兵衛志殿御書 弘安元年(1278年)九月九日 聖寿五十七歳御著作


 久しくうけ給はり候はねばよくおぼつかなく候。
 何よりもあはれにふしぎなる事は大夫志殿と殿との御事ふしぎに候。
 つねざまには代すえになり候へば、聖人賢人もみなかくれ、ただざんじん・ねい
じん・わざん・きょくりの者のみこそ国には充満すべきと見へて候へば、喩へば水
すくなくなれば池さはがしく、風ふけば大海しづかならず。
 代の末になり候へばかんばち・えきれい・大雨・大風ふきかさなり候へば、広き
心もせばくなり、道心ある人も邪見になるとこそ見へて候へ。
 されば他人はさてをきぬ。父母と夫妻と兄弟と諍ふ事れつしとしかと、ねことね
ずみと、たかときじとの如しと見へて候。
良観等の天魔の法師らが親父左衛門の大夫殿をすかし、わどのばら二人を失はん
とせしに、殿の御心賢くして日蓮がいさめを御もちゐ有りしゆへに、二つのわの車
をたすけ二つの足の人をになへるが如く、二つの羽のとぶが如く、日月の一切衆生
を助くるが如く、兄弟の御力にて親父を法華経に入れまいらせさせ給ひぬる御計ら
ひ、偏に貴辺の御身にあり。
 又真実の経の御ことはりを、代末になりて仏法あながちにみだれば大聖人世に出
づべしと見へて候。
 喩へば松のしもの後に木の王と見へ、菊は草の後に仙草と見へて候。
 代のおさまれるには賢人見えず。代の乱れたるにこそ聖人・愚人は顕はれ候へ。
 あはれ平左衛門殿・さがみ殿の日蓮をだに用ひられて候ひしかば、すぎにし蒙古
国の朝使のくびはよも切らせまいらせ候はじ。くやしくおはすならん。
 人王八十一代安徳天皇と申す大王は天台の座主明雲等の真言師等数百人かたらひ
て、源右将軍頼朝を調伏せしかば、還著於本人とて明雲は義仲に切られぬ。安徳天
皇は西海に沈み給ふ。
 人王八十二・三・四、隠岐法皇・阿波院・佐渡院、当今已上四人、座主慈円僧正
・御室・三井等の四十余人の高僧等をもて平将軍義時を調伏し給ふ程に、又還著於
本人とて上の四王島々に放たれ給ひき。
 此の大悪法は弘法・慈覚・智証の三大師、法華経最第一の釈尊の金言を破りて、
法華最第二最第三、大日経最第一と読み給ひし僻見を御信用有りて、今生には国と
身とをほろぼし、後生には無間地獄に堕ち給ひぬ。
 今度は又此の調伏三度なり。
 今我が弟子等死したらん人々は仏眼をもて是を見給ふらん。命つれなくて生きた
らん眼に見よ。
 国主等は他国へ責めわたされ、調伏の人々は或は狂死、或は他国、或は山林にか
くるべし。
 教主釈尊の御使ひを二度までこうぢをわたし、弟子等をろうに入れ、或は殺し或
は害し、或は所国をおひし故に、其の科必ず其の国々万民の身に一々にかかるべし。
或は又白癩・黒癩・諸悪重病の人々おほかるべし。
 我が弟子等此の由を存ぜさせ給へ。

 恐々謹言

 九月九日                           日蓮 花押

 此の文は別しては兵衛志殿へ、総じては我が一門の人々御覧有るべし。他人に聞
かせ給ふな。



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