竜門御書 弘安二年(1279年)十一月六日 聖寿五十八歳御著作


 中国に、竜門という滝があります。
 高さが十丈(約30メートル)もあり、水が落ちるスピードは、強兵が矢で射
落とすよりも速い滝です。

 この滝に、多くの鮒が集まってきて、滝を上りきろうとしています。そして、
鮒が滝を上りきると、竜となります。

 しかし、竜門の滝に集まってきた鮒は、百匹に一匹、千匹に一匹、万匹に一匹、
十年に一匹、二十年に一匹すらも、滝を上りきることは出来ません。

 ある鮒は水の速さに押し返されたり、ある鮒は鷲や鷹や鳶や梟に喰われてしま
ったり、滝の左右両側十丁(約1090メートル)に漁師が並んで、網を掛けら
れたり、汲み取られたり、射止められたりしました。

 このように、魚が竜となることは、難事であります。

 日本国の武士の中で、源氏と平家という二家が、まるで二匹の番犬のように、
天皇家の御門を守っていました。

 源平二家が共に天皇をお守り申し上げることは、あたかも、木こり(源平二家)
が、夜の嶺から登ってくる八月十五日の満月(天皇)を愛でる姿のようでありま
した。

 殿上人が女官と遊んでいる姿を見るたびに、源平二家の者どもは羨ましく思い
ました。まるで、月と星が光を照らし合わせている様子を、猿が木の上で羨まし
そうに眺めているようでした。

 このような身分の違いはあっても、源平二家の者どもは、「なんとかして、我
等も、殿上人との交際がしてみたい。」と、願っていました。

 ところが、平家の中に平貞盛という者がいて、平将門の乱を鎮圧した功績があ
ったにもかかわらず、昇殿は許されませんでした。

 平貞盛の子である平正盛も、昇殿は許されません。

 ようやく、平正盛の子である平忠盛の時に、始めて昇殿を許されました。
 その後は、平清盛や平重盛等が、殿上人として御殿で遊ぶだけではなく、自ら
の娘を皇后として、皇太子を懐く身となりました。

 仏に成る道も、これらの事例に劣らないほどの難事であります。
 魚が竜門を上ったり、身分の低い者が殿上人となるようなものであります。
 
 身子(舎利弗)という人は、仏に成ろうとして、六十劫という長い間、菩薩の
修行をしてきましたけれども、耐えきれずに退転して、声聞・縁覚という二乗の
道に入ってしまいました。

 大通智勝仏から結縁を受けた人々は三千塵点劫、久遠に下種を受けた人々は五
百塵点劫という極めて長い間、生死の海に沈んで成仏できずにいました。

 折角、これらの人々は、法華経を修行していたにもかかわらず、第六天の魔王
が国主等の身に入って、これらの人々を非常に煩わせて邪魔をしたために、退転
して法華経を捨ててしまったのであります。

 それ故、これらの人々は成仏できずに、三千塵点劫・五百塵点劫という極めて
長い間、六道輪廻を繰り返してしまいました。

 こうしたことは、他人の身の上のことだと思っていましたが、今(注、熱原法
難の直後)となっては、我々の身の上に降りかかってきました。

 願わくは、我が弟子等は、法華弘通の大願を起こしなさい。

 「去年・一昨年から流行する疫病によって、亡くなった人々の中には入らなかっ
たけれども、これから始まる蒙古からの攻撃からは免れることが出来ない。」とも、
思われます。

 とにかく、必ず、人が一度死ぬことは、定められたことであります。
 死ぬ時の嘆きは、疫病によって死ぬ時も、蒙古からの攻撃によって死ぬ時も、
同じであります。

 同じように一度は死ぬのであれば、仮にも、法華経の故に命を捨てなさい。
 自らの命を法華経の故に捨てることは、一滴の露を大海に戻したり、一粒の塵
を大地に埋めたりすることと、同様のことと思いなさい。
 
 法華経第三の巻の化城喩品には、「願くは、この功徳を以って、あまねく、一
切の人々に及ぼすことによって、我等と衆生とは、皆、共に仏道を成就すること
が出来ますように。」と、仰せになられています。

 恐恐謹言

 弘安二年十一月六日                      日蓮 花押

 上野賢人殿御返事


  追伸 

 熱原法難に対して、あなたが御尽力されたことを有難く感じています。そのこ
とを申し上げるために、この御返事を差し上げました。



■あとがき

 『竜門御書』の対告衆は、南条時光殿です。
 『竜門御書』の御真蹟は、大石寺に現存しています。

 南条時光殿は、この御書において、日蓮大聖人から、『賢人号』を与えられてい
ます。この時、南条時光殿は、数え年で
二十一歳でした。

 白米一俵御書に曰く、「さればいにしへの聖人賢人と申すは、命を仏にまいらせて
仏にはなり候なり。」と。  了
 


目次へ