国府尼御前御返事の「あとがき」


■あとがき

 本日より、「ウイークエンド・バージョン」として、『国府尼御前御返事』の連載
を行います。 

 この御書の対告衆は、佐渡国の『国府入道』の奥様・『国府尼』になります。
 そして、この御書の御真蹟は、佐渡・妙宣寺に現存しています。

 『国府』とは、国の行政府や、その所在地を指す言葉です。
 大聖人様御在世当時、佐渡国の『国府』は、現在の新潟県佐渡市に置かれていまし
た。
 おそらく、『国府入道』『国府尼』は、その地の住民もしくは行政府関係者だった
のでしょう。

 日蓮大聖人が佐渡御流罪の折に、『国府入道』と『国府尼』が帰依されています。
 『国府入道』と『国府尼』は御夫婦揃って、日蓮大聖人へ種々の御供養を行い、外
護の任に当たっています。

 そして、日蓮大聖人が身延へ御入山されてからも、『国府入道』は、佐渡から身延
を訪れています。
 その際に、『国府入道』が身延へ登山をされたことへの御礼を、奥様の『国府尼』
に対して、日蓮大聖人がお述べになられている御書が『国府尼御前御返事』になりま
す・・・。

 う~ん。。。
 日蓮大聖人は、こういう処の芸が細かいんです。 (笑)

 わざわざ、奥様への手紙を、一筆、お認めになられるんですね。そして、その中に、
仏法の深い教えを織り交ぜていらっしゃいます。お心遣いがきめ細やかなんです。

 御主人の帰り間際に、「奥様に、宜しくお伝えください。」という伝言だけで、済
ますようなことはしないんです。
 これが、女心を掴む『テク』なんでしょうか?モテない男性諸君、早速、見習いま
しょう。 (笑)

 さて、宗門が編纂した『新編御書』では、『国府尼御前御返事』の「異称・略称」を、
『千日尼御前御返事』としています。しかし、これは、明らかな間違いです。

 何故なら、「『国府入道』と『国府尼』で御夫婦。『阿仏房』と『千日尼』で御夫婦。
『国府尼』と『千日尼』は別人。」だから、です。 (笑)

 それにしても、宗門版の『新編御書』には、こういう類の基本的なミスが多すぎます。
 編纂を担当した坊さんは、頭を丸めて、出直してもらいたいものです・・・。

 そして、どういう訳か、宗門版の『新編御書』では、『国府尼御前御返事』の系年を、
建治元年(1275年)から文永十一年(1274年)に直しています。

 この御書の原文では、文末に『六月十六日』とお記しになられているだけで、年号を
お書きになられていないのですが。

 日蓮大聖人が佐渡へ御入山されたのは、文永十一年(1274年)五月十七日です。
 仮に、『国府尼御前御返事』が文永十一年(1274年)六月十六日の御著作とする
ならば、通信・輸送手段が人力・馬に頼るしかなかった時代において、それから一ヶ月
弱の間に、果たして、これだけの事が出来たのでしょうか?

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1、日蓮大聖人が身延へ御入山された事のご連絡が、佐渡在住の『阿仏房』『国府入道』
の御夫婦に、それぞれ届いた。

2、『阿仏房』の奥様→『千日尼』が三百文の御供養を用意されて、日蓮大聖人へお届
けになった。

3、『国府尼』が単衣一領の御供養を用意されて、日蓮大聖人へお届けになった。

4、『国府入道』が佐渡から身延へ来られて、日蓮大聖人にお目通りした。

5、その後、日蓮大聖人が『国府尼』に対して、『国府尼御前御返事』をお書きになら
れた。

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 それらの事実関係から判断すると、筆者は、「文永十一年(1274年)」の系年に、
強い疑念を抱いています。

 因って、昭和27年に日亨上人が御編纂された学会版の『御書全集』のとおり、『国
府尼御前御返事』の系年を、「建治元年(1275年)」とさせて頂きます。

 ちなみに、他門の御書でも、『国府尼御前御返事』の系年は、「建治元年(1275
年)」となっております。ご参考まで・・・。  

 平日に連載させて頂いている『撰時抄』(御法門書)は、建治元年(1275年)六
月十日の御著作。
 週末に連載させて頂いている『国府尼御前御返事』(御消息文)は、建治元年(12
75年)六月十六日の御著作。

 『撰時抄』と『国府尼御前御返事』は、わずか6日違いで、日蓮大聖人がお書きにな
られた御書です。
 そして、それぞれの御書に、『法華経の行者』に関する御記載がございます。

 それらの点に着目されながら、双方の御書を拝読して頂けると、幸いです。  了
 


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