安国論奥書 文永六年(1269年)十二月八日 聖寿四十八歳御著作
 

 『立正安国論』は、文応元年(1260年)に、上奏させて頂きました。

 ただし、『立正安国論』の内容を考え始めたのは、正嘉元年(1257年)であります。
 それから3年後の文応元年(1260年)に、『立正安国論』は完成しました。

 去る正嘉元年(1257年)八月二十三日戌亥の刻(午後9時頃)の大地震を見たこと
が契機となって、『立正安国論』の作成を思い立ちました。

 その後、文応元年(1260年)七月十六日に、宿屋入道を通して、故最明寺入道(北
条時頼)殿に、『立正安国論』を上奉しております。

 その後、文永元年(1264年)七月五日の大彗星が到来した時に、いよいよ、この災
難の根源を知ることになりました。

 文応元年(1260年)から9ヶ年(数え年)を経た、文永五年(1268年)の一月
十八日に、西方の大蒙古国から、日本国を襲来する旨の国書が届けられました。
 また、文永六年(1269年)には、再び、大蒙古国から、同様の内容の国書が届けら
れました。

 これらのことによって、既に上奏していた『立正安国論』における、他国侵逼難の到来
の予言が叶ったことになります。
 これに準じて、未来のことを思うと、再度、他国侵逼難が発生するのは、必然的である
でしょう。

 この『立正安国論』は、未来を予言する力を持ち合わせた文書です。
 これは、ひとえに、日蓮の力ではありません。
 法華経の真実の経文が、私(日蓮大聖人)と感応した結果として、現れたためでありま
す。
 

 文永六年(1269年)十二月八日、『立正安国論』を書写致しました。



■あとがき

 今回の“あとがき”は、若干、ややこしい話になります。

 文応元年(1260年)七月十六日、日蓮大聖人は、時の最高権力者であった最明寺入
道(北条時頼)殿に対して、『立正安国論』を御提出なさっています。

 それから6年後の文永六年(1266年)十二月八日に、日蓮大聖人は、御自らが御書
写された『立正安国論』の写本を、矢木式部大輔胤家殿に御進呈されています。

 その文永六年十二月八日の『立正安国論』の写本(日蓮大聖人御直筆)には、新たに、
御金言が、末尾に書き添えられていました。
 その御金言が、今回連載させていただく、『安国論奥書』になります。
 
 「例えてみると、『安国論奥書』は、『立正安国論』の“あとがき”のような関係になる。」
ということです。    (^v^)

 『安国論御勘由来』の対告衆の法鑑御房と同様に、『安国論奥書』の対告衆の矢木式部
大輔胤家も、人物像の詳細はわかっていません。

 ただ、当時の歴史書である『吾妻鏡』には、執権北条時頼の五位の供奉人として、“矢
木式部大夫”の名前があります。
 従って、矢木式部大輔胤家は、執権北条時頼の家臣であったようです。

 なお、文永六年十二月八日の『立正安国論』の写本(日蓮大聖人御直筆)も、その写本
の文末に書き加えられた『安国論奥書』も、中山法華経寺に現存しています。
 そして、現在、国宝に指定されています。      了


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