『告白』 (謹んて宗内道俗一同に告く) 昭和二年十一月二十日 日亨上人御著作


 謹んて宗内道俗一同に告く

 野衲が管長法主職に就きしは止むを得ぬ事情の為であって、始めから折を見て
早晩辞職の積りであることは再々内表した事であれば、今回の辞職説が伝わりた
りとて門下は敢て驚くべきでない、
 却って実現の早きを祝せねばならぬ況んや事情を知悉せる評議員宗会議員の任
にあるものは事情に迂遠なる者に当然の理解を与うべきである、
 然るに何物の運動にや印刷物に記名捺印せる留任願が頻々として来るのは大い
に意得ぬ事である、
 但し野衲沙も信し宗門をも思う真情が自然に此挙に出づるとせば大に感謝すべ
き事であるが、若し陽に此月並的美動に托して隠に他を排擠するの行動に陥ると
せば頗る宗門の夭蘗不祥事と云わねばならぬが、其を発生せしめし一半の責任は
慥に予が寡黙による、
 其は当職已来親しく僧俗に接すること少く従って又予に献替の策を立つる人も
少し、偶ま人に接しても大に心情を吐露した事もないので、常に人々に随意の憶
測を加えられ勝である、
 其れで本件に就いても存外委曲を知了すべき者が不知顔して却って予が言行を
誣い何事も知らぬ人々を迷わしむるに至ったのは甚た意得ぬ事であるから止むを
得ず直に深き了解なき人々に当初已来巨細の事情と愚衲の意衷とを表して一同に
深き誤りに陥らせないように念ずる、
 願くは至信に精読して頂きたい。

 第一 管長となりし因縁

 何故に十数年の隠遁生活を止めて最も性格不相応の管長法主となりしやを先づ
一言せざるべからず、
 大正十四年十一月の突発大事件について多数の人は此機会を以って宗門興隆の
為に敢て予を隠窟より出して無上法位に推上せると云えるが、或は御一同も然か
く考えて以て兎も角為宗安心の胸を撫でおろされしならんが、予に取りては決し
て然らず、事件の責任其遠因自己にあり如何なる手段を取りても一先づ此紛擾を
静めざるべからずと決して、水谷、有元、小笠原、福重、四師の熱誠を容れたの
である、
 其遠因と云うのは予が明治四十一年年已来漸次に宗教界を脱れたるは自ら天分
を守るの愚衷に出てたるは他人は以て責任逃避の如く陰口せる由、大正四年に日
柱師を学頭に推挙するの主動者となりてより同十二年に五十八世の猊座に上らる
まで直接に間接に力めて障害なからしむるようにした、此等の行動を目して為宗
の誠意に乏しき個人安逸を計ると謗る人ありと聞ける事もあった、
 又予の名を以って柱師擁護の器に濫用した当局員もあった位であるのに柱師の
徳澤未だ宗内に洽ねからざるに当りて大事到来せるに拘わらず、予が上京の寓所
は公然の秘密なるに何人も此を通信せざりしは頗る不可解事に属する、
 但し大破裂の上には事後の収拾こそ必要と考かえ早くて三ケ月遅くて六ケ月を
己が責任逃避より起れる事件の為の懺悔奉仕即ち罪亡ぽしの為に粉骨する考にて
殆んど断頭台に昇る心持で晋座したのであるが、少数なれども殊死躍動の人々の
為に円満の収拾も出来ずさりとて中途放棄もなりがたく成り行きに引きずられて
三ケ月も六ケ月も夢と去ったのである、
 此を以て予の大坊移転は漸く大正十五年四月九日であった其も代替虫払会が目
前に迫るので舊隠坊からの通勤は大に穏当でないと云う多数の意見で自分は一生
不動と定めておいた浄蓮坊を出たのである、
 斯様な有様は根本的に自分一代は変態の中継法主で強いて御大事を相承して立
派な法主猊下となって見ようと云う心底は毛頭なかったのである、
 先づ此事は昨年已来の予の言動に徴して御了解なされたいと切望する次第であ
る。

 第二 管長の任期

 法主は上世には無期限とも云うべき長期であった、中世には不文ながらも短期
限であった、
 此等は何の故と云う事はない時の事情が然らしめたのである、
 明治三十三年分離独立の新宗制には無期限としたが事実は然かく行われてない、
 そこで予が代に新定して七ケ年とした無論法主の任期も此に伴なうのである、
 七ケ年の推定則は徳川時代より明治大正までを統計して得た平均治世年であっ
て将来本宗の僧数が倍加せざる限りは先づ此を標準期として差支なかろう、
 敢て自分の代に制定したから自分が七ケ年を不退に勤むると云う意味は毛頭加
わってないのである、
 侯補者になり得る某老僧が堀が七年も勤むれば自分等は到底管長になる時が来
ぬから三年又は四年位が至当であろうと云われたとの噂があった、此は噂だけで
も抱腹絶倒の至りである、
 又其れほど予を知らぬ人ばかりでもないがセメて御遠忌までは勤むるであろう、
今一二年御遠忌計画の成るまでは勤むるであろうと思われたとの事である、
 御尤の至りであるが第一に云える予の根本思想を知らぬ人の御考であって随時
随所に出現せし予の発作的の幻影にのみ囚われたのであろうが、其にしても一同
を惑わした事になるならば謹んで御詫びを申上くる。

 第三 管長辞職の素因

 自分が求めた訳でもなく願った訳でないが成行と云いながら兎も角多数の僧分
が警察沙汰にまで屈辱を受けた外に種々の汚名を着せられ其外百般の苦脳を忍ん
だ、
 従って信徒の多数も殊に東京付近の人々は多大の心配を重ねて漸く出来上った
管長職を草々に辞退すると云うには相当の原因が無くては普通の義理にも外づれ
我儘千万の事となる訳である、
 即ち此が素因となるものは内的方面が主因で外的境遇が助縁である事は申すま
でもない、クドイウようだが下に並べて見ます、
 先づ、内的の方から云えば巳に第一に言明せる如く管長たる事を欲せざる其適
当せざる性格であるから仮に個性に適したる新行動を取りたるも何となくツリア
イが善くない従来の習慣と相応せぬ自他上下シックリせぬ釣り合わぬは不縁の基
と云う語が此に当る此が抑の原因である、
 始めから一年二年と永い事は持たぬ否持てぬのが当然である、
 理想にも個性にもハマラぬ生活は色心二法を束縛する不快にする四大の調和を
失する従来曾てなき原因不明の病気を頻発する、
 若し此が為に倒るれば宗門の為にもならず厄介物として終ることは明白である
のみならず、二三十年必死と念願せし編纂著作の聖業も泡沫と散り失する如何に
も死んでも死にきれぬ残念さである、此が先づ大々主因である、
 次に外的境遇の上から云えば進取的に活発に管長として働いたならば或は此難
関を突破し得たかも知れぬが成行次第境遇次第に打任せて隠忍せし為に事故が却
って重畳した形であるとも云える、

 先づ六項に大別する、

 一、監督の官憲に厭制せられて大正十四年十二月に旧例に無き管長候補者選挙
を為した事が如何にも忍ぶ能わざる屈辱なる事

 二、一時の中継法主であれば御相承の大礼などは強いて行うにも及ばざるべき
を多方面の希望にまかせて官憲の口入まで受けて不快なる形式を襲踏した事は、
仮令対者の所為にして当方は受身であったにもせよ拭うべからざる汚点なる事

 三、次上の事より引いて日正師が特別の相承を預けたと云う者より其内容を聞
き取りし事は上求菩提の精神に合うやと憚りをる事

 四、当分事勿れ隠忍主義の上から日本教報誌上の難論にも又擁護会側の愚論に
も近くは顕正誌上に出つる暴論にも一切眼を触れぬ事が如何にも不甲斐なく思わ
るゝ事

 五、昨年の宗制改正案について自ら七八の新案を参考に提出せしも起草委員又
は宗務職員又は評議員等が其中の重大案までも殆んど黙殺せるを強制し得ざりし
平凡管長の悲哀否時機到らずと淡薄に見切りを附けた事が却って無責任なりし苦
しみに自ら堪え得ぬ事

 六、就任已来財物を私有せずして職員に充分の腕を揮うべき便宜を与えておる、
代替虫払会の収入等の大部分をも修繕工事費に使用して収入に対して過々分の営
繕を為しておる為に職員にも過分の辛労かけておる計りでない自分の懐中に残る
べきものなきを顧みぬ苦行をしておるが、未だ法主も職員も大に努めたりと云う
善声を聞かぬのみか却て兎角の悪評ありと聞く、此の調子では差迫る御遠忌の報
恩大事業などは出来る見込は立たぬ、此不徳無能の法主は一日も永く位すべから
ず寧ろ辞職勧告状の来らぬを怪しむ位である。

 已上の事項に付いて始の一二は昨年の二月未に東京で一部の人に話した一二三
四は六月に職員宗会議員に発表し又更に本年三月には重ねて評議員にも発表した
積りである、
 其外五月には雪山坊で山内一同に意中を発表した、
 又昨年四月已来弟子を取らぬ事に定めたのも雪山坊を造ったのも万一の準備で
ある、
 此等で御考えくださるれば決して突然の辞職でない事も誰々の行為が辞職の大
原因になった等の噂も虚妄である事が判明するであろう。

 第四 管長辞職の近因

 辞職の原因が内外両方面に亘っている事前二項の通りである処に相談役たる評
議員も宗会議員も職員も何彼と此を拒みて一年でも永く引留めようとするのを思
い切った自決を為し得ぬ優柔不断の態度は遂に仏天の激怒に触れしものか近来予
が身辺に大なる不祥事が突然として起って何とも致し難い苦境に陥っておる、
 今になりて追想すれば突然ではなかった、
 昨年から催うして本年の七月には外部に兆侯が見えたが気が附かなかった、
 十月に至りて或は然るかと思われたが本月に入りて其旅行先から変調を聞くに
及んで今更のように驚いて倉皇手許に引き取って居るが正に狂兒である、
 小心と正直と純信の処に予が無為寂然の温室に身心の病を休めたのが却って仇
になって、一時外界の大謄邪曲軽薄の風波にもまれて遂に精神に破損を来たし信
仰が高慢と正直が疑惑と小心が恐怖と変して、毎日怒り泣き恐れ笑うて日を送る
狂兒を近侍に出した、
 何と云う淺間しい罪業であろうか罪は狂兒にあり焉くぞ吾徳を傷けんやと済ま
して居れようか法主の慈愛の下には病者も狂者も休まるべきである又斯く信ぜら
れておる況や十数年教養の兒が俄に此の体は無事ではない、
 予が宿業の然らしむる処として自ら鞭うっても致し方はあるまい正しく御本仏
の御教示であると深く信して、重役共に辞職の承認も経ぬ間に御大会が済むと直
に密に方丈を引き払って雪山坊に籠りて罪の兒の快復を祈っておる今日の哀れな
境界である、
 是れでは予が如き小心の者でなくとも厚顔無恥にあらざる限り平然として狂兒
を擁して法主の高位に安ぜられようか此が正しく辞職の近因であって御本仏の懲
誡であると謹慎しておる。
 已上の事実を赤裸々に申上くる事は或は余り脱白に過ぎて管長の権成をも失墜
せしむる者との悪罵あらば甘んして此を受けて寧ろ意ゆく計り罪業に泣きたいの
みである、
 願くば手許に差出された留任願は悉く返却の御請求に預かりたい、此より提出
せんとする人は忽に中止せられたい、
 又退隠決定の上は従来の隠尊扱いに尊敬せずして平僧並に余命を見送ってもら
いたい、
 呉々も此詐わらぬ告白を誠信を以て読んで頂さたいものである。


 五十九世  堀 日亨 

 昭和二年十一月二十日


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