孝子御書 弘安二年(1279年)二月二十八日 聖寿五十八歳御著作


 貴殿の父上(池上康光殿)が御逝去されたことを、風の便りで聞きましたが、本当
でしょうか。

 貴殿(池上宗長殿)と大夫志殿(池上宗仲殿)は、末法の代に入って、しかも、
生を辺土(日本)に受けて、法華の大法(御本尊)を信仰されたのでありますから、
「必ず、悪鬼が、国主や父母等の身に入れ替わって、迫害をすることは疑いない。」
と、考えておりました。

 案の定、その通りに、父上からたびたび勘当を受けながらも、御兄弟が共に信仰
を貫かれたことは、父の妙荘厳王を導かれた、浄蔵王子・浄眼王子御兄弟が生まれ
変わって来たのでしょうか。

 それとも、薬王菩薩・上行菩薩(注、上行菩薩ではなく、薬上菩薩のお書き間違
いと思われる。浄蔵王子・浄眼王子は、薬王菩薩・薬上菩薩の過去世の御姿である。)
の御計らいでありましょうか。

 遂には、何ら問題なく、父上からの勘当も許されて、当初からの御孝養の精神を、
心に貫き通すことが出来ました。
 貴殿たち御兄弟こそ、まさしく、孝子であります。

 必ずや、諸天善神も、貴殿たち御兄弟(池上兄弟)に、悦びを与えることでしょ
う。
 そして、法華経・十羅刹(御本尊)も、貴殿たち御兄弟の信心を、御納受される
ことでしょう。

 その上、貴殿(池上宗長殿)の御事は、心の内に感じて思うことがあります。

 この法門が、法華経に仰せの如く弘まった際には、共に御悦びを申し上げましょ
う。
 とてもとても、有難いことであります。

 御兄弟(池上兄弟)の仲が不和であってはなりません。決して、不和であっては
なりません。

 詳しいことは、大夫志殿(池上宗仲殿)への手紙に書いております。
 兄上から、お聞きになって下さい。

 恐々謹言

 弘安二年二月二十八日           日蓮 花押



■あとがき

 今回をもちまして、『兄弟抄』『兵衛志殿御返事』『兵衛志殿御返事』『兵衛志殿御書』
『孝子御書』と、池上宗長殿を対告衆とした五篇の御書の連載を終了致します。

 ここまでの連載をお読みになっている方には、ご理解いただけるものと存じますが、
池上宗長殿は日蓮大聖人から、相当、キツい(?)御指南を頂戴しています。

 たとえば、『兵衛志殿御返事』における、「とのは現前の計らひなれば親につき
給はんずらむ。」「かへすがへす今度とのは堕つべしとをぼうるなり。」等々・・・。
 
 けれども、池上宗長殿(兵衛志殿)が『兵衛志殿御返事』を賜った機縁は、使者お二人
を遣わして、日蓮大聖人に御供養をされたことにあります。

 果たして、退転しようと思っている人が、使者二人を遣わしてまで、多くの御供養を
申し上げるものでしょうか・・・・・。
 
 「こういう厳しい御指南をされる前提条件として、日蓮大聖人と池上宗長殿との
間には、既に、強い信頼関係が存在していたのではないか。」と、筆者は考えてい
ます。

 かえって、信頼を寄せていた池上宗長殿だからこそ、後世の人々への誡めを込め
て、日蓮大聖人は厳しい御指南をお与えになられたのかも知れません。

 『孝子御書』でお書きになられている、「其の上貴辺の御事は心の内に感じをも
う事候」と仰せの御一節には、池上宗長殿に対する、日蓮大聖人の深い親愛の情が
感じ取られます。

 しっかり者の兄の大夫志殿(池上宗仲殿)。
 のんびり屋の弟の兵衛志殿(池上宗長殿)。

 同じ池上兄弟に与えられた御書でも、日蓮大聖人の御書の筆調は、大きく異なって
います。

 のんびり屋だった池上宗長殿が、日蓮大聖人が仰せになられた通りに、勇氣を持
って折伏されている姿を目の当たりにする度に、父の池上康光殿は、「息子も成長
したものだなぁ。」と、子を持つ親としての感慨を懐かれたのではないでしょうか。

 「信仰を通して成長された池上宗長殿の姿こそ、極楽寺良観の信者であった父上の
池上康光殿が邪法を捨てて、正法に帰依される最大の要因になったのではないか。」と、
筆者は推測しています。      了


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