
かつ、釈尊御一代の所説に超過された『円定・円慧』の法門を、漢土(中国)に
弘通されただけでなく、その(天台大師の)名声は、月氏(インド)までも聞こえてい
ます。

 (注記、『円戒・円定 円慧』の三つが、円教=法華経の『三学』となる。『三
学』とは、仏教修行者が必ず修学しなければならない、三つの根本法。『戒』は戒
律、『定』は禅定、『慧』は智慧。)

 天台大師の時代は、確かに、法華経の『広宣流布』(注、法華経が広く宣べられ
て、流布されること。)の状態に似ています。
 けれども、天台大師は、未だに、『円頓の戒壇』を立てられていません。

 (注記、『円頓』とは、円満にして偏ることなく、速やかに成仏すること。『円
頓の教』は、法華経となる。法華経の経旨に基づいて、大乗戒を授ける場所が『円
頓の戒壇』である。伝教大師によって、比叡山延暦寺に『円頓の戒壇』が建立され
ている。)

 天台大師が小乗教の威儀(戒律)を以って、『円慧・円定』の法門に結び付けて
いるのは、少し、頼りない(無理がある)ように思われます。
 例えると、日蝕の際に、太陽が欠けたり、月蝕の際に、月が欠けるような状態に
似ています。

 ましてや、天台大師の御時は、大集経で予言された、『読誦多聞堅固』の時(注、
像法時代前半の五百年間のこと。経典の読誦と説法を多く聞くことが中心に行われ
る時代。)に相当しています。

 未だに、『広宣流布』の時(注、末法のこと。末法は、『闘諍堅固』の時→争い
事が多く起こって、釈尊の仏法の効力が喪失する時代である。)には、至っていな
いのです。
              
 質問致します。

 伝教大師は、日本国の士(人)であります。
 桓武天皇の時代に、伝教大師は御出世されています。そして、欽明天皇の時代に
仏法が伝来してから、二百余年間に及ぶ南都六宗の邪義を破折されています。

 また、伝教大師は、天台大師の『円慧・円定』の法門を宣揚されただけでなく、
鑑真和尚が弘通した日本小乗の三処の戒壇(注、大和国の東大寺、下野国の薬師寺、
筑紫国の観世音寺の三ヶ所に設けられた、小乗教の戒壇のこと。)を破折されて、
円頓の大乗別受戒を授けるための戒壇(注、『円頓』とは、円満にして偏ることな
く、速やかに成仏すること。『円頓』の経となる、法華経の経旨に基づいて、『大
乗の別受戒』を授ける場所が『円頓の戒壇』である。)を、比叡山に建立されてい
ます。

 この大事は、仏滅後(釈尊御入滅後)一千八百年間の身毒(インド)・尸那(中
国)・扶桑(日本)、そして、一閻浮提(全世界)第一の奇事(偉業)であります。

 伝教大師の御内証(内心の覚り)は、竜樹菩薩・天台大師等と比較すると、或い
は劣っているか、或いは同等かも知れません。
 けれども、日本国の仏法の人(僧俗)を、すべて、一法(法華経の『円戒』)に
統一させた事は、竜樹菩薩・天親菩薩の業績を超えて、南岳大師・天台大師よりも
勝れているように見受けられます。

 総括すると、如来御入滅後(釈尊御入滅後)の一千八百年間は、この御二人(天
台大師・伝教大師)こそが、『法華経の行者』となるでしょう。
 
 法華経見宝塔品第十一には、「もし、須弥山を手にとって、他方の無数の仏国土
に放り投げることが出来たとしても、それは、まだ難しいことではない。(中略)
もし、仏(釈尊)の御入滅後に、悪世の中において、法華経を説くことが出来たと
すれば、それこそが、とても難しいことなのである。」等と、仰せになられていま
す。

 伝教大師は、『法華秀句』において、前記の法華経見宝塔品第十一の経文を御解
釈されながら、このように仰せになられています。

 「『浅い教え(爾前経)は信じ易く、深い教え(法華経)は信じ難い。』という
教理は、釈尊の所判(御判断)である。

 浅い教え(爾前経)を去って、深い教え(法華経)に就くことは、丈夫(注、釈
尊の異称。仏の『十号→如来・応供・正偏知・明行足・善逝・世間解・無上士・調
御丈夫・天人師・仏世尊』の一つ。)の御心に適うものである。

 天台大師は、釈尊に信順して、法華宗を助けて、震旦(中国)に宣揚した。
 比叡山の一家(注、日本天台宗のこと。伝教大師が開祖。)は、天台大師からの
相承を受けて、法華宗を助けて、日本に弘通している。」と。

 この『釈)(法華秀句)の意味は、「賢劫第九番目の減劫において、人寿百歳の時(人
の寿命が百歳の時代)から、如来の御在世五十年(釈尊が仏法を説かれた五十年間)
と、滅後(釈尊御入滅後)一千八百余年との間に、身長五尺(注、一尺は約30セ
ンチ)程度の小身の者が、高さ十六万八千由旬・長さ六百六十二万里の金山を、ま
るで、一寸・二寸(注、一寸は約3センチ)程度の瓦礫を手に握るようにして、一
丁・二丁(注、一丁は約109メートル)まで投げることが出来たとしても、また、
雀が飛ぶよりも速く、鉄囲山(注、仏説上における、三千大千世界を囲む鉄山)の
外へ投げる者があったとしても、末法において、仏(釈尊)が仰せになられたよう
に、法華経を説こうとする人は、それ以上に稀である。」ということです。

 結局、天台大師・伝教大師だけが、仏説(釈尊の御説法)に相似して、法華経を
お説きになられた人となるのでしょう。

 天竺(インド)の論師は、未だに、法華経へ行き着いておりません。
 漢土(中国)の天台大師以前の人師は、法華経の本義から、或いは過ぎたり、或
いは足りない状態です。
 慈恩・法蔵・善無畏等は、東を西と云い、天を地と申している人々です。

 しかしながら、これら(法華秀句)の見解は、決して、伝教大師の自讃(自慢)
ではありません。

 去る延暦二十一年(802年)正月十九日、高雄山に桓武天皇が行幸をなさって、南
都六宗(倶舎宗・成実宗・三論宗・律宗・法相宗・華厳宗)の七大寺(東大寺・興福寺
・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺)の碩徳(学究に長けた僧侶)である、善
議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観
敏等の十有余人が最澄法師(伝教大師)と召し合せられて、宗論(法論)が行われまし
た。

 すると、南都六宗・七大寺の碩徳は、伝教大師の一言で舌を巻いて、二言・三言に及
ぶ者はなく、皆、一同に、頭を傾けて、手を組んで、黙ってしまいました。

 その結果、三論宗の『二蔵・三時・三転法輪』、法相宗の『三時・五性』、華厳宗の
『四教・五教・根本枝末・六相円融・十玄門』の法門は、いずれも、伝教大師によって、
大綱(根本的な事柄)を破折されてしまいました。

 その有様を例えると、大屋(大きな家)の棟や梁が折れたようでした。
 そして、十大徳(注、南都六宗・七大寺の碩徳の通称)の慢幢(慢心の旗)も倒れて
しまったのです。

 その時、桓武天皇は、大いに驚きになられて、延暦二十一年(802年)正月二十九
日、和気弘世・大伴国道の両官吏を勅使として、重ねて、南都六宗・七大寺に対して、
伝教大師への帰伏を命ずる旨を仰せ下されました。

 そして、南都六宗・七大寺の碩徳は、各々、署名をした上で、帰伏状を提出しました。
 彼等の帰伏状には、このように記されています。

 「ひそかに、天台大師の玄疏(法華経の注釈書)を見れば、総じて、釈尊御一代の教
法を括って、悉く、その主旨を顕しているため、法理の通じない所がない。
 そして、天台宗だけが、諸宗に超えて、特に、一道(唯一の仏法の真理)を示してい
る。

 その中の所説は、甚深の妙理である。
 七箇の大寺(七大寺)・六宗の学生(南都六宗の学僧)にとっては、昔より、未だ、
聞かざる所であり、未だ、かつて、見ざる所であった。

 それによって、三論宗と法相宗との長年の争論は、まるで、春の陽気が来ると、氷が
流散するかのように、解決した。

 また、伝教大師との宗論(法論)によって、明らかに、法の正邪が照然としたことは、
あたかも、雲や霧が晴れて、三光(太陽・月・星の光)を見るようなものであった。

 聖徳太子が仏法を弘通なさって以来、今に至るまで、二百余年の間、講じられた所の
経論の数は多い。
 講説者同士で、教理の優劣を争っていても、その疑いは、未だに、解けていない。

 にも拘らず、この最妙の円宗(天台宗)は、未だ、なお、宣揚されていなかった。
 それは、この二百余年間の衆生が、法華経の円味(円教の妙理)に応っていなかった
故であろうか。

 伏して、拝察すると、聖朝(桓武天皇)は、久しく、如来(仏)からの付嘱を受けて、
深く、法華経の純円の機根を結ばれたことによって、一妙(法華経)の義理が、始めて、
興顕した。
 それによって、南都六宗の学者(僧侶)は、初めて、仏法の至極を悟った。

 言うべきである。「この娑婆世界の含霊(人間)は、今後、悉く、妙円(法華経)の
船に載ることによって、早く、彼岸に渡る(成仏する)事が出来るであろう。」と。 
 (中略)

 善議等(注、伝教大師と法論した、南都六宗・七大寺の十有余名の僧侶)は、過去世
からの因縁に引かれて、幸運に逢った。その幸運とは、奇詞(有り難い御言葉→天台大
師・伝教大師の法華経の注釈書)を閲覧したことである。

 もし、深い宿縁がなかったならば、何を以って、聖世(仏法に通じた桓武天皇の御治
世)に生まれ合わせる事が出来たのであろうか。」と。
     
 彼の漢土(中国)の嘉祥等は、百余人を集めて、天台大師を『聖人』と定められまし
た。
 今、日本の南都六宗・七大寺の二百余人は、伝教大師を『聖人』と号し奉りました。

 仏(釈尊)の御入滅後二千余年に及んで、両国(中国と日本)に、『聖人』がお二人
御出現されています。
 その上、伝教大師は、未だに、天台大師が弘められなかった、法華経円頓の大戒壇を、
比叡山に建立されています。

 これこそ、まさしく、像法時代の末に、法華経が広宣流布(注、広く宣べられて、流
布すること。)した証ではないでしょうか。

 お答えします。

 釈尊の御入滅直後において、迦葉尊者・阿難尊者等が弘通されなかった大法を、正法
時代において、馬鳴菩薩・竜樹菩薩・提婆菩薩・天親菩薩等が弘通された事は、これま
での質疑で明らかにしました。

 また、正法時代において、竜樹菩薩・天親菩薩等が流布せずに残された大法を、像法
時代の前半において、天台大師が弘通された事も、これまでの質疑で明らかにしました。

 また、像法時代の前半において、天台智者大師が弘通されなかった法華経円頓の大戒
壇を、像法時代の後半において、伝教大師が比叡山に建立されたことも、これまでの質
疑で明らかにしました。

 ただし、もっとも不審である事は、「仏(釈尊)は説き尽くされていらっしゃっても、
仏(釈尊)の御入滅後に、迦葉尊者・阿難尊者・馬鳴菩薩・竜樹菩薩・無著菩薩・天親
菩薩、及び、天台大師・伝教大師が、未だに弘通されなかった、最大の深密の正法(三
大秘法の御本尊)は、経文の面(表)に現前としている。」という事であります。

 ならば、「この深法(三大秘法の御本尊)は、今、末法の始めである、『五・五百歳』
(末法の始めの五百年間)において、一閻浮提(全世界)に広宣流布する(広く宣べら
れて流布する)べきであろう。」という事に対する不審は、極まりないものがあります。
                
 質問致します。
 それは、如何なる秘法なのでしょうか。
 まず、その名をお聞きしてから、次に、その義をお聴きしたいと思います。

 そして、もし、この事が実事であるならば、釈尊が、二度、この世に御出現される
ことになるのでしょうか。上行菩薩が、重ねて、涌出されることになるのでしょうか。
 急ぎ急ぎ、慈悲をお与え頂いて、この事をお教えください。

 彼の玄奘三蔵は、六生を経て(六回生まれ変わって)、月氏(インド)に入ってか
らの十九年間(注、日蓮大聖人のお書き誤り、実際には十七年間)に渡って、「法華
・一乗の経典は、方便の教えである。小乗・阿含経は、真実の教えである。」と習学
しています。

 不空三蔵は、身毒(中国)から月氏(インド)に帰ってから、法華経寿量品の仏の
ことを、『阿弥陀仏』と書いています。

 これらの事例は、あたかも、東を西と云ったり、太陽を月と見誤るようなものです。
 このような誤った教えを、身を苦しめながら、修業したとしても、何の役にも立ち
ません。心に染めながら、実践したとしても、何の用にもなりません。

 幸いにして、我等は、末法に生まれて、一歩たりとも歩むことなく、釈尊が過去世
において、三祇(注、三祇とは、三阿僧祇劫のことであり、菩薩が修行して、成仏に
至るまでの劫数を示す。三阿僧祇劫とは、三つの阿僧祇劫の意。阿僧祇劫とは、数え
ることの出来ない長い期間の意。)の間、修行された功徳を超越して、飢えた虎に頭
を捧げることなく、無見頂相(注、仏の三十二相・八十種好の一つ。頭頂を見ること
が出来ないと云う相。)を得ることが出来るでしょう。
    
 お答えします。

 この法門(三大秘法)を申し上げること自体は、法華経の経文に根拠があるため、
容易いのです。
 ただし、この法門(三大秘法)を伝えるには、まず、三つの大事(大悪事)につい
て、述べる必要があります。

 大海は広いけれども、死骸を留める事はありません。
 大地は厚いけれども、不孝の者を載せる事はありません。

 しかし、仏法においては、五逆罪(殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧)
の者を助け、不孝の者を救います。
 ただし、正法を誹謗する一闡提(注、正法を信じないため、覚りを求める心がなく、
成仏する機縁を持たない衆生。)でありながら、持戒(戒律を持つこと)にして、大
智(大いなる智慧)を持っているように装う者は、赦されないのです。

 この三つの禍とは、所謂、念仏宗と禅宗と真言宗であります。
   
 第一に、念仏宗は、日本国に充満して、四衆(僧・尼・俗男・俗女)の口遊び(口
ずさみ)のようになっています。

 第二に、禅宗は、三衣(僧侶が着用する三種の法衣)・一鉢(物を乞う時に用いる
一個の鉄鉢)の大慢の比丘(外見は整っていても、慢心が強い僧侶)が四海(国中)
に充満して、一天(天下)の明導(指導者)と思われています。

 第三に、真言宗は、また、念仏宗・禅宗の二宗とは、比べようのない邪法でありま
す。
 比叡山・東寺・奈良七大寺・園城寺において、或いは官主(貫首・座主)となり、
或いは御室(住職)となり、或いは長吏(寺院の首長となる僧侶)となり、或いは検
校(社寺の僧尼を監督する僧侶)となっています。

 彼の内侍所(三種の神器の鏡を奉安する宮殿)の『神鏡』は、灰燼に帰してしまい
ました。けれども、大日如来の宝印を、『仏鏡』と恃んでいます。

 同じく、三種の神器の『宝剣』は、西海(壇ノ浦)に沈んでしまいました。けれど
も、彼等は、「真言の五大尊(不動明王・降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王・金
剛夜叉明王)に拠って、国敵を切ろう。」と、思っています。

 彼等の堅固な信心は、たとえ、劫石(注、天人が天衣を用いて擦り減らすと云われ
る、『劫』の長さを決める石。劫石が天衣によって摩滅し尽くした時を、『一劫』と
している。)が擦り減らされたとしても、傾くようには見受けられません。
 たとえ、大地が反覆したとしても、疑心は、起こり難いでしょう。


 中国において、天台大師が南三・北七の諸宗派を責められた時も、真言宗は、まだ、
渡来していませんでした。

 日本において、伝教大師が南都六宗を従えられた時にも、真言宗は、破折の対象か
ら漏れていました。

 方々の強敵(天台大師・伝教大師)を免れることによって、真言宗は、却って、大
法(真実の仏法)を喪失しています。

 その上、伝教大師の御弟子である慈覚大師は、この宗(真言宗)を取り立てて、比
叡山の天台宗を掠め落として、全面的に、真言化してしまいました

 そのため、この人(慈覚大師)には、誰人たりとも、敵対出来ません。

 このような僻見(誤った見解)に便りを得て(加勢されて)、弘法大師の邪義を咎
める人もいなくなりました。

 後に、日本天台宗の安然和尚が、少々、弘法大師の邪義を難詰しようとしたものの、
ただ、「華厳よりも、法華の方が劣っている。」と、記した所だけを咎める有様でし
た。

 そのため、法華経を、却って、大日経以下の存在に沈め果ててしまいました。
 単に、安然和尚の行為は、世間で言う処の『仲介者』のようなものでした。


 質問致します。
 この三宗(念仏宗・禅宗・真言宗)の誤りについては、如何にお考えでしょうか。

 お答えします。

 浄土宗に関しては、『斉』(中国)の時代に、曇鸞法師と云う者がいました。元々
は、三論宗の人でした。
 けれども、竜樹菩薩の『十住毘婆娑論』を見て、浄土宗の『難行道・易行道』の法
門を立てています。

 そして、道綽禅師と云う者がいました。『唐』(中国)の時代の人です。元々は、
涅槃経を講じていました。
 けれども、曇鸞法師が浄土宗の教義に移った記述を見てから、涅槃経を捨てて、浄
土宗へ移った後に、『聖道門・浄土門』の法門を立てています。

 また、道綽の弟子に、善導と云う者がいました。善導は、浄土宗において、『雑行
・正行』の修行法を提唱しています。

 日本国においては、末法に入って、百余年が経過した頃、後鳥羽院(上皇)の時代
(注、後鳥羽院の即位は、末法に入って、百三十三年目。)に、法然と云う者がいま
した。

 法然は、一切の道俗(出家・在家)を勧めるために、このような記述を残していま
す。

 「仏法は、時機(時と機根)を本(根本)としている。

 法華経・大日経等に基づく、天台宗・真言宗等の八宗・九宗。そして、釈尊御一代
の大乗教・小乗教、顕教・密教、権教・実教等の経典に基づく諸宗は、上根(上機根)
・上智(上智慧)である正法時代・像法時代二千年間の機根の為に存在する。

 末法に入っては、如何に、功を為して、行じたとしても、その益(利益)は得られ
ない。
 その上、弥陀・念仏に交えて、他の教法を行ずるならば、念仏の修行であっても、
往生は出来ない。

 これは、私が勝手に申している訳ではない。
 インドの竜樹菩薩や中国の曇鸞法師は、念仏以外の諸行を『難行道』と名付けてい
る。
 道綽は、『未有一人得者』(成仏出来る者は一人もいない。)と嫌悪している。
 善導は、『千中無一』(千人の中で一人も成仏出来ない。)と名付けている。

 これらの諸師は、他宗の方々であるため、御不審があるかも知れない。

 しかし、慧心(注、日本天台宗の慧心僧都源信)の先徳(先人の徳)に超越した、
天台・真言の智者は、果たして、末代にいるのだろうか。

 「顕密(顕教・密教)の教法は、我々の生死を離れるための法ではない。」と、慧
心が記した『往生要集』に述べられている。
 また、三論宗の永観が記した、『十因』(往生拾因)等を見るがよい。

 故に、法華・真言等を捨てて、一向に念仏を唱えれば、『十即十生・百即百生』(十
人が十人とも成仏する、百人が百人とも成仏する。)となるのだ。」と。

 当初は、法然の主張に対して、比叡山・東寺・園城寺・奈良七大寺等が論争を提起
する模様でした。

 けれども、慧心の『往生要集』の序(序文)の言葉が、道理のように見受けられた
ため、顕真座主(比叡山第六十一代座主)が墜ちてしまって、法然の弟子となってし
まいました。

 その上、たとえ、法然の弟子とならなかった人々も、弥陀・念仏を唱える事は、他
仏を讃嘆する事よりも容易であったため、口ずさみ(口癖)のようにしていました。

 また、念仏を唱える事に対して、心を寄せながら(熱心に)取り組んでいたので、
日本国は、皆、一同に、法然房の弟子となったように見受けられました。

 この五十年の間、一天・四海(日本国中)は、一人も例外なく、法然の弟子となり
ました。
 そして、法然の弟子となったが故に、日本国の人々は、一人も例外なく、謗法の者
となってしまいました。

 それを譬えると、千人の子が、一同になって、一人の親を殺害したならば、その千
人の子は、全員、五逆罪(殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧)の者となる
ようなものです。

 そして、その中の一人の子が、阿鼻地獄に堕ちるのであれば、他の子も、全員、阿
鼻地獄に墜ちない訳がありません。

 結局、法然は、自らの流罪を怨んで、悪霊となってから、法然並びに法然の弟子等
を罪に処した国主(後鳥羽上皇)や山寺(比叡山・三井寺)の僧等の身に取り憑いて、
或いは謀反を起こし、或いは悪事を為して、皆、関東(源氏の武士)に滅ぼされてし
まいました。

 そして、僅かに生き残った比叡山・東寺等の僧侶どもが、俗男・俗女から侮られる
有様は、まるで、猿猴が人間に笑われたり、捕虜が児童に軽蔑されるようなものでし
た。
  
 禅宗は、また、この便りを得て(注、比叡山や東寺等の勢力が衰えたことに乗じて)、
持斎(注、斎戒を持つ人。斎戒とは、行為を慎み、身心を清浄にすること。)等の真
似をして、人々の眼を迷わせています。

 そして、禅宗の者どもは、貴いような雰囲気をしているため、如何に、似非法門を
言い狂った(喧伝した)としても、彼等の過失とは思われていません。

 禅宗の宗旨においては、『教外別伝』(仏の本意は、教典の文字の外にあって、言
語以外で伝えられる。)と申して、「釈尊は、一切経の外に、迦葉尊者に対して、密
かに、覚りを囁かれた。それ故に、禅宗を知らずして、一切経を習う者は、あたかも、
犬が雷を咬むようなものである。また、猿が月の影を取ろうとする行為に似ている。」
と、主張しています。
 
 これらの事由の故に、禅宗は、日本国中において、親不孝のために父母から捨てら
れたり、無礼なる故に主君から勘当されたり、或いは、若輩の法師等が学問を怠けた
り、正気を失った遊女の本性に見合った邪法となっています。

 また、禅宗を信じる者は、皆、一同に、持斎(注、斎戒を持つ人。斎戒とは、行為
を慎み、身心を清浄にすること。)を装っているため、国の百姓が作った米を喰い尽
くす蝗(いなご)虫のような存在となっています。

 そのため、天神は、天眼を瞋らして(天変を発生させて)、地神は、身を震わせる
(地異を発生させる)のであります。

 真言宗と申す宗旨は、上の二つの禍(念仏宗・禅宗)とは、比較にならないほどの
大僻見(大邪見)であります。

 粗方、その理由を申しましょう。
 所謂、大唐(中国)の玄宗皇帝の時代に、善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵が、
大日経・金剛頂経・蘇悉地経を月支(インド)から渡来させています。

 この三経(善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵)の説相(意義)は、分明(明確)
であります。

 その極理を尋ねると、会二破二の一乗(注、声聞・縁覚の二乗を会して、もしくは、
声聞・縁覚の二乗を破して、菩薩行に帰着させること。)となります。
 そして、この三経(善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵)の説相(意義)が他経と
異なる点を論ずれば、『印』と『真言』が説かれている事だけであります。
  
 従って、真言宗の教義は、なお、華厳経や般若経の『三一相対の一乗』(注、声聞
・縁覚・菩薩の三乗と相対して、仏の一乗を現すこと。)の法門にも及びません。

 また、天台宗の法門から鑑みると、真言宗は、爾前経(法華経以前の経典)である
別教(菩薩の為に説かれた教え)や円教(円満な教え)ほどの価値もありません。
 ただ、蔵教(小乗の教え)・通教(小乗教と大乗教が混ざった教え)の二教を、前
面に出しているだけです。

 ところが、善無畏三蔵は、このように思いました。

 「この経文(大日経・金剛頂経・蘇悉地経)を明らかに言い出せば、華厳宗や法相
宗の者から嘲られて、天台宗の者からも笑われるだろう。

 折角、大事な経典だと思って、月支(インド)から持って来たのだ。
 このまま、黙っておくのは、本意ではない。」と。

 その頃、天台宗の中に、一行禅師という僻人(変わり者)がいました。
 そして、善無畏三蔵は、一行禅師と謀議する機会を持って、一行禅師に漢土の法門
(その当時の中国の仏教事情)を語らせたのです。


 一行阿闍梨は打ち抜かれて(騙されて)、三論・法相・華厳等の教義を、粗々、語
るだけでなく、天台宗の教義の立て方も、善無畏に述べました。

 善無畏は一行阿闍梨の話を聞いて、「天台宗の教義は、私(善無畏)が天竺(イン
ド)にいた頃に聞いていた評判よりも、なお、勝れている。真言宗には、天台宗より
も超越している要素がない。」と、思いました。

 そのため、善無畏は、一行を打ち抜いて(騙して)、「漢土において、和僧(一行)
は、利口な者である。確かに、天台宗は、神妙な(価値のある)宗派でもある。とこ
ろが、今の時点において、真言宗が天台宗に超越している所は、『印』と『真言』だ
けだ。」と、言いました。

 すると、一行は、「もっともな事である。」と、思いました。

 そして、善無畏三蔵は、一行に対して、「天台大師が法華経の疏(注釈書)を作成さ
れたように、我々も、大日経の疏(注釈書)を作成して、真言宗を弘通しようと思って
いる。」と、語りました。

 また、善無畏三蔵は、「貴僧(一行)が大日経の疏(注釈書)を書きなさい。」と、
一行を唆しました。

 それに対して、一行は、このように云いました。

 「大日経の疏(注釈書)を書くこと自体は、容易い。ただし、如何に、書くべきで
あろうか。

 天台宗は、心憎い宗派である。たとえ、天台宗以外の諸宗が、『我も、我も。』と、
争論をしたとしても、全く、敵わない事が一つある。

 所謂、法華経の序分となる、『無量義経』という経典を以って、釈尊が法華経以前
に説かれた四十余年の経々に対して、経典の勝劣を判ずる論点を打ち塞いでいる。

 また、天台宗は、法華経の法師品第十・如来神力品第二十一を以って、釈尊が法華
経以後に説かれた経々に対しても、経典の勝劣を判ずる論点を塞いでいるのだ。」と。
    
 そして、一行は、善無畏三蔵に対して、「天台宗においては、法華経と肩を並べる
(同時期に説かれた)経典(無量義経)に対しても、法華経法師品第十の『今説』の
経文を以って、責めている。ならば、『已今当の三説』の中において、大日経を何処
に位置付けるべきなのだろうか。」と、尋ねました。

 (注記、『已今当の三説』とは、釈尊が法華経の御説法を中心とされることによっ
て、それ以外の御一代の諸経を、三つの時期に分類されたものである。『已説・いせ
つ』とは、法華経以前に説かれた四十余年の爾前経。『今説・こんせつ』とは、法華
経の開経である無量義経。『当説・とうせつ』とは、法華経の後に説かれた涅槃経。
そして、法華経のことを、『已今当の三説』を超過した存在であるが故に、『三説超
過』『三説の外』とも云う。なお、法華経法師品第十においては、「我が所説の経典、
無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於いて、此の法華
経、最も為れ難信難解なり。」等と、仰せになられている。)

 その時に、善無畏三蔵は、大いに巧んで、こう云いました。

 「大日経の冒頭には、『入真言門住心品』という品(章)がある。
 あたかも、『無量義経』が四十余年の経々(法華経以前の爾前経)を打ち払ってい
るような意味合いの品(章)である。

 大日経第二の『入曼荼羅具縁真言品』以下の諸品(諸章)は、漢土(中国)におい
て、法華経・大日経の二本(二つの経典)に分かれている。
 けれども、天竺(インド)においては、一経の如き存在である。

 釈迦仏は、舎利弗・弥勒菩薩に向かって、『大日経』を、『法華経』と名付けられ
た。
 そして、『大日経』から『印』と『真言』を削除して、ただ、教理だけが説かれた
経典を、『法華経』としている。

 その経典(法華経)を、羅什三蔵は、漢土(中国)に渡来させている。
 そして、天台大師は、その経典(法華経)を、漢土(中国)で見ている。

 一方、大日如来は、『法華経』を、『大日経』と名付けられた。
 そして、大日如来は、金剛サッタに向かって、経典を説かれた。

 その経典(法華経)が、『大日経』と名付けられている。
 私(善無畏三蔵)は、天竺(インド)において、目の当たりに、これらの状況を見
たのだ。

 従って、和僧(一行)が書くべき事柄は、大日経と法華経を、水と乳のように、
『一味』(同類・理同)とすることである。
 もし、そのようにするならば、『大日経は、已今当の三説の経典を、皆、法華経の
如く、打ち落としている。』と、記しなさい。

 さて、『印』と『真言』は、心法の『一念三千』を荘厳して(飾り立てて)いる。
 ならば、『印』と『真言』は、『三密』(身密→印・口密→真言・意密→一念三千)
相応の秘法となる。

 『身密・口密・意密』の『三密』が相応する点から考えれば、天台宗は、『意密』だ
けに該当する。

 真言宗は、『三密』が相応しているが故に、あたかも、剛勇な将軍が甲鎧を帯して、
弓矢を横たえ、太刀を腰に差しているようなものである。
 ところが、天台宗は、『意密』だけの宗派であるが故に、あたかも、剛勇な将軍が赤
裸でいるようなものである。」と。

 結局、一行阿闍梨は、善無畏三蔵の云った通りに、書いたのであります。
                
 漢土(中国)の三百六十箇国においては、この事実を知る人がいなかったのでしょ
うか。
 そのため、始めの間は、天台宗と真言宗との勝劣を論争していました。けれども、
善無畏等の人柄は重く、天台宗の人々の人柄は軽く、評価されていました。

 また、天台大師のような智慧のある者もいなかったため、日に日に、真言宗の勢力
が増していくばかりでした。
 そして、年月を重ねていくほどに、益々、真言宗の誑惑(欺き・惑わす)の根(実
態)が深く隠れていきました。

 日本国の伝教大師は、漢土(中国)に渡来されて、天台宗の教義を渡された(学び
伝えられた)際に、そのついでとして、真言宗の教義も渡されて(学び伝えられて)
います。
 そして、伝教大師は、天台宗を日本の皇帝(天皇)に授けられて、真言宗を南都六
宗の大徳(高僧)に習わせるようにしています。

 ただし、南都六宗と天台宗との勝劣は、伝教大師が入唐(中国への渡来)以前に、
定められています。

 入唐(中国への渡来)以後には、「円頓の戒場(法華経円頓の戒壇)を立てるべき
か、否か。」という論争に終始されたため、その間、「敵が多くなれば、戒場の一事
(法華経円頓の戒壇の建立)が成就し難い。」と、伝教大師はお考えになったのでし
ょうか。
 また、「末法において、真言宗を責めさせよう。」と、伝教大師はお考えになった
のでしょうか。

 そのため、皇帝(桓武天皇)の御前においても、伝教大師は、天台宗と真言宗との
勝劣を論じられていません。
 伝教大師の弟子等にも、明確に、語られていません。

 けれども、伝教大師は、『依憑集』という一巻の秘書(秘伝の書物)を記されてい
ます。

 『依憑集』とは、七宗(倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗)
の人々が天台宗に帰伏した模様を、伝教大師がお述べになっている書物です。
 そして、この書物(依憑集)の序文に、真言宗の誑惑(欺き・惑わす)に関する御
記述が、一筆、見受けられます。
        
 弘法大師は、伝教大師と同じく、延暦二十三年(804年)に御入唐されて(中
国へ渡って)います。
 その際に、弘法大師は、青竜寺の恵果に会って、真言宗の教義を習いました。

 弘法大師は、大同元年(806年)の御帰朝(日本へ戻って)の後に、釈尊御一
代聖教の勝劣を判じて、「第一真言、第二華厳、第三法華。」と、書いています。

 この大師(弘法大師)は、世間の人々から、思いの外に、重んじられている人で
す。
 ただし、仏法の事に関しては、言及すると恐れ多いのですが、思いの外に、粗雑
な事々があります。
             
 これらの事情を、粗々、考えてみることにしましょう。

 弘法大師が漢土(中国)に渡来してからは、ただ、真言宗の事相(密教の修法)
の『印』と『真言』だけを習い伝えて、その義理(法理)については、詳しく、裁
いて(理非を明らかにして)いなかったのです。

 ところが、弘法大師が日本へ帰国した後に、よく世間を見渡すと、思いの外に、
天台宗が勢力を伸張していました。

 弘法大師は、その際に、「私(弘法大師)が重んじている真言宗は、弘め難い。」
と、考えました。
 それ故に、弘法大師は、元々、日本国にいた頃から習っていた、華厳宗の教義を
取り出して、「法華経より、華厳経の方が勝っている。」という事由を申しました。
          
 それでも、「通常の華厳宗の者が申しているように、私(弘法大師)が教義を唱
えたのであれば、世間の人々は信じないだろう。」と、思ったのでしょうか。
 弘法大師は、少し、脚色を施して、「当方(真言宗)は、大日経・竜猛菩薩の『菩
提心論』・善無畏等の実義に基づいている。」と、大妄語を付け加えていました。

 けれども、天台宗の人々は、特段、弘法大師を咎めて、反論する事がなかったの
です。

 質問致します。

 弘法大師の『十住心論』『秘蔵宝鑰』『二教論』等の著書においては、「このよ
うに、諸宗においては、各々の経典において、『仏乗』(成仏する為の経典)を名
乗っている。けれども、後(真言)の経典と比較すると、『戯論』に過ぎない。」
と、云っています。

 また、弘法大師は、「法華経は、無明(迷い)の辺域の『因位』であって、明(覚
り)の領域の『分位』ではない。」と、云っています。

 また、弘法大師は、「顕教の諸大乗経である、華厳・方等・般若・法華・涅槃の
経典は、『五味』(乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味・醍醐味)の中において、『第四
・熟蘇味』である。」と、云っています。

 また、弘法大師は、「震旦(中国)の人師(注、暗に、天台大師のことを批判し
ている。)等は、争って、『第五・醍醐味』である密教の経典を盗んで、各々の宗
旨に添加した。」と、云っています。

 これらの弘法大師の解釈について、如何に考えれば、宜しいのでしょうか。
        
 お答えします。

 私(日蓮大聖人)も、これらの弘法大師の解釈に驚きました。

 そのため、一切経、並びに、大日の三部経等を開いてみると、「華厳経と大日経
に対すれば、法華経は戯論。」「六波羅蜜経に対すれば、盗人。」「守護経に対す
れば、無明(迷い)の辺域。」と仰せになられている経文は、一字・一句たりとも
存在しません。

 上記の弘法大師の主張は、極めて、取るに足らない事であります。
 けれども、この三百年~四百年余りに、日本国の多くの智者(高僧)どもが用い
ています。
 そのため、必ずや、根拠があるように、思われているのでしょう。

 そこで、しばらくの間、たいへん解り易い邪義を挙げます。
 それによって、その他の弘法大師の主張も、取るに足りない事を知らせましょう。
    
 法華経を『醍醐味』と称することは、中国の陳・隋の時代に、天台大師が仰せに
なったことが起源です。
 そして、六波羅蜜経は、唐の時代の半ば(注、唐は、陳・隋より後の王朝である。)
に、般若三蔵が天竺(インド)から渡来させています。

 仮に、六波羅蜜経の『醍醐味』が陳・隋の時代に渡来していたならば、「天台大
師は、真言宗の『醍醐味』を盗んだ。」と、云えるかも知れません。
 (注、実際には、唐の時代に、六波羅蜜経が渡来している。そのため、既に御入
滅された後の天台大師が、六波羅蜜経の『醍醐味』を盗める訳がない。)

 この件に関しては、参考となる事例があります。

 日本の得一(法相宗)は、「天台大師は、解深密経に基づく宗旨の三時教を破折
している。それは、三寸の舌を以って、五尺の身を断つようなものだ。」と、罵っ
ていました。

 それに対して、伝教大師は、得一を糺されて、「解深密経は、唐の時代の始めに、
玄奘が渡来させている。一方、天台大師は、陳・隋の時代の方である。智者(天台
大師)御入滅の後、数十年が経過してから、解深密経が渡来している。ならば、天
台大師がお亡くなりになった以降に渡来してきた経(解深密経)を、如何にして、
破折することが出来るのか。」と、責められています。

 すると、得一は、言葉に詰まるだけでなく、舌が八つに裂けて、死んでしまいま
した。

 けれども、弘法大師が、「震旦(中国)の人師(僧侶)どもは、争って、『醍醐
味』である密教の経典を盗んで、各々の宗旨に添加した。」等と云っていることは、
得一と比較にならないほどの悪口であります。
   
 弘法大師は、華厳宗の法蔵・三論宗の嘉祥・法相宗の玄奘、天台大師及び南三・
北七の諸宗派の人師(僧侶)だけでなく、中国の後漢以降の三蔵人師(経・律・論
の三蔵に通達した僧侶)のことを、皆、まとめて、『盗人』と書いています。

 その上、また、法華経を『醍醐味』と称することは、天台大師等の私的な言論で
はありません。

 仏(釈尊)は、涅槃経において、法華経を、『醍醐味』とお説きになられていま
す。
 天親菩薩は、法華経・涅槃経を、『醍醐味』と書かれています。
 竜樹菩薩は、法華経を、『妙薬』と名付けられています。

 それ故に、もし、法華経等を『醍醐味』と申し上げる人が、『盗人』であるなら
ば、釈迦如来・多宝如来・十方の諸仏・竜樹菩薩・天親菩薩等は、『盗人』になっ
てしまうのでしょうか。

 弘法の門人等及び日本の東寺の真言師は、如何に、自らの眼が拙くて、黒白を弁
える(邪正を弁える)事が出来なかったとしても、他者の鏡を以って、自らの禍ち
を知りなさい。

 この他にも、法華経を『戯論の法』と書いたことに関して、大日経・金剛頂経等
から、確かな根拠となる経文を出してみなさい。

 たとえ、それぞれの経々に、「法華経は、戯論である。」と説かれていたとして
も、経典の訳者が誤っている事もあるでしょう。
 そのため、よくよく、思慮をする必要があるのではないでしょうか。

 孔子は、「九回考えてから、一回発言した。」と、云われています。
 周公旦は、「天下の士(賢人)が来れば、三度も沐浴を中断して、その都度、髪
を握ってから、面会した。そして、三度も食事を中断して、その都度、口の中の食
べ物を吐いてから、面会した。」と、云われています。

 外書(仏教以外の書物)において、取るに足らないほどの世間の浅い事柄(儒学)
を習う者でさえ、『智人』というものは、このような心構えを持っています。
 それと比較すれば、何故に、これほど、浅ましい事(弘法大師等の言動)を行っ
たのでしょうか。
          
 このような邪見も、末になると(時代が過ぎると)、彼の伝法院(新義真言宗の
総本山根来寺)の『本願』と名乗っている、聖覚房・覚鑁(平安時代末期の真言僧)
は、『舎利講式』(注、聖覚房・覚鑁の講演集である、「密厳秘釈」に記録が残っ
ている。)において、このように云っています。

 「尊高なる者は、不二摩訶衍(注、真言密教の金剛界・胎蔵界の両界が『不二』
であり、『摩訶衍』は大乗を意味している。)の仏(大日如来)である。
 驢牛(ロバ・牛)の三身(釈尊)は、車を引くことさえも出来ない。

 秘奥なる者は、両部曼荼羅の教(金剛界・胎蔵界の曼荼羅を説く真言密教)であ
る。
 顕乗の四法(顕教の大乗経典に依拠した、法相宗・三論宗・華厳宗・法華宗)は、
履物取りにも及ばない。」と。

 前記において、『顕乗の四法』と云っているのは、法相宗・三論宗・華厳宗・法
華宗の『四宗』であります。
 そして、『驢牛の三身』と云っているのは、法華経・華厳経・般若経・深密経の
教主の『四仏』(釈尊)であります。

 「これらの仏や僧は、真言師と比較すれば、聖覚房・弘法大師の牛飼いであり、
履物取りにも及ばない程度の者である。」と、聖覚房・覚鑁が書いています。
                 
 彼の月氏(インド)の大慢婆羅門は、生まれながらの博学であり、顕教・密教の
二道を胸に浮かべ、内道(仏教)・外道(仏教以外の教え)の典籍(書籍)を掌握
していました。
 因って、王と臣下は、頭を傾けて、万人は、師範と仰いでいました。

 ところが、あまりの慢心を抱いた故に、「世間において、尊崇する者は、大自在
天・婆籔天・那羅延天・大覚世尊、この『四聖』だけである。そこで、『四聖』を、
私(大慢婆羅門)の高座の『四本の足』にしよう。」と、大慢婆羅門は云いました。

 それから、大慢婆羅門は、大自在天・婆籔天・那羅延天・大覚世尊の『四聖』の
像を、自らの高座の『四本の足』に彫らせました。
 そして、その上に坐ってから、法門を申していました。

 当時(日蓮大聖人御在世当時)の真言師が、潅頂(注、真言宗において、水を頂
に注ぎながら、一定の地位に進む儀式のこと。)をする時に、釈迦如来等の一切の
仏を描き集めて、『敷曼荼羅』としているようなものです。

 また、禅宗の法師等が、「この宗(禅宗)は、仏の頂を踏む大法である。」と、
云っているようなものです。

 ところが、その当時、賢愛論師と云う小僧がいらっしゃいました。
 賢愛論師は、「彼(大慢婆羅門)を糺すべきである。」と、申しました。

 けれども、王・臣下・万民は、賢愛論師の発言を用いませんでした。
 それどころか、結局の所、大慢婆羅門の弟子や檀那等に言い付けて、賢愛論師に
対する無量の妄語(数え切れないほどの偽言)をでっち上げてから、悪口・殴打し
ました。

 しかしながら、賢愛論師は、少しも、命を惜しまずに、自らの主張を訴えられま
した。
 すると、帝王は、賢愛論師を憎まれていたため、法論を行った上で、問詰されよ
うとしました。
 ところが、法論を行った際に、却って、大慢婆羅門の方が、賢愛論師に責められ
てしまいました。

 その際に、悔い改められた帝王は、天を仰ぎ、地に伏して、嘆かれながら、「朕
は、目の当たりに、この事を聞いて、邪見を晴らすことが出来た。しかし、先代の
王は、どれほど、この者(大慢婆羅門)に騙されて、阿鼻地獄にいらっしゃる羽目
になったのであろうか。」と、仰いました。
 そして、帝王は、賢愛論師の御足に取り付かれて、悲涙を流されました。

 その後、帝王は、大慢婆羅門を殺そうとされました。
 しかし、賢愛論師が御計らい(助命の嘆願)を行ったため、大慢婆羅門をロバに
乗せて、五天竺(インド全土)に顔を晒す(引き廻しをする)ことにしました。

 すると、逆恨みをした、大慢婆羅門の悪心は、益々、盛んになりました。
 そのため、大慢婆羅門は、現身(生きながら)にして、無間地獄へ堕ちました。

 今の世(日蓮大聖人御在世当時)の真言宗と禅宗等の人々は、大慢婆羅門が犯し
た謗法の罪と、全く替わる事がないでしょう。

 漢土の三階禅師(注、三階仏法の邪義を説いた、中国・隋代の禅僧・信行)は、
こう云っています。

 「教主釈尊の法華経は、第一階の正法時代・第二階の像法時代の衆生の為の法門
である。
 しかし、第三階の末代(末法)の衆生の為には、私(三階禅師)が作った普経(三
階教)に拠るべきである。

 法華経を、今の世(末法の世)に行じようとする者は、十方の大阿鼻地獄に堕ち
るであろう。
 それは、末代(末法の時代)の機根に合致しないからだ。」と。

 そして、三階禅師は、昼夜六時の礼懺(礼拝・懺悔)と一年四時の坐禅を修した
故に、『生身の仏』の如き存在となって、多くの人々から尊敬されたため、一万人
以上の弟子がいました。

 けれども、ある時、三階禅師の弟子であった孝慈が、法華経を拝読する幼い少女
から、邪義を責められてしまいました。

 すると、「その場では、孝慈が声を失い、後には、三階禅師が大蛇となって、多
くの弟子・檀那並びに少女・処女等を飲み食った。」と、云われています。

 当世の善導・法然等が唱えている、『千中無一』(法華経では、千人の中で一人
も成仏出来ない。)の悪義も、これ(三階禅師)と同類の邪義であります。
     
 これらの三つの大事(念仏宗・禅宗・真言宗の悪事)は、既に、年久しく、行わ
れています。
 従って、一般的には、卑しむべき(軽蔑すべき)事柄ではないのでしょう。
 けれども、仏法の真義を申したならば、信じる人もいるかも知れません。

 しかし、これよりも、百千万億倍も信じ難いような、最大の悪事があります。

 慈覚大師は、伝教大師の第三の御弟子(日本天台宗の第三世の座主)になります。
 しかしながら、上一人(天皇)より、下万民に至るまで、「慈覚大師は、伝教大
師よりも、勝れていらっしゃる方である。」と、思われています。

 この人(慈覚大師)は、真言宗と法華宗の実義を極められています。
 しかし、慈覚大師は、「真言は、法華経より勝れている。」と、書いています。
 ところが、比叡山三千人の大衆や日本一州(全国)の学者等は、一同に、慈覚大
師に対する帰伏の義を示してしまいました。
          
 弘法の門人(弟子)等は、こう云っています。

 「弘法大師が、『法華経は、華厳経に劣っている。』とお書きになっていること
は、当方(真言宗の側)から見ても、少し、強義に思う。

 しかし、慈覚大師の解釈を以って、検討したとしても、真言宗が法華経に勝って
いることは、決定している。

 そもそも、日本国において、『真言宗は、法華経より勝っている。』という法義
を立てる事に対しては、比叡山(天台宗)こそが強敵になるべきであった。

 にも拘らず、慈覚大師によって、比叡山三千人の大衆(僧侶・信徒)の口が塞が
れたため、真言宗にとって、思い通りの結果となった。」と。

 ならば、東寺(京都の真言宗本山)の第一(最大)の味方として、慈覚大師に勝
る人はいません。


 更に、例を挙げると、浄土宗・禅宗は、余国(日本以外の国)で弘まっていても、
日本国においては、比叡山延暦寺の許可がなければ、無辺劫を経たとしても(永遠
の時を経たとしても)、弘めることが出来なかったのです。

 ところが、安然和尚という比叡山第一の古徳(高僧)が、『教時諍論』という文
書において、当時の仏教九宗派の勝劣を立てたところ、「第一・真言宗、第二・禅
宗、第三・天台法華宗、第四・華厳宗。」等と、規定してしまいました。

 この大きく誤った解釈のために、禅宗が日本国に充満して、既に、『亡国』とな
ろうとしています。

 また、法然が念仏宗を流行させたことによって、一国(日本国)が失われようと
する因縁(原因)は、慧心(日本天台宗の慧心僧都・源信)が著した『往生要集』
の序文から始まったことです。

 やはり、「師子の身の中に棲む虫(寄生虫)が、師子を食ってしまう。」と、仏
(釈尊)がお記しになられた事は、真実なのでしょう。
  
 伝教大師は、漢土(中国)に渡るまでの十五年間、日本国において、天台宗・真
言宗等の教義を自見(独学)なされました。

 『生知の妙悟』(注、生まれながらにして、妙なる義を悟ること。)であったた
め、伝教大師は、師匠がいなくても、それらの法義を覚知することが出来ました。

 しかしながら、伝教大師は、世間からの不審を晴らすために、漢土(中国)に渡
って、天台・真言の二宗を学ばれることにしました。

 その当時、漢土(中国)の人々(僧侶)の間には、種々の見解がありました。
 けれども、伝教大師の御心においては、「法華は、真言より勝れている。」と、
お考えになっていた故に、『真言宗』の『宗』の字を削られて、「天台宗の止観・
真言等」と、お書きになっていました。

 伝教大師は、日本へお戻りになってから、『年分得度者』(注、毎年、一定数に
限って、僧侶と成る者。)として、毎年、二人の学生を得度(出家)させてから、比
叡山内において、十二年間の修行を施しました。

 更に、伝教大師は、一乗止観院(比叡山延暦寺の根本中堂)において、十二年間の
修行を終了した、二名の『年分得度者』に、『法華経・金光明経・仁王経』の三つ
の経典を長講させました。
 そして、『法華経・金光明経・仁王経』を、『鎮護国家の三部経』と定められま
した。

 その上で、天皇からの『宣旨(詔)』を賜ることによって、伝教大師は、永代日本
国(日本国建国以来)の第一の重宝であるところの、『神璽・宝剣・内侍所』の『三
種の神器』に擬えながら、『法華経・金光明経・仁王経』の『鎮護国家の三部経』
を崇めさせたのであります。
          
 比叡山第一の座主・義真和尚、第二の座主・円澄大師の時代までは、この義(伝
教大師の法義)に、相違がなかったのです。

 後に、比叡山第三の座主となる、慈覚大師が御入唐する(唐の国へ渡る)と、漢
土(中国)に渡来してから十年の間は、顕教・密教二道の勝劣を、八人の大徳(真
言宗の高僧)から習い伝えられました。
 また、天台宗の広修・維ケン等の方々からも、法門を習いました。

 その際に、慈覚大師が心の内に思ったことは、「真言宗は、天台宗より勝れてい
た。我が師・伝教大師は、未だに、この事を、詳しく習わなかったのだろう。伝教
大師は、漢土(中国)に、長い間、滞在されていなかった故に、真言宗の法門を、
大雑把に、御覧になっていたのだろう。」ということでした。

 その後、慈覚大師は、日本国に帰朝して(戻って)から、比叡山の東塔・『止観
院』の西側に、『総持院』という大講堂を立てました。
 『総持院』の御本尊は、金剛界の大日如来でした。

 慈覚大師は、『総持院』の御本尊の御前において、善無畏が作成した大日経の疏
(解説書)を手本としながら、金剛頂経の疏(解説書)七巻・蘇悉地経の疏(解説
書)七巻、以上十四巻の疏(解説書)を作りました。

 これらの疏(解説書)の肝心(中心)の解釈として、このような記述が述べられ
ています。

 「教に、二種類ある。

 一つは、『顕示教』。つまり、『三乗教』(声聞・縁覚・菩薩の為の教え)のこと
である。

 これらの教は、世俗(注、俗諦・真諦の二諦→世間一般の真理・仏法の真理が一
如であること→『事』の法門)と勝義(注、俗諦・真諦の二諦→世間一般の真理・仏
法の真理に勝劣があること→『理』の法門)が、未だに、円融していない。

 もう一つは、『秘密教』。つまり、『一乗教』(仏の為の教え)のことである。

 これらの教は、世俗(『事』の法門)と勝義(『理』の法門)が、一体にして、円融
している。

 そして、『秘密教』の中には、また、二つの種類がある。

 一つは、『唯理秘密教』である。
 華厳経・般若経・維摩経・法華経・涅槃経等の諸経が、それに該当する。

 その理由は、ただ、世俗(『事』の法門)と勝義(『理』の法門)が『不二』である
事だけが説かれていて、未だに、密教の『印』と『真言』の事柄が説かれていない
からだ。

 もう一つは、『事理倶密教』である。
 大日経・金剛頂経・蘇悉地経等の諸経が、それに該当する。

 その理由は、世俗(『事』の法門)と勝義(『理』の法門)が『不二』である事が説
かれているだけでなく、密教の『印』と『真言』の事柄も説かれているからだ。」
と。
    
 この解釈の意味は、こういうことです。

 「法華経と真言三部経(大日経・金剛頂経・蘇悉地経)との勝劣を判定する際に、
真言三部経(大日経・金剛頂経・蘇悉地経)と法華経は、所詮(究極)の『理』が、
同じく、『一念三千』の法門である。

 しかしながら、密教の『印』と『真言』等の事法に関しては、法華経に欠けてい
て、存在しない。

 故に、法華経は、『理』だけが、秘密(密教)である。
 そして、真言の三部経(大日経・金剛頂経・蘇悉地経)は、『事』も『理』も、
共に、秘密(密教)である。
 因って、『法華経と真言の三部経(大日経・金剛頂経・蘇悉地経)との間には、
天地雲泥の開きがある。』と、書かれている。

 しかも、この筆(記述)は、私(慈覚)の勝手な解釈ではない。
 善無畏三蔵が記した、大日経の『疏』(解説書)の精神に基づいているのだ。」
と。

 そのように思ったものの、慈覚大師は、尚々、二宗(天台法華宗・真言宗)の勝
劣について、不審な点があったのでしょう。
 はたまた、「他者からの疑いを解消しよう。」と、思ったのでしょうか。
    
 慈覚大師の伝記には、このように述べられています。

 「善無畏三蔵が記した、大日経の『疏』(解説書)に倣って、慈覚大師は、金剛
頂経・蘇悉地経の『疏』(解説書)を作成した。

 その作業を為し終わった後に、慈覚大師は、心中で、一人思った。
 『この『疏』(金剛頂経・蘇悉地経の解説書)は、仏意に通じているのか、否か。
もし、仏意に通じていなければ、世間に流伝(流布・伝承)させるのは、止めてお
こう。』と。

 そして、慈覚大師は、仏像の前に、金剛頂経・蘇悉地経の『疏』(解説書)を安
置して、七日・七晩、深誠を翹企して(熱望して)、祈請を勤修することにした。

 すると、五日目の五更(明け方)に至って、夢を見た。
 その夢は、『正午の時刻に際して、日輪(太陽)を仰ぎ見た。それから、弓を以
て、日輪(太陽)を射た。その矢は、日輪(太陽)に命中した。そして、日輪(太
陽)は、即座に、転動した。』というものだった。

 夢が覚めた後に、慈覚大師は、『私(慈覚大師)が作成した、金剛頂経・蘇悉地
経の『疏』(解説書)は、深く、仏意に通達している。』と悟った。
 そして、慈覚大師は、『この事を、後世に伝えるべきである。』と語った。」と。
           
 慈覚大師は、本朝(日本)において、伝教大師・弘法大師の両家の仏法を習い究
めました。
 そして、異朝(中国)においては、真言宗の八人の大徳(高僧)や南天(南イン
ド)出身の宝月三蔵等から、十年間、最大事の秘法(真言密教)を究めました。

 また、日本へ戻ってからは、二経の『疏』(金剛頂経・蘇悉地経の解説書)を完
成させました。
 その際に、慈覚大師は、重ねて、本尊(大日如来)に祈請を為すと、智慧の矢が、
既に、中道(注、不偏にして中正の道→仏道)の日輪(太陽)に当たっていた故に、
大変、驚きました。

 歓喜の余りに、慈覚大師は、仁明天皇からの『宣旨』(天皇の詔)が下されるこ
とを申し添えてから、二経の『疏』(金剛頂経・蘇悉地経の解説書)を世間に流伝
(流布・伝承)させました。

 また、慈覚大師は、『天台(比叡山延暦寺)の座主』を『真言の官主』と為して、
真言の三部経(大日経・金剛頂経・蘇悉地経)を『鎮護国家の三部経』と定めまし
た。

 それから、今(日蓮大聖人御在世当時)に至るまで、四百年以上の間、真言の碩
学(学者)は、稲や麻のように、多く、存在しています。
 また、真言を渇仰する者(信者)も、竹や葦のように、多く、存在しています。

 それ故に、桓武天皇・伝教大師等が日本国に建立なされた寺塔は、一宇(一寺・
一塔)も漏れなく、真言の寺となってしまいました。
 そして、公家も武家も、一同に、真言師を招聘して、『師匠』と仰ぎ、『僧官』
の位を与えて、寺を預けさせました。

 そのため、仏事において、木画(木像や画像)の開眼供養をする際には、八宗(倶
舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗・天台宗)が一同に、大日
如来の仏眼(開眼)の『印』と『真言』を用いるようになりました。

 疑問があります。

 「法華経は、真言に勝っている。」と申している人は、この(慈覚の)解釈を、
如何に捉えるべきでしょうか。用いるべきなのでしょうか。それとも、捨てるべき
なのでしょうか。

 お答えします。

 仏(釈尊)は、未来(釈尊の御入滅後)における、『仏法の正邪』への判断基準
をお定めになられて、「『法』に依って、『人』に依ってはならない。」と、涅槃
経で仰せになられています。

 竜樹菩薩は、『十住毘婆沙論』において、「修多羅(経典)に依ることは、白論
(正論)である。修多羅(経典)に依らなければ、黒論(邪論)である。」と、仰
せになっています。

 天台大師は、『法華玄義』において、「また、修多羅(経典)と合致すれば、記
録して、その意見を採用せよ。しかし、『文』も無く、『義』も無い意見を、信受
してはならない。」と、仰せになられています。

 伝教大師は、『法華秀句』において、「仏説(仏が説かれた経典)に依憑(依拠)
すべきであって、人師が説いた口伝を信じてはならない。」等と、仰せになられて
います。

 これらの『経』『論』『釈』の通りであるならば、「夢を、『本』にしてはなら
ない。」(慈覚の『夢』を、『根本的な判断基準』とすることによって、『仏法の
正邪』を分別してはならない。)ということです。

 ただ、直々に、法華経と大日経との勝劣を、明確に説かれている『経』『論』の
文証こそ、大切にするべきでしょう。
          
 ただし、「『印』と『真言』の義がなかったならば、木画の像(木像・画像)を
開眼する事が出来ない。」ということは、これまた、おかしな事です。
 ならば、真言宗が渡来する以前には、木画の像(木像・画像)を開眼する事が出
来なかったのでしょうか。

 天竺(インド)・漢土(中国)・日本においては、真言宗が渡来する以前の木画
の像(木像・画像)に関して、「或いは歩まれたり、或いは説法されたり、或いは
御語りになった。」という伝承があります。

 しかし、『印』と『真言』を以って、仏像を供養(開眼供養)するようになって
からは、利生(御利益)も、全く失せてしまいました。

 上記の内容は、常の論談の義(日頃、話し合われている事柄)であります。

 ただし、この一事(注、慈覚が作成した金剛頂経・蘇悉地経の『疏→解説書』の
正邪)に関して、日蓮は、明確な証拠を、余所に引くことを致しません。
 慈覚大師の御解釈を仰いで、それを、信じる(証拠として採用する)のでありま
す。

 質問致します。
 慈覚大師の御解釈を、どのように信じれば(証拠として採用すれば)、宜しいの
でしょうか。

 お答えします。

 慈覚大師の『夢』の根源(原因)は、「真言は、法華経に勝っている。」という
法義を、自分勝手に策定した事によって、『夢』を見たのであります。

 もし、この『夢』が『吉夢』であるならば、慈覚大師が結び付けたように、真言
が勝っているのでしょう。
 ただし、「日輪(太陽)を弓で射た。」と、慈覚大師が『夢』に見たことは、果
たして、「『吉夢』である。」と、云うべきなのでしょうか。

 内典(仏教の書物)五千・七千余巻や外典(仏教以外の書物)三千余巻の中に、
「日輪(太陽)を弓で射た。」という『夢』を見たことが、『吉夢』であるという
証拠があれば、是非、お受けしたいものです。

 逆に、こちら(日蓮大聖人)から、慈覚大師の邪義を破折する為の証拠を出して、
少々、申し上げる事にしましょう。
  
 釈尊の御在世当時、インドのマカダ国の阿闍世王は、天から、月が落ちる夢を見
ました。
 そして、耆婆大臣に占わせたところ、「仏(釈尊)の御入滅」というお告げが出
ました。

 釈尊の弟子であった須抜多羅は、「天から、日(太陽)が落ちた。」と、夢に見
ました。
 そして、自分で占ったところ、「仏(釈尊)の御入滅」というお告げが出ました。

 修羅は、帝釈天王と合戦をする時に、「まず、日月(太陽・月→大日天王・大月
天王)を射奉る。」と、云われています。
 古代中国の『夏』の桀王や『殷』の紂王という『悪王』は、常に、日(太陽)を
射たことによって、身を滅ぼし、国を破られています。

 摩耶夫人(釈尊の御母様)は、日(太陽)を孕んだ夢を御覧になって、悉達太子
(釈尊の出家前の御名前)をお産みになっています。
 それ故に、仏(釈尊)の御幼名を、『日種』と申し上げていました。

 『日本国』という名前の由来は、「天照太神が、『日天(大日天王)』として、
在すから。」であります。

 ならば、この(慈覚の)『夢』は、「天照太神・伝教大師・釈迦仏・法華経を射
奉った矢こそが、二部の『疏』(慈覚が作成した金剛頂経・蘇悉地経の解説書)で
あった。」ということになるのでしょう。
          
 日蓮は、愚癡の者であるため、経論の事さえも知りません。(注、あくまでも、
日蓮大聖人の御謙遜である。)

 しかし、この(慈覚の)『夢』を以って、「法華経よりも、真言が勝れている。」
と申している人は、今生において、国を滅ぼし、家を失うでしょう。また、後生に
おいて、阿鼻地獄に墜ちるでしょう。その事は、承知しております。

 今、(真言亡国の)『現証』があります。
 仮に、日本国と蒙古国との合戦において、一切の真言師が『調伏』(注、密教の
祈祷によって、悪魔・怨敵を退散させるための修法。)を行なった末に、日本が勝
てば、「真言は素晴らしい。」と、思うでしょう。

 ただし、先例を挙げると、承久の合戦において、多くの真言師が祈祷を行いまし
た。
 ところが、『調伏』される側の権大夫(北条義時)殿が勝った故に、後鳥羽院(後
鳥羽上皇)は隠岐の国へ流されて、御子の天子(順徳天皇)は佐渡の島々へ流され
ました。
 果たして、そういう結果と成るように、多くの真言師は、『調伏』を行ったので
しょうか。

 結局は、あたかも、野干(狐)が鳴いたために、猟犬が唸って、己(狐)の身に
噛み付かれてしまう事のように、法華経観世音菩薩普門品第二十五で仰せの『還著
於本人』(注、還って、本人に著きなん。邪法を以って、『調伏』を行えば、その
祈りが、還って、敗北の因となること。)の経文と、少しも、違わない結果になり
ました。

 そして、比叡山の三千人の大衆(僧侶・信徒)は、鎌倉(源氏の軍勢)に攻めら
れて、一同に、降伏しました。


 しかしながら、鎌倉(幕府)は、再び、真言師の祈祷によって、蒙古国の『調伏』
をさせています。
 それに対して、私(日蓮大聖人)は、「日本国を失わせようとするために、真言
の祈祷をさせているのか。」と、申しております。

 この事を、能く能く(明確に)知る人は、一閻浮提(全世界)第一の『智人』で
あります。
 それを、能く能く(明確に)知るべきでしょう。

 今(日蓮大聖人御在世当時)は、鎌倉(幕府)の世が盛んである故に、東寺・天
台(比叡山延暦寺)・園城寺・南都七大寺の真言師等、並びに、自立の精神を忘れ
た法華宗の謗法の人々が、関東に落ち下って、頭を傾け、膝をかがめ、様々に武士
の心(機嫌)を取って、諸寺・諸山の『別当(長官)』となったり、『長吏(寺院
の首長)』となっています。

 かつて、後鳥羽上皇が王位を失う原因となった悪法(真言宗)を取り出して、『国
土安穏』を祈れば、将軍家、並びに、所従(家来)の侍以下の者は、「真言の祈祷
をすれば、国土が安穏となっていく事だろう。」と、思い込んでいます。
 ところが、却って、法華経を失う大禍の僧(真言僧)どもを、彼等が重用してい
れば、必ずや、国は滅びるでしょう。
           
 『亡国』の悲しさや『亡身』の嘆かしさ故に、私(日蓮大聖人)は、身命を捨て
て、この事(真言の亡国の邪義)を顕すのであります。

 もし、国主が、世を持つ(国土を安穏とする)意思があるならば、私(日蓮大聖
人)が申していることに疑問を持った上で、尋ねるべきです。
 ところが、ただ、私(日蓮大聖人)に対する讒言の言葉だけを用いて、様々な仇
(迫害)を為しています。

 にも拘らず、法華経守護の大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・四天王・
地神等は、古代より、謗法の者を、不思議(不可思議・不審)に思われていても、
この事(真言の亡国の邪義)を知る人(日蓮大聖人)がいなかったため、まるで、
一人の幼子が悪事を犯した時のように、罪を許されたり、見て見ぬふりをされた時
もありました。また、少しだけ、罪を知らせる時もありました。
           
 今(日蓮大聖人御在世当時)は、謗法の者を用いているだけでも、不思議(不可
思議・不審)であります。しかも、ごく稀に、諌暁をする人(日蓮大聖人)に対し
て、逆に、仇(迫害)を為しています。

 謗法の者が仇(迫害)を為している期間は、一日や二日、一月や二月、一年や二
年どころか、数年間に及んでいます。
 その状況は、彼の不軽菩薩が『杖木の難』(杖や木を投げつけられた難)に遭遇
されたことにも勝って、覚徳比丘が殺害されたことにも超えています。

 その間、大梵天王・帝釈天王の二王、そして、大日天王・大月天王・衆星天王・
地神等は、様々に、お怒りになって、度々、天変地異を起こされて、謗法の者を諌
められました。

 けれども、益々、諌暁をする人(日蓮大聖人)に仇(迫害)を為す故に、天の御
計らいとして、隣国の聖人に仰せつけられて、謗法の者を誡められています。
 (注、上記は、『他国侵逼難』を御説明になられている。『他国侵逼難』とは、
他国の軍勢が攻め入って、侵略しようと襲ってくる難のこと。)

 また、大鬼神を国の中に入れることにより、人々の心を迷わせて、『自界反逆』
を起こさせています。
 (注、上記は、『自界叛逆難』を御説明になられている。『自界叛逆難』とは、
仲間同士の争いによって、内乱が勃発する難のこと。)
           
 吉につけ、凶につけ、瑞相(兆し)が大きければ、難も多くなるのが、『道理』
というものです。
 因って、仏(釈尊)の御入滅後・二千二百三十余年の間、未だに、出る事のなか
った大長星(文永の大彗星)や、未だに、発生する事のなかった大地震(正嘉の大
地震)が出来しています。

 漢土(中国)や日本には、智慧が勝れて、才能に秀でた聖人が、度々、御出現さ
れています。
 けれども、未だに、日蓮ほど、法華経の味方をして、国土に、強敵を多く作った
者はいません。

 まず、眼前の事を以って、「日蓮は、閻浮提(全世界)第一の者である。」と、
知るべきです。
           
 仏法が日本に渡来(西暦538年)して以来、七百余年の間に、五千巻とも七千
巻とも云われる『一切経』が伝わっています。
 そして、伝わってきた宗派は、八宗とも十宗とも云われています。

 その間、智人(学者・高僧)は、稲や麻のように、多く存在しています。
 仏法の弘通は、竹や葦のように、伸展しています。

 しかしながら、「仏においては、阿弥陀仏。」「諸仏の名号においては、弥陀の
名号。」ほど、弘まっている教義はありません。

 この名号(弥陀の名号)を弘通する人としては、慧心(比叡山の慧心僧都)が『往
生要集』を著しました。
 それによって、日本国の三分の一は、一同に(一斉に)、弥陀・念仏者(念仏の信
者)となりました。

 その後、永観(三論宗の僧侶)は、『往生拾因』と『往生講式』を著しました。
 それによって、扶桑(日本国)の三分の二は、一同に(一斉に)、念仏者(念仏の
信者)となりました。

 その後、法然は、『選択集』を著しました。
 それによって、本朝(日本国)の一同(全体)が、念仏者(念仏の信者)となりま
した。

 因って、現在(日蓮大聖人御在世当時)、弥陀の名号を唱えている人々(日本国の
念仏の信者)が、皆、「一人(法然)の弟子」という訳ではありません。
     
 この『念仏』と云うものは、双観経(無量寿経)・観無量寿経・阿弥陀経(浄土
三部経)の題名です。

 権大乗経(仮の教えの大乗経→爾前経)の題目(南無阿弥陀仏)が『広宣流布』
することは、まさしく、実大乗経(真実の大乗経→法華経)の題目(南無妙法蓮華
経)が流布することへの『序』(先がけ)であります。
 心ある人は、この事を、推察するべきです。

 権経(仮の教えの大乗経→爾前経)が流布すれば、その後には、実経(真実の大
乗経→法華経)が流布するのであります。
 そして、権経の題目(南無阿弥陀仏)が流布すれば、その後には、実経の題目(南
無妙法蓮華経)も、また、流布するのであります。

 欽明天皇(注、日本に仏教が伝来した時に御在位されていた天皇)から当帝(注、
日蓮大聖人が『撰時抄』をお記しになられた当時の後宇多天皇)に至るまで、七百
余年が経過しています。

 その間、「『南無妙法蓮華経』と、唱えよ。」と、他の人に、実経の題目(南無
妙法蓮華経)を勧めて、自らも、実経の題目(南無妙法蓮華経)を唱えた智人(日
蓮大聖人)はいません。
 未だに、聞いたこともなければ、見たこともありません。
          
 日(太陽)が出れば、星が隠れます。そして、賢王が到来すれば、愚王は滅びま
す。
 それと同様に、実経(法華経)が流布すれば、権経(爾前経)は廃ります。

 智人(日蓮大聖人)が『南無妙法蓮華経』と唱えれば、愚人が、これに随おうと
する事は、あたかも、「影と身」や「声と響き」のようでしょう。

 日蓮は、日本第一の『法華経の行者』である事に、あえて、疑いはありません。

 この事を以って、推察しなさい。
 「漢土(中国)・月支(インド)においても、そして、一閻浮提(全世界)の内
においても、日蓮に、肩を並べる者はいない。」ということを。
           
 質問致します。
 正嘉の大地震・文永の大彗星は、如何なる事由によって、出来したのでしょうか。

 お答えします。

 天台大師の『法華文句』の御解釈を受けられて、妙楽大師は、『法華文句記』に
おいて、「智人は、これから起こる事柄を、予知出来る。蛇は、自らが蛇である事
を、認識している。」等と、仰せになっています。

 質問致します。
 その真意は、如何なるものでしょうか。

 お答えします。

 法華経の『本門』において、上行菩薩が大地より御出現(涌出)なされた際に、
弥勒菩薩・文殊師利菩薩・観世音菩薩・薬王菩薩等の『四十一品の無明』(注、円
教の菩薩が断ずべき四十二品の無明のうち、最後の元品の無明を除いた、四十一品
の無明→迷いのこと。)を断じられた人々であっても、「『元品の無明』(注、衆
生に備わっている根本的な迷い→南無妙法蓮華経という真如の理に対する根本的な
迷い。)を断じていなければ、『愚人』である。」と、云われたのであります。

 つまり、「弥勒菩薩・文殊師利菩薩・観世音菩薩・薬王菩薩等は、『寿量品の南
無妙法蓮華経(三大秘法の御本尊)を末法に流布させようとする故に、この菩薩(上
行菩薩→日蓮大聖人の外用の御姿)を召し出された。』という事を、御存知ではな
かった。」ということです。

 質問致します。

 日本・漢土(中国)・月支(インド)の中に、この事(注、災難の根源→上行菩
薩の御出現=人法一箇の大御本尊が御出現なされる際の『瑞相』の由来。)を知っ
ている人がいるのでしょうか。

 お答えします。

 『見思惑』(注、見惑と思惑のこと。見惑とは、邪に法理を分別して起こす、我
見・辺見等の妄見や煩悩。思惑とは、世間の事物・事象を思慮して起こす、貪欲・
瞋恚等の妄情や煩悩。)を断じ尽くした後に、『四十一品の無明』(注、円教の菩
薩が断ずべき四十二品の無明のうち、最後の元品の無明を除いた、四十一品の無明
→迷いのこと。)を断じ尽くした大菩薩(弥勒菩薩・文殊師利菩薩・観世音菩薩・
薬王菩薩等の『迹化の菩薩』)であっても、この事(注、災難の根源→上行菩薩の
御出現=人法一箇の大御本尊が御出現なされる際の『瑞相』の由来。)を知らせて
いなかったのです。

 ましてや、一毫の惑(ほんの僅かな煩悩)さえも断じていない者どもが、如何に
して、この事(注、災難の根源→上行菩薩の御出現=人法一箇の大御本尊が御出現
なされる際の『瑞相』の由来。)を知ることが出来るのでしょうか。

 質問致します。

 もし、『智人』(日蓮大聖人)がいなければ、如何にして、天変地異等の『災難』
を対治すれば、宜しいのでしょうか。

 例えると、病の所起(原因)を知らない者が、病人を治療しようとすれば、その
病人は、必ず、死にます。

 それと同様に、これらの『災難』の根源を知らない人々が祈祷をすれば、国は、
まさに、亡びていくでしょう。それは、疑いのない事であります。

 何と、浅ましい事でしょうか。何と、浅ましい事でしょうか。

 お答えします。

 「蛇は、七日以内の大雨を、予見することが出来る。烏は、一年中の『吉凶』を、
予見することが出来る。」と、云われています。

 これは、即ち、蛇が大竜(大きな竜)の所従(家来)であったり、鳥が長い歳月
の間に様々な事を学んだ故に、それらの予見が可能になったのでしょう。

 日蓮は、『凡夫』であります。
 それ故に、この事(注、災難の根源→上行菩薩の御出現=人法一箇の大御本尊が
御出現なされる際の『瑞相』の由来。)を知る由がなかったと雖も、あなた方に、
ほぼ、その内容を諭すことにしましょう。
           
 彼の『周』(中国古代の王朝)の平王の時代に、禿にして(髪が乱れて)、裸で
歩いていた者が出現した折りに、辛有という者が占って、「百年以内に、『周』の
世が滅びるだろう。」と、云いました。

 同じく、『周』の幽王の時代に、山川が崩れる程の大地震がありました。
 白陽という者が、その状況を鑑みて、「十二年の内に、大王が重大事に遭遇され
るだろう。」と、云いました。

 今の大地震・大長星(正嘉の大地震・文永の大長星)等は、国王が日蓮を憎んで、
亡国の法である禅宗と念仏者と真言師を味方とする故に、天がお怒りになって、発
生させたところの『災難』であります。
           
 質問致します。
 如何なる根拠を以って、この事を信じれば、宜しいのでしょうか。

 お答えします。

 最勝王経(金光明経)においては、「悪人を愛敬(尊敬)して、善人を治罰する
事由の故に、星宿(星の運行)及び風雨が、すべて、時節通りに、運行されなくな
る。」等と、仰せになられています。

 この経文の通りであるならば、「この国(日本国)に、悪人がいる。そして、王
も臣下も、この悪人に、帰依をしている。」という事に、疑いはありません。

 それと同様に、「この国(日本国)に、『智人』(日蓮大聖人)がいる。そして、
国主は、この『智人』(日蓮大聖人)を憎んで、迫害を与えている。」という事も、
疑いはありません。

 また、最勝王経(金光明経)においては、「三十三天(帝釈天王)の衆(眷属・
天人)が、悉く、憤怒の心を生じる故に、奇怪なる流星が堕ちて、二つの日(太陽)
が同時に出る。そして、他国からの怨賊が到来するため、その国の人々は、騒乱に
遭遇するであろう。」等と、仰せになられています。

 既に、この国(日本国)には、『天変』が発生しています。『地夭』も発生して
います。
 そして、他国(蒙古国)から、この国(日本国)が攻められています。
 因って、三十三天(帝釈天王)の御怒りがある事も、また、疑いのないことでし
ょう。
           
 仁王経においては、「多くの悪僧たちは、自己の名声や利益を求め、国王や太子
や王子等の前に於て、自ら、破仏法の因縁・破国の因縁となるような悪法を説くで
あろう。そして、その国王は、仏法の正邪を弁えることなく、悪僧の言葉を信聴す
るであろう。」等と、仰せになられています。

 また、仁王経においては、「太陽や月の運行が狂って、寒暖の時節が逆転するで
あろう。或いは、赤い日(太陽)が出たり、黒い日(太陽)が出たり、二つ・三つ
・四つ・五つと日(太陽)が出たりする。或いは、日蝕のために、太陽の光が薄く
なる。或いは、一重・二重・三重・四重・五重と、日輪(太陽の輪)が現ずる異変
が起こるであろう。」等と、仰せになられています。

 この経文(仁王経)の真意は、こういうことです。

 「悪比丘(悪僧)等が国に充満して、国王・太子・王子等を騙しながら、破仏法
・破国の因縁となる悪法を説いたならば、その国の王等は、この悪比丘(悪僧)に
騙されて、『この教えこそ、持仏法の因縁・持国の因縁である。』と、思うだろう。

 しかし、この悪比丘(悪僧)の言葉を了承して、その国の王等が悪法を行ずるな
らば、日月(太陽・月)に変異が生じて、大風と大雨と大火等が出来するであろう。

 その次には、『内賊』と申して、親類より大兵乱が起こり、自分の味方をしてく
れる者が、皆、戦死するだろう。 (自界叛逆難)

 後には、他国から攻められることによって、或る者は自殺し、或る者は生け捕り
にされて、或る者は降人(捕虜)となるであろう。 (他国侵逼難)

 これらは、偏(ひとえ)に、悪比丘(悪僧)等が、仏法を滅ぼし、国を滅ぼす故
に、発生する『災難』である。」と。
           
 守護国界経においては、このように、仰せになられています。

 「彼の釈迦牟尼如来が所有された教法(仏法)は、一切の天魔や外道や悪人や五
つの神通力を持った仙人等は、皆、(中略)少しも、破壊することが出来ない。

 ところが、この名ばかりの、諸の悪沙門(悪僧)は、皆、悉く、仏法を壊滅させ
て、正法の余塵さえも残さない。

 たとえ、三千大千世界(注、十億の『世界』を集めて、総合された『世界』のこ
と。)のすべての草木を薪として、長い時間、燃焼し尽くしたとしても、須弥山(注、
仏教において、『世界』の中心に存在する山のこと。)を、ほんの僅かであっても、
損傷させる事は出来ない。

 しかし、もし、『劫火』(注、『世界』が崩壊していく時期である、『壊劫』の
際に発生する大火災のこと。)が起こった場合には、火が内より生じて、一瞬の間
に、灰燼も残さず、須弥山を焼滅させてしまう事と、同様である。」と。

 蓮華面経においては、このように、仰せになられています。

 「仏(釈尊)は、弟子の阿難尊者に、こう告げられた。

 『譬えば、師子が臨終を迎える際には、空を飛ぶ鳥・地中に棲む生物・水を泳ぐ
魚・陸上の獣等は、決して、師子の身の肉を食うことは出来ない。

 ただ、師子が、自ら、諸の虫を生じることによって、身体の中から、師子の肉を
食われてしまう様なものである。

 阿難よ。
 我が(釈尊の)仏法は、他者から壊される事はない。

 まさしく、我が法(仏法)の中に存在する、諸の悪比丘(悪僧)が、三大阿僧祇
劫という極めて長い期間、私(釈尊)が修行を積んで、勤め苦しんだ末に、結集し
たところの仏法を破るであろう。」と。
           
 これらの経文(守護国界経・蓮華面経)の真意は、釈尊御在世以前に、『過去仏』
であった迦葉仏が、釈迦如来の教えが衰える末法の状況を、訖哩枳(キリキ)王に
語られたものであります。

 つまり、「釈迦如来の仏法を、如何なる者が失わせるのだろうか。」という内容
です。

 たとえ、大族王が五天(全インド)の堂舎(寺院)を焼き払って、インドの十六
大国の僧・尼を殺したとしても、また、漢土(中国)の武宗皇帝が九箇国の寺塔・
四千六百ヶ所以上を消滅させて、僧・尼二十六万五百人を還俗させたとしても、そ
のような悪人等は、釈尊の仏法を失わせることが出来ません。

 けれども、三衣(僧侶の法衣)を身に纏い、一鉢を首に掛け、八万法蔵を胸に浮
かべ、十二部経を口に誦している僧侶が、釈尊の仏法を失わせるのであります。

 その事を譬えてみると、『須弥山』(注、仏教において、『世界』の中心に存在
する山のこと。)は、『黄金の山』であります。

 たとえ、三千大千世界(注、十億の『世界』を集めて、総合された『世界』のこ
と。)の草木を以って、『欲界』の初天である『四天王天』から第六天の『他化自
在天』に至るまで、充満するように積み込んでから、一年・二年、そして、百千万
億年の間、焼いたとしても、『須弥山』を損傷させる事は、ほんの僅かであっても、
不可能です。

 ところが、『劫火』(注、『世界』が崩壊していく時期である、『壊劫』の際に
生じる大火災のこと。)が発生する時は、『須弥山』の麓から豆粒ばかりの火が出
て、『須弥山』を焼くだけでなく、三千大千世界をも焼失してしまうのです。

 もし、仏記(仏の御予言)の通りであれば、『十宗』とも『八宗』とも云われる
(注、『八宗』とは、倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗・
天台宗。『八宗』に、浄土宗・禅宗を加えたのが、『十宗』。)内典(仏門)の僧
等が、まさしく、仏教の『須弥山』を焼き払っているのであります。
 
 小乗教の倶舎宗・成実宗・律宗の僧等が、大乗教の宗派を嫉む胸中の瞋恚(怒り)
は、炎のように燃え盛っています。

 そして、真言宗の善無畏等・禅宗の三階等・浄土宗の善導等は、仏教の師子の肉
から発生した、蝗(イナゴ)虫の比丘(僧侶)であります。

 伝教大師は、『顕戒論』において、三論宗・法相宗・華厳宗等の日本の碩徳(高
僧)等を『六虫』とお書きになりました。

 その事例に倣って、日蓮は、真言宗・禅宗・浄土宗等の元祖を『三虫』と名付け
ます。

 また、天台宗の慈覚・安然・慧心等は、『法華経・伝教大師』の師子の身の中か
ら発生した『三虫』であります。
             
 これらの大謗法の根源を糺している日蓮に対して、仇(迫害)を加える故に、天
神も光を惜しまれて、地祇(地神)もお怒りになり、災難も大いに起こるのであり
ます。

 ならば、心得るべきです。
 私(日蓮大聖人)が一閻浮提(全世界)第一の大事を申している故に、最第一の
瑞相が、ここに起こったことを。

 何と、哀れなことでしょうか。何と、嘆かわしいことでしょうか。
 日本国の人々が、皆、無間大城(地獄)に堕ちることは。

 何と、悦ばしいことでしょうか。何と、楽しいことでしょうか。
 不肖の身でありながらも、この度、私(日蓮大聖人)の心田(胸中)に、仏種を
植える事が出来たことは。

 今に、見ているがよい。
 大蒙古国の軍勢が数万艘の兵船を浮かべて、日本国を攻めれば、上一人(天皇)
より下万民に至るまで、一切の仏寺・一切の神社を投げ捨てて、各々、声を揃えて、
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。」と唱え、掌を合わせて、「お助けください。
日蓮の御房よ。日蓮の御房よ。」と、叫ぶようになるであろうことを。

 例えると、月支(インド)の大族王が戦いに敗れた時、幻日王に掌を合わせて、
懇願したようなものです。

 また、日本の平宗盛が捕えられて、鎌倉へ連行された際に、梶原景時を敬って、
命乞いをしたようなものです。

 つまり、「大慢を抱く者は、いずれ、敵に随うことになる。」という、『道理』
であります。

 彼の不軽菩薩を軽んじて、迫害を加えていた大慢の比丘(僧侶)等は、当初、杖
や木を用意して、不軽菩薩を殴打していました。
 けれども、後には、不軽菩薩に掌を合わせて、その過失を悔いました。

 提婆達多は、釈尊の御身から、血を流させました。
 けれども、提婆達多が臨終を迎える時には、『南無』と唱えています。

 その際に、提婆達多は、『(南無)仏』とさえ申しておけば、地獄へ堕ちずに済み
ました。
 ところが、提婆達多の犯した罪業が深かった故に、ただ、『南無』とだけ唱えて、
『仏』とは云わなかったのです。

 今(日蓮大聖人御在世当時)、日本国の高僧等も、『南無日蓮聖人』と唱えよう
としています。
 しかしながら、提婆達多と同様に、『南無』とだけ、唱えることになるでしょう。
 誠に、不憫であります。不憫であります。
    
 外典(仏教以外の書物)においては、「未萠(未だに発生していない事柄)を知
る人を、『聖人』と言う。」と、云われています。

 内典(仏教の書物)おいては、「過去・現在・未来の三世を知る人を、『聖人』
と言う。」と、云われています。

 私(日蓮大聖人)には、三度の『高名』(注、功名を立てること→日蓮大聖人の
御予言が的中されたこと。)があります。

 第一には、去る文応元年(1260年)〈太歳庚申〉七月十六日に、『立正安国
論』を最明寺殿(第五代執権・北条時頼)に奏上した時、宿谷入道光則に向かって、
「『禅宗と念仏宗を禁止させなさい。』と、最明寺殿(北条時頼)に忠告してくだ
さい。この事(日蓮大聖人の諫言)をお用いにならなければ、この一門(北条一門)
から、事(内乱)が起こるでしょう。そして、他国から、攻められる事になるでし
ょう。」と、述べたことです。

 第二には、去る文永八年(1271年)九月十二日申の時(午後3時~午後5時)
に、平左衛門尉に向かって、このように、申し伝えたことです。

 「日蓮は、日本国の棟梁であります。
 因って、私(日蓮大聖人)を失なうことは、日本国の柱橦(はしら)を倒すこと
になります。

 ならば、只今に(即座に)、『自界反逆難』という『同志討ち』が始まるでしょ
う。
 そして、『他国侵逼難』と云って、この国(日本国)の人々が他国の軍勢に打ち
殺されるだけでなく、多くの人が生け捕りにされるでしょう。

 また、建長寺(禅宗)・寿福寺(禅宗)・極楽寺(律宗)・大仏(建長寺・禅宗)
・長楽寺(浄土宗)等の一切の念仏者・禅僧等の寺塔を焼き払って、彼等の首を由
井ヶ浜(鎌倉の海岸)で切らなければ、日本国は、必ず、滅びるでしょう。」と。

 (注記、龍口法難において、日蓮大聖人が斬首されそうになられた直前に、平左
衛門尉を諫言なされた内容をお記しになられている。)

 第三には、去年〈文永十一年〉(1274年)四月八日、平左衛門尉に対して、
このように語ったことです。

 「王地(鎌倉幕府が統治する国)に生まれた以上は、貴殿の身(平左衛門尉の身)
を、王地(鎌倉幕府が統治する国)に随い奉るようにしなければなりません。
 けれども、貴殿の心(平左衛門尉の心)まで、随い奉ってはならないのです。

 念仏が無間地獄の教えであり、禅が天魔の所為である事は、疑いありません。
 更には、真言宗が、この国土(日本の国土)の大いなる災いとなっております。

 大蒙古国を調伏する為の祈祷を、真言師に対して、命ずるような事があってはな
りません。
 もし、そのような大事を、真言師に調伏させるのであれば、益々、早急に、この
国(日本国)が滅びるでしょう。」と。

 すると、頼綱(平左衛門尉)は、「いつ頃、蒙古国が攻め寄せて来るのだろうか。」
と、尋ねました。

 それに対して、私(日蓮大聖人)は、「経文を拝見した上で、『いつ頃』と、蒙
古国が襲来する時期を特定する事は出来ません。けれども、天の御気色を拝すると、
たいへん、お怒りの御様子です。従って、その時期は、急であるように、お見受け
します。おそらく、今年を越すことはないでしょう。」と、語りました。
            
 これらの三つの大事(日蓮大聖人の御予言)は、日蓮が申しているのではありま
せん。
 ただ、偏(ひとえ)に、釈迦如来の御神(魂)が、我が身(日蓮大聖人の御身)
に入れ替わっていたからでしょう。

 それは、我が身(日蓮大聖人の御身)の事でありながらも、身に余るほどの悦び
であります。
 そして、法華経の『一念三千』という『大事の法門』は、この事になります。

 法華経方便品第二においては、「所謂諸法・如是相」と、仰せになられています。
 果たして、その経文の意味は、如何なる事になるのでしょうか。

 それは、『十如是』(如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是
縁、如是果、如是報、如是本末究竟等)の始めの『相如是』が、『第一の大事』で
あるからこそ、仏(日蓮大聖人)は、この世に御出現なされるのであります。

 妙楽大師が『法華文句記』において、「智人(仏)は、これから起こることを、
予知出来る。蛇は、自らが蛇であることを、認識している。」と仰せになられてい
るのは、この事を指されています。

 (注記、上記においては、上行菩薩の御再誕として、人法一箇の大御本尊として、
久遠元初自受用報身如来・末法の御本仏日蓮大聖人が御出現なされる際に、その為
の『相如是』→『瑞相』として、天変地異の『災難』が発生していたことを、御説
明なさっている。)

 一滴の水が集まって、『大海』となります。
 また、微塵(微かな塵)が積もって、『須弥山』(注、仏教において、『世界』
の中心に存在する山のこと。)となります。

 日蓮が法華経を信じ始めた当初は、日本国において、一滴の水や一微塵のような
状況でした。

 しかしながら、二人・三人・十人・百千万億人と、法華経の題目(南無妙法蓮華
経)を唱え伝えていくならば、妙覚(注、一切の煩悩・無明を断じ尽くし、円満・
無上の覚りを得られた仏の境界のこと。)の『須弥山』ともなって、大涅槃(大い
なる覚り)の『大海』ともなるでしょう。

 仏に成る道は、これ(注、三大秘法の御本尊を信じて、題目を唱えること。)以外
に、求めるような事があってはなりません。

 質問致します。

 貴殿(日蓮大聖人)の第二の国家諌暁であった、文永八年(1271年)九月十
二日の御勘気(龍口法難)の際には、如何にして、「私(日蓮大聖人)を迫害する
ならば、自他の戦(注、自国の内乱である『自界叛逆難』と、他国から攻撃される
『他国侵逼難』のこと。)が起こるであろう。」と、お知りになったのでしょうか。

 お答えします。

 大集経〈五十〉(忍辱品)においては、このように、仰せになられています。

 「もし、また、諸の刹利(王族)や国王が諸の非法を行って、世尊(釈尊)の声
聞の弟子(出家の弟子)を悩乱したり、若しくは、毀罵(罵倒)したり、刀や杖で
殴打したり、及び、衣や鉢等の種々の資具(仏具)を奪い、若しくは、他の人から
給仕や布施を受けようとする時に、留難(妨害)を行う者が有ったとする。

 ならば、我等(大梵天王・帝釈天王・第六天の魔王・大日天王・大月天王・四天
王等)は、その刹利(王族)や国王に対して、自ずから、速やかに、他方(他国)
の怨敵を決起させて、及び、自界(自国)の国土においても、また、兵乱の蜂起、
疫病や飢饉、時期外れの風雨、闘争・論争・誹謗中傷を、多く起こさせるであろう。

 故に、その国王の地位が長続きすることなく、また、当に、その王の国を亡失さ
せるであろう。」と。


 そもそも、諸経において、諸文(諸の経文)が多いと雖も、この経文(前記の大
集経の経文)は、私(日蓮大聖人)の身に当てはまる事があるため、時に臨んで(現
在の状況を鑑みて)、特に、尊く思われました。
 故に、この経文(前記の大集経の経文)を選び出したのであります。

 この経文(前記の大集経の経文)における、『我等』とは、大梵天王・帝釈天王
・第六天の魔王・大日天王・大月天王・四天王等の三界(欲界・色界・無色界)の
すべての天・竜等(諸天善神)のことです。

 大集経においては、その上主(諸天善神の代表)が御仏前に参詣されて、このよ
うな誓いを述べられている状況が、お説きになられています。

 「仏(釈尊)の御入滅後、正法時代・像法時代・末代(末法)の中において、正
法(正しい仏法)を行じようとする者を、邪法の比丘(僧侶)等が国主に訴えたと
する。

 ならば、王の側近や、王に心を寄せている者は、自分たちが尊いと思っている者
(邪法の僧侶)の言い分であるため、理不尽にも、是非を糾さずに、その智人(正
法を説く人)を著しく辱めれば、根拠もなく、その国に、突如、大兵乱が出現して、
後には、他国から攻められるであろう。

 また、その国主の地位も喪失して、その国も滅びるであろう。」と。

 まさしく、「痛し、痒(かゆ)し。」という俗言は、この事を表現しています。

 (注記、掻(か)けば、痛い。掻(か)かないと、痒(かゆ)い。その何れかを
選択したとしても、双方ともに、支障が存在することの譬え。「予言が的中すれば、
『自界叛逆難』『他国侵逼難』によって、日本国が滅びてしまう。しかし、予言が
的中しなければ、『法華経の行者』としての顕現が出来なくなる。」という、日蓮
大聖人の御胸中を御開陳なされている。)

 今生において、私(日蓮大聖人)の身に、『死罪』『流罪』となるような過失は
ありません。

 ただ、国を助けようとする為に、私(日蓮大聖人)は、「生まれた国(日本国)
への恩を報じよう。」と思い、平左衛門尉に対して、『自界叛逆難』『他国侵逼難』
の発生等を諫言しただけのことです。

 しかしながら、私(日蓮大聖人)の諫言をお用いにならなかった事でさえ、不本
意であったにも拘らず、その上、平左衛門尉は、私(日蓮大聖人)を召し出して、
懐に入れていた法華経・第五の巻を奪い取り、散々と殴打してから、遂には、鎌倉
の小路(通り)を引き廻しにしたのです。

 そのため、私(日蓮大聖人)は、大日天王・大月天王等の諸天善神に対して、こ
のように申した(諌暁を行った)のであります。

 「大日天王も大月天王も、天に処していらっしゃいます。

 しかし、日蓮が大難に遭う状況を御覧になっておきながら、この度、大日天王も
大月天王も、事態を変えられようとしないのは、その理由の第一として、『日蓮が
法華経の行者ではないから。』という事になるのでしょうか。
 それならば、私(日蓮大聖人)は、即座に、邪見を改めなければなりません。

 けれども、もし、日蓮が法華経の行者であるならば、即座に、国に対して、験(現
証)を見せるべきです。
 もし、そうでなければ、現在の大日天王・大月天王等は、釈迦如来・多宝如来・
十方の諸仏を誑(たぶら)かし奉る、大妄語の人(天)であります。

 この有様では、提婆達多(五逆罪を犯した釈尊の従兄弟)の虚誑罪(妄語の罪)
や倶伽利(提婆達多の弟子)の大妄語よりも百千万億倍超過した、大妄語の天(大
日天王・大月天王)ではありませんか。」と。

 このように、私(日蓮大聖人)が声を張り上げて申したところ、即座に、『自界
叛逆難』(北条一門の同志討ち)が出現しました。

 それ故(注、『自界叛逆難』→北条一門の同志討ちが起こったため)に、国土が
大きく乱れています。

 そして、我が身(日蓮大聖人の御身)は、取るに足りない凡夫であったとしても、
御経(法華経)を持ち奉る分際であるため、当世において、「私(日蓮大聖人)は、
日本第一の『大人』である。」と、申したのであります。

 質問致します。

 『慢煩悩』には、『七慢』(慢・過慢・慢過慢・我慢・増上慢・卑慢・邪慢)や
『九慢』(我勝慢類・我等慢類・我劣慢類・有勝我慢類・有等我慢類・無勝我慢類
・無等我慢類・無劣我慢類)や『八慢』(色キョウ・盛壮キョウ・富キョウ・自在
キョウ・姓キョウ・行善キョウ・寿命キョウ・聡明キョウ)があります。

 ところが、貴殿(日蓮大聖人)の『大慢』は、仏教に明かされているところの『大
慢』より、百千万億倍も勝っています。

 彼の徳光論師は、弥勒菩薩を礼拝しませんでした。

 大慢婆羅門は、高座の四本の足に、『四聖』(大自在天・婆薮天・那羅延天・大
覚世尊)の像を彫らせた上で、その『座』に坐りました。

 大天は、『凡夫』でありながらも、『阿羅漢』と名乗っていました。

 無垢論師は、『五天第一』(全インドで第一)と云っていました。

 これらの者は、皆、阿鼻地獄に堕ちています。そして、無間地獄の罪人となって
います。

 貴殿(日蓮大聖人)は、何故に、『一閻浮提(全世界)第一の智人』と、名乗る
のでしょうか。
 必ずや、地獄に堕ちない訳がありません。
 恐ろしい事であります。恐ろしい事であります。

 お答えします。

 あなた(質問者)は、『七慢』(慢・過慢・慢過慢・我慢・増上慢・卑慢・邪慢)
や『九慢』(我勝慢類・我等慢類・我劣慢類・有勝我慢類・有等我慢類・無勝我慢
類・無等我慢類・無劣我慢類)や『八慢』(色キョウ・盛壮キョウ・富キョウ・自
在キョウ・姓キョウ・行善キョウ・寿命キョウ・聡明キョウ)等の本質を、知って
いるのでしょうか。

 大覚世尊(釈尊)は、『三界第一』(注、三界とは、欲界・色界・無色界のこと。
現実の世界を意味する。)と、お名乗りになられています。

 それに対して、一切の外道(仏教以外の信仰をする者)は、「間もなく、大覚世
尊(釈尊)は、天によって、罰せられるだろう。大地が割れて、地獄へ入ることに
なるだろう。」と、云っていました。

 日本国の南都七大寺(東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆
寺)の三百余人の僧侶は、「最澄法師(伝教大師)は、大天(注、インドの小乗・
大衆部の祖、摩訶提婆のこと。父・母・阿羅漢を殺した後に出家して、五つの悪見
を唱えた。)が生き返ったのであろうか。鉄腹(注、南インドの外道、提舎のこと。
腹が破裂することを恐れて、鉄の板を腹に巻いていた。)の生まれかわりであろう
か。」等と、云っていました。

 しかしながら、大覚世尊(釈尊)に対して、天が罰することもなく、却って、大
覚世尊(釈尊)の左右を守護されていました。
 そして、大地も割れることなく、あたかも、金剛石のように、堅固でした。

 一方、伝教大師は、比叡山延暦寺を建立されて、一切衆生の眼目となっています。
 結局、南都七大寺(東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺)
は帰伏して、伝教大師の弟子となり、日本の諸国の人々は、比叡山延暦寺の檀那と
なっています。

 ならば、「現実に、勝れているものを、『勝れている』と云うこと。」は、『慢』
に似ていながらも、大功徳になるのでしょう。

 伝教大師は、『法華秀句』において、「諸宗よりも、天台法華宗が勝れているの
は、所依の経典(法華経)に拠るからである。それ故に、自讃や毀他(他者を毀る)
ではない。」等と、仰せになっています。

 法華経第七巻・薬王菩薩本事品第二十三においては、「諸山の中において、『須
弥山』(注、仏教において、『世界』の中心に存在する山のこと。)が第一である。
それと同様に、この法華経も、また、第一である。諸経の中において、最上の地位
にある。」等と、仰せになられています。

 この経文の意味は、「『已説』の華厳経・般若経・大日経等の諸経や『今説』の
無量義経や『当説』の涅槃経等、五千巻とも七千巻とも云われる『已・今・当の三
説』の経典(注『已説』とは、「已に説かれた爾前経」のこと。『今説』とは、「今
説かれた無量義経」のこと。『当説』とは、「当に説かれようとする涅槃経」のこ
と。法華経は、それらの『已・今・当の三説』の経典に超過している。)、そして、
月支(インド)・竜宮・四天王天・トウ利天・大日天・大月天の中の一切経、また、
十方世界(注、東・西・南・北・東北・西北・東南・西南・上・下の世界→全宇宙
のこと。)の中の諸経は、あたかも、土山・黒山・小鉄囲山・大鉄囲山の如き存在
である。それに対して、日本国に渡来された法華経は、『須弥山』の如き存在であ
る。」ということです。

 また、薬王菩薩本事品第二十三においては、「よく、この経典(法華経)を受持
する者も、また、同様である。一切衆生の中において、また、第一である。」等と、
仰せになられています。

 この経文(法華経薬王菩薩本事品第二十三)を勘案すると、下記の主旨になりま
す。

 「華厳経を受持していた普賢菩薩・解脱月菩薩等、竜樹菩薩・馬鳴菩薩・法蔵大
師・清涼国師・則天皇后・審祥大徳・良弁僧正・聖武天皇。

 深密経・般若経を受持していた勝義生菩薩・須菩提尊者・嘉祥大師・玄奘三蔵・
中国皇帝の太宗や高宗・観勒・道昭・孝徳天皇。

 真言宗の大日経を受持していた金剛サッタ・竜猛菩薩・竜智菩薩・印生王・善無
畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・中国皇帝の玄宗や代宗・恵果・弘法大師・慈覚大
師。

 涅槃経を受持していた迦葉童子菩薩・聴聞衆の五十二類の衆生・曇無懺三蔵・光
宅寺法雲。

 及び、中国の南三・北七の諸宗派の十師(南三・北七の十宗派の僧侶)等よりも、
末代(末法)の悪世の凡夫が一戒も持たずに、一闡提(注、正法を信じずに、覚り
を求める心がなく、成仏する機縁を持たない衆生。)の如く、人から思われたとし
ても、経文の如く、『已・今・当の三説(注、已説とは、已に説かれた爾前経。今
説とは、今説かれた無量義経。当説とは、当に説かれようとする涅槃経。法華経は、
已・今・当の三説の経典に超過している。)よりも勝れている法華経以外に、仏に
成る道はない。』と強盛に信じて、しかも、一分の解(仏教に対する僅かな理解)
さえもなかった人々の方が、これらの大聖(大いなる尊敬を集めている人)より、
百千万億倍も勝っている。」と。


 彼の人々(注、前記において、日蓮大聖人が御提示された人々)の中には、或い
は、後ほど、法華経へ移そうとするために、しばらくの間、彼の経々(華厳経・深
密経・般若経・大日経・涅槃経等)に、世間の人を入れた者がいました。

 或いは、彼の経々(華厳経・深密経・般若経・大日経・涅槃経等)に執着を為し
て、法華経へ入らなかった者もいました。

 或いは、彼の経々(華厳経・深密経・般若経・大日経・涅槃経等)に留まってい
るだけでなく、彼の経々(華厳経・深密経・般若経・大日経・涅槃経等)を深く執
着する故に、「法華経は、彼の経々(華厳経・深密経・般若経・大日経・涅槃経等)
より劣っている。」と、云う者もいました。

 ならば、今、『法華経の行者』は、心得るべきであります。

 法華経薬王菩薩本事品第二十三においては、「一切の川流・江河の諸水の中にお
いて、海が第一であるように、法華経を持つ者も、また、同様に、第一である。ま
た、衆星の中において、月天子(月)が最も第一であるように、法華経を持つ者も、
また、同様に、第一である。」等と、お譬えになられています。
 このような御心得を、『法華経の行者』は持つべきでしょう。

 当世における日本国の智人等は、『衆星』の如き存在であります。
 それに対して、日蓮は、『満月』の如き存在であります。

 質問致します。
 古(昔)から、そのような事を云った人がいたのでしょうか。

 お答えします。

 伝教大師は、『法華秀句』において、「当に知るべきである。他宗が所依として
いる経(爾前経)は、未だ、最も第一の経典ではない。その経を持つ者も、また、
同様に、第一ではない。天台法華宗は、所持している経(法華経)が最も第一の経
典であるが故に、法華経を持つ者も、また、衆生の中において、第一である。この
事は、既に、仏説に拠っている。何故に、自賛となるのであろうか。」等と、仰っ
ています。

 そもそも、「麒麟(注、中国の伝説上の動物。聖人が出現する前に現れると云わ
れている。また、一日に千里を走ると云われている。)の尾に付いたダニは、一日
に、千里を飛ぶ。」と云われています。

 そして、「転輪聖王(注、武力を用いることなく、正法を以て全世界を統治する
と云われている、理想的な伝説の王。)に随っている劣夫(家来)は、須臾(瞬時)
に、四天下(注、四天下とは、東の弗婆提・西の瞿耶尼・南の閻浮提・北の鬱単越。
仏教の世界観において、須弥山を中心にした四大州のこと。)を駆け巡る。」と、
云われています。

 これらの事柄に対して、論難出来るのでしょうか。疑うことが出来るのでしょう
か。

 伝教大師が『法華秀句』で御解釈された、「何故に、自歎(自賛)となるのであ
ろうか。」と仰せの御言葉を、肝に命ずるべきでしょう。

 もし、そうであるならば、法華経を、経典の通りに持つ人(日蓮大聖人)は、大
梵天王にも勝れて、帝釈天王を超えた存在であります。

 修羅を随えれば、須弥山であっても、担ぐ事が出来るでしょう。
 竜を酷使すれば、大海であっても、すべての海水を汲んで、干し上げる事も出来
るでしょう。

 伝教大師は、『依憑集』において、「法華経を讃むる者は、福(功徳)を安明に
(須弥山のように、高く)積む。法華経を謗る者は、その罪によって、無間地獄に
墜ちる。」等と、仰せになっています。

 法華経譬喩品第三においては、「法華経を読誦・書写している者を見て、軽んじ
たり、賎しんだり、憎んだり、嫉んだりして、恨みを抱くのであれば、(中略)、
その人は、命を終えてから、阿鼻地獄(無間地獄)に入るであろう。」等と、仰せ
になられています。

 教主釈尊の御金言が真実であるならば、多宝如来の『皆是真実』の証明が違う事
がなければ、十方の諸仏の舌相(注、法華経が真実である事を証明されるために、
十方の諸仏が御舌を梵天にまで付けられたこと。)が確かであるならば、今、日本
国の一切衆生が無間地獄に墜ちようとしている事を、疑ってはならないでしょう。

 法華経第八巻・普賢菩薩勧発品第二十八においては、「もし、後の世において、
この経典(法華経)を受持・読誦しようとする者は、(中略)、諸の祈願が虚しく
なることはない。また、現世において、その福報を得るであろう。」と、仰せにな
られています。

 また、法華経第八巻・普賢菩薩勧発品第二十八においては、「もし、法華経を供
養・讃歎する者があるならば、当に、今世において、現の果報を得るであろう。」
等と、仰せになられています。
 
 前記の二つの経文(法華経普賢菩薩勧発品第二十八)の中における、「亦於現世
・得其福報(また、現世において、その福報を得るであろう。)」の八字と、「当
於今世・得現果報(当に、今世において、現の果報を得るであろう。)」の八字、
以上、十六字の経文が虚しくなって、日蓮が、今生において、大果報を得る事がな
ければ、如来(釈尊)の御金言は、提婆達多(五逆罪を犯した釈尊の従兄弟)の虚
言と同じであり、倶伽利(提婆達多の弟子)の妄語と異なりません。

 もし、そうであるならば、謗法を犯している一切衆生も、阿鼻地獄(無間地獄)
に墮ちる事はないでしょう。
 また、三世(過去世・現世・未来世)の諸仏も、ましまさない(いらっしゃらな
い)事になるでしょう。

 それ故に、我が弟子(日蓮大聖人の弟子)等は、試みに、法華経の如く、身命を
惜しまずに修行して、この度、仏法を試みなさい。
 南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。

 質問致します。

 そもそも、法華経の経文(法華経勧持品第十三)においては、「我は、身命を愛
さない。ただ、無上道(仏道)を惜しむ。」と、仰せになられています。

 涅槃経の如来性品においては、「譬えると、議論や交渉能力に長けた、有能な王
の使者が、王の命を受けて、他国へ派遣される際には、寧(むし)ろ、身命を失っ
たとしても、最終的に、王が説かれたところの言教(メッセージ)を隠さないよう
なものである。智者も、また、同様である。凡夫の中において、身命を惜しまずに、
必ずや、大乗方等如来の秘蔵であるところの『一切衆生には、皆、仏性が有る。』
という教えを、宣説するべきである。」等と、仰せになられています。

 ならば、如何なる事情がある故に、身命を捨ててまで、仏道修行をしなければな
らないのでしょうか。
 詳細を承りたいと存じます。

 お答えします。

 私(日蓮大聖人)が初心の時(仏道修行を始めた頃)には、「伝教大師・弘法・
慈覚・智証等が勅宣(天皇からの勅命の宣旨)を受け賜わって、漢土(中国)に渡
来された事が、『我不愛身命』(我は、身命を愛さない。)に該当するのではない
か。」と、考えていました。

 また、「玄奘三蔵が漢土(中国)から月氏(インド)に入って、六度も、身命を
喪失するような危機に遭遇した事が、『我不愛身命』(我は、身命を愛さない。)
に該当するのではないか。」と、考えていました。

 雪山童子(注、釈尊が過去世で仏道修行をされていた時の御名)は、過去仏の説
かれた『諸行無常・是生滅法』の半偈を聞かれた後に、残りの半偈の『生滅滅己・
寂滅為楽』をお聞きになることを願われた故に、その御身を、羅刹(鬼)に投げら
れて(捧げられて)います。

 薬王菩薩は、日月浄明徳仏へ供養されるために、七万二千歳(年)の間、臂(ヒ
ジ)を焼かれています。

 私(日蓮大聖人)は、「このような事が、『我不愛身命』(我は、身命を愛さな
い。)に該当するのではないか。」と、初心の時(仏道修行を始めた頃)に、考え
ておりました。

 けれども、『我不愛身命』(我は、身命を愛さない。)の経文(法華経勧持品第
十三)の真意は、前記の内容と異なっていたのです。

 法華経勧持品第十三の経文において、『我不愛身命』(我は、身命を愛さない。)
と仰せになられている真意は、その前の経文において、『三類の敵人』(俗衆増上
慢・道門増上慢・僣聖増上慢)を挙げられた上で、「彼等(三類の敵人)が悪口し
たり、迫害したり、刀や杖で殴打したり、遂には、法華経の行者の身命を奪う。」
という事であるように、見受けられます。

 (注、三類の強敵とは、釈尊御入滅後に、法華経の行者を、種々の形で迫害する
三種類の敵人→俗衆増上慢・道門増上慢・僣聖増上慢のこと。法華経勧持品第十三
で説かれている。俗衆増上慢とは、悪口罵詈したり、刀杖を加えたりする、仏法に
無知な在俗の人々。道門増上慢とは、慢心で邪智に富んだ僧侶。僣聖増上慢とは、
聖者のように装い、社会的に尊敬を受ける者でありながらも、内面的には利欲に執
して、悪心を懐き、法華経の行者を怨嫉することによって、権力を利用しながら、
迫害を及ぼす敵人のこと。)


 また、涅槃経の経文において、『寧喪身命』(寧ろ、身命を失ったとしても)等
と説かれている真意につきましては、その後の涅槃経の経文に、「一闡提(注、正
法を信じずに、覚りを求める心がなく、成仏する機縁を持たない衆生のこと。)が
いた。阿羅漢(小乗の最高の覚りの境地)の姿を装って、空処(人里離れた静かな
場所)に住んで、方等(大乗)経典を誹謗している。しかし、諸の凡人は、皆、そ
の一闡提の者を見てから、『真の阿羅漢であり、真の大菩薩である。』と、言うで
あろう。」等と、仰せになられています。

 彼の法華経の経文(勧持品第十三)においては、第三の敵人(注、僣聖増上慢→
聖者のように装い、社会的に尊敬を受ける者でありながらも、内面的には利欲に執
して、悪心を懐き、法華経の行者を怨嫉することによって、権力を利用しながら、
迫害を及ぼす敵人のこと。)をお説きになられて、「或いは、阿蘭若(山林・原野
等の場所)において、納衣にして(僧衣を着て)、空閑(人里離れた静かな場所)
に在して、(中略)、世の人々から尊敬を受けている様子は、六つの神通力を得た
阿羅漢のようである。」等と、仰せになられています。

 般泥オン経においては、「阿羅漢の姿に似た一闡提が有って、しかも、悪業を行
じている。」等と、仰せになられています。

 これらの経文(涅槃経・法華経勧持品第十三・般泥オン経)によれば、「正法の
強敵というものは、悪王・悪臣(俗衆増上慢)よりも、外道・魔王(俗衆増上慢)
よりも、破戒の僧侶(道門増上慢)よりも、持戒・有智の大僧(僣聖増上慢)の中
に、大謗法の人が存在する。」ということであります。

 故に、妙楽大師は、『法華文句記』において、「第三(僣聖増上慢)が、最も甚
しい(邪悪である)。何故なら、第一(俗衆増上慢)・第二(道門増上慢)・第三
(僣聖増上慢)となるに従って、益々、聖者を装っていくため、その正体を認識す
ることが難しくなるからだ。」等と、お書きになっています。

 法華経第五巻(安楽行品第十四)においては、「この法華経は、諸仏如来の秘密
の蔵である。諸経の中において、最も、その上に在る。」等と、仰せになられてい
ます。

 上記の経文には、『最在其上』(最も、その上に在る。)の四文字があります。
 従って、この経文(法華経安楽行品第十四)に仰せの通りであるならば、「法華
経は、一切経の頂上に位置する。」と申している人(日蓮大聖人)が、真の『法華
経の行者』になるのではないでしょうか。

 ところが、また、国王から尊重される人々が、多くいます。
 そして、国王に対して、「法華経に勝っておられる経々がございます。」と云っ
ている人と、法論をしようとする際には、「彼の人(法華経誹謗の人)は、王や臣
下等から御帰依を受けている。しかし、法華経の行者(日蓮大聖人)は、貧道に墜
ちている。」等と、国中の人々が、一斉に、法華経の行者(日蓮大聖人)を卑しむ
ことでしょう。

 その時、常不軽菩薩が上慢の四衆(僧・尼・俗男・俗女)から迫害をお受けにな
られたように、賢愛論師が大慢婆羅門から誹謗されたように、彼の人(法華経誹謗
の人)を強く破折すれば、必ずや、身命に及ぶ大難を受けることでしょう。

 「これ(注、『法華経の行者』であらせられる日蓮大聖人が、身命に及ぶ大難を
お受けになられたこと。)が、第一の『大事』(最大の難事)である。」と、見受
けられます。
 そして、この事(注、『法華経の行者』であらせられる日蓮大聖人が、身命に及
ぶ大難をお受けになられたこと。)は、今、日蓮の身の上に該当しているのであり
ます。

 私(日蓮大聖人)の分際として、「弘法大師・慈覚大師・善無畏三蔵・金剛智三
蔵・不空三蔵等は、法華経の強敵である。経文が真実であるならば、彼等が無間地
獄に墜ちる事は、疑いありません。」と申している事は、決して、容易な行為では
ありません。

 裸形(真っ裸)のままで、大火に入る事の方が、まだ、容易であります。
 須弥山(注、仏教において、『世界』の中心に存在する山のこと。)を手に取っ
て、投げようとする事の方が、まだ、容易であります。
 大きな石を背負って、大海を渡ろうとする事の方が、まだ、容易であります。

 畢竟、日本国において、この法門(日蓮大聖人の下種仏法・三大秘法の御本尊)
を立てようとする事こそが、『大事』(最大の難事)となるのであります。

 霊山浄土の教主釈尊・宝浄世界の多宝如来・十方分身の諸仏・地涌千界の大菩薩
等・大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・四天王等(注、ここでは、日蓮大
聖人が御本尊の御相貌をお示しになられている。)が、冥(陰)に御加護されて、
顕(陽)に御助力される事がなかったならば、一時・一日たりとも、安穏とはなら
ないでしょう。



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