滝泉寺申状の「あとがき」


■あとがき

 今回掲載させていただいた御書の“法主聖人”とは、無論、日蓮大聖人のことをお
指しになられています。


 間違っても、超高級温泉旅館の宴席で、艶っぽい芸者さんから、“お上人様~っっ”
と呼ばれているような、どっかの宗派の管長さんとカン違いしないようにしてくださ
い。    (^v^)

 本因妙抄に曰く、「然りと雖も、仏は熟脱の教主、某は下種の法主なり。」と。

 他宗・他門の宗派においても、一宗の管長に対して、『法主』という称号を与えて
いる事例があります。

 そういう観点から考えると、日蓮正宗の管長に対して、『法主』という称号を与え
る事に、あまり目くじらを立てる必要はないのかも知れません。

 しかし、“下種仏法”の第一義的立場から考えれば、『法主』は、“主・師・親”の
三徳を具備された、御本仏日蓮大聖人御一人への御尊称であるべきです。


 何も、他宗・他門の者どもが、自派の管長に対して、『法主』という称号を用いて
いるからと言って、“下種仏法”の富士門流まで、「右に倣え」をする必要はありま
せん。

 当然の事ながら、『御法主上人』よりも『御貫首上人』の方が、遥かに適切な尊称
であることは、改めて申し上げるまでもないでしょう。

 
 いずれにしても、『日蓮聖人弟子日興遺弟』という御立場の『貫首』に対して、そ
の地位を明確にしていくこと=“しでしをただして”いくことは、とても重要なこと
であります。    了


  
■あとがき

 本来なら、このタイミングで、『滝泉寺申状』の“背景と大意”を書かなくてはな
らないんです。それは、重々、わかっているんです。

 でも、出来の悪い筆者は、今日、12月30日になっても、仕事をしなければなら
なかったんです!      (^v^)

 そのため、大晦日である明日の“あとがき”で、『滝泉寺申状』の“背景と大意”
を記します。
 なんだか、今年一年を象徴するような手際の悪さで、すみません。    了



■あとがき

 『滝泉寺申状』の“背景と大意”を申し上げます。

 もうしばらく連載が進むと、『滝泉寺申状』の御金言の中で、弘安二年(1279
年)四月の神事の際に、法華経信徒四郎男に対する刃傷沙汰があったこと、そして同
年八月に、法華経信徒弥四郎男が頸を切られたことの記述が登場します。
 
 その後、弘安二年(1279年)九月二十一日には、日秀師が田の稲刈りを熱原の
信徒と共に行っていた折に、その間隙を狙って、大進房・大田親昌・長崎次郎兵衛尉
時綱等が、武器を持って急襲するに至っています。

 日秀師や熱原の信徒は防戦したものの、熱原の三烈士を含む二十名の信徒が取り抑
えられて、鎌倉へ押送されてしまいました・・・・・。

 この事件は、今日、一般的に、“稲刈り事件”と呼ばれています。
 そして、この“稲刈り事件”が、熱原法難の直接の発端となっています。

 なお、先日まで連載させて頂いた『聖人御難事』において、「大田親昌・長崎次郎
兵衛尉時綱・大進房が落馬等は、法華経の罰のあらわるるか。(中略)大田等は現罰
なり、別ばちなり。」と仰せの御金言は、彼等が“稲刈り事件”の際に落馬して、死
亡・負傷したことが背景にあります。

 そして、“稲刈り事件”の直後に、行智は、熱原の三烈士の一員である神四郎殿の
長兄弥藤次を籠絡して、日秀師・日弁師・熱原信徒等を鎌倉の問注所へ訴えています。

 昨日連載分の『滝泉寺申状』の御金言において、「訴状に云はく、今月二十一日数
多の人勢を催し、弓箭を帯し、院主分の御坊内に打ち入り、下野坊は乗馬相具し、熱
原の百姓紀次郎男、点札を立て作毛を苅り取って、日秀の住房に取り入れ畢んぬ云云
〈取意〉。」との御記述は、行智の奸策に乗った弥藤次の『訴状』の引用であります。

 弥藤次が鎌倉の問注所に提出してきた『訴状』に対して、日秀師・日弁師等が富士
御在住の日興上人に御指南を仰いだところ、日興上人は申状の案文をお書きになられ
た上で、身延御在住の日蓮大聖人に御連絡をお取りになられました。

 そして、日蓮大聖人は、日興上人が御作成された申状の案文に、御加筆・御修正を
加えられて、日興上人へご返送なされました。

 その書状を日興上人が御清書なさって、日秀師・日弁師等が鎌倉の問注所へ御提出
された御書、それが『滝泉寺申状』になります。

 上記の事情のため、中山法華経寺に現存している『滝泉寺申状』の御真蹟には、日
蓮大聖人と日興上人の御真筆による御記述が混在しています。

 なお、『滝泉寺申状』の“滝泉寺”は、現存していません。
 今日、静岡県富士市伝法に在している“竜泉寺”は、熱原法難の顕彰等を目的とし
て、昭和36年に、総本山六十六世日達上人が創建なさった寺院です。

 ご参考までに。

 ところで・・・・・。
 本日は、大晦日です。現在、東京地方では、雪が降っています。
 
 本年も、読者の皆様方には、たいへんお世話になりました。
 よいお年をお迎え下さい。      了


 
■あとがき
 
 先日の“あとがき”でも申し上げましたように、『滝泉寺申状』は、日秀師・日弁師等
が問注所への訴状を御提出される際に、日興上人がお作りになられた元原稿に対
して、日蓮大聖人が御手をお入れになられた、という経緯がございます。

 現代流に云うと、『滝泉寺申状』は、ある種の“業務指示書”になるのかも知れま
せん。  (^v^)
  
 筆者の個人的な見解に過ぎませんが、「とにかく、『熱原法難』に関しては、謎が多い。
後世、御書や新資料等の発見によって、『熱原法難』の通説が書き換えられるかも
知れない。」と、考えています。

 現在、富士門流でもその他の日蓮門下でも、「熱原三烈士は、弘安二年十月十五日
に処刑された。」ということが通説になっています。

 しかし、大バカ野郎の筆者は、“弘安二年十月十二日・熱原三烈士処刑説”という
仮説を、一人で大真面目に信じています。

 “弘安二年十月十二日・熱原三烈士処刑説”を、後日の“あとがき”で披露すること
にします。     了
 



■あとがき

 今回をもちまして、『滝泉寺申状』の連載は終了しました。

 ここで、読者の皆さんに、一点、ご留意を頂きたいことがございます。

 それは、「『滝泉寺申状』の日付は、“弘安二年十月 日”であって、“弘安二年
十月十五日”ではない。」ということです。

 これが、後日、“弘安二年十月十二日・熱原三烈士処刑説”を、御説明する際の伏
線となります。是非、ご記憶下さい。

 次回は、『伯耆殿御書』を配信致します。    了


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