一谷入道女房御書 建治元年(1274年)五月八日 聖寿五十四歳御著作



 去る弘長元年〈太歳辛酉〉(1261年)五月十二日に、鎌倉幕府からの御勘気
を被って、伊豆国の伊東の郷という処(注、現在の静岡県伊東市)に流罪させられ
ました。

 この場所は、かつて、兵衛介頼朝(源頼朝)の流されていた処でした。
 けれども、程なく、弘長三年〈太歳癸亥〉(1263年)二月二十二日に、赦免
を受けて、鎌倉へ戻りました。

 また、文永八年〈太歳辛未〉(1271年)九月十二日に、再度、鎌倉幕府から
の御勘気を被りました。
 その際、忽ちに、首を刎ねられるはずでした。

 けれども、何らかの理由があった故に、しばらくの間、処刑が伸びて、北国の佐
渡島を管轄する武蔵前司(北条宣時)の『預かり』の身となりました。
 そして、その内の者ども(北条宣時の家臣)の沙汰(配慮)によって、彼の島(佐
渡島)へ行くこと(御流罪)になりました。

 ところが、彼の島の者ども(佐渡島の住民)は、『因果』の理さえも弁えないよ
うな、荒夷(粗野な人間)ばかりでした。
 そのため、彼等が、私(日蓮大聖人)に荒く(辛く)当たった事は、改めて、申
し上げるまでもありません。
 しかしながら、一分たりとも、彼等を恨む気持ちはありません。
  
 その理由は、日本国の主として、少しであっても『道理』を知るべきであった、
相模殿(執権・北条時宗)でさえも、国を助けようとする者(日蓮大聖人)の云う
事を、全く聞こうともせずに、理不尽な『死罪』を与える状況であったからです。

 ましてや、その末(北条時宗の配下)の者どもの事は、善人であっても、頼みに
ならず、悪人であっても、憎く思えません。

 私(日蓮大聖人)は、この法門を申し始めた当初から、「命を、法華経に奉ろう。
名を、十方世界の諸仏の浄土に流そう。」と思って、予め覚悟をしておりました。
          
 中国の故事に拠れば、『衛』の国の弘演と云う者は、主君の懿公が殺害された時
に、懿公の肝を取ってから、自らの腹を割き、主君の肝を弘演の腹の中に納めて、
亡くなっています。

 また、『晋』の国の予譲と云う者は、主君の知伯が殺害された時、その遺骨が辱
められた故に、剣を呑んで、自害しています。

 これらは、わずかな『世間の恩』を報ずるが為に、自らの身を捧げられた事例で
す。

 ましてや、無量劫(数え切れないほどの遠い過去)から現在に至るまで、六道輪
廻を流転して、仏に成れなかった理由は、法華経の御為に、身を惜しんで、命を捨
てなかったからであります。

 だからこそ、『喜見菩薩』と云う菩薩は、千二百年の間、自らの身を焼いて、『日
月浄明徳仏』を供養されています。
 そして、七万二千年の間、自らの肘を焼いて、法華経を供養し奉っています。

 その人(喜見菩薩)は、まさしく、今の(現在の、法華経に記された)『薬王菩
薩』であります。


 不軽菩薩は、法華経の御為に、多劫の間(数え切れないほどの多くの期間)、罵
詈されたり、誹られたり、辱めを受けたり、そして、杖や木や瓦や石を投げつけら
れました。

 その人(不軽菩薩)は、まさしく、今の(現在の、法華経に記された)『釈迦仏』
であります。

 ならば、仏に成る道は、『時』に応じて、仏道修行を、品々に(様々に)替えて、
行ずるべきでしょう。

 今の世(末法)においては、法華経が、ある程度、用いられています。
 けれども、『時』によって、修行が異なる習い(仏法の規範)がありますから、
山林に籠って経典を読誦したとしても、はたまた、人里に住んで演説をしたとして
も、戒律を守って行じたとしても、肘を焼いて供養したとしても、仏には成れない
のです。

 日本国においては、一見、仏法が盛んなようです。
 けれども、仏法に関して、不思議な事があります。そして、日本国の人々は、そ
の事を、知りません。
 あたかも、虫が火に入ったり、鳥が蛇の口に入るようなものです。
 
 真言師や華厳宗・法相宗・三論宗・禅宗・浄土宗・律宗等の人々は、「私は、仏
法を得た。私は、生死を離れた。(解脱した。)」と、思っています。

 しかし、それらの宗旨を立て始めた『本師』(注、この箇所の『本師』とは、上
記宗派の『宗祖』のこと。)等は、依経(各宗派が拠り所とする経典)の心(真意)
を弁えていません。
 ただ、自分の心の思いつきのままに、各々の依経(各宗派が拠り所とする経典)
を取り立てよう、と、考えているだけです。

 各宗派の『本師』等は、そういう浅はかな考え方を以って、「法華経に背けば、
仏意(仏の御意)には、叶わない。」という事を知らずに、自らの宗派の教義を弘
めています。

 そして、国主や万民は、その教えを信じています。また、他の国へ(インド・中
国から日本へ)、各宗派の教義が渡来しています。
 それから、長い年月が経過しています。
           
 末々の学者(注、上記宗派の末端の僧侶のこと。)等は、『本師』(注、この箇
所の『本師』とは、上記宗派の『宗祖』のこと。)の誤りを知らずして、師の如く、
習い弘めた人々を、『智者』と思っています。

 あたかも、川の源が濁っていれば、川の流れが清くならないようなものです。ま
た、身が曲がれば、影も真っ直ぐにならないようなものです。

 真言宗の元祖(宗祖)の善無畏等は、既に、地獄に堕ちるはずでした。
 しかし、或る者は、改悔して、地獄に墜ちることを免れた者もいました。
 そして、或る者は、ただ、依経(各宗派が拠り所とする経典)だけを弘めて、法
華経を讃歎することをしなかったため、生死を離れる事(解脱する事)が出来なく
とも、悪道に堕ちなかった人もいました。

 しかしながら、末々の学者(注、上記宗派の末端の僧侶のこと。)は、この事を
知らずして、諸人(全員)一同に、諸宗派の『本師』の教えを信じています。

 その事を譬えると、破壊している船に乗って、大海に浮かんでいるようなもので
す。また、酒に酔った者が、火の中に臥せて(寝て)いるようなものです。
  
 日蓮は、このような状況(日本国に邪法が流布している状況)を見たが故に、即
座に菩提心を起こして、この事(下種仏法の本義)を申し始めたのであります。

 しかし、私(日蓮大聖人)が如何に申したとしても、世間の人々が信じる事はな
いでしょう。
 かえって、流罪・死罪を蒙るであろう事は、以前から知っていました。けれども、
当世の日本国は、法華経に背き、釈迦仏を捨てる故に、後生において、阿鼻大城(無
間地獄)に堕ちてしまう事は、さて、置いておきます。

 今生においても、日本国の衆生は、必ず、大難に遭遇するでしょう。
 所謂、他国(蒙古国)からの軍勢が攻めて来て、上一人(天皇)より下万民に至
るまで、一同に、歎く事になるでしょう。

 それを譬えると、千人の兄弟が一人の親を殺した場合、親殺しの罪を千に分散し
て、受ける事が出来ないようなものです。
 この千人の兄弟は、一人一人、皆、無間大城(無間地獄)に堕ちて、全員、一劫
という極めて長い間、罪を得る事になります。
 この国(日本国)も、又々、同様の惨状に陥ってしまうのであります。
 
 娑婆世界は、『五百塵点劫』と云う久遠の過去以来、教主釈尊の御所領(『主』
の徳)であります。
 大地・虚空・山海・草木に至るまで、一分たりとも、他の仏の所有物ではありま
せん。

 また、一切衆生は、釈尊の御子であります。
 譬えば、『成劫』と云う、この世界が出来上がった当初に、一人の大梵天王が、
天から下りられて、六道の衆生(注、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天
界で六道輪廻する衆生のこと。)をお産みになっています。
 従って、大梵天王が一切衆生の『親』であるように、釈迦仏も、また、一切衆生
の『親』(『親』の徳)となります。

 また、この国(日本国)の一切衆生の為には、教主釈尊が『明師』(『師』の徳)
として在すのであります。
 父母を知る事(孝養)が出来るのも、『師』の恩があるからです。
 黒白(邪法と正法の分別)を弁える事が出来るのも、釈尊の恩があるからです。

 ところが、『天魔』がその身に入った、善導・法然等が申している事に従って、
国土に阿弥陀堂を造ったり、或いは、一郡・一郷・一村等に阿弥陀堂を造ったり、
或いは、百姓・万民の家ごとに阿弥陀堂を造ったり、或いは、家々・人々ごとに
阿弥陀仏を書き造ったり、或いは、人ごとに、口々に、声高に、念仏を唱えたり、
或いは、一万遍の念仏を唱えたり、或いは、六万遍の念仏を唱えたりしています。

 そして、少しでも智慧のある者は、益々、念仏の信仰を勧めています。

 譬えると、火の中で、枯れた草を咥えているようなものです。
 また、海水が強風に吹かれて、波立っている事に似ています。

 勿論、この国(日本国)の人々は、一人の例外もなく、教主釈尊の御弟子であり、
教主釈尊の御民であります。

 その中で、阿弥陀等の他仏(釈尊以外の仏)を、一仏も造らず、一仏も画かず、
また、念仏も唱えていない者は、たとえ、悪人であっても、釈迦仏を捨て奉る気配
が、未だに、顕われていません。

 ところが、一向に(専ら)、阿弥陀仏を念ずる人々は、既に、釈迦仏を捨て奉っ
ている状況が、明白に顕われています。
 こういう人々のように、墓無き(はかない)念仏を唱える者こそ、真の悪人であ
ります。

 『父母』(親の徳)でもなければ、『主君』(主の徳)や『師匠』(師の徳)で
もない仏(阿弥陀仏)を、愛おしい妻のようにもてなして、現に、『国主』(主の
徳)や『父母』(親の徳)や『明師』(師の徳)で在す釈迦仏を捨てて、乳母の如
き存在である法華経を、口に誦し(唱え)奉ることも行わない。

 これでも、『不孝の者』に該当しない事が、果たして、有り得るのでしょうか。

 譬えば、若い夫婦がいて、夫は妻を愛し、妻は夫を愛しむようになると、段々、
若い夫婦は、父母の行方を忘れる(父母の存在を疎かにする)ようになりました。

 そして、父母が薄い衣を着ていても、若い夫婦の寝室は、暖かくしていました。
 また、父母が食事を摂っていなくても、若い夫婦は、満腹になるまで、飽きるほ
ど、食べていました。

 この事例は、『第一の不孝』であります。
 けれども、若い夫婦は、自らの行為を、『過失』とさえ、認識していません。
 ましてや、母に背く妻や、父に逆らう夫は、まさしく、『重大な逆罪』を犯しているのです。

 阿弥陀仏は、十万億の彼方(西方十万億土)にいらっしゃる仏で有って、この娑
婆世界には、一分の(僅かな)縁もありません。
 故に、阿弥陀仏に対して、何を云った(祈念した)としても、それを聞き入れる
(願いを叶える)由縁もないのであります。
 あたかも、馬と牛を引き合わせようとしたり、犬と猿を会話させるようなもので
す。

 ただ、日蓮一人だけが、この事(法理)を知っているのであります。

 しかしながら、私(日蓮大聖人)が命を惜しんで、この事(法理)を云わなかった
ならば、国恩を報ずることが出来ない上に、教主釈尊の御敵となるでしょう。
 その反面、命を恐れることなく、有りのままに、この事(法理)を云えば、死罪と
なるでしょう。

 併せて、「たとえ、死罪を免れたとしても、流罪に処せられるのは、間違いない。」
ということは、兼ねてから、承知していました。
 けれども、仏恩が重い故に、人を憚ることなく、この事(法理)を云ったのであり
ます。

 案の定、二度までも、流罪(伊豆御流罪・佐渡御流罪)となりました。
 その中でも、文永九年(1272年)の夏の頃は、『佐渡国・石田郷・一谷』と云
う所に流されていました。

 その際に、私(日蓮大聖人)の身を預かった名主(村の役人)等は、公私に渡って、
父母の敵よりも、宿世の仇敵よりも、憎々しく、私(日蓮大聖人)を取り扱いました。

 ところが、宿の入道(一谷入道)と云い、その妻(一谷入道女房)と云い、その使
用人と云い、始めは、怖気づいて、恐れていたものの、先世(前世)の事(因縁)が
あったのでしょうか。
 内心、私(日蓮大聖人)のことを、「不憫」と思う心が生じてきました。

 私(日蓮大聖人)を預かっている名主(村の役人)から渡される食糧は、少なか
ったのです。
 その反面、私(日蓮大聖人)に付いてきた弟子は、多くいました。
 従って、僅かな飯が二口分か三口分あったものを、或いは、折敷に分けたり、或
いは、掌に入れながら、食べていました。

 すると、宅主(注、家の主人、一谷入道のこと。)は、内々に、心を配って(支
援をして)頂きつつも、対外的には、名主(村の役人)を怖れている様子でした。
 けれども、心の中で、私(日蓮大聖人)を、「不憫」と思って頂いた事は、いつ
の世になったとしても、忘れることが出来るでしょうか。

 その当時(佐渡御流罪当時)は、「私(日蓮大聖人)を生んで頂いた父母よりも、
大事な人である。」とさえ、思っていました。

 如何なる事をしても、この御恩に報いるべきでしょう。
 ましてや、約束した事を、違えてはならない(反故にしてはならない)のです。


 しかしながら、入道(一谷入道)の本心は、後世(後生)を深く思っている者で
あるため、長年に渡って、念仏を唱え続けています。
 その上、一谷入道殿は、阿弥陀堂を造り、所有していた田畑までも、阿弥陀仏の
物として、寄進しています。

 また、一谷入道殿は、地頭に対しても、「恐ろしい。」等と思って、直ちに、法
華経の信者にならなかったのです。
 これは、彼の立場から考えると、第一の道理になるのでしょう。けれども、無間
大城(無間地獄)に墜ちる事は、間違いありません。

 たとえ、当方から(日蓮大聖人の方から)、法華経を遣わした(送った)として
も、「世間の人々が怖ろしいので、念仏を捨てる事が出来ない。」と、一谷入道殿
が思っているのであれば、あたかも、火に水を合わせるようなものであります。
 そして、謗法の大水が、法華経を信じる小火を消してしまう事は、疑いのないこ
とです。

 入道(一谷入道)が地獄に堕ちるのであれば、還って、(法華経を渡した)日蓮
の過失となるでしょう。
 そのため、「如何に対処しようか。如何に対処しようか。」と、思い悩んでいま
した。

 今日に至るまで、一谷入道殿へ法華経をお渡ししなかったのは、そういう理由が
あったからです。
 しかも、一谷入道殿へお渡しする為に、予め用意しておいた法華経を、「鎌倉の
大火の際に、焼失してしまった。」という旨の報告を受けました。

 つくづく、入道(一谷入道)は、法華経に縁がなかったのです。
 佐渡に在住していた当時、「一谷入道殿へ法華経をお渡し致します。」という旨
の約束を申した、私の心(日蓮大聖人の御心)も、今となっては、不思議に感じて
います。

 また、私(日蓮大聖人)自身としては、気が進まなかったのですが、鎌倉の尼(乙
御前の母→日妙聖人)が帰りの用途(佐渡から鎌倉へ帰るための旅費の不足)を嘆
いていた故に、私(日蓮大聖人)が口入れをした事(注、乙御前の母→日妙聖人の
旅費を用立てるために、日蓮大聖人が一谷入道に対して、借金の口利きをなされた
こと。)を悔やんでいます。

 本銭(借金の元本)に利分(利息)を添えて、お返ししようとしたものの、その
際に、私(日蓮大聖人)の弟子から、「それでは、御約束(日蓮大聖人が一谷入道
に法華経一部・十巻を渡される御約束)を違えてしまいます。」等と、指摘を受け
ました。

 いずれにしても、進退極まって(思案に暮れて)しまいました。
 けれども、法華経を渡す御約束を履行しなければ、世間の人々は、「日蓮が嘘を
ついた。」と、思うでしょう。
 従って、力及ばず(止むを得ず)、法華経・一部十巻をお渡しする事に致しまし
た。

 入道よりも老婆である者(一谷入道の祖母)は、内々、法華経の信仰に心を寄せ
ておられました。
 そのため、法華経・一部十巻を、入道よりも老婆である者(一谷入道の祖母)が
所持されるようにしてください。

 日蓮が申している事は、愚かな者が申している事であるため、世間では用いられ
ておりません。
 けれども、去る文永十一年〈太歳・甲戌〉(1274年)十月に、蒙古国の軍勢
が筑紫(九州)に襲来しました。

 その際に、対馬(長崎県の対馬島)の者が守りを固めたものの、戦に敗れて、領
主であった宗の総馬尉(宗助国)は逃げてしまいました。

 それ故に、対馬の百姓等は、男であれば、或いは殺されたり、或いは生け取りに
されたり、女であれば、或いは召集させられた上で、手を紐で通されて、船に結び
付けられたり、或いは生け取りにされました。
 その結果、一人たりとも、助かった者はいません。

 壱岐(長崎県の壱岐島)に、蒙古国の軍勢が攻め寄せた際にも、同じ結果となり
ました。
 蒙古の軍船が押し寄せると、壱岐の奉行入道(大友頼泰)や豊前前司(少弐資能)
は逃亡してしまいました。

 松浦(佐賀県の松浦市周辺)においても、地元の兵が数百人殺されたり、或いは
生け取りにされたため、蒙古国の軍勢が攻め寄せた浦々(海岸)の百姓どもの惨状
は、壱岐・対馬と同様であります。

 再び、蒙古国の軍勢が襲来すれば、今度は、如何なる事になるのでしょうか。
 彼の国(蒙古国)の百千万億の兵士が、日本国中を引き巡らして、攻め寄せて来
たら、果たして、どうなってしまうのでしょうか。

 蒙古国の北からの軍勢は、まず、佐渡島に上陸して、地頭・守護を、瞬時に打ち
殺すでしょう。
 そして、佐渡島の百姓等は、北の山へ逃げようとしても、或いは殺され、或いは
生け取られ、或いは山中で死ぬ事になるでしょう。
 
 そもそも、「これ程の大事件(蒙古襲来)は、如何なる原因によって、起こるの
であろうか。」と、推し量ってみなさい。

 以前から、私(日蓮大聖人)が申しているように、この国(日本国)の者は、一
人も漏れなく、三逆罪(破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢)の者であります。

 これ(蒙古襲来)は、大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・四天王が、彼
の蒙古国の大王の身にお入りになって、日本国を責められているのです。

 日蓮は、愚かであります。けれども、「釈迦仏の御使いであり、法華経の行者で
ある。」と、名乗っています。
 にも拘らず、国主等から用いられない事は、誠に不思議であります。

 その過失によって、国が破れようとしています。
 ましてや、或いは国々から追放したり、或いは引き廻しをしたり、或いは打擲(殴
打)したり、或いは流罪したり、或いは弟子を殺したり、或いは所領を取ったりし
ています。
 現の(真実の)父母からの使者(日蓮大聖人)を害そうとする人々に、果たして、
善い事があるのでしょうか。

 日蓮は、日本国の人々の父母(親)であり、主君(主)であり、明師(師)であり
ます。
 これ(主・師・親の三徳であらせられる御本仏日蓮大聖人)に背く事は、如何なる
過失を招くのでしょうか。

 そして、念仏を唱えている人々は、無間地獄に堕ちる事が決定しています。
 (日蓮大聖人の正法が証明されるのは)頼もしい事であります。頼もしい事であり
ます。


 そもそも、蒙古国からの軍勢が攻めて来た時には、如何になさるつもりでしょう
か。

 この法華経(注、日蓮大聖人が一谷入道殿にお渡しになられた、法華経一部・十
巻のこと。)を頭に載せて、首にお掛けになって、(佐渡島の)北の山へ登ったと
しても、常日頃、貴殿(一谷入道殿)が念仏者を養い、また、貴殿(一谷入道殿)
が念仏を唱えることによって、釈迦仏・法華経の御敵と成ってから、久しい時間が
経過しております。

 貴殿(一谷入道殿)が、もし、命を落としたとしても、決して、法華経に恨みを
持ってはなりません。

 また、閻魔王の宮殿において、貴殿(一谷入道殿)は、何と、仰せになるのでし
ょうか。
 おこがましい事とは思われますが、その時こそ、「日蓮の檀那であります。」と
仰せになると、宜しいでしょう。

 さて、ここまで述べてきた事は、置いておきます。

 この法華経(注、日蓮大聖人が一谷入道殿にお渡しになられた、法華経一部・十
巻のこと。)を、必ず、学乗房(注、日蓮大聖人の御弟子の僧侶。一谷入道殿の親
族でもあった。)によって、常に、開かせるようにしてください。
 たとえ、人が何と言おうとも、念仏者・真言師・持斎等には、絶対に、開かせな
いようにしてください。

 また、「日蓮の弟子である。」と名乗る者がいたとしても、日蓮の判(花押の付
いた文書)を持っていない者を、決して、お用いになってはなりません。

 恐々謹言

 建治元年(1275年)五月八日  日蓮 花押 

 一谷入道女房殿 


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