妙法曼荼羅供養事 文永十年(1273年) 聖寿五十二歳御著作


 妙法蓮華経の御本尊への御供養を致しました。

 この曼陀羅(御本尊)は、文字が五字・七字(御本尊中央の題目・妙法蓮華経の
五字、南無妙法蓮華経の七字)であります。
 けれども、三世諸仏の御師であり、一切の女人の成仏の印文(成仏を証明する文
書)となります。

 冥途においては、灯となります。死出の山においては、良馬となります。
 天にあっては、日月(太陽と月)のようなものであり、地にあっては、須弥山の
ようなものです。
 生死の大海を渡る船となり、成仏・得道の導師となります。

 この大曼陀羅(御本尊)は、仏滅後(釈尊御入滅後)二千二百二十余年の間、一
閻浮提(全世界)の内には、未だに、広まっておりません。

 病によって、(異なる)薬が必要となります。
 軽病には『凡薬(ありふれた薬)』を施して、重病には『仙薬(効能のよい薬)』
を与えるべきです。

 仏滅後(釈尊御入滅後)より今(文永十年)までの二千二百二十余年の間は、人
間の煩悩と罪業の病が軽かったため、『智者』と云う医師(僧侶)たちが続出して、
病に随って、薬を与えてきました。

 所謂、倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・真言宗・華厳宗・天台宗・浄土
宗・禅宗等であります。

 その各宗派に、一つ一つ、薬があります。

 所謂、華厳宗の『六相十玄』、三論宗の『八不中道』、法相宗の『唯識観』、律
宗の『二百五十戒』、浄土宗の『弥陀の名号』、禅宗の『見性成仏』、真言宗の『五
輪観』、天台宗の『一念三千』等の教えであります。

 今(文永十年)の世は、既に、末法に臨んでいるため、諸宗の機根ではない上に、
日本国の衆生が、一同に、一闡提(注、正法を信ずることなく、覚りを求める心も
なく、成仏する機縁を持たない衆生のこと。)・大謗法の者となってしまいました。

 また、その事を、物に譬えると、父母を殺す罪、謀叛を起こす科(過失)、出仏
身血(仏の御身から血を出すこと)等の重罪よりも超過しています。

 三千大千世界の一切衆生の人の眼を抜いた(失明させた)罪よりも深く、十方世
界の堂塔を焼き払う事以上の大罪を、わずか一人で作る程の衆生が、日本国に充満
しているのです。

 故に、天は、日々に、眼を怒らして、日本国を睨み、地神は、憤りを為して、時
々に、身を震うのであります。

 しかしながら、我が朝(日本国)の一切衆生は、皆、「我が身には、過失がない。」
と、思っています。
 また、「必ず、(極楽浄土に)往生するだろう。成仏を遂げるだろう。」と、思
っています。

 赫々たる日輪(注、太陽のこと。日蓮大聖人御自身を暗示なされている。)であ
っても、盲目の者には、日輪を見る事も出来なければ、認知する事も出来ません。

 更に譬えると、「太鼓を鳴らしたような大地震(注、正法・像法時代に未弘の御
本尊を御建立されるための『瑞相』として、日蓮大聖人が『地震』を御提示なされ
ている。)であっても、眠っている者の心には、憶えがない。」ということになり
ます。

 日本国の一切衆生も、それと、同様の状況です。

 女人よりも、男子の過失は多く、男子よりも、尼の過失は重いのです。
 尼よりも、僧の過失は多く、破戒の僧よりも、持戒の法師の咎(とが)は重いの
です。
 そして、持戒の僧よりも、智者(他宗の宗祖や高僧)の過失は、更に、重いこと
でしょう。

 彼等の過失は、「癩病の中の白癩病、白癩病の中の大白癩病に値する。」という
ことです。

 「末代(末法)の一切衆生に対しては、如何なる大医や如何なる良薬を以てすれ
ば、病を治す事が出来るのだろうか。」と考えてみれば、大日如来の智拳印並びに
大日如来の真言、阿弥陀如来の四十八願、そして、薬師如来の十二大願の中でも、
『衆病悉除』(注、悉く、大衆の病を除く。薬師如来の十二大願の七番目。)の誓
いを用いたとしても、及ばない(病は治らない)のです。

 却って、これらの薬を使ってしまえば、病が消滅しない上に、益々、病が倍増す
るのであります。

 このような末法の時の為に、法華経においては、教主釈尊・多宝如来・十方分身
の諸仏をお集めになられて、一つの『仙薬』(効能のよい薬)を留められています。
 所謂、『妙法蓮華経』の五つの文字(本門の本尊・戒壇・題目の三大秘法)です。

 しかしながら、この文字(『妙法蓮華経』の五つの文字→本門の本尊・戒壇・題
目の三大秘法)を、法慧・功徳林・金剛サッタ・普賢・文殊・薬王・観音等の『菩
薩』(爾前経や法華経迹門で化導を受けられた菩薩)にも、授けられなかったので
す。

 ましてや、迦葉・舎利弗等の『二乗』(声聞・縁覚)に対しては、尚更、授けら
れておりません。

 上行菩薩等と仰って、四人の地涌の大菩薩(注、法華経本門において、釈尊御入
滅後の弘教を誓われた、上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩のこと。)がいらっ
しゃいます。

 この地涌の菩薩は、久遠の五百塵点劫という遠い過去より、それ以来、御弟子と
お成りになられて、たとえ、一念(一瞬)であっても、仏(久遠元初自受用身・御
本仏日蓮大聖人)の存在を忘れずにいらっしゃった大菩薩であります。
 その大菩薩を、釈迦如来がお召し出されて、『妙法蓮華経』の五つの文字(本門
の本尊・戒壇・題目の三大秘法)をお授けになられています。

 故に、この『良薬』(本門の本尊・戒壇・題目の三大秘法)を持つ女人等を、こ
の四人の大菩薩が、前後左右に立ち添われるのです。
 また、この女人が立った時には、この大菩薩も、お立ちになられるのです。
 そして、この女人が道を行く時には、この大菩薩も、道を行かれるのです。

 その様子を譬えると、影と身と、水と魚と、声と響きと、月と光とのようであり
ます。

 この四大菩薩(注、法華経本門において、釈尊御入滅後の弘教を誓われた、上行・
無辺行・浄行・安立行の四菩薩のこと。)が『南無妙法蓮華経』と唱え奉る女人を
離れるのであれば、釈迦如来・多宝如来・十方分身の諸仏からの御勘気(お咎め)
を、四大菩薩の身に被らせる事になるでしょう。

 その場合、「四大菩薩は、提婆達多よりも罪が深く、瞿迦利よりも大妄語の者に
なるのだ。」と、お思いになってください。

 (そのような事は、断じて、あり得ないので)何と、悦ばしいことでしょうか。
何と、悦ばしいことでしょうか。

 南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。

 日蓮 花押




 ■あとがき

 今回から、“ウィークエンドバージョン”は、『妙法曼荼羅供養事』を配信します。 
 まず、簡単に、『妙法曼荼羅供養事』の御説明を・・・。

 『妙法曼荼羅供養事』は、御真蹟が現存していない為、御書の系年・対告衆共に、
不明です。
 けれども、古来より、「系年は、文永十年(1273年・聖寿五十二歳)頃。対
告衆は、佐渡在住の千日尼ではないか。」と、推測されてきました。

 概ね、「日蓮大聖人が始めて御本尊をお顕しになられた(佐渡始顕の御本尊)後
の時期に、『妙法曼荼羅供養事』は、御供養をなさった女性の方に対して、お与え
になられた御書であろう。」と認識しておけば、間違いはないでしょう。 (笑)

 明日からの平日は、『当体義抄』を配信します。 了




■あとがき

 『妙法曼荼羅供養事』の連載は終了しました。
 来週以降の“ウィークエンドバージョン”は、『四条金吾殿女房御返事』を連載
します。
 そして、明日からの平日は、『当体義抄』を配信します。  了



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