顕立正意抄 文永十一年(1274年)十二月十五日 聖寿五十三歳御著作


 日蓮去ぬる正嘉元年〈太歳丁巳〉八月二十三日、大地震を見て、之を勘へ定めて書ける
立正安国論に云はく、
 「薬師経の七難の内、五難忽ちに起こり二難猶残れり。所以、他国侵逼の難・自界叛逆
の難なり。
 大集経の三災の内、二災早く顕はれ一災未だ起こらず。所以、兵革の災なり。
 金光明経の内、種々の災過一々に起こると雖も、他方の怨賊国内を侵掠する、此の災未
だ露はれず、此の難未だ来たらず。
 仁王経の七難の内、六難今盛んにして一難未だ現ぜず。所以、四方の賊来たりて国を侵
すの難なり。」
 「加之、国土乱れん時は先づ鬼神乱る、鬼神乱るるが故に万民乱ると。
 今此の文に就いて具に事の情を案ずるに、百鬼早く乱れ万民多く亡ぶ。先難是明らかな
り、後災何ぞ疑はん。
 若し残る所の難、悪法の科に依って並び起こり競ひ来たらば、其の時何が為んや。
 帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。
 而るに他方の賊来たりて其の国を侵逼し、自界叛逆して其の地を掠領せば、豈驚かざら
んや、豈騒がざらんや。国を失ひ家を滅せば何れの所にか世を遁れん。」等云云。
 〈已上立正安国論の言なり〉。
 今日蓮重ねて記して云はく、
 大覚世尊記して云はく、「苦得外道は七日有って死すべし。死して後食吐鬼に生まれん。
苦得外道の言はく、七日の内には死すべからず。我羅漢を得て餓鬼道に生まれじ。」等云
云。
 瞻婆城の長者の婦懐妊す。六師外道の云はく「女子を生まん」。仏記して云はく「男子
を生まん」等云云。
 仏記して云はく「却って後三月あって我当に般涅槃すべし」等云云。一切の外道云はく
「是妄語なり」等云云。仏の記の如く二月十五日に般涅槃し給ふ。
 
 法華経の第二に云はく「舎利弗、汝未来世に於て無量無辺不可思議劫を過ぎて、乃至、
当に作仏するを得べし。号をば華光如来と曰ん」等云云。
 又第三の巻に云はく「我が此の弟子摩訶迦葉未来世に於て、当に三百万億に奉覲するこ
とを得べし。乃至、最後身に於て仏と成ることを得ん。名をば光明如来と曰ん」等云云。
 又第四の巻に云はく「又如来滅度の後に若し人有って、妙法華経の乃至一偈一句を聞い
て、一念も随喜せん者には、我亦阿耨多羅三藐三菩提の記を与へ授く」等云云。
 此等の経文は、仏未来世の事を記したまふ。
 上に挙ぐる所の苦得外道等の三事、符合せずんば誰か仏語を信ぜん。設ひ多宝仏証明を
加へ、分身の諸仏長舌を梵天に付け給ふとも信用し難きか。
 今亦以て是くの如し。設ひ日蓮富楼那の弁を得て目連の通を現ずとも、勘ふる所当らず
んば誰か之を信ぜん。
 去ぬる文永五年に蒙古国の牒状我が朝に渡来する所、賢人有らば之を怪しむべし。
 設ひ其れを信ぜずとも、去ぬる文永八年九月十二日御勘氣を蒙りしの時吐く所の強言、
次の年二月十一日に符合せしむ。情有らん者は之を信ずべし。
 何に況んや、今年既に彼の国災兵の上二箇国を奪ひ取る。
 設ひ木石たりと雖も、設ひ禽獣たりと雖も、感ずべく驚くべし。偏に只事に非ず。天魔
の国に入って、酔へるが如く狂へるが如し。歎くべし哀むべし、恐るべし厭ふべし。
 又立正安国論に云はく「若し執心飜らず、亦曲意猶存せば、早く有為の郷を辞して、必
ず無間の獄に堕ちなん。」等云云。
 今符合するを以て未来を案ずるに、日本国上下万人阿鼻大城に堕せんこと、大地を的と
為すが如し。
 此等は且らく之を置く。日蓮が弟子等又此の大難脱れ難きか。
 彼の不軽軽毀の衆は現身に信伏随従の四字を加ふれども、猶先謗の強きに依って先づ阿
鼻大城に堕し、千劫を経歴して大苦悩を受く。
 今日蓮が弟子等も亦是くの如し。
 或は信じ或は伏し、或は随ひ或は従ふ。但名のみ之を仮りて心中に染まらざる信心薄き
者は、設ひ千劫をば経ずとも、或は一無間或は二無間乃至十百無間疑ひ無からん者か。
 是を免れんと欲せば、各薬王・楽法の如く臂を焼き皮を剥ぎ、雪山・国王等の如く身を
投げ心を仕へよ。
 若し爾らずんば五体を地に投げ遍身に汗を流せ。若し爾らずんば珍宝を以て仏前に積め。
 若し爾らずんば奴婢と為って持者に奉へよ。若し爾らずんば等云云。
 四悉檀を以て時に適ふのみ。
 我が弟子等の中にも信心薄淡き者は、臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし。其の時我を恨む
べからず等云云。

 文永十一年〈太歳甲戌〉十二月十五日   日蓮 之を記す 
 

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