佐渡御書  文永九年(1272年)三月二十日  聖寿五十一歳御著作


 世間一般において、人間が恐れるものは、火炎に包まれること、刀剣で襲われ
ること、そして、我が身が死に至ることであります。

 牛や馬ですら、身を惜しみます。ましてや、人間であれば、尚更のことです。
 不治の癩病にかかった人でさえ、命を惜しみます。ましてや、健康な人であれ
ば、尚更のことです。

 釈尊は、法華経薬王菩薩本事品第二十三において、次のように説かれています。
 「たとえ、七つの宝を、三千大千世界に溢れるほど敷き詰めて、供養をしたと
しても、手の小指を、仏経に供養する行為には及ばない。(趣意)」と。

 雪山童子(注、涅槃経に説かれている、釈尊が過去世で修行していた時の名称)
は、仏が説いた偈を聞くために、鬼に身を投げ与えました。
 そして、楽法梵志(注、大智度論に説かれている、釈尊が過去世で修行していた
時の名称)は、仏が説いた偈を聞くために、身の皮を剥ぎました。
 人間にとって、身命以上に惜しいものはないのですから、その身命を布施として
仏法を修行すれば、必ず仏になります。

 身命を捨てるほどの人が、他の宝を、仏法のために惜しむでしょうか。
 また、財宝を、仏法のために惜しむような者が、それ以上に、大事な身命を捨て
ることが出来るでしょうか。
 
 世間の道理においても、重恩に対しては、命を捨てて報いるものであります。
 また、主君のために、命を捨てる人は少ないように思われますけれども、その
数は意外と多いものです。
 そして、男は名誉のために命を捨てて、女は男のために命を捨てます。

 魚は、命を惜しむために、栖としている池が浅いことを嘆いて、池の底に穴を
掘って棲んでいます。しかし、餌に騙されて、釣り針を呑んでしまいます。
 鳥は、栖としている木が低いことを恐れて、木の上枝に棲んでいます。しかし、
餌に騙されて、網にかかってしまいます。

 人間も、また、これと同じことです。
 世間の浅い物事のために、身命を失うことはあっても、大事な仏法のためには、
身命を捨てることが難しいものです。
 故に、仏になる人もいないのであります。

 「摂受と折伏という二つの修行方法に関して、仏法においては、どちらを優先
させるべきか。」という問題は、『時』によって決まります。
 誓えて云えば、世間で云う所の、『文武二道』のようなものです。
 故に、過去の偉大な聖人は、『時』によって仏法を修行したのであります。

 雪山童子やサッタ王子(注、金光明経に説かれている、釈尊が過去世で修行し
ていた時の名称。虎に身を差し出すことによって、慈悲の精神を示されている。)
は、「お前の身を布施として差し出せば、法を教えよう。それが菩薩の行となる
のだ。」と、責められた際に、身を捨てました。
 しかし、肉をほしがらない時においては、身を捨てる必要があるでしょうか。

 紙のない時代には身の皮を紙として、筆のない時代には骨を筆とするべきであ
ります。
 
 戒律を破る人や戒律を持っていない人が非難されたり、戒律を持っている人や
正法を行ずる人が重用されている時代には、諸の戒律を堅く持つべきであります。

 国王が儒教や道教を用いて、仏教を弾圧しようとする時には、道安法師や慧遠
法師や法道三蔵等のように、国王と論じて、命を顧みずに諫言するべきです。

 仏教の中に、小乗教と大乗教、権教と実教が入り乱れて、あたかも、明るい宝
の珠と瓦礫の珠との違いや、牛の乳とロバの乳との違いが弁えられなくなってい
るような時には、天台大師や伝教大師等のように、大乗教と小乗教、権教と実教、
顕教と密教の違いを、厳然と分別するべきです。
  
 畜生の心は、弱い者を脅して、強い者を恐れます。
 当世の僧たちは、畜生のようなものです。そして、当世の僧たちは、智者の立
場が弱いことを侮って、王法の邪悪な権力を恐れています。
 諛臣(注、媚びて、へつらう臣下のこと)とは、このような者のことです。 

 強敵を倒すことによって、始めて、力士であることがわかります。
 悪王が正法を破ろうとしたり、邪法の僧たちがその味方をすることによって、
智者を失おうとする時には、師子王の心を持つ者が、必ず、仏になります。
 
 例を挙げれば、日蓮のことになります。
 このように申し上げるのは、私が驕っているからではありません。
 正法を惜しむ心が強盛であるからです。
  
 傲っている者は、強敵に遭遇すると、恐れる心が出てきます。
 例を挙げれば、傲り高ぶっていた修羅が、帝釈から攻められた際に、無熱池の
蓮の中に身を縮めて、隠れてしまったようなものであります。

 正法は、たとえ一字一句であっても、時と機根に叶った修行をすれば、必ず、
成仏することが出来ます。
 その反対に、どれほど多くの経文や論を習学したとしても、時と機根に相違す
れば、決して、成仏することは出来ません。
  
 宝治の合戦が起きてから、既に二十六年が経過しておりますが、今年の二月十
一日と二月十七日に、また合戦がありました。
 
 外道や悪人が、如来が説いた正法を破るのは、難しいことです。かえって、仏
弟子の悪僧たちが、必ず、仏法を破っていきます。
 蓮華面経に、「獅子身中の虫が、師子を内から食い尽くす。」等と、云われて
いる通りです。

 同様に、大果報を受けている人を、外敵が破っていくのは、難しいことです。
かえって、内なる敵によって、破られていくものであります。

 薬師経に、「自国に内乱が起こる。(自界叛逆難)」と、説かれているのは、
このことです。
 仁王経には、「聖人が国を去る時に、必ず、七難が起こるであろう。」と、云
われています。
 金光明経には、「三十三の諸天が、各々、怒りや恨みを表すことは、国王が悪
を放置して、退治しないためである。」等と、云われています。

 日蓮は、聖人ではありません。けれども、仏説の如く法華経を受持しておりま
すので、聖人の如き者であります。
 また、世間法のことにつきましても、あらかじめ知っておりましたので、事前
に記しておきました。(注、日蓮大聖人は『立正安国論』等で、薬師経の七難の
『他国侵逼難』や『自界叛逆難』が発生することを予言されていた。)
 このことにつきましても、違っていることはありませんでした。
 現世に関して、私が云っておいたことが間違っていなかったことを以て、後生
に対しても、私が云っていることに、疑いを起こしてはなりません。

 「日蓮は、この関東の鎌倉幕府一門にとって、柱であり、太陽や月であり、鏡
であり、眼目である。日蓮を捨て去る時に、七難が必ず起こるであろう。」と、
去年の九月十二日に、平左衛門尉から御勘氣を受けた際に、大音声を放って叫ん
だのは、このことであります。
 それから、わずか、二ヶ月から五ヶ月の間に、『自界叛逆難』の『二月騒動』
が起こりました。

 しかし、これは、まだ、わずかな前兆にしか過ぎません。
 実際に犯してきた謗法の報いが現れた時には、どれほど、嘆かわしいことにな
るのでしょうか。

 世間の愚者は、「日蓮が智者であるならば、なぜ、王難に遭うのか。」と、思
っています。しかし、日蓮には、前々から分かっていたことであります。

 父母を殴打する子がいました。それは、阿闍世王であります。
 阿羅漢を殺したり、釈尊の身を傷つけて血を出させた者がいました。それは、
提婆達多であります。
 阿闍世王の六人の重臣は、阿闍世王の所業を褒めました。
 そして、提婆達多の弟子の瞿伽利等は、提婆達多の所業を悦びました。

 当世において、日蓮は、この鎌倉幕府御一門の父母であり、仏や阿羅漢のよう
な存在であります。
 しかしながら、その日蓮を流罪にして、主君も家来も、共に悦んでいます。
 彼等は、阿闍世王の六人の重臣や提婆達多の弟子の瞿伽利等と同様に、哀れで
恥を知らない者たちであります。

 謗法の僧侶たちは、日蓮の折伏によって、自らの過ちが明らかになってしまっ
たことを、以前は嘆いていました。けれども、今では、日蓮が佐渡流罪となった
ことを、一旦は悦んでいます。

 しかし、後になってみると、謗法の僧侶たちの嘆きは、現在の日蓮一門の嘆き
以上になることでしょう。
 例えてみると、藤原泰衡が弟の藤原忠衡を討った後に、源義経を討って、一旦
は悦んでいたようなものです。(注、その直後、藤原泰衡は源頼朝に討たれて、
奥州藤原氏は滅亡している。)

 既に、鎌倉幕府一門を滅ぼす大悪鬼が、この国に入っております。
 法華経勧持品第十三に説かれている、「悪鬼が、その身に入る。(悪鬼入其身)」
とは、このことであります。

また、日蓮がこのように迫害されるのも、過去世からの宿業があるからです。
 法華経常不軽品第二十には、「その罪を受け終わって(其罪畢巳)」等と、云
われています。
 不軽菩薩が数え切れないほどの謗法の者から、罵られたり打たれたりしたこと
も、過去世からの宿業の報いであった、ということです。

 ましてや、日蓮は今生において、貧しく卑しい身分の者で、旃陀羅の家の出身
であります。
 心の中でこそ、少しばかり法華経を信じているようですが、日蓮の身は、人間
の身に似ているようでありながら、実際には畜生の身であります。 
 魚や鳥を食べている両親の精子と卵子から生まれて、その中に魂を宿していま
す。
 それはあたかも、濁った水に、月が映っているようなものであります。また、
糞を入れる袋の中に、金を包んでいるようなものであります。
 
 日蓮の心の中では、法華経を信じておりますので、大梵天王や帝釈天王でさえ
も、恐ろしいとは思いません。
 けれども、日蓮の身は、畜生の身であります。
 日蓮の心と身が不相応であるために、愚者が侮ることも当然であります。
 しかし、日蓮の心を身と対比するからこそ、月や金にも譬えることが出来るの
でしょう。

 また、過去世の謗法を案じてみても、誰が本当のことを知ることが出来るので
しょうか。

 勝意比丘(注、文殊師利菩薩の過去世の姿。諸法の実相を説いていた喜根比丘
を、勝意比丘は誹謗していた。)のような魂の持ち主だったのでしょうか。
 大天(注、摩訶提婆のこと。父・母・阿羅漢を殺した後に、仏門に帰依した。)
のような精神の持ち主だったのでしょうか。
 法華経常不軽品第二十に説かれている、不軽菩薩を軽んじて罵った者たちの流
類だったのでしょうか。
 法華経寿量品第十六に説かれている、謗法の毒氣が深く入って本心を失った(注、
毒氣深入 失本心故)者たちの余残だったのでしょうか。 
 法華経の説法の場から立ち去った、五千人の増上慢の眷属だったのでしょうか。
 大通智勝仏の時代に、法華経と結縁をしても、発心しなかった者たちの流れを
汲んでいたのでしょうか。
 宿業は、計り知れないものがあります。

 鉄は、炎の中で、鍛えて打てば、剣となります。
 賢人・聖人は、悪口罵詈されることによって、存在価値を試されるものであり
ます。

 この度、私が受けた御勘氣(注、龍口での死罪・佐渡流罪)に関して、世間法
における過失は全くありません。
 偏に、過去世からの悪業の重罪を、今生に消滅して、未来世の三悪道(注、地
獄・餓鬼・畜生)の業苦を免れるためであります。

 般泥オン経には、「来るベき世に、我が仏法の中において、形ばかり袈裟を着
て、出家した上で仏教を学んでいても、仏道修行を怠けて精進せずに、これらの
大乗経典を誹謗する者たちが現れるであろう。これらの者たちは、皆、今日にお
いて、正法に背いている諸の外道の輩であることを、当に知るべきである。」等
と、云われています。

 この経文を見る者は、自分自身を恥じるべきであります。
 今、末法の僧侶たちのように、出家をして袈裟を掛けていながら、仏道修行を
怠けて精進をしない者は、釈尊御在世当時の六師外道の弟子である、と、仏(釈
尊)は書き記されています。

 
 法然の一派と大日能忍の一派は、それぞれ、念仏宗・禅宗と号しています。

 念仏宗は、法華経に「捨てよ・閉じよ・閣け・抛て(捨閉閣抛)」の四字を添
加して、実教の修行を制止して、権教の阿弥陀如来の名を称える修行だけを取り
立てています。
 禅宗は、「仏の悟りは、経文とは別に伝えられている。(教外別伝)」と解釈
して、法華経は月をさす指であり、法華経を読むことは、ただ文字を数えている
だけに過ぎない、と、嘲笑しています。

 これらの念仏宗や禅宗の僧侶たちは、六師外道の流れを汲む者が、仏教の中に
出現したものであります。
 なんと、憂うべきことなのでしょうか。

 涅槃経には、「釈尊が光明を放って、大地の下にある一百三十六の地獄を照ら
された時に、罪人は一人もいなかった。(趣意)」と、説かれています。
 その理由は、法華経の寿量品において、皆、成仏したからであります。

 ただし、一闡提人という謗法の者だけは、地獄の番人によって、地獄界に留め
られていました。
 その一闡提人が邪義を生み出して弘めていったために、今の世の日本国におい
て、一切衆生が謗法の徒となってしまいました。
 
 日蓮も、過去世からの謗法の種子を持った者であります。
 今生では、念仏者として、数年の間、法華経の行者を見ては、「未だに、成仏
した者が一人もいない。(未有一人得者)千人のうちに、成仏した者が一人もい
ない。(千中無一)」等と、嘲笑していました。

 今、その謗法の酔いが覚めてみると、まるで、酒に酔って、父母を殴って悦ん
でいた者が、酔いが覚めた後になって、嘆いているようなものです。
 もう、いくら嘆いてみても、どうにもなりません。この罪は、消し難いのであ
ります。

 ましてや、心の中に染まっている過去世からの謗法は、尚更のことです。
 経文を拝見すると、烏(カラス)が黒いのも、鷺(サギ)が白いのも、過去世
からの宿業が強く染み込んでいるから、ということであります。
 外道の輩たちは、そのこと(過去世からの宿業)を知らずして、『自然』と云っ
ています。

 今の人々は、過去世からの謗法の罪を明らかにすることによって、日蓮が彼等
の成仏を助けようとしても、自分の身に謗法が存在しない理由を強く言い張って、
法然が『法華経の門を閉じよ』と書いている邪義に対しても、あれこれと言い争っ
てくるのであります。

 さて、念仏者のことは、ひとまず置いておきます。
 嘆かわしいことには、天台宗や真言宗等の人々までが、強いて念仏者の味方を
しているのであります。

 今年の一月十六日と十七日に、佐渡の国の念仏者等の数百人が、日蓮の許にや
って来ました。
 その中の印性房という者が、念仏者の中心者でありました。

 印性房は、日蓮の許に来て、このように言いました。
 「法然上人は、法華経を抛て(投げ打て)と書かれたのではない。法然上人は、
一切衆生に、念仏を唱えさせたのである。法然上人は、この念仏の大功徳によっ
て、極楽浄土に往生することは疑いない、と書き記されている。また、佐渡に流
されている比叡山(天台宗総本山延暦寺)の僧侶たちや、園城寺(天台宗寺門派
総本山)の法師たちが、『素晴らしい、素晴らしい』と褒めているにもかかわら
ず、なぜ、あなたは念仏を破折するのか。」と。

 彼等は、鎌倉の念仏者よりも、遥かに愚かでありました。
 恥知らずとしか、云いようがありません。

 いよいよ、日蓮の過去世、今世、そして、先日に至るまでの謗法を思うと、恐
ろしくなります。
 あなた方は、どうして、このような者の弟子となったのでしょうか。
 あなた方は、どうして、このような国に、生まれたのでしょうか。
 あなた方は、これから、どうなっていくのか、全く分かっていません。

 般泥オン経には、「善き弟子たちよ。過去世において、無量の諸罪や種々の悪
業を作っていたために、その諸罪や悪業の報いとして、或いは人々に軽蔑され、
或いは醜い容姿となり、衣服も足らず、食べ物は粗末でわずかであり、財を求め
ても利を得られず、貧しく身分の卑しい家や邪見の家に生まれたり、或いは王難
に遭遇するのである。」等と、云われています。

 また、般泥オン経には、「加えて、過去世からの謗法による、世間からの種々の
苦しい報いを、現世において軽く受けることは、正法を護持する功徳の力に由る
からである。」等と、云われています。

 この般泥オン経の経文は、日蓮の身がなければ、ほとんど間違いなく、仏の妄
語となったことでしょう。 
 一には「或いは人々に軽蔑される」、二には「或いは醜い容姿となる」、三に
は「衣服も足らず」、四には「食べ物は粗末でわずかである」、五には「財を求
めても利を得られず」、六には「貧しく身分の卑しい家に生まれる」、七には「邪
見の家に生まれる」、八には「王難に遭遇する」等と、般泥オン経には説かれて
います。
 この八句の経文は、ただ、日蓮一人が、我が身に感じているのであります。

 高い山に登る者は、必ず、下らなければなりません。
 人を軽蔑すれば、かえって、自分自身が人から軽蔑されます。
 容姿が端整で威厳のある人を謗れば、その報いを受けて、醜い容姿となります。
 人の衣服や食べ物を奪えば、必ず餓鬼となります。
 戒律を持つ尊貴な人を笑えば、貧しく身分の低い家に生まれます。
 正法を信ずる家を謗れば、邪見の家に生まれます。
 十善戒(注、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不両舌・不悪口・不綺語・不
貪欲・不瞋恚・不邪見)を持つ人を笑えば、その国土の民に生まれて、その国の
王難に遭います。
 これらは、通常の因果として、定まった法であります。
 
 しかし、日蓮が受けている報いは、これまでに述べた因果に由るものではあり
ません。
 法華経の行者を、過去世に軽んじたからであります。

 あたかも、月と月とを並べ、星と星とを連ね、華山に華山を重ね、玉と玉とを
連ねたかのような、尊い経典である法華経を、ある場合には持ち上げたり、ある
場合には見下して、嘲け笑って弄んだために、この八種の大難に遭っているので
す。
 これらの八種の大難は、未来永遠の間に渡って、一つずつ現れるはずだったも
のを、日蓮が強く法華経の敵を責めたことによって、一時に集まって起こったもの
であります。

 誓えてみると、地頭の郷や郡の中に、領民が住んでいる間は、地頭等にどれほ
どの借金をしていたとしても、厳しく取り立てられずに、次の年次の年へと、支
払いを延長してもらえます。けれども、領民が地頭の郷や郡の土地を出る時には、
借金の完済を厳しく迫られるようなものです。

 般泥オン経でお説きになられている、「正法を護持する功徳の力に由るもので
ある。」とは、このことであります。
 
 法華経勧持品第十三には、「諸の無智な人々がいて、法華経の行者を悪口罵詈
したり、刀や杖で打ったり、瓦礫や石を投げつけるであろう。(中略)国王や大
臣やバラモンや有力者に向かって、法華経の行者を讒言するであろう。(中略)
法華経の行者は、度々、その土地を追い出されるであろう。」等と、仰せになら
れています。

 地獄の番人が罪人を責めなければ、罪を滅して地獄を出ることは難しくなりま
す。
 当世の国王や臣下がいなければ、日蓮は過去の謗法の重罪を消し難くなります。
 日蓮は過去の不軽菩薩と同じ立場であり、当世の人々は、まるで、不軽菩薩を
軽んじて罵った四衆(僧・尼・男性の在家・女性の在家)のようです。

 人が代わっても、因は同じであります。
 父母を殺す人は替わったとしても、父母を殺せば、同じ無間地獄に堕ちます。
 であるならば、不軽菩薩と同じ因行を積んで、日蓮一人だけが釈迦仏(成仏)と
ならないことがあるのでしょうか。
 
 また、当世の諸人は、跋陀婆羅(注、正法を求めて菩薩行を修行した在家の長
者。法華経では、過去世において、不軽菩薩を誹謗していた増上慢の比丘であった、
と、説かれている。)等のような者たちであると、云われないことがあるでしょう
か。
 ただ、千劫という長い間、阿鼻地獄で責められることこそ、不憫に思われます。
 このことを、如何に、対応するべきでしょうか。

 過去に、不軽菩薩を軽んじて罵った四衆(僧・尼・男性の在家・女性の在家)は、
始めは不軽菩薩を誹謗していましたが、後には不軽菩薩に信伏随従しました。
 彼等の罪の多くは消滅して、少しの分だけ罪が残りました。しかし、その分だ
けでも、父母を千人殺したほどの、大きな苦しみを受けたのであります。

 ましてや、当世の諸人は、謗法を翻して、悔い改める心すらありません。
 釈尊が法華経譬喩品第三で仰せになられているように、無数劫という長遠な期
間を、阿鼻地獄で過ごすことになるでしょう。 
 そして、当世の諸人は、三千塵点劫や五百塵点劫という、更に長遠な期間を、
阿鼻地獄で送ることになるでしょう。
 
 さて、以上申し上げてきましたことは、ひとまず置いておきます。

 日蓮を信じているようであった者どもが、日蓮がこのような大難に値うと、疑
いを起こして法華経の信仰を捨てるだけでなく、かえって日蓮を教訓して、自分
の方が賢いと思い込んでいます。こういう愚か者どもの方が、念仏者よりも長く
阿鼻地獄に堕ちてしまうことは、不憫としか言いようがありません。

 修羅は、『仏は十八界、自分は十九界』と云っていました。そして、外道は、
『仏は一究竟道、自分は九十五究竟道』と云っていました。
 それと同様に、「日蓮御房は、我々の師匠ではいらっしゃるけれども、あまり
にも強引である。我々は、柔らかに法華経を弘めよう。」等と言っている者ども
は、蛍火が太陽や月を笑い、蟻塚が華山を見下し、井戸や小川が大河や海を侮り、
烏鵲(かささぎ)が鸞鳳(らんほう)を笑うようなものであります。笑うようなもの
であります。

 南無妙法蓮華經

 文永九年〈太歳壬申〉三月二十日  日蓮 花押 

 日蓮弟子檀那等 御中


  追伸

 佐渡の国は紙がない上に、お一人お一人に手紙を差し上げるのは煩わしく、ま
た、お一人でも漏れてしまえば、恨まれてしまうことでしょう。
 従って、志のある方々は寄り集まって、この手紙を御覧になっていただいて、
よくお考えになって、心を慰めてください。

 世間に、大きな嘆きが起これば、それより小さな嘆きは、物の数ではなくなり
ます。
 今回の合戦(注、『自界叛逆難』の『二月騒動』のこと)で亡くなった方々は、
謀反が事実であったのか、謀叛が事実でなかったのか、その真偽は置いておくと
しても、どれほど悲しいことでありましょうか。

 (注、この箇所では、『二月騒動』で誅殺された北条時章の冤罪を、日蓮大聖
人は御示唆されている。後日、北条時章は、執権北条時宗への謀叛に加担してい
なかったことが判明している。ちなみに、北条時章は、四条金吾殿の主君北条光時
〈江間光時〉の弟である。)

 伊沢の入道、酒部の入道は、どうなったのでしょうか。また、河辺・山城・得
行寺殿等は、どうなったのでしょうか。彼等の安否を書き記してください。

 また、外典書の貞観政要を始めとする外典の物語や、八宗の相伝書等を送って
ください。これらの書物がなければ、手紙も書けないので、是非とも送ってくだ
さるよう、お願いします。

 この文は、富木常忍殿の許へ送ります。そして、四条金吾殿・大蔵塔の辻十郎
入道殿等・桟敷の尼御前、その他、御覧になっていただくべき方々、お一人お一
人に宛てたものであります。

 どうか、京と鎌倉での合戦(注、『自界叛逆難』の『二月騒動』のこと)で、
亡くなった方々のお名前を書き付けて、送り届けてください。
 また、『外典抄』・『法華文句』の第二巻・『法華玄義』の第四巻と注釈書・
『勘文』・『宣旨』等を、こちらへ来られる方々は、持参してください。


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