観心本尊抄の「あとがき」         


■あとがき

 本日より、法本尊開顕の書・『観心本尊抄』の連載をさせて頂きます。  

 『観心本尊抄』の対告衆は、富木常忍殿です。
 『観心本尊抄』の御真跡は、中山法華経寺に現存しています。  

 今回配信分の御金言は、字面だけを拝すると、とても難しく感じるかも知れません。

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・『十界』×『十界』×『十如是』×『三世間』=『三千世間』
・『十界』×『十界』×『三世間』×『十如是』=『三千如是』
・『三千世間』=『三千如是』

・『十如是』×『三世間』=『三十種世間』
・『三十種世間』×『十界』×『十界』=『三千世間・三千如是』

・『一法界』×『三世間』×『十界』×『十界』×『十如是』=『三千世間・三千如是』

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 このように、“かけ算”でイメージした方が、理解しやすいと思います。     了



■あとがき

 上記の御金言の「二十九年の間」は、「二十七年の間」のお書き誤りであります。
 そのことに関して、筆者は、『示同凡夫の故に不慮の書き謬りならんか』という文
書の中で解説を記しております。
http://nichiren-daisyounin-gosyo.com/atogaki-kakiayamari.html

 上記のURLをクリックして、お読みになってください。   



■あとがき

 現在、大相撲秋場所が開催されています。
 横綱・朝青龍関は、相変わらず強いですね。
 筆者は、朝青龍関が幕内に入った頃から、贔屓の力士にしていました。

 ところで、大相撲の番付と仏教の十界には、共通点があると思いませんか。

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 【序ノ口-序二段-三段目-幕下-十両-幕内-小結-関脇-大関-横綱】

 【地獄-餓鬼-畜生-修羅-人-天-声聞-縁覚-菩薩-仏】
 
 序ノ口-序二段-三段目-幕下までが、『三悪道・四悪趣』。

 給金を貰える十両になると、始めて、『人』として扱われる。

 幕内に入ると、『天』にも昇るような氣持ちになる。

 序ノ口-序二段-三段目-幕下-十両-幕内までが『六道輪廻』。
 小結-関脇-大関-横綱が『四聖』。

 小結・関脇が『声聞・縁覚の二乗界』。
 横綱の一歩手前の大関が『菩薩界』。

 そして、横綱(仏)になると、いくら負けても、いくら休場しても、番付は落ちない。
 ただ、引退(御入滅)があるだけ・・・・・。

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 これらのことから、「大相撲の番付は、洒落のわかる坊さんが考案したのではない
か。」と、筆者は推測しています。

 只今連載中の『観心本尊抄』においては、十界互具・一念三千に関して、日蓮大聖
人が御論述をなされています。

 摧尊入卑になるかも知れませんが、上記の“あとがき”を、十界互具・一念三千を
拝する際の“参考の参考”として頂ければ、幸いです。     了



■あとがき

 法本尊開顕の書『観心本尊抄』におかれましては、日蓮大聖人が『末法の本尊とは、
何か。』ということに関して、御論述をなされています。

 筆者としては、「是非、『観心本尊抄』をお読みになる際には、『三大秘法(本門
の本尊・本門の題目・本門の戒壇)とは、何か。』ということも、併せて、念頭に置
いて頂きたい。」と、お願いを申し上げる次第です。

 ご参考までに、日淳上人の『三大秘法抄拝読』の冒頭の文を引用させて頂きます。

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 三大秘法抄は弘安四年冬月八日(注、近年、総本山第六世日時上人が御書写された
三大秘法抄の写本が発見されており、“弘安五年四月八日”の日付となっている。)
檀越大田金吾殿への御返事として、御示し遊ばされた御書であります。

 此の御書には日蓮大聖人の御一期の化導を総括遊ばされて、三大秘法即ち本門の本
尊、本門の題目、本門の戒壇に就いてその出現の縁由とその体とを御説示なされ、殊
に戒壇についてその相貌を御示し遊ばされてをりまして、大聖人の御書数百篇中極め
て重要なる地位を、占めてをるのであります。

 大聖人の御書中五大部とか十大部とか申し上げ、立正安国論、開目抄、観心本尊抄、
撰時抄、報恩抄等その他を数へ挙げまして、この三大秘法抄はその中に入りませんが、
此れはこの御書の伝持の上から特異の立場にあったがために、かく扱はれたもので、
その御指南の法門から拝すれば最も重要なる御書であります。

 それはこの御書が大聖人の、御一代の大綱を御示しなされてあるからであります。
 他の御書は大聖人出世の縁由とか御題目とか、或は御本尊とかについて御教示遊ば
されたり、或は三大秘法の名目を御示しになってはをりますが、三秘整足して御教示
遊ばされたのはこの御書であります。

 それ故大聖人の御化導の終窮究竟の全貌と、大綱とを拝察申し上げるには此の御書
に依らなければなりません。
 よって大聖人の御書を拝するには第一に此の御抄を拝して、大綱を了解し奉って、
後に他御書を拝するといふことにしなければなりません。
 此の順序をとりませんでやたらと御書を拝すると、御書の文を拝しても大聖人の御
正意を了解し奉ることはできないのであります。

 日蓮大聖人の門下と申す程の者は御書を拝し御書によってをるのでありますが、そ
れにも拘らず御本尊より御題目に重点を置いたり、行者の住処を戒壇としたり、御釈
迦様が本尊だといったりして、飛んでもないことを申してをりますが、これ皆大聖人
の御一代の施化の大綱を拝察せずして御書の一文一義に執するからであります。

 (日淳上人全集上巻383~384ページ)

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 筆者は、親しい知人に対して、日淳上人の『三大秘法抄拝読』を、何度も熟読され
ることをお薦めしています。
 「下種仏法の“キモ”であるから。」です。

 『日淳上人全集・上巻』には、『三大秘法抄拝読』の御講義が掲載されています。
 読者の皆様におかれましても、『三大秘法抄拝読』をお読み頂けると、筆者として
は、とても嬉しく思います。    了



■あとがき

 『観心本尊抄』に曰く、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我
等此の五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与へ給ふ。」と。

 『観心本尊抄文段』に曰く、「凡そ当家の意は、唯信心口唱を以て、即ち観心と名
づけ、而して受持とは正しく信心口唱に当たる。故に受持即観心と云うなり。」と。

 上記の御金言と御指南の如く、末法における『受持即観心』とは、御本尊様を受持
して、信心口唱に精進することであります。

 末法においては、像法時代の修行法とは異なり、単に己心を観ずるだけでは、成仏
することが出来ません。
 また、御本尊様をお受けするだけで、信心口唱することを怠れば、やはり、成仏す
ることが出来ません。

 『日女御前御返事』に曰く、「法華経を受け持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる、即ち
五種の修行を具足するなり。」と。
 (新編御書1389ページ、御書全集246ページ)

 なお、日寛上人が『観心本尊抄文段』で御指南をされている、「四句の要法」「名
体宗用教の南無妙法蓮華経」等につきましては、『三大秘法抄』をご参照下さい。 了



■あとがき

 殊更申し上げるまでもなく、上記の御金言の『本師』とは、久遠元初自受用報身如
来・御本仏日蓮大聖人の御事であります。


 ところが、宗門・法華講においては、「日蓮大聖人御在世当時は、日蓮大聖人が本
師であり、日蓮大聖人御入滅後は、御歴代上人が本師である。そして、現在は、日顕
上人・日如上人が本師である。」等と、悩乱極まりない邪義を唱える連中がいます。


 そもそも、『発迹顕本』をされているはずのない阿部日顕さん・早瀬日如さんが、
如何にして、久遠元初自受用報身如来としての『本地』を顕した上で、いつ、『本師』
となられたのでしょうか???
 
 こういう馬鹿げたことを云う連中は、もう一度、『観心本尊抄』を読み直して頂き
たい。 

 そして、久遠元初自受用報身如来が三世常住の御本仏として、人法一箇の大御本尊
の御相貌をお示しになられていることを、心に刻んで頂きたい。

 また、末法の衆生に対して、日蓮大聖人が滅・非滅の相を現ぜられた上で、人法一
箇の大御本尊の御姿を以って、今でも、『本師』として我々の御前にいらっしゃることを、
心に刻んで頂きたい。

 その上で、上記の如き、不敬極まりない大謗法を、人法一箇の大御本尊に懺悔して
頂きたい。

 なお、この件に関しては、
日顕上人に率いられた宗門の“三位一体説”=「法主本仏
論」の邪義を破折する
の記事も、ご参照下さい。   了



■あとがき

 『観心本尊抄』の上記の箇所から、『五重三段』の御説明が始まります。

 『五重三段』とは、日蓮大聖人が『観心本尊抄』において、お説きになられた教判
であります。

 教法を従浅至深されながら、『五重』に括られた上で、最終的には、日蓮大聖人の
下種仏法と釈尊の脱益仏法との違いを判じられることになります。

 『三段』とは、『序分・正宗分・流通分』の三分科法です。

  序 分  序論となる教説。
  正宗分  教法を説き明かされる本論。
  流通分  正宗分の教えを流布して、衆生を利益されるための教説。

 『序分・正宗分・流通分』と云われても、“ピン”と来ない方は、歌の『イントロ
・サビ・エンディング』でイメージしてください。

 あながち、大ハズレではありません。・・・・・。   (^v^)

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 1.一代一経三段

  序 分  爾前経(華厳部・阿含部・方等部・般若部)
  正宗分  無量義経・法華経・普賢経 (法華三部経)
  流通分  涅槃経

 釈尊御一代の聖教を三段に分けたものです。

 2.法華経一経三段

  序 分  無量義経、及び、法華経序品。
  正宗分  方便品第二~分別功徳品第十七の『十九行の偈』に至るまでの十五品半。
  流通分  分別功徳品第十七の『現在の四信』~普賢菩薩勧発品第二十八に至るま
       での十一品半、及び、普賢経。

 法華経全体を三段に分けたものです。
 なお、『一代一経三段』と『法華経一経三段』は、『総の三段』とも云います。
 
 3.迹門熟益三段

  序 分  無量義経、及び、法華経序品。
  正宗分  方便品第二~授学無学人記品第九に至るまでの八品。
  流通分  法師品第十~安楽行品第十五に至るまでの五品。
  
 法華経迹門を三段に分けたものです。
 『始成正覚』(注、釈尊が三十才の時に覚りを成じられたこと。)や、『二乗作仏』
(注、声聞・縁覚の二乗が法華経において成仏を許されたこと)や、『百界千如』(注、
『十界』×『十界』=『百界』、『百界』×『十如是』=『千如是』)等の法義が説
かれています。

 4.本門脱益三段

  序 分  従地涌出品第十五の前半。
  正宗分  従地涌出品第十五の後半+如来寿量品第十六+分別功徳品第十七の前半
        =一品二半。(法華経文上)
  流通分  分別功徳品第十七の後半~普賢菩薩勧発品第二十八までの十一品半、及
        び、普賢経。

 法華経本門を三段に分けたものです。
 『久遠実成』(注、五百塵点劫という久遠の昔に成仏されていたことを、法華経如
来寿量品第十六において、釈尊が説き明かされたこと)や、本因・本果・本国土とい
う三妙合論における、『一念三千』の法門等が説かれています。

 5.文底下種三段

  序 分  文底体外の辺における、法華経本門・迹門以下の釈尊御一代の諸経、並
       びに、十方三世の諸仏の微塵の経々。
  正宗分  従地涌出品第十五の後半+如来寿量品第十六+分別功徳品第十七の前半
       =一品二半。(法華経文底)
  流通分  文底体内の辺における、法華経本門・迹門以下の釈尊御一代の諸経、並
       びに、十方三世の諸仏の微塵の経々。

 『文底下種三段』は、法華経文底・日蓮大聖人の下種仏法の御立場から、一切の仏
法の教説を三段に分けたものです。
 『迹門熟益三段』と『本門脱益三段』と『文底下種三段』を合わせて、『別の三段』
とも云います。

 なお、『本門脱益三段』の「一品二半」と『文底下種三段』の「一品二半」は、名
同体異(注、名が同じであっても、体が異なること。)であることに、留意して下さ
い。

 『本門脱益三段』の「一品二半」は、法華経の文上における「一品二半」でありま
す。
 『文底下種三段』の「一品二半」は、法華経文底に秘沈された久遠元初名字本因妙
・三大秘法の御本尊の御当体のことを指されます。
 この久遠元初名字本因妙・三大秘法の御本尊の御当体が、仏法全体の『正宗分』と
なります。

 また、『観心本尊抄』においては、釈尊が上行菩薩に付嘱された所の法華経文底の
一品二半、乃ち、内証の寿量品(能詮の二千余字)によってお説きになられている、
文底下種の南無妙法蓮華経(所詮の法体・三大秘法の御本尊)が、末法流布の御正体
であることを明かされています。

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 ここまで、縷々申し上げましたけれども、今一つ、“ピン”と来なかった方は、い
らっしゃいますか~っっ?    (^v^)

 二十年以上も前のことになりますが、筆者が始めて、『五重三段』の説明を聞いた
時には、何が何だか、“ピン”と来ませんでした。
 どうか、ご安心下さい。   (^v^)

 中学校に入って、始めて英語を習った時に、ブッたまげた人も多かったはずです。
 でも、中学二年生になって、中学一年生の英語の教科書を読み直すと、「なんだ、
こんな簡単なことをやっていたのか。」と思った人も、同様に、多かったはずです。

 教学や英語だけでなく、あらゆる学習のコツは、「分からなかったら、止める。」
のではなく、「分からなかったら、分からないまま、ペンディングにしておいて、先
に進む。そうすれば、分からなかった箇所が、いずれ、自然に、分かるようになる。」
ということであるように思います。      了



■あとがき

 『已今当の三説』とは、釈尊が法華経の御説法を中心とされることによって、それ
以外の御一代の諸経を、三つの時期に分類されたものです。

 已説(いせつ)とは、法華経以前に説かれた四十余年の爾前経です。
 今説(こんせつ)とは、法華経の開経である無量義経のことです。
 当説(とうせつ)とは、法華経の後に説かれた涅槃経のことです。

 法華経法師品第十においては、「我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、
今説き、当に説かん。而も其の中に於いて、此の法華経、最も為れ難信難解なり。」
等と、仰せになられています。

 そして、法華経のことを、『已今当の三説』を超過した存在であるが故に、『三説
超過』『三説の外』とも云います。     了



■参考文献

 『文底秘沈抄』(日寛上人・六巻抄)
 
 今事の一念三千の本尊とは、前に明かす所の迹本二門の一念三千を以って、通じて
理の一念三千と名づけ、但文底独一の本門を以って事の一念三千と名づくるなり、是
則ち本尊抄に竹膜を隔つると判じ、開目抄に文底秘沈と釈したもう故なり云云。 (中略)

 凡そ本尊の抄の中に五種の三段を明かすに分かって二と為す、初めは総の三段、二
には別の三段なり、総の三段亦二と云云。 

 次の別の三段に亦分かって三と為す、初めには迹門熟益の三段、次には本門脱益の
三段、三には文底下種の三段なり。今所引の文は本門脱益の三段の中の所説の法体の
下の文なり、此の所説の法体の文亦二意有り。

 初めには直に迹門に対して以って本門を明かす、所謂、彼は本無今有の百界千如、
此は本有常住の一念三千なり、故に所説の法門天地の如し。

 二には重ねて文底に望んで還って本迹を判ず、所謂、本迹の異なり実に天地の如し
と雖も、若し文底独一の本門真の事の一念三千に望んで、還って彼の迹本二門の事理
の一念三千を見る則んば只竹膜を隔つるなり云云。

 譬えば、直に一尺を以って一丈に望むれば、則ち長短大いに異なれども、若し十丈
に望んで而も還って彼の一尺一丈を見れば、則ち只是れ少異と成るが如し。

 又玄文第六疏記第一等に准ずるに、且く二万億仏の時節久しと雖も、若し大通に望
むれば始めて昨日と為るが如し、又三千塵点遥かなりと雖も、若し五百塵点に望むれ
ば猶信宿と成るが如し、之に准じて知るべし云云。

 学者応に知るべし、所説の法門実に天地の異なり有りと雖も、若し文底独一本門真
の事の一念三千に望むる則んば只竹膜と成ることを。故に知んぬ、諸の法相は所対に
随って同じからず、敢えて偏執すること勿れ、敢えて偏執すること勿れ。

 故に当流の意は、而も文底独一本門真の事の一念三千に望むに、迹本二門の事理の
一念三千を以って、通じて迹門理の一念三千と名づくるなり。

 妙楽(文句記)云わく、本久遠なりと雖も観に望むれば事に属す云云。

 寛が云わく、本久遠なりと雖も観に望むれば理に属す云云。

 謂わく、本は十界久遠の事の一念三千なりと雖も、文底直達の正観に望むる則んば
理の一念三千に属するが故なり、
    
            ◇◆◇◆◇◆

■あとがき

 観心本尊抄の「竹膜を隔つ」の御金言に関しましては、古代より、様々な解釈が乱
立していました。

 それに対して、日寛上人が御相伝を所持された御立場から、「竹膜を隔つ」の御真
意を御指南されたのが、上記の『文底秘沈抄』の御文になります。

 その『文底秘沈抄』の御文に関して、榎木境道師が『日寛上人と興学』という著書
の中で、解説を述べられています。

 その記述を、下記に引用させて頂きます。

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 まず日寛上人は、この「竹膜を隔つ」の文がある箇所について、「五重三段」の教
判を用いて説明されています。

 五重三段とは、一代仏教を序文(準備として説かれた部分)・正宗分(因果の実体
・実義を明かす肝要の部分)・流通分(教法を流布し、修行する者に利益を得せしめ
る部分)に分けて「三段」とし、さらにそれを五重に深めることで、真の事の一念三
千・本門の本尊が明かされるのです。

 ここで本尊抄における「五重三段」名目を、『開目抄』の「五重相対」と対照して
挙げてみましょう。

        本尊抄「五重三段」      開目抄「五重相対」
          
 (総の三段) 一代一経三段   ・・・  内外相対
         法華経一経三段  ・・・  大小相対

 (別の三段) 迹門熟益三段   ・・・  権実相対
         本門脱益三段   ・・・  本迹相対
         文底下種三段   ・・・  種脱相対

 「五重三段」のうち「別の三段」が、『開目抄』の「五重の相対」の権実・本迹・
種脱相対にそのまま対応していることをこの図から確認できます。
 
 すなわち、大聖人が『開目抄』(人本尊開顕)・『観心本尊抄』(法本尊開顕)の
両抄で、それぞれ人・法の本尊を明かされるのに、このような緻密な構成のもと、双
方見事に符号する教判を立てられたことがよく判ります。

 さらにこれを受け、日寛上人が『三重秘伝抄 第一』『文底秘沈抄 第二』と続く
両抄において、大聖人の代表的な上の二つの教判を、論旨の骨子として取り入れ、大
聖人の御法門をさらに顕揚されたことも、ここで確認できるでしょう。

 さて、日寛上人は「竹膜を隔つ」とある一連の御文は、『観心本尊抄』五重三段の
うち、「本門脱益三段」(本迹相対)における所説の法体を明かす段であると、指摘
されています。

 その上で、さらにこの一連の御文(上掲した箇所)には、二重に次第して理解すべ
き内容が含まれていることを仰せです。

 まず、迹門に対して直ちに本門を相対すれば、迹門は本無今有の百界千如しか説か
れていません。

 これに対して本門は、釈尊の久遠の本地が明かされ、本有常住の一念三千が説かれ
たゆえに、迹門とは「天地雲泥の開き」があることになります。
 これが第一重の解釈です。

 第二重の解釈では、五重三段の最後「文底下種三段」から立ち還って、迹門と本門
の一念三千を相対すれば、「竹膜を隔つ」程度の僅かな違いでしかないとの解釈です。

 つまり、地球と太陽との距離は遠いようであっても、銀河系宇宙の広大さからすれ
ば、まさに僅かな距離でしかないのです。 

 譬喩品に過去二万億仏の所で舎利弗に対して教化したとある時節も、大通知勝仏の
三千塵点劫に比べれば昨日のような近さです。 
 また大通仏の三千塵点劫は遠い久遠のようであっても、五百塵点劫からすれば、ご
くごく近い過去でしかありません。

 このように諸の法相(法門の内容)も、何を対象に相対(比較)するかで、その評
価は一定ではありません。

 したがって上掲本尊抄の文に、「所説の法門も亦天地の如し」とある意味は、単に
迹門一念三千と本門一念三千を相対(本門脱益三段)すれば、その相違は「天地」ほ
どの違いがあるのです。

 しかしその後に説かれる、文底下種三段・独一本門が明かされたところから、立ち
環って本迹の相違を見れば、それは「竹膜を隔つ」、いわば竹の薄皮ほどの違いでし
かなく、通じて、迹門理の一念三千となるということです。

 (榎木境道師・『日寛上人と興学』111~113ページより引用)

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 『日寛上人と興学』は、日寛上人の『六巻抄』を学ぶための参考書として、非常に
適した本です。
 読者の皆様にも、御一読をお薦めします。   了
 



■あとがき

 今回の“あとがき”は、 宋文洲さんのコラムを紹介させて頂きます。

 中国御出身の宋文洲さんは、14年前にソフトブレーンという会社を創業された後
に、東証一部へ株式上場をさせています。

 そして、宋文洲さんは、今年の9月に、御自身が創業された会社の取締役会長職を
退任されています。
 今後は、文筆業や講演活動等に軸を置いた活動を行っていくようです。

 日本の特殊な営業スタイルにメスを入れた、『やっぱり変だよ、日本の営業』の著書
やテレビ出演等によって、宋文洲さんを御存知の方も多いことでしょう。

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  流れない水は腐る――「良い人」が引き起こす汚職の構図

 「権力が腐敗を招く。絶対的な権力が絶対的な腐敗を招く。」
 この言葉を聞いた覚えのある人は多いと思います。トップの権力の絶対化は任期の
長さと共に形成されていきます。福島県知事は実弟の不正容疑に絡み辞任に追い込ま
れました。工事を取りたい土建業者が彼の実弟に陳情するのは常識となり、これに伴
う利益供与が当然のように行われたといわれています。

 福島県で30年前にも知事が汚職で逮捕されました。逮捕された時点で当時の知事
は4期目でした。清新なイメージを売り物に当選した佐藤知事は18年にわたってト
ップを務め、今は5期目です。両者とも県民の支持を集め期待を背負っていましたが、
長く続けて見事に同じところに帰着してしまいました。

 中国語には「流水不腐」という言葉があります。流れる水は腐らないという意味で
す。その裏返しで同じ人物が長くトップを務めると、必ずといってよいほど、水が淀
み、腐っていきます。

 中国・上海では案の定、流れない水が腐ったのです。上海市の陳良宇書記が不正融
資に関与した疑惑でトップの座を追われました。上海の機械工場の工員から出発した
陳氏は政治的な背景もなく自分の努力で上海のトップに上り詰めました。イギリスの
大学で公共関係を学んだこともある改革派でした。

 彼は情熱的で分かりやすい言葉を市民に語り人気を得ていました。皮肉なことに彼
は腐敗撲滅のスピーチもよくしました。そんな彼は副書記に着任してから14年間を
経て見事に自ら腐敗しました。

 不正行為については、世の中ではよく「良い人」と「悪い人」という単純な構図で
説明されます。しかし、歴史的には酷い不正行為ほど、「良い人」によって引き起こ
されるケースが多いのです。その「良い人」はなぜ悪いことをやってしまうか。それ
は「長期間の権力が人を腐敗させる」という、我々人間が内面に抱える「負の原理」
があるからです。

 企業の不祥事もほとんど似たアルゴリズムによって引き起こされます。あるドンが
居てその人の実力がその組織を長く支配し、その周辺に利益構造が形成され、そこか
ら利益を享受する利益集団がそのドンの支持基盤となります。

 長く経営のトップをやっている人を見ていると、残念ながらこの「負の理論」が働
いているケースが多いのです。女性秘書との曖昧な関係、身内の登用、車や住宅の公
私混同などの不正は日常茶飯事です。そもそもこのくらいは不正だと思わないトップ
も多いでしょう。

 イトマン、三菱自動車、コクド、武富士、ライブドア・・・。次々と繰り返される
企業の不祥事と不正は、皆一つの点で共通しています。それはトップの絶対権力の存
在です。長い間、良識のある人、場合によってカリスマと呼ばれた人がその会社の権
力を独占していたのです。彼らは福島と上海のトップと同じく、発覚されるまでは、
「良い人」でした。

 同じ人間がずっと権力を握ると人材の流動もなくなります。それによってトップの
好みに合わない多くの人材が活躍のチャンスを掴めないままになります。最も重要で
ある人材が浪費されることになるのです。

 私もそうでしたが、トップになるのは偶然の場合が多いです。トップの真価はやっ
てみないと分かりません。一度トップになるとずっと続けたくなる、あるいはいつま
でもトップのつもりで同じ組織にいたくなりますが、それだけで他の人材をだめにし、
組織の将来に大きなリスクを残します。「俺じゃないとダメ」という気持ちは「ここ
じゃないとダメ」に置き換えて考えると、もっと分かりやすいかもしれません。

 トップが長くトップの座に留まる理由は実のところ、本人の意思だけではありませ
ん。トップとの繋がりで自分の立場と利権を保持する周囲の人達も同一人物による長
期権力を望むのです。また変化を受け入れたくない人もトップの変化を望まないので
す。そうした面でも水を流すのを妨げる力が働き、淀んだ組織になってしまいます。
流れない水が淀んで腐るように。

http://it.nikkei.co.jp/business/column/sou_tanto.aspx?n=MMITzv000006102006

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 日蓮正宗の僧俗の団体においても、「流水不腐」の原理が通じます。

 阿部さん、池田さん、浅井さん・・・・・。

 お三方とも、僧俗の団体のトップに立った当初は、「良い人」だったのかも知れま
せん。
 しかし、今では、「流水不腐」ならぬ「不流水腐」になってしまいました。    (^v^)

 その一方、総本山59世日亨上人は、『告白』の中で、「管長の任期」について論
及されていらっしゃいます。

 日亨上人は、教学面だけでなく、教団運営においても、明敏な御認識をお持ちに
なっていたことがわかります。
 今一度、日亨上人の『告白』をお読み下さい。     了

http://nichiren-daisyounin-gosyo.com/kokuhaku-genbun.html
http://nichiren-daisyounin-gosyo.com/kokuhaku-kaisetsu.html



■あとがき

 では、久しぶりに、ここで、クイズです!   (^v^)

 昨日連載分の「驚いて云はく」の御金言から、本日連載分の「答へて曰く、進退惟
谷まれり。試みに粗之を説かん。」の御金言に至るまで、客は、主人に対して、何度、
質問(要請)をされたのでしょうか?
 そして、主人は、客に対して、何度、返答を止められたのでしょうか?

 正解は、「客が三度、質問(要請)をする度に、主人が三度、返答を止められた。
そして、四度目に、客が質問(要請)をした際に、始めて、主人が返答をなされた。」
でした。
 
 さまぁ~ずの三村さんだったら、「答えるんだったら、さっさと、答えろよ!」と、
ツッコミが入りそうですね。   (^v^)

 でも、日蓮大聖人が『観心本尊抄』において、こういう形態の御記述をされたこと
には、深い理由があるんです。

 今日、我々が朝夕の勤行をする際には、方便品の『十如是』を読みます。
 その『十如是』までが、法華経方便品第二における、『略開三顕一』(略して、声
聞・縁覚・菩薩の三乗を開いて、仏の一乗を顕す。)になります。
 そして、『十如是』の後の『長行』において、『広開三顕一』(広く、声聞・縁覚
・菩薩の三乗を開いて、仏の一乗を顕す。)が説かれ始めることになります。

 法華経方便品第二の対告衆である舎利弗は、『長行』において、『広開三顕一』の
御真意を、釈尊に問われます。
 けれども、釈尊は、即答をなされなかったのです。

 その際には、「舎利弗が三度、質問(要請)をする度に、釈尊が三度、返答を止め
られた。そして、四度目に、舎利弗が質問(要請)をした際に、始めて、釈尊が返答
をなされた。」という順を辿って、『広開三顕一』の義が説かれています。

 こういう御説法の形式のことを、『三止四請』と云います。
 そして、「日蓮大聖人は、『事の一念三千』をお説きになられるために、法華経方
便品第二における『理の一念三千』の御説法と同様に、『観心本尊抄』において、『三
止四請』をなされた。」ということになります。

 お笑いのツッコミ役のように、「答えるんだったら、さっさと、答えろよ!」では、
済まされないんですねぇ。   (^v^)

 ちなみに、『観心本尊抄』の対告衆である富木常忍殿は、『観心本尊抄』を賜った
後に、二度ほど、日蓮大聖人に対して、「地涌の菩薩は、いつ頃、御出現されるので
しょうか。」という主旨の御質問をされています。

 その御質問に対して、日蓮大聖人は、「まぁ、そろそろかも知れませんねぇ。」と
いう感じで、御返答をはぐらかされています。

 富木常忍殿が、もう少し粘って、四度同じ質問をされたならば、日蓮大聖人も御本
仏の御立場として、本当のことを御返答せざるを得なかったかも知れません。   (^v^)

 けれども、仏法上の義から拝すると、日蓮大聖人の下種仏法を『唯我与我』として
御相伝されるのは、日興上人御一人だけになります。
 従って、日蓮大聖人が富木常忍殿の御質問にきちんと答えられなかったのも、『因
縁』ということになるのでしょう。

 ちなみに、富木常忍殿は、「日蓮大聖人が立宗宣言をなされた建長五年から、御入
滅をなされる弘安五年迄の約30年間、一貫して、日蓮大聖人を外護されていた随一
の人物。」という『因縁』を有しています。

 元来、筆者は、「富木常忍殿の御功績は、富士門流において、もっと高く、もっと
多面的に、評価されるべきであろう。」と、考えています。

 この件に関しては、もっともっと、云いたいことがあります。
 でも、長くなるので、割愛します。残念ですが・・・・・。

 明日の“あとがき”でも、クイズを出すことにします。     了



■あとがき

 では、今日も、クイズです!     (^v^)
 
 『観心本尊抄』『三大秘法抄』『総勘文抄』には、共通項があります。
 それは、何でしょうか?

 正解は、「『観心本尊抄』『三大秘法抄』『総勘文抄』のいずれも、“正式名称”
ではなく、“略称”である。」でした。

 『観心本尊抄』『三大秘法抄』『総勘文抄』の“正式名称”は、それぞれ、『如来
滅後五五百歳始観心本尊抄』『三大秘法禀承事』『三世諸仏総勘文教相廃立』になり
ます。
 そして、『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』『三大秘法禀承事』『三世諸仏総勘文
教相廃立』と仰せの『題号』そのものに、極めて深い下種仏法の義が具わっています。

 故に、筆者は、『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』『三大秘法禀承事』『三世諸仏
総勘文教相廃立』の『題号』を、“略称”でお呼びすることに、若干の抵抗感があり
ます。
 無論、『題号』が長ければ、日常で用いる場合に、支障が生じることもわかるので
すが・・・・・。

 本来なら、『観心本尊抄』のメルマガ連載にあたって、『如来滅後五五百歳始観心
本尊抄』の『題号』に関する解説を記す必要がありました。

 それを一切行うことなく、『観心本尊抄』の本文の現代語訳を配信していったこと
に、筆者は、忸怩たるものを感じていました。

 このメルマガは、「本文と現代語訳を、3分程度で読了出来る分量。」を、基本的
なコンセプトにしています。

 もしかすると、こういうスタイルのメルマガに、最も適さない御書は、『如来滅後
五五百歳始観心本尊抄』なのかも知れません。
 無論、筆者の未熟さを認識した上で、申し上げる次第です。

 近日、「日寛上人の『観心本尊抄文段』の引用が長い。」という主旨のメールを、
読者の方から頂きました。

 出来るならば、「最低限、あの分量の『観心本尊抄文段』を引用しなければ、日蓮
大聖人の下種仏法の御真意を傍証することは出来ない。」ということにも、御理解を
頂きたいと存じます。

 そして、読者の皆様におかれましては、『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』の『題
号』に関して、日寛上人が『観心本尊抄文段』で膨大な分量の御指南をされているこ
とに、ご留意を頂けると幸いです。
 その一部分を、下記に引用させて頂きます。

 『観心本尊抄文段』に曰く、「今謹んで案じて日く、『如来滅後後五百歳』とは、
是れ上行出世の時を明かし、『始』の字は是れ文底所被の機縁の観心を明かし、『本
尊』は是れ人即法の本尊を明かす。故に、『如来滅後後五百歳』は時に約し、『始』
の字は応に約し、『観心』は機に約し、『本尊』は法に約するなり。故に今点じて云
わく、『如来の滅後後五百歳に始む観心の本尊抄』と云云。故に題意に謂わく、如来
滅後後五百歳に上行菩薩始めて弘む観心の本尊抄なり。」と。

 是非、読者の皆様方に、上記の御指南を熟読して頂けると、筆者としては、とても
嬉しく思います。
 此処に、日蓮大聖人の下種仏法の真髄が籠められているからです。     了



■参考文献

 『文底秘沈抄』(日寛上人・六巻抄)

 若し外用の浅近に望めば、上行の再誕日蓮なり。若し内証の深秘に望まば、本地自
受用の再誕日蓮なり。
 故に知んぬ、本地は自受用身、垂迹は上行菩薩、顕本は日蓮なり。
    
            ◇◆◇◆◇◆

■あとがき

   本地 - 久遠元初   - 久遠元初自受用報身如来
   垂迹 - 法華経本門 - 上行菩薩
   顕本 - 末法      - 日蓮大聖人

 この関係性がわかれば、『観心本尊抄』全体の御文意が把握出来るようになります。
 逆説的に申し上げると、「この関係性がわからなければ、『観心本尊抄』全体の御
文意を把握することは出来ない。」ということです。
 
 いよいよ、次々回には、『観心本尊抄』の連載の最終回を迎えます。
 『観心本尊抄』の結文においても、この関係性を念頭において、御金言を拝読され
るようにして下さい。     了   


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