兵衛志殿御返事 建治三年八月二十一日 聖寿五十六歳御著作


 武蔵房と円因房を使者として、貴殿(弟の池上宗長殿)が送り届けられた二貫文
の銭を、たしかに受領致しました。

 人皇第三十六代の皇極天皇という方は、女性の天皇でいらっしゃいました。

 その時の大臣に、蘇我入鹿という者がおりました。
 しかし、蘇我入鹿は、あまりにも傲慢な性格で、終いには、天皇の位をも奪い取
ろうとする行動を取りました。

 一方、天皇や皇子たちは、蘇我入鹿の行動を、不審に思われていました。
 けれども、皇族だけでは力が及ばずに、どうすることも出来ない有様でした。

 この状況を、中大兄王子(注、後の天智天皇)や軽王子(注、後の孝徳天皇)等
が憤慨されて、中臣鎌子(注、中臣鎌足のこと、後の藤原鎌足)という大臣に相談
をされました。

 中臣鎌子は蘇我馬子の先例を引いて、「こればかりは、人間の力ではどうにもな
りません。教主釈尊の御力でなければ、叶わないことでしょう。」と、申し上げま
した。

 そこで、早速、釈尊の仏像を造り奉って、御祈念されると、ほどなくして、蘇我
入鹿は討伐されてしまいました。

 この中臣鎌子という人は、後に姓を変えて、藤原鎌足と名乗りました。
 その後、藤原鎌足は、内大臣となり、更には、大職冠の位を得た人であります。
 また、藤原鎌足は、今の朝廷の最高権力者である、藤原氏の御先祖(始祖)でも
あります。
 そして、藤原鎌足の助言で造られた釈迦仏の仏像は、現在、興福寺の本尊として
安置されています。

 従って、王が王であり得るのも、釈迦仏のおかげであります。
 そして、臣下が臣下であり得るのも、釈迦仏のおかげであります。

 神国であった日本国が仏教国に成り変わった事情につきましては、右衛門の大夫
志殿(兄の池上宗仲殿)へ宛てた手紙と引き合わせて、御心得になって下さい。

 今、日本国が他国に奪い取られようとしているのは、釈尊(御本尊)を蔑ろにし
ているからであります。
 「神の力も及ぶべからず。」とは、このことであります。
 
 「各々、池上兄弟のお二人は、もはや、信仰を捨て去ってしまうであろう。」と、
人々は見ていました。

 けれども、これほど立派に信仰を持っておられるのは、ひとえに、釈迦仏・法華
経(御本尊)の御力によるもの、と、お思いのことでしょう。

 日蓮もまた、そのように思っております。
 あなた方の後生が頼もしいことは、申すまでもありません。

 今後も、どのようなことがあったとしても、少しも弛むようなことがあってはな
りません。
 いよいよ、声を張り上げて、謗法を責めなければなりません。
 たとえ、それによって、命に及ぶようなことがあったとしても、決して、怯んで
はなりません。

 あなかしこ、あなかしこ。

 恐々謹言

 建治三年八月二十一日        日蓮 花押

 兵衛志殿御返事



■あとがき

 『兄弟抄』連載の“あとがき”で、「池上氏の本姓は、藤原氏であった。」ということ
を、ご紹介させて頂きました。

 『池上康光・池上宗仲・池上宗長殿』という名称は、あくまでも、俗称になります。
 正式名称は、『藤原康光・藤原宗仲・藤原宗長殿』となります。

 池上一族は、当時の朝廷の最高権力者であった藤原氏の家系を継いでいただけで
なく、池上康光殿が作事奉行(鎌倉幕府の建設・修繕・土木工事等を管轄)であっ
たことからも、家柄・権力・財力等のあらゆる面で、当時における名門の一族であ
ったことがわかります。

 『兵衛志殿御返事』の御書で、日蓮大聖人が藤原鎌足の功績を引き合いに出され
た背景には、藤原氏の始祖である藤原鎌足の偉業を取り上げることによって、兵衛
志殿(弟の池上宗長殿)に、“藤原一族のルーツ”と“仏教への発心”を喚起させ
るための御配慮があったからではないか、と、拝察しています。

 様々な難があっても、最終的に池上宗長殿が退転しなかったことや、父上の池上康
光殿が正法に帰依されたことの一因には、こういう日蓮大聖人の巧みな人心掌握術
があったものと、拝察しております。

 一方、『藤原康光・藤原宗仲・藤原宗長殿』が、『池上康光・池上宗仲・池上宗長殿』
と呼ばれていたのは、池上邸の所在していた場所が“洗足池の上の地域”(現、東京都
大田区池上)であったことに由来しています。

 鎌倉時代に、本姓ではなく、地名で相手を呼ぶ風習は、たいへん盛んであったよ
うです。

 南条時光殿が『上野殿』(現、静岡県富士宮市上野地方)と呼ばれていたことや、
四条金吾殿の主君が『江間殿』(現、静岡県韮山町江間地方)と呼ばれていたこと
も、その類となります。

 なお、『江間光時殿』の本姓は、『北条光時殿』です。
 加えて、『北条光時殿』の曾祖父は、初代執権の北条時政であり、『北条光時殿』の
祖父は、二代執権の北条義時になります。

 『二月騒動』(北条時輔の乱、北条一門の自界叛逆難)へ加担した罪によって、
江間の地へ流されて出家したために、『北条光時殿』は、『江間入道殿』と呼ばれ
るようになりました。
 しかし、世が世なら、『北条光時殿』が執権職に就いても、全く不思議ではないほど
の家柄でした。
 
 また、『波木井実長殿』の本姓は、『源実長殿』であります。
 波木井の地(現、山梨県身延町波木井地方)に住していたため、『源実長殿』は、
『波木井殿』と呼ばれるようになったのでしょう。

 余談になりますが、若き日の徳川家康は、自らが『源氏』の子孫であることを、
至る所で強調していました。
 このエピソードは、当時の武門にとって、『源氏』が“一流ブランド”であった
ことを証しています。

 しかし、徳川家康は『松平』から『徳川』へ改姓をする際に、正親町天皇からの
許可を得るため、『藤原氏』の流れを汲む者として、改姓と叙爵の勅許を受けてい
ます。     (^v^)
 
 また、執権を代々務めていた北条家は、『平氏』の家系からの出自を名乗ってい
ました。
 ところが、北条家でさえも、地方の豪族として台頭した後になってから、『平氏』
と関連した家系図を作成している有様でした。     (^v^)

 その他の鎌倉幕府の有力な御家人にしても、その家系の素性は、極めて怪しいも
のである、と、云われています・・・・・。  了


目次へ