一生成仏抄 建長七年(1255年)  聖寿三十四歳御著作


 無始(始めのない無限の時)以来から続く、生死の苦悩の流転を留めて、この度、決心
して、無上菩提(無上の悟り)を得ようと思うならば、当然、衆生本有の妙理(注、一切
衆生が本然的に有している一念三千の理。)を観ずるべきであります。

 衆生本有の妙理とは、妙法蓮華経のことであります。
 故に、妙法蓮華経と唱え奉れば、衆生本有の妙理を観ずることになります。

 また、法華経は、文も理も真正である、諸経の王になります。
 故に、法華経の文字が、即、実相(ありのままの相)であります。そして、実相が、即、
妙法であります。

 ただ、所詮は、一心法界(注、衆生の一心が、即、法界であること。)の旨を説き顕す
ことを、妙法と名付けるのであります。
 故に、この法華経のことを、諸仏の智慧と称するのです。

 一心法界の旨とは、十界・三千世間の依報・正報、色法・心法、非情の草木、虚空・国
土等々を、いずれも除くことなく、また、塵も残らせることなく、一念の心に収めること
を意味します。
 また、この一念の心が、法界に遍満することを指して、万法と云うのであります。
 そして、この理を覚知することを、一心法界とも云うのであります。

 ただし、「『妙法蓮華経』と、唱えて持つ。」と云ったとしても、もし、己心の外に
法があると思うならば、それは、全く、妙法ではありません。
 それは、麁法(注、そほう、粗雑な法)であります。

 麁法は、今経(法華経)ではありません。
 今経(法華経)でなければ、方便・権門の教えであります。

 方便・権門の教えであるならば、成仏の直道ではありません。
 成仏の直道でなければ、多生曠劫という、極めて長大なる期間の修行を経てから、成仏
をすることになります。
 故に、一生成仏が叶え難くなるのです。

 故に、『妙法』と唱えて、『蓮華』と読もうとする時には、「我が一念を指して、『妙
法蓮華経』と名付けるのである。」と、深く信心を起こすべきであります。 

 釈尊御一代の八万にも及ぶ聖教のすべて、そして、三世十方の諸仏・菩薩も、我が心の
外に有るとは、努々思ってはなりません。

 そういうことでありますから、仏教を習うと雖も、心性を観ずることがなければ、全く、
生死の苦悩の流転から離れることは出来ないのです。

 もし、心の外に、成仏の道を求めて、万行・万善を修行しようとすることは、あたかも、
貧窮している人が、毎日・毎夜に、隣の家の財産を推し計ったとしても、一銭の半分すら
得られないようなものです。

 故に、天台大師の釈の中には、「もし、心を観ずることがなければ、重罪を滅すること
は出来ない。」と、記されています。

 つまり、「もし、心を観ずることがなければ、無量の苦行となってしまう。」と、天台
大師は判釈されているのです。
 故に、このような人は、「仏法を学んだとしても、外道に堕する。」と、蔑まれてしま
うのです。

 このことを、天台大師は、『摩詞止観』において、「仏教を学ぶと雖も、還って、外道
の悪見に同じる。」と、判釈されています。 

 従って、「仏の名を唱え、経巻を読み、華や香を供養することまでも、皆、我が一念に
納める功徳善根である。」と、信心を取るべきであります。

 このことにつきまして、浄名経の中には、「諸仏の解脱を、衆生の心行に求めれば、衆
生の境地が、即、菩提である。そして、生死の苦しみが、即、涅槃となる。」と、明かさ
れています。

 また、浄名経には、「衆生の心が汚れれば、その衆生が住む国土も汚れる。一方、衆生
の心が清ければ、その衆生が住む国土も清くなる。」と、お説きになられています。

 このように、『浄土』と云い、『穢土』と云っても、国土そのものに、二つの隔たりが
あるわけではありません。
 ただ、我等の心の善悪によって、『浄土』と『穢土』が存在しているように見受けられ
ます。

 また、『衆生』と云うことも、『仏』と云うことも、これと同様です。
 つまり、迷う時を『衆生』と名付けて、悟る時を『仏』と名付けるのであります。
 譬えば、曇っている鏡であっても、磨きあげれば、玉の如く見えてくるようなものです。

 只今、我々が具有している一念無明の迷いの心は、磨いていない鏡のようなものであり
ます。
 けれども、これを磨けば、必ず、法性真如(覚り)の明鏡となります。

 故に、深く信心を起こして、日夜朝暮に、また、怠らずに磨くべきであります。

 では、どのようにして、磨くべきなのでしょうか。
 それは、ただ、『南無妙法蓮華經』と、唱え奉ることであります。
 これこそが、『磨く』と、云うことになります。

 そもそも、『妙』とは、如何なる意味になるのでしょうか。
 ただ、我が一念の心が『不思議』であることを、『妙』と云うのであります。
 そして、『不思議』とは、「心も及ばない、言葉も及ばない。」ということになります。

 従って、今、自分自身に起こっている一念の心を尋ねて見れば、「有る」と云おうとす
ると、色も形もありません。

 一方、「無い」と云おうとすれば、様々に心が起こります。

 結局、「有る」と思うべきでもなく、「無い」と思うべきでもない、ということになり
ます。

 「有る」「無い」と云う、二つの言葉も及ばないこと。
 また、「有る」「無い」と思う、二つの心も及ばないこと。

 そして、「有る」でも「無い」でもなく、一方、「有る」にも「無い」にも遍在して
おり、しかも、中道一実の妙体(注、中道にして、唯一真実である、妙法の当体。)に
して、『不思議』であることを、『妙』と名付けるのであります。

 この『妙』なる心を名付けて、『法』とも云うのであります。

 また、この法門の『不思議』を顕す場合に、具体的な事物に譬喩を置き換えることを、
『蓮華』と名付けるのであります。

 そして、「一心を『妙』と知ったならば、更に転じて、他の余心も『妙』である。」と
知ることを、『妙経』と云うのであります。

 つまり、法華経は、善悪の両面に渡って、瞬間瞬間に起こっている一念の心の当体を指
して、「これこそが、『妙法』の体である。」と、お説き述べになられた諸経の王になり
ます。
 それ故に、法華経が『成仏の直道』と称されるのです。

 この旨を深く信じて、『妙法蓮華經』と唱えれば、一生成仏は、更に疑いがありません。

 故に、法華経如来神力品第二十一の経文には、「我が滅度の後に於いて、まさに、この
経を受持するべきである。この人は、仏道に於いて、決定して成仏することは疑いない。」
と、お述べになられています。

 努々(ゆめゆめ)、不審を抱いてはなりません。穴賢穴賢。一生成仏の信心。

 南無妙法蓮華經、南無妙法蓮華經。

                                    日蓮 花押


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