兄弟抄 建治二年四月 聖寿五十五歳御著作


 そもそも、法華経という経典は、八万法蔵(釈尊御一代のすべての法門)の経
典の肝心であり、十二部経と総称される一切経の骨髄であります。
 三世の諸仏は、この法華経を師として、正覚(正しい覚り)を開き、十方分身
の諸仏は、法華一仏乗の教えを眼目として、衆生を引導されています。

 今、現に、経蔵に入って、一切経を拝見すると、後漢の永平年間から唐の末に
至るまでの間に、中国へ渡来した一切経と論には、二つの種類があります。

 所謂、羅什三蔵等が訳した旧訳の経典は、五千四十八巻であります。
 そして、玄装三蔵等が訳した新訳の経典は、七千三百九十九巻であります。

 その一切経は、いずれも、皆、各々の分々に随って、自らの経典こそ第一であ
ると主張しています。 
 しかしながら、法華経と法華経以外の経々を比較してみると、天と地のような
勝劣があり、雲と泥のような高下があります。

 法華経以外の経々を衆星に例えるならば、法華経は月になります。
 また、法華経以外の経々を灯火や松明や星や月に例えるならば、法華経は大日
輪(太陽)になります。

 これは、『総・別の二義』における、総じて(総合的)の比較となります。

 法華経と法華経以外の経々について、『総・別の二義』における、別して(注、
更に深く、一重立ち入った法門)の観点から、法華経の経文を拝見させていただ
くと、法華経以外の経々よりも勝れた二十の大事があります。

 その二十の大事の中で、第一・第二の大事は、三千塵点劫・五百塵点劫と云う
二つの法門であります。
 その三千塵点劫の法門は、法華経第三の巻の化城喩品第七が出典となっていま
す。

 まず、この三千大千世界のすべての土を抹して、塵にします。
 それから、東方に向かって、千の三千大千世界を過ぎてから、一つの塵を下し
ます。更に、また、千の三千大千世界を過ぎてから、一つの塵を下します。
 そのようにして、三千大千世界の塵を、悉く下します。

 その後に、塵を下した三千大千世界と、塵を下さない三千大千世界を一緒にし
ます。それを、再び抹して、諸の塵にします。
 それから、この諸の塵を、すべて並べ置きます。その並べ置いた一塵を、一劫
として換算します。

 このようにして、この諸の塵を、すべて数え尽くします。
 その数え尽くした時間よりも、更に長遠な時間を三千塵点劫と云うのでありま
す。

 今、三周の声聞(注、法説周・譬説周・因縁説周。法華経迹門において、成仏
の記別を受けた声聞の弟子のこと)と申して、舎利弗・迦葉・阿難・羅喉羅等の
人々は、遠々とした過去である三千塵点劫の昔、大通智勝仏の第十六番目の王子
でいらっしゃった菩薩(注、後世の釈尊)から、法華経を習いました。

 しかし、彼等は悪縁に迷わされて、法華経を捨てる心が生じてしまいました。

 かくして、或る者は華厳経へ堕ち、或る者は般若経へ堕ち、或る者は大集経へ
堕ち、或る者は涅槃経へ堕ち、或る者は大日経、或る者は深密経、或る者は観無
量寿経等へ堕ち、或る者は阿含経や小乗経へ堕ちてしまいました。

 そのようにして、次第に堕ち果てたために、最後には、人界・天界の善根から
も堕ちて、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界にまで堕ちてしまいました。

 このようにして、法華経を捨てた舎利弗・迦葉・阿難・羅喉羅等の三周の声聞
たちは、三千塵点劫の間に、多数は無間地獄、少数は七大地獄、たまには一百余
の地獄、まれには餓鬼・畜生・修羅界等に堕ちて、生まれるようになってしまい
ました。

 そして、三千塵点劫の長遠な時間を経て、ようやく、人界・天界に生まれるこ
とが出来るようになりました。

 それ故に、法華経の第二の巻の譬喩品第三には、「常に地獄に処していること
は、園林や高台で遊んでいるようである。その他の悪道に在していることは、自
らの家に居るようである。」等と、仰せになられています。

 十悪(殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・愚痴)を犯
した人は、等活地獄・黒縄地獄等に堕ちて、五百回の生死の繰り返し、もしくは、
一千歳を経なければなりません。

 五逆罪(殺父・殺母・殺阿羅漢・破和合僧・出仏身血)を犯した人は、無間地
獄に堕ちて、一中劫という極めて長い期間を経た後に、ようやく、また、無間地
獄から生まれ変わることが出来ます。
  
 ところが、如何なる事なのでしょうか。

 法華経を捨てた人は、父母を殺す等の五逆罪を犯した人のように、差し当たっ
て、法華経を捨てた時点では無惨に見えません。
 けれども、法華経を捨てた人は、無間地獄に堕ちたまま、多くの劫(極めて長
い時間)を経なければなりません。

 たとえ、父母を、一人・二人・十人・百人・千人・万人・十万人・百万人・億
万人殺したとしても、三千塵点劫の長遠なる間、無間地獄に堕ちることはありま
せん。
 また、仏を、一仏・二仏・十仏・百仏・千仏・万仏、乃至、億万仏を殺したと
しても、五百塵点劫の長遠なる間、無間地獄に堕ちることはありません。

 ところが、法華経を捨てた罪によって、三千塵点劫の間に、三周の声聞が無間
地獄へ堕ちたり、五百塵点劫の間に、諸大菩薩が無間地獄へ堕ちたことは、極め
て無惨であるように思われます。

 結局のところは、拳で虚空を殴っても痛くありませんが、石を殴れば拳が痛い
ようなものです。
 それと同様に、悪人を殺す罪は浅くても、善人を殺す罪は深いのです。

 また、他人を殺すことは、拳で泥を殴るようなものです。そして、父母を殺す
ことは、拳で石を殴るようなものです。

 鹿に向かって吠えている犬は、頭が破れません。けれども、師子に向かって吠
えている犬は、腸が腐ります。

 太陽や月を呑もうとした修羅は、頭が七分に破れました。そして、釈尊を殴っ
た提婆達多は、大地が割れて地獄に堕ちました。

 つまり、その相手によって、罪に軽重があるのです。

 であるならば、この法華経は、一切の諸仏の眼目であり、教主釈尊の本師であ
ります。
 従って、一字一点でも法華経を捨てる人があれば、その罪は、千万の父母を殺
す罪にも過ぎます。また、その罪は、十方の諸仏の身から血を出す罪にも超えま
す。
 それ故に、三千塵点劫・五百塵点劫という長遠なる期間、法華経を捨てた人は
無間地獄へ堕ちてしまうのであります。

 さて、法華経を捨てることの無惨さにつきましては、一旦、置いておきます。

 また、法華経を経文通りに説く人と値うことは、難しいことであります。
 たとえ、一眼の亀が栴檀の浮木に値うことは出来ても、たとえ、蓮の根の糸で
須弥山を虚空に懸けることは出来ても、それ以上に、法華経を経文通りに説く人
と値うことは、難しいことであります。 

 さて、法相宗の慈恩大師という人は、玄奘三蔵の御弟子であり、唐の太宗皇帝
の御師範でありました。
 インド・中国の学問を頭に浮かべたり、一切経を胸に憶えたり、仏舎利を筆の
先から降らしたり、牙から光を放ったりしたほどの聖人でありました。

 当時の人々は、慈恩大師を、日月のように恭敬しました。そして、後代の人々
も、慈恩大師を、眼目のように渇仰しました。

 けれども、伝教大師は、『法華秀句』において、「法華経を讃めたとしても、
還って、法華経の心を殺すものである。」等と、慈恩大師を呵責されています。
 つまり、慈恩大師の著書である『法華玄賛』の言葉だけを見れば、法華経を讃
めているように思われますが、仏教の法理から見れば、還って、法華経の心を殺
す人になってしまったのです。

 善無畏三蔵は、インドの烏杖那国の国王でした。けれども、国王の位を捨てて、
出家しました。
 そして、善無畏三蔵は、インド五十余国を修行して、顕教と密教を究めました。
後には、中国に渡って、唐の玄宗皇帝の御師範となりました。
 中国・日本の真言師には、善無畏三蔵の流れを汲んでいない者は、誰もいませ
ん。

 善無畏三蔵は、このように尊き人でありましたが、ある時、頓死して、閻魔王
の責めに遭いました。
 どうして、そうなってしまったのか。その理由は、誰も知りません。

 その理由を、日蓮が勘えてみると、元々、善無畏三蔵は法華経の行者でありま
したが、大日経を見てから、「法華経よりも大日経は勝れた経典である。」と言った
ためであります。

 であるならば、舎利弗・目連等の三周の声聞が、三千塵点劫・五百塵点劫の間
に、無間地獄へ堕ちたのは、十悪や五逆罪のためでもなく、八虐罪(謀反・謀大
逆・謀逆・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義)を犯したためでもありません。
 ただ、悪知識に値ったために、法華経の信心を捨てて、権経に移ったからであ
ります。

 そのことを、天台大師は『法華玄義』に釈して、「もし、悪友(悪知識)に値
えば、すなわち、本心を失う。」と、仰せになられています。

 天台大師の釈における『本心』とは、法華経を信ずる心であります。
 天台大師の釈における『失う』とは、法華経の信心を捨てて、余経へ移る心で
あります。

 従って、法華経の如来寿量品第十六には、「どんなに良薬を与えようとしても、
あえて服そうとしない。」等と、仰せになられています。

 そのことを、天台大師は『法華玄義』に、「本心を失っている者は、良薬を与
えたとしても、どうしても服そうとせずに、生死を流浪して、他国に逃げていく。」
と、解釈されています。

 以上のことから、法華経を信ずる人が恐れなければならないものは、賊人・強
盗・夜打・虎・狼・師子等ではなく、また、現今の蒙古の襲来でもなく、法華経
の行者の信心を悩ます人々であります。

 そもそも、この娑婆世界は、第六天の魔王の所領であります。
 そして、一切衆生は、無始已来、第六天の魔王の眷属であります。

 第六天の魔王は、六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界)の中
に、二十五有(注、欲界の四悪趣・四州・六欲天、色界の大梵天・四禅天・無想
天・五浄居天、無色界の四空処天)という牢を構えて、その牢の中に一切衆生を
入れるだけでなく、妻子という足かせを打ち、父母・主君という網を天に張り、
三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)の酒を飲ませて、仏性の本心を狂わせるのです。

 第六天の魔王は、ただ、悪の肴ばかりを勧めて、三悪道(地獄界・餓鬼界・畜
生界)の大地に倒れさせます。
 そして、たまたま、善心を持っている者に対しては、妨害を行います。

 第六天の魔王は、法華経を信ずる人を、何とかして、悪道へ堕そうと思ってい
ます。
 もし、それが叶わなければ、第六天の魔王が少しずつ騙そうとするために、ま
ず、法華経に似た華厳経へと堕します。

 華厳宗の杜順・智厳・法蔵・澄観等が、その悪知識であります。

 また、般若経へ誘って、悪道へ堕した悪知識は、三論宗の嘉祥・僧詮等であり
ます。

 また、深密経へ誘って、悪道へ堕した悪知識は、法相宗の玄奘・慈恩等であり
ます。

 また、大日経へ誘って、悪道へ堕した悪知識は、真言宗の善無畏・金剛智・不
空・弘法・慈覚・智証等であります。

 また、禅宗へ誘って、悪道へ堕した悪知識は、達磨・慧可等であります。

 また、観無量寿経へ誘って、悪道へ堕した悪知識は、浄土宗の善導・法然等で
あります。

 これらは、いずれも、第六天の魔王が智者の身に入って、善人をたぶらかすの
であります。
 法華経第五の巻の勧持品第十三に、「悪鬼がその身に入る。(悪鬼入其身)」と
説かれているのは、まさしく、このことであります。

 たとえ、菩薩の最高位である等覚の菩薩であっても、元品の無明という大悪鬼が
その身に入って、法華経の妙覚の功徳を得ようとすることを妨げます。ましてや、
それ以下の人々においては、尚更のことであります。

 また、第六天の魔王は、或いは妻子の身に入って親や夫をたぶらかしたり、或
いは国王の身に入って法華経の行者を脅したり、或いは父母の身に入って孝養の
子を責めることがあります。

 釈尊がまだ悉達太子でいらっしゃった頃、太子の位を捨てて、出家されようと
致しました。 

 けれども、耶輸陀羅女(悉達太子の妻)が羅喉羅(悉達太子の息子)をご懐妊
されていたために、浄飯王(悉達太子の父)は、「お腹の子が生まれてから、出
家せよ。」と、諫められました。

 すると、魔が悉達太子の出家を妨げるために、出産を押さえ込みました。
 そのため、耶輸陀羅女のご懐妊は、六年間にも及んだのであります。

 舎利弗は、昔、禅多羅仏の末法の世の時に、菩薩の行を立てました。
 それから、舎利弗の菩薩の行は、六十劫を経ました。残りの四十劫の修行も、
終了に近づきつつあったので、もうすぐ百劫に至るところでした。

 すると、第六天の魔王は、「舎利弗の菩薩の行が成就するのではないか。」と、
危惧を抱いたために、それを妨害しようと思いました。
 それから、第六天の魔王が婆羅門に変じて、「その眼を与えよ。」と、舎利弗
に乞い求めたのであります。

 舎利弗は、言われたとおり、自らの眼を与えました。しかし、婆羅門がその眼
を踏みにじったのを見て、舎利弗は怒りの心を起こしました。
 その時以来、舎利弗は、菩薩の行を退転する心が出来したために、無量劫の間、
無間地獄に堕ちてしまいました。

 大荘厳仏の末法の世の六百八十億の檀那等は、苦岸比丘等の邪見の四比丘にた
ぶらかされて、正法を護持していた普事比丘を怨んだために、大地微塵劫の間、
無間地獄を経てしまいました。

 師子音王仏の末法の世の男女等は、勝意比丘という持戒の悪僧に帰依して、諸
法実相の教えを説いていた喜根比丘を嘲笑したために、無量劫の間、無間地獄に
堕ちてしまいました。

 今、また、日蓮の弟子檀那等は、まさしく、このこと(注、第六天の魔王が姿
を変えて、正法を退転させることにより、無間地獄に堕とそうとしていること)
に、当たります。

 法華経の法師品第十には、「如来の在世ですら、怨嫉が多い。ましてや、如来
の減後は、尚更である。」と、仰せになられています。
 また、法華経の安楽行品第十四には、「一切世間には、怨が多いために、この
経を信じ難い。」と、仰せになられています。
 
 涅槃経には、「思いがけない死の禍いを受けたり、他人から呵責されたり、罵
られ辱められたり、鞭で打たれたり、投獄されたり、飢餓に悩まされたり、困窮
の苦しみを受けたり、等々、これらの軽い罪の報いを現世に受けることによって、
過去世からの罪業を償っているために、地獄に堕ちることはない。」等と、説か
れています。

 般泥オン経には、「衣服は不足して、飲食は粗末でわずかである。財産を求め
ても利益を得られず、貧しく身分の卑しい家や邪見の家に生まれたり、或いは、
王難及び人間としての様々な苦しい報いを、現世において軽く受けることは、正
法を護持する功徳の力に由るのである。」等と、説かれています。
 
 これらの経文の心は、「我等は、過去世において、正法を行じていた者を迫害
したために、その謗法の罪によって、未来世には、大阿鼻地獄に堕ちなければな
らない。けれども、現世において、正法を信受して行ずる功徳が強盛であるなら
ば、未来世の大苦を事前に招き寄せることによって、わずかな小苦に遭うであろ
う。」と、云うことであります。
 
 これらの経文には、「過去世からの誹謗によって、様々な謗法の報いを受ける
中に、或いは貧しい家に生まれ、或いは邪見の家に生まれ、或いは王難に値う。」
等と、説かれています。

 これらの経文の中で、邪見の家と云うのは、正法を誹謗する父母の家のことで
あります。
 また、これらの経文の中で、王難等と云うのは、悪王の治世に生まれ遭うこと
であります。

 これらの二つの大難は、各々(池上兄弟)の身に当てて、よく憶えておきなさい。

 過去世からの謗法の罪を滅するために、貴殿たち(池上兄弟)は、邪見の父母
に責められているのです。
 また、過去世からの謗法の罪を滅するために、貴殿たち(池上兄弟)は、法華
経の行者を迫害する国主の治世に、生まれ遭っているのです。

 経文は、明々赫々として、それらのことを証明しています。
 故に、御自分の身が、過去に謗法の者であったことを、疑ってはなりません。

 このこと(注、過去世において、自分が謗法の者であったこと)を疑って、現
世の軽苦(注、未来世において重苦を受けるところを、正法を信仰することによ
って、現世に軽く受けること)を忍ぶことが出来ずに、慈父(池上康光殿)の責
めに随って、以ての外にも、法華経(御本尊)を捨てることがあるならば、御自
分の身が地獄に堕ちるばかりでなく、悲母も慈父も大阿鼻地獄に堕ちて、共に悲
しむ事は疑いありません。

 大道心とは、このことであります。

 各々の方々(池上兄弟)は、随分と法華経(御本尊)を信ぜられたために、現
世において、過去世の重罪を招き出したのであります。

 そのことを譬えてみれば、鉄をよくよく鍛えると、その疵が顕れるようなもの
であります。
 石を焼いても、灰にしかなりません。
 しかし、金を焼けば、不純物が取り除かれて、真金となるようなものです。
 
 この度の難によってこそ、真実の信仰心が顕れて、法華経の行者を守護するこ
とを誓った十羅刹女も、貴殿たち(池上兄弟)を守護されるに違いありません。

 雪山童子の前に、姿を現じた羅刹(鬼神)の正体は、帝釈天王でした。
 尸毘王の前に、姿を現じた鳩の正体は、毘沙門天王でした。
 それと同様に、貴殿たちの信心を試そうとして、十羅刹女が父母の身に入って、
貴殿たちを責めることがあるのかも知れません。

 それにしても、信心が薄くては、後悔することになるでしょう。
 
 また、前の車が覆った状況を検証することによって、後の車の誡めとするべきで
あります。

 今の世の状態は、自然と、道心が起こるべき時であります。
 この世の有様の厭わしさは、如何にしても、厭い尽くすことは出来ません。
 日本国の人々が、必ず、大苦に値わなければならないことは、目に見えています。
 まさに、眼前の事であります。

 文永九年二月十一日の出来事(注、自界叛逆難の『二月騒動』のこと。鎌倉で発
生した北条一門の内乱。)は、あたかも、満開の花が大風に折られるかのように、
また、きれいな絹の織物が大火に焼かれるかのように、厭わしい惨状でありました。

 このような有様を見れば、誰しも、この世を厭わずにはいられません。
 
 文永十一年十月の蒙古襲来の際に、壱岐・対馬の武士どもが蒙古の兵隊によって、
一時に殺されてしまったことは、到底、他人事とは思えないでしょう。
 その当時、蒙古討伐に向かった人々の嘆きは、如何なるばかりだったでしょうか。

 老いた親、幼い子、若い妻、貴重な住まい等を打ち捨てて、手がかりのない海辺
を守ってみても、雲を見ては敵の軍旗ではないかと疑い、釣船を見ては敵の兵船で
はないかと、肝を潰すほど恐れていました。

 そして、日ごとに一・二度は山へ登り、夜ごとに三・四度は、馬に鞍を置いてい
ました。 
 まさしく、彼等は、現身に修羅道を感じていました。

 今、各々の方々(池上兄弟)が父親(池上康光殿)から責められることも、結局
のところは、国主が法華経の敵となっているからであります。
 そして、国主が法華経の敵となってしまったことは、持斎(斎戒を持つ者)や念
仏者や真言師等の謗法から起こっているのであります。

 この度は、難を堪え忍んで、法華経(御本尊)の御利益を試みてください。
 日蓮もまた、強盛に、諸天善神へお祈り申し上げております。
 決して、臆する心根や態度があってはなりません。

 大抵、女人は心弱いものですから、女房たちが心を翻すことも、もしかしたら、
あるかも知れません。
 しかし、強盛に歯を喰いしばって、信心を弛むことがあってはなりません。

 例えば、日蓮が平左衛門尉に対して振る舞った時のように、少しも、臆する心を
持ってはなりません。
 
 和田義盛の子供達は、父の和田義盛が北条義時を攻めた際に、全員戦死しました。
 三浦泰村の子供達は、父の若狭守(三浦泰村)が北条時頼と戦った際に、全員戦
死しました。
 また、平将門や安倍貞任の家来等も、仏道とは異なりますけれども、それぞれ恥
を思って、命を惜しまない習性を示しました。

 特別なことがなくても、人間は、一度死ぬことが決まっています。
 臨終の姿が悪くて、人から笑われるようなことがあってはなりません。

 あまりにも氣がかりに思われますので、大事の物語を一つ申し上げましょう。

 中国の殷の時代に、孤竹国の王には、伯夷と叔斉という二人の王子がいました。
 父の王は、弟の叔斉に、王位を譲られました。
 けれども、父の死後、叔斉は即位しようとしません。

 そこで、兄の伯夷は、弟の叔斉に対して、「王位に就かれるように。」と、云い
ました。
 しかし、叔斉は、「兄上こそ、王位をお継ぎになって下さい。」と、云いました。

 すると、伯夷は、「それでは、親の遺言に背いてしまうではないか。」と、云い
ました。
 それに対して、叔斉は、「親の遺言はもっともですが、どうして、兄上を差し置
いて、私が即位出来るのでしょうか。」と、辞退されました。

 こうして、伯夷と叔斉は互いに譲り合った結果、遂には、二人ともに父母の国を
捨てて、他国へと渡ってしまいました。 

 伯夷と叔斉は、胡竹国を去ってから、周の文王に仕えました。
 ところが、周の文王は、殷の紂王に殺されてしまいました。
 そして、周の文王の次男に当たる武王は、父の死後百日を経過しないうちに戦を
起こして、殷の紂王を攻めました。

 その際に、伯夷と叔斉は、周の武王の馬の口に取り付いて、「親の死後三年を経
ずして、戦を起こすことは、まさしく不孝ではないか。」と、諌めました。

 伯夷と叔斉からの諫言を聞いて、周の武王は怒りました。そして、周の武王は、
伯夷と叔斉を討とうとしました。
 けれども、太公望が周の武王を制したために、事なきを得ました。

 その後、伯夷と叔斉の二人は、周の武王と疎遠になって、首陽山に隠遁しました。
 そして、伯夷と叔斉は、首陽山で蕨(山菜)を採って、命を継いでいました。
 
 そんなある時、伯夷と叔斉は、麻子という者と道で行き会って、「どうして、こ
ういう事をしているのか。」と、麻子から尋ねられました。

 そこで、伯夷と叔斉は事の次第を語ったところ、「そうであるならば、その蕨も、
周の武王のものではないか。」と、麻子は責めました。

 その時以来、伯夷と叔斉は、蕨を食べることも止めてしまいました。

 しかしながら、天は、賢人を見捨てないことが習いであります。
 そこで、天は、白鹿に身を現じて、伯夷と叔斉の二人を白鹿の乳で養いました。

 ところが、ある時、叔斉は、「この白鹿の乳を飲むと、とても美味い。ましてや、
白鹿の肉を喰ったら、さぞかし美味いだろう。」と、言ってしまいました。

 伯夷は、その発言を制止しました。
 けれども、天は、叔斉の一言を聞いてしまったために、それ以来、白鹿は来なく
なりました。
 そのため、伯夷と叔斉の二人は、餓死しました。

 伯夷と叔斉のように、生涯賢かった人でさえ、たった一言で、身を亡ぼした事例
があります。
 各々の方々(池上兄弟)におかれましても、御心の内側はわかりません。
 故に、私(日蓮大聖人)は、氣がかりで氣がかりでなりません。

 釈尊が悉達太子でいらっしゃった時に、父の浄飯王は悉達太子を惜しまれて、出
家を許しませんでした。
 そして、城の東西南北の四門に、二千人の兵士を配置して、悉達太子を監視させ
ました。
 しかし、最終的には、親の御心に背いて、悉達太子は家を出られました。

 世法においては、一切の事は、親に随わなければなりません。けれども、仏にな
る道(仏法)においては、かえって、親に随わない方が孝養の根本となる場合があ
ります。

 それ故に、心地観経には、孝養の根本について、「親の恩を棄てて、無為(仏道)
に入ることが、真実の報恩の者である。」等と、お説きになられています。

 この経文の意味するところは、「仏法の真実の道に入るためには、父母の心に随
わずに、家を出て成仏の境涯を得ることが、誠の恩を報ずることになる。」という
ことであります。
 
 世間法においても、「父母が謀反等を起こす場合には、かえって、父母に随わな
い方が孝養となる。」と、『孝経』という外道の経典(儒教の書物)にも記されて
います。

 天台大師も、法華経の三昧に入られた時には、亡くなられた父母が左右の膝にと
りついて、仏道修行を妨げようとしました。
 これは、天魔が父母の形を現じて、妨害したのであります。

 伯夷・叔斉の因縁(大事の物語)は、先に書いておきました。
 更には、また、第一の因縁(大事の物語)があります。

 それは、日本国の人王第十六代・応神天皇に関することであります。
 応神天皇は、今、八幡大菩薩として崇められています。
 
 応神天皇には、二人の御子がいらっしゃいました。
 嫡子(長男)は仁徳天皇、次男は宇治皇子でありました。
 そして、応神天皇は、次男の宇治皇子に位を譲られました。

 応神天皇が崩御された後に、宇治皇子は、「兄君(仁徳天皇)が天皇の位に、お
就きになって下さい。」と、云われました。 
 一方、兄の仁徳天皇は、「どうして、親(応神天皇)の御遺言を用いないのです
か。」と、宇治皇子に云われました。

 このように、互いに論じ合って、三年間も、天皇の空位が続いてしまいました。
 万民の嘆きは、言うまでもないほど、大きなものでした。
 
 仁徳天皇と宇治皇子の御兄弟が互いに譲り合ったために、三年間も、天皇の空位
が続いてしまったことは、天下の災いでありました。
 そのため、宇治皇子は、「私が生きているために、兄君(仁徳天皇)が即位出来
ないのだろう。」と言われて、自害されました。

 仁徳天皇は、宇治皇子の自害を非常に嘆かれて、深く伏して沈みこまれました。
 その際に、宇治皇子は生き返って、色々と御遺言を置き残されてから、再び、息
を引き取られました。
 
 こうして、仁徳天皇が御即位されてからは、日本国内が穏やかになりました。
 その上、新羅・百済・高麗(朝鮮半島の国々)も、日本国に随って、毎年、船で
八十艘分の貢物を献上するようになりました。

 賢王の中でも、兄弟の仲が穏やかではない例もあります。
 にもかかわらず、どういった因縁で、仁徳天皇と宇治皇子との兄弟愛は、かくも
素晴らしかったのでしょうか。

 法華経妙荘厳王本事品第二十七に説かれている、浄蔵・浄眼の二人の太子が生ま
れ変わってこられたのでしょうか。
 それとも、薬王菩薩・薬上菩薩のお二人なのでしょうか。

 (注、法華経妙荘厳王本事品では、息子の浄蔵・浄眼によって、父の妙荘厳王が
正法に帰依した模様が説かれている。妙荘厳王は、後の華徳菩薩。浄蔵・浄眼は、
後の薬王菩薩・薬上菩薩である。)

 大夫志殿(池上宗仲殿)が父上から勘当されたことは承っていました。

 けれども、「今度ばかりは、弟の兵衛志殿(池上宗長殿)が、よもや、兄の大夫
志殿(池上宗仲殿)に付くことはないだろう。」と、思っていました。
 そして、「そうなると、いよいよ、大夫志殿(池上宗仲殿)に対する父上からの
勘当は、並大抵のことでは許されないだろう。」と、思っていました。

 ところが、この童子が語っていること(注、勘当された兄の池上宗仲殿と共に、
弟の池上宗長殿も信心を持ち続けることを、池上宗長殿の子息の鶴王童子が日蓮大
聖人にお伝えしたこと。)は、本当のことでしょうか。

 池上宗長殿が「兄の池上宗仲殿と御同心である。」と仰ったことは、あまりにも
尊いことであります。

 故に、別の御文を書き付けることに致します。
 後世への物語(教訓)として、これに過ぎたる物語(教訓)が、他にあるでしょ
うか。

 玄奘三蔵が記した『大唐西域記』という書物には、次のような物語が書かれてい
ます。

 昔、インドのバラシナ国施鹿林という所に、一人の隠士がいて、仙人の術を得よ
うと思っていました。

 その隠士は、既に、瓦礫を宝に変じてみせたり、人や家畜の形を変じることは出
来ました。
 けれども、未だに、風雲に乗って、仙人の宮殿に出入りすることは出来ませんで
した。

 この仙人の術を成就するために、隠士は一人の烈士に話をもちかけました。
 そして、隠士は烈士に長刀を持たせて、息を殺して無言のままで、土を盛った壇
の隅に立たせました。

 今宵から明朝に至るまでに、一言も物を言わなければ、仙人の術は成就すること
になっていました。

 仙人の術を求める隠士は、壇の真ん中に坐して、手には長刀を持ち、口には神呪
を唱えていました。

 隠士は烈士に対して、「たとえ、死ぬようなことがあっても、物を言ってはなら
ない。」と、約束させました。
 烈士は、「死んでも、物は言わない。」と、誓いました。

 このようにして、既に夜半を過ぎてから、まさに、夜が明けようとしていました。

 ところが、その時、何を思ったのでしょうか。
 烈士は、夜明けに大きな声を出して、叫んでしまいました。
 そのために、仙人の術を成就することが出来なかったのであります。

 隠士は烈士に対して、「どうして、約束を破ったのか。残念なことではないか。」
と、非難しました。
 烈士は嘆きながら、このように答えました。

 「少し眠ったところ(夢の中)で、昔、仕えていた主人がやって来て、『なぜ、物
を言わないのか。』と責められましたけれども、師(隠士)の恩が厚いために、忍
んで物を言いませんでした。

 すると、主人は怒って、『貴様の首をはねてやる。』と、云いました。
 それでも、私は、物を言いませんでした。
 そのため、遂に、私は首を切られてしまいました。

 中陰(生死の中間)をさまよう自分の死骸を見ると、残念で嘆かわしかったので
すが、それでも、私は、物を言いませんでした。

 やがて、南インドのバラモンの家に生まれました。
 懐胎の時も出胎の時も、大苦は忍び難いものでしたが、それでも、私は、息を出
さずに、物も言いませんでした。

 そして、成人してから、妻と結婚しました。
 また、親が死んだり、子供が生まれたりしました。
 その他にも、悲しいことがあったり、悦ばしいことがありました。
 それでも、私は、物を言いませんでした。

 このようにして、私は六十五歳になりました。

 私の妻は、『もし、あなたが物を言わなければ、あなたの愛しい子供を殺す。』と、
言いました。

 その時に、私は、『このような老齢で、もし、この子を殺されたならば、再び、子
を授かることは出来ないだろう。』と、思いました。

 そのため、思わず、声を出してしまいました。 
 そして、自分の声に驚き、眠りから覚めました。」と、烈士は、隠士に向かって語り
ました。

 師の隠士は、「それは、力の及ばないことであった。我も汝も、魔にたぶらかさ
れて、仙人の術を成就出来なかったのである。」と、言いました。

 烈士は大いに嘆いて、「私の心が弱かったために、師(隠士)の仙人の法を成就
することが出来なかったことを、申し訳なく思います。」と、詫びました。

 すると、隠士は、「それは、私の過失である。事前に、誡めておかなかったから
だ。」と、悔いました。

 けれども、烈士は、師(隠士)の恩に報いることが出来なかったことを嘆いて、
遂には、悩み苦しんだ末に死んでしまいました。

 以上の物語が、玄奘三蔵の『大唐西域記』に書かれています。

 仙人の法というものは、中国では儒教を基盤としており、インドでは外道の法の
一部であります。

 この仙人の法は、仏教の中では語るに足らぬほどの小乗・阿含経にさえも、及ぶ
ものではありません。
 ましてや、仙人の法は、小乗・阿含経より高尚な教えである、通教や別教や円教
に及ぶはずがありません。それにも増して、法華経には、到底、及ぶものではあり
ません。

 しかし、仙人の法のような浅い教えであっても、一つの物事を成就しようとする
と、四魔(五陰魔・煩悩魔・死魔・天子魔)が競い起こって、成就を妨げようとし
ます。

 ましてや、法華経の極理である南無妙法蓮華經の七字を、日本国の人々に始めて
持たせようとして弘通を始めている日蓮の弟子檀那に対して、大難が到来する有様
は筆舌に尽くし難いものがあります。
 ただ、心をもって、推量するしかありません。

 天台大師の『摩訶止観』という御文には、天台大師御一代の教導の大事が明かさ
れており、釈尊御一代の聖教の肝心でもあります。 

 釈尊の仏法が中国に渡来してから五百余年の間は、南三・北七と呼ばれた十師が
活躍していました。
 彼等の智慧は日月に斉しく、その徳は四海に響いていました。けれども、未だに、
一代聖教の浅深・勝劣・前後・次第には迷っていました。 

 その時に、天台智者大師が、再び、釈尊の仏教を明らかにされたばかりではなく、
妙法蓮華經の五字の蔵の中から、『一念三千』の如意宝珠を取り出して、三国(イ
ンド・中国・日本)の一切衆生に普く与えられたのであります。

 この『摩訶止観』の『一念三千』の法門は、中国で始まった法門であるばかりで
なく、インドの論師達でさえも明かされなかった法門であります。

 従って、章安大師は、『摩詞止観』の冒頭に、「止観の明静なる法門は、前代未
聞である。」と、解釈されています。
 また、『法華玄義』には、「インドの大論ですら、比べものにはならない。」等
と、云われています。

 その上、『摩訶止観』の第五の巻の『一念三千』の法門は、更に、もう一重立ち
入った法門であります。
 それ故に、この法門を申すならば、必ず、魔が出来するのであります。
 むしろ、魔が競い起こらなければ、正法と認知することは出来ません。

 『摩詞止観』の第五の巻には、「既に行解を勤めていくと、三障四魔(注、煩悩
障・業障・報障の三障、五陰魔・煩悩魔・死魔・天子魔の四魔)が、紛然として競
い起こってくる。(中略)三障四魔に随ってはならない。三障四魔を畏れてはなら
ない。三障四魔に随えば、まさに、人を悪道に向かわせるのである。また、三障四
魔を畏れるならば、正法を修行することを妨げられる。」等と、説かれています。

 この『摩詞止観』の解釈は、日蓮の身に当てはまるだけでなく、門家の明鏡でも
あります。
 謹んで習い伝えて、未来の資糧としなさい。

 この『摩詞止観』の解釈に、“三障”と記されているのは、煩悩障・業障・報障
のことです。

 煩悩障というものは、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒等によって、障碍(障害・邪魔)が
発生します。
 業障というものは、妻子等によって、障碍(障害・邪魔)が発生します。
 報障というものは、国主・父母等によって、障碍(障害・邪魔)が発生します。

 また、“四魔”の中に、天子魔と記されているのは、第六天の魔王等によって発
生する障碍(障害・邪魔)のことであります。

 今、日本国の中で、「我も止観を得たり、我も止観を得たり。」と、云っている
人々がいます。
 しかし、彼等の中で、誰か一人でも、三障四魔が競い起こっている人がいるので
しょうか。

 天台大師が『摩詞止観』に、「三障四魔に随えば、まさに、人を悪道に向かわせ
るのである。」と説かれていることは、ただ、地獄界・餓鬼界・畜生界の三悪道の
ことだけではなく、人界や天界を含んだ九界(注、十界の中で、仏界だけを除いた
残りの九界のこと)を、すべて“悪道”と総称しているのであります。

 であるならば、法華経を除いた、華厳・阿含・方等・般若・涅槃・大日経等の爾
前経を信ずることは、すべて“悪道”になります。

 そして、八宗(倶舎・成実・律・法相・三論・華厳・真言・天台)の中で、天台
宗を除いた、残りの七宗の人々は、人を悪道に向かわせる獄卒(地獄の番人)であ
ります。

 天台宗の人々の中でも、表面的には法華経を信ずるようでいながら、人を爾前経
へ追いやっている者は、やはり、人を悪道に向かわせる獄卒(地獄の番人)になり
ます。

 今、池上宗仲・宗長殿のお二人は、先程申し上げた、隠士と烈士のようなもので
あります。
 御兄弟お二人の中で、もし、一人でも欠けてしまう(退転)ようなことがあれば、
仏法を成就することは出来ません。
 それを譬えると、あたかも、鳥の二つの羽や人間の両眼のようなものです。

 また、池上宗仲・宗長殿の御夫人達は、この人々(池上兄弟)によって導かれる
檀那(支援者)であります。

 女人というものは、物に随って、物を随える身であります。
 夫が楽しければ、妻も栄えることが出来ます。
 しかし、夫が盗人となったならば、妻も盗人となってしまいます。

 こうした夫婦の関係は、ひとえに、今生だけのことではありません。
 世々・生々に、影と身との如く、華と果実との如く、根と葉との如く、互いに、
離れることの出来ないものであります。

 木に棲む虫は、木を食べます。水に棲む魚は、水を呑みます。芝が枯れれば、蘭
は嘆きます。松が栄えれば、柏は喜びます。
 このように、草木ですら、互いに助け合っているのです。

 比翼という鳥は、身が一つに対して、頭が二つ付いています。
 そして、比翼は二つの口から、別々に食べ物を取って、一つの身を養っています。

 比目という魚は、雄と雌が互いに一目ずつしか持ち合わせていないため、一生の
間離れる事がありません。

 夫と妻の関係は、そういうものであります。

 この法門の為に、たとえ、夫に害せられるような事があったとしても、後悔して
はなりません。
 夫人たち(池上兄弟の奥様)が一同になって、夫(池上兄弟)の心を諫めたなら
ば、法華経提婆達多品で成仏の授記を得た竜女の跡を継いで、末代悪世の女人成仏
のお手本となられることでしょう。

 このように振る舞われるのであれば、たとえ、どのような事があっても、日蓮は、
薬王菩薩・勇施菩薩の二聖、持国天王・毘沙門天王の二天、十羅刹女、釈迦如来、
多宝如来等(御本尊)に申し上げて、あなた方を、順次、仏に成し奉らせていただ
きます。

 「心の師とはなっても、心を師としてはならない。」とは、六波羅蜜経の経文で
あります。

 たとえ、どのような煩わしい事があったとしても、一時の夢だと思って、ただ、
法華経(御本尊)のことだけを、思い続けていきなさい。 

 中でも、特に、日蓮の法門は、古来には信じ難かったようです。
 けれども、最近は、以前に予言しておいたことが既に符合してきたために、理由
なく謗った人々にも、後悔する心が見られるようになりました。

 しかし、これから後に、たとえ、日蓮の法門を信ずる男女が現れたとしても、そ
れらの人々と、各々(池上兄弟の一族)を同等に思えるものではありません。

 始めは信じていましたけれども、やがて、世間からの迫害を恐れるがために、信
仰を捨ててしまった人々が数多くいます。
 そればかりか、信仰を捨てた人たちの中には、もとから謗っていた人たちよりも、
はるかに誹謗する人たちが、また、数多くいます。

 釈尊御在世においても、善星比丘等は、始めは釈尊の教えを信じていました。
 けれども、後には信仰を捨てたばかりでなく、却って、釈尊をより強く誹謗した
ために、仏の慈悲も及ぶことなく、無間地獄に堕ちてしまいました。

 この手紙は、別して(特に)、兵衛志殿(弟の池上宗長殿)へ送らせていただき
ます。
 また、太夫志殿(兄の池上宗仲殿)の女房と、兵衛志殿(弟の池上宗長殿)の女
房にも、よくよく申し聞かせてください。くれぐれも申し聞かせてください。

 南無妙法蓮華經、南無妙法蓮華經

 建治二年 卯月                     日蓮 花押



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