兄弟抄の「あとがき」


■あとがき

 本日から、『兄弟抄』を連載させて頂きます。
 『兄弟抄』の対告衆は、池上宗仲殿・池上宗長殿の兄弟です。

 「池上兄弟の勘当と、父池上康光殿の入信」をテーマとして、日蓮大聖人が池
上兄弟にお与えになられた御消息文を、これから五篇ほど取り上げます。  了



■あとがき

 日蓮大聖人が『兄弟抄』を御著作された状況を、簡潔に申し上げます。

 日蓮大聖人は、建長五年四月二十八日に立宗宣言をなされた後に、安房の清澄
寺を追放されました。

 その後、間もなく、日蓮大聖人は鎌倉にお出ましになり、松葉ヶ谷の草庵にお
住まいになられます。

 そして、「建長八年頃に、まず、池上兄弟の兄である宗仲殿が、四条金吾殿等と
共に入信されて、その直後に、池上兄弟の弟である宗長殿も入信された。」と、云
われています。

 どちらかというと、兄の池上宗仲殿は信心強情なタイプで、弟の池上宗長殿は
付和雷同的なタイプのように、周囲からは見られていたようです。  (^v^)

 なお、池上兄弟は、後の六老僧の一員となる、弁阿闍梨日昭の甥に当たります。

 池上兄弟の父である池上康光殿は、作事奉行(建設・修繕・土木工事等を管轄)
として、鎌倉幕府に仕えていました。
 本姓が藤原氏であった池上一族は、当時、名門の家柄でもありました。

 また、池上康光殿は、律宗の極楽寺良観に帰依していました。
 そして、僭聖増上慢の極楽寺良観は、日蓮大聖人から破折されたことに恨みを
持っていたため、鎌倉幕府に取り入って、日蓮大聖人への讒言や迫害を行ってい
ました。

 そのため、池上康光殿も極楽寺良観に感化されて、宗仲・宗長殿の兄弟が入信
されたことに対して、憤りを持っていたようです。
 そして、極楽寺良観は池上康光殿と共謀して、池上兄弟の離叛を試みようとし
ます。

 遂には、兄の宗仲殿が父の康光殿から勘当されて、家督を弟の宗長殿に譲ろう
とする事件が起こります。

 そのために、日蓮大聖人が池上兄弟に対して、そして、池上兄弟の御夫人方に
対して、退転の誡め等の御慈悲溢れる御指南を与えられた御書が、この『兄弟抄』
であります。    了
 



■あとがき

 本日の連載分から、伯夷と叔斉の故事が綴られています。

 伯夷と叔斉の故事の原典は、司馬遷が著した『史記列伝』にあります。
 日蓮大聖人がお書きになった和文を、『史記列伝』の原文と比較してみると、簡
潔・明瞭な美文調で、伯夷と叔斉の故事をわかりやすく要約されていることが注目
されます。

 そして、この後の『兄弟抄』の御記述には、『古事記』『日本書紀』等における
仁徳天皇と宇治皇子の故事や、『大唐西域記』における隠士と烈士の故事を、日蓮
大聖人はお書きになられています。

 つまり、日蓮大聖人は、インド・中国・日本の古典を題材にされて、池上兄弟へ
の御教訓をお示しになられている、ということになります。

 その的確な要約力と、流れるが如き名文に、改めて、感服しています。
 これで、上記の故事の“現代語訳”が読みにくい文章になっていたら、それは、
ひとえに筆者の能力不足である、と、ご認識下さい。   了



■あとがき

 聖愚問答抄に曰く、「殷の紂王は悪王、比干は忠臣なり。政事理に違ひしを見て、
強ひて諫めしかば即ち比干は胸を割かる。紂王は比干死して後、周の王に打たれぬ。
今の世までも比干は忠臣といはれ、紂王は悪王といはる。」
 (新編御書401ページ、御書全集493ページ)

 異体同心事に曰く、「殷の紂王は七十万騎なれども、同体異心なればいくさにま
けぬ。周の武王は八百人なれども、異体同心なればかちぬ。」
 (新編御書1389ページ、御書全集1463ページ)

 上記の御金言の他にも、日蓮大聖人の御書には、『殷の紂王』『周の文王』『周
の武王』『比干』『太公望』『周公旦』『伯夷』『叔斉』の人名が、よく出てきます。

 これらの人たちは、紀元前十一世紀後半の中国(殷・周)において、ほぼ同時代
に生を受けています。
 そして、これらの人たちは、殷・周戦争と王朝の交代(易姓革命)に、深く係わ
っています。
 
 この時代の中国の歴史を俯瞰しておくことは、日蓮大聖人が引用されている故事
を把握するためにも、大切なことです。

 そのため、極めて大雑把ではありますが、この時代の歴史の流れを、四部構成の
ダイジェストにしてみました。

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  PART.1

 紀元前十一世紀後半、殷の国は、紂王が統治していた。

 女好き・酒好きの紂王は、寵愛する妃の妲己と共に悪行三昧を重ねたため、殷の
国政は腐敗と堕落を極めていた。そのため、諸侯の不満や庶民の苦しみは、募るば
かりであった。

 当時の殷では、西伯昌・九侯・鄂侯を、三公(大臣)としていた。
 紂王は、『酒池肉林』の贅沢や淫楽を好まなかった九侯と、その娘を殺した。
 そして、その悪行を諫めた鄂侯も殺して、西伯昌を捕らえた。この西伯昌が、後
に、周の文王と称される。

 また、その頃、紂王の叔父に比干がいた。比干は、悪政を恥じない紂王を諫めた。
 そのために、「聖人の心臓には、七つの穴があるらしい。聖人ぶった事を言う貴
様の心臓にも、穴があるのか。俺が調べてやる。」と、紂王から逆恨みを受けて、
比干は胸を切り裂かれて殺された。

 比干は、殷の時代の『三仁』(比干・箕子・微子)の代表格として、後世の人々
からも敬われている。

  PART.2

 釈放された西伯昌は、残虐な『炮烙の刑』を中止させるために、洛西の地を献上
して、紂王に諫言した。そして、殷の紂王は、領地の献上と諫言を受け入れた。

 これによって、西伯昌は領地を失ったが、人心と軍権を掌握した。
 ある時、西伯昌は、渭水の畔で釣りをしている老人と出会った。

 老人の名は呂尚と云い、太公望の異名を取っていた。智慧者の太公望は、当時七
十歳を超えていた。
 太公望の知己を得た西伯昌は、殷の紂王を討つ決意を固めて、善政を布いた。

  PART.3

 しかし、西伯昌(周の文王)は、殷の紂王に殺された。
 その直後に、西伯昌の次男の発が、周の武王を名乗って、殷の紂王を打倒するた
めに決起した。

 太公望が武王の『師』、周公旦が武王の『輔』(補佐役)となった。
 武王は、太公望や周公旦たちと協力して、殷との戦争を準備した。

 殷へ出陣をする直前に、伯夷と叔斉が、「父の喪中に戦をすることは、孝にあら
ず。臣下(周)が主君(殷)を殺すことは、仁にあらず。」と、周の武王を諫言し
た。

 しかし、周の武王は、伯夷と叔斉の諫言を聞き入れなかった。
 そのため、伯夷と叔斉は、首陽山に隠遁して、餓死した。

  PART.4

 武王が率いた周の軍勢は、八百人の諸侯と共に、進撃を開始した。
 盟津の地まで進軍した時に、周の武王は太公望から、「今、殷と戦をしても、勝
率は八割ほどであろう。」と、忠告を受けた。 
 そのため、周の武王は、一旦は兵を退却させた。

 それから二年後に、周軍は進撃を再開して、牧野の地で殷軍と激突した。

 周の武王の中核部隊はわずか八百人の諸侯であり、殷の軍勢は七十万騎(注、か
なり大げさな数値と云われている。)の大軍であった。

 しかし、殷軍は、厭戦のために志氣が低かった。
 一方、意氣軒昂で統率された周軍には、援軍も多数加わったため、殷軍は大敗
した。

 殷の紂王は、火を放って自害した。そして、妃の妲己は、周軍によって殺された。
 こうして、殷王朝は滅んだ。

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 殷・周戦争と王朝の交代(易姓革命)は、今から三千年以上も、昔の出来事です。
 ところが、今も昔も、“暴君”の所業と悲惨な最期には、同様の傾向性があるこ
とに、驚きを禁じ得ません。

 「賢者は歴史に学ぶ」という格言の重みを、改めて、痛感させられます。   了



■あとがき

 読者の皆さんも、「天道、是か非か。」という言葉を、耳にしたことがあるでし
ょう。

 この「天道、是か非か。」という言葉は、伯夷と叔斉が非業の死を遂げている一
方で、大盗賊が天寿を全うしている不条理を、司馬遷が『史記列伝』で嘆いたこと
が語源となっています。

 儒教においては、伯夷と叔斉の二人が義人として、大いに讃えられています。

 しかし、上記の『兄弟抄』の御記述を拝してもお分かり頂けるように、日蓮大聖
人は、伯夷と叔斉の憤死の模様を、ちょっとクール(?)に描かれています。

 忠孝の必要性を説いた伯夷と叔斉の主張は、儒教的概念において、至極正当なも
のになるでしょう。

 しかし、筆者一個人の見解になりますが、「悪虐の限りを尽くして、民を苦しめ
ていた殷の紂王の討伐を、喪中や主従関係を理由に阻もうとした、伯夷と叔斉の判
断は、必ずしも適切ではなかった。」と、考えています。

 また、「王位を譲り合って祖国の統治を放棄したことや、首陽山に隠遁する前後
の対応を見ると、伯夷と叔斉の二人は処世術が少々下手で、頭が固い人だったのか
も知れない。」とも、考えています。

 このように考えてしまうのは、儒教的な忠孝の美徳を、きっと、筆者が持ち合わ
せていないからでしょう。  (^v^)

 皆さんは、どのようにお考えでしょうか。    了


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