報恩抄 建治二年(1276年)七月二十一日 聖寿五十五歳御著作


 そもそも、「老いた狐は、塚を後にしない。(注、老狐が死ぬ時は、故郷の丘に、
首を向けて亡くなる故事からの由来)」と、云われています。


 また、「昔、毛宝という者に助けられた白亀がいた。毛宝が戦に敗れた時、白亀は
毛宝を背に乗せて、水上を渡航させたことにより、恩を報じた。」と、云われていま
す。

 このように、畜生でさえ、恩を報ずることを弁えています。
 ましてや、人倫(人の道)であるならば、尚更のことであります。

 例えば、古代の賢者で、予譲と云う者は、主君であった智伯の恩を報ずるために、
漆を塗ったり炭を呑んだりしながら、仇を討とうとしました。そして、最期は、自害
をしています。 
 また、衛の国の弘演と云う臣下は、腹を裂いた後に、主君の懿公の肝を自らの腹に
入れてから、亡くなっています。

 ましてや、ましてや、仏教を習おうとする者は、父母の恩・師匠の恩・国の恩(主
・師・親の三徳への御恩)を忘れてはなりません。
          
 この大恩を報ずるためには、必ずや、仏法を習い極めて、智者とならなければ、大
恩を報ずる事は出来ません。

 例えば、大勢の盲目の人々を導く場合に、自らが生盲の身であったとしたら、それ
らの人々に、河川にかかった橋を渡らせることは出来ません。
 また、風の方角を弁えない大舟は、諸の商人を導いて、宝山に至る事が出来ません。

 仏法を習い極めようと思うならば、暇(時間)がなければ、仏法を習い極めること
が出来ません。
 そして、暇(時間)を得ようと思うならば、父母・師匠・国主等に随っていては、
不可能となります。
 是非につけて、(良きにつけても、悪しきにつけても)出離の道(仏道)を弁えよう
とするためには、父母・師匠等の心に随ってはならないのです。

 上記の考え方は、「世間の道理から、明らかに外れている。冥(仏法)にも、適
うものではない。」と、諸の人は思うことでしょう。
 しかしながら、外典の孝経においても、父母・主君に随うことなく、忠臣・孝人で
あった事例も見受けられます。

 内典の仏経においては、「恩を捨て、無為(仏道)に入ることは、真実・報恩の者
の行為である。」等と、仰せになられています。

 殷の国の比干という者は、紂王に随わなかったため、賢人の名を得ています。
 そして、悉達太子(釈尊の出家前の御名)が、父の浄飯大王の命に背いたことによ
って、三界第一の孝子となられたことは、上記の事例に該当します。

 このように考えた上で、父母・師匠等に随うことなく、仏法を学んでいく程に、釈
尊御一代の聖教を覚るための十の明鏡が存在することに氣づきます。
 所謂、倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・真言宗・華厳宗・浄土宗・禅宗・
天台法華宗であります。

 「この十宗を明師として、一切経の心を知るべきである。そして、この十の鏡は、
皆、正直に、仏道修行の道を照らしている。」と、世間の学者等は思っています。

 この十宗のうちで、小乗の三宗(倶舎宗・成実宗・律宗)は、あたかも、民の消息
(民間人の私文書)が他国へ渡ったとしても、国家として、如何なる用を為さないよ
うなものであります。
 従って、しばらくの間、小乗の三宗については、置いておきます。

 大乗の七鏡(法相宗・三論宗・真言宗・華厳宗・浄土宗・禅宗・天台法華宗)こそ、
生死の大海を渡って、浄土の岸に着くための大船であるため、これを習い極めること
により、「我が身も助け、人々も導こう。」と思って、習学していく程に、大乗の七
宗(法相宗・三論宗・真言宗・華厳宗・浄土宗・禅宗・天台法華宗)は、いずれも、
いずれも、自讃ばかりをしていました。

 彼等は、「我が宗こそ、釈尊御一代の心を得た宗派である。我が宗こそ、釈尊御一
代の心を得た宗派である。」等と、云っていました。

 所謂、華厳宗の杜順・智厳・法蔵・澄観等のことであります。
 法相宗の玄奘・慈恩・智周・智昭(注、道昭のお書き誤り)等のことであります。
 三論宗の興皇・嘉祥等のことであります。
 真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等のことであります。
 禅宗の達磨・慧可・慧能等のことであります。
 浄土宗の道綽・善導・懐感・源空等のことであります。

 これらの宗々の者どもは、皆、それぞれの宗派の拠り所とする経典や論釈を用いて、
「私が一切経を覚った。私が仏意を極めた。」と、云っています。

 これらの人々は、下記のように云っています。

 華厳宗の人は、「一切経の中には、華厳経第一なり。法華経・大日経等は、臣下の
如し。」と。

 真言宗の人は、「一切経の中には、大日経第一なり。余経は、衆星の如し。」と。

 禅宗の人は、「一切経の中には、楞伽経第一なり。」と。

 他の宗派の人々も、同様のことを云っています。

 しかも、上記に挙げた宗派の諸師は、あたかも、諸天が帝釈を敬うように、また、
衆星が太陽や月に随うように、世間の人々から思われています。


 私ども凡夫は、いずれの師であったとしても、信じる限りにおいては、不足があり
ません。
 そのため、彼等を仰いで、信じるべきなのでしょう。
 けれども、日蓮の愚案は、晴れ難いものがありました。

 その理由は、下記の通りです。

 「世間を見渡すと、各々、『私が』『私が』と云ったとしても、国主は、但一人で
あります。

 国主が二人になれば、その国土は穏やかになりません。家に、二人の主人がいたな
らば、その家は、必ず崩壊します。

 一切経も、また、同様のことでしょう。
 何れの経典であったとしても、その中の一経だけが、一切経の大王でいらっしゃる
のではないでしょうか。」と。

 ところが、十宗(倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・真言宗・華厳宗・浄土
宗・禅宗・天台法華宗)・七宗(法相宗・三論宗・真言宗・華厳宗・浄土宗・禅宗・
天台法華宗)等と宗派が乱立しているため、各々が諍論して譲らない状態にありまし
た。

 それを譬えると、一つの国に、七人・十人の大王がいることによって、万民の暮ら
しが穏やかにならないようなものです。

 「如何にすれば、宜しいのでしょうか。」と、疑っていた折りに、私(日蓮大聖人)
は、一つの願を立てました。

 「私(日蓮大聖人)は、八宗(倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・真言宗・
華厳宗・天台宗)や十宗(倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・真言宗・華厳宗
・浄土宗・禅宗・天台法華宗)には随いません。」と。

 それは、あたかも、天台大師が専ら経文を師とされて、釈尊御一代の経典の勝劣を
お考えになられたようなものです。

 そして、一切経を開き見ると、涅槃経と云う経典には、「法に依って、人に依らざ
れ。(依法不依人)」等と、仰せになられています。



 「法に依って、人に依らざれ。(依法・不依人)」と仰せの経文において、『依法』
と申しますのは、仏(釈尊)がお説きになられた一切経のことです。
 そして、『不依人』と申しますのは、仏(釈尊)以外の普賢菩薩・文殊師利菩薩等
の菩薩や、前記に挙げた諸の人師であります。

 また、涅槃経においては、「了義経に依って、不了義経に依らざれ。(依了義経・
不依不了義経)」等と、仰せになられています。

 この涅槃経の経文で指されているところの『了義経』とは、法華経のことになりま
す。
 『不了義経』と申しますのは、華厳経・大日経・涅槃経等の已今当の一切経(法華
経以外のすべての経典)になります。

 (注記、『已今当の三説』とは、釈尊が法華経の御説法を中心とされることによって、
それ以外の御一代の諸経を、三つの時期に分類されたものである。『已説・いせ
つ』
とは、法華経以前に説かれた四十余年の爾前経。『今説・こんせつ』とは、法華
経の
開経である無量義経。『当説・とうせつ』とは、法華経の後に説かれた涅槃経。
そして、
法華経のことを、『已今当の三説』を超過した存在であるが故に、『三説超
過』の経典
とも云う。)


 故に、仏の御遺言を信ずるならば、専ら法華経を明鏡として、一切経の心を知るべ
きでしょう。  
     

 随って、法華経の経文を開き奉れば、薬王菩薩本事品第二十三において、「この法
華経は、諸経の中において、最も、その上に在る。」等と、仰せになられています。

 この経文の如くであるならば、須弥山の頂に帝釈天王が居るように、転輪聖王の頂
に如意宝珠があるように、多くの木の頂に月が宿るように、諸仏の頭頂に肉髻がある
ように、この法華経は、華厳経・大日経・涅槃経等の一切経の頂上に在する、如意宝
珠であります。


 そこで、専ら、論師・人師の言を捨てて、経文に依るならば、大日経・華厳経等よ
りも、法華経が勝れていらっしゃることは、日輪(太陽)が青天に出現した時に、眼
の見える者ならば、誰でも、天と地を見る事が出来るようなものです。

 つまり、「法華経と爾前経における、(経典の)高低・上下の格差は、歴然としている。」
ということです。
  
 また、大日経・華厳経等の爾前経を見てみると、この法華経の経文に対して、相似
した経文は、一字・一点もありません。

 所詮、大日経・華厳経等の爾前経は、或いは、小乗経に対して、『勝劣』をお説き
になられたり、或いは、『俗諦(世俗の理)』に対して、『真諦(仏法の理)』をお
説きになられたり、或いは、諸の『空諦・仮諦』に対して、『中道(中諦)』を褒め
られているにしか過ぎません。

 そのことを譬えると、小国の王が自国の臣下に対して、『大王』と言うようなもの
であります。
 一方、法華経は、諸国の王に対して、『大王』と言うようなものであります。

 ただ、涅槃経だけには、法華経に相似した経文があります。
 故に、天台大師が御出現される以前、南三・北七の諸宗派の僧侶は勘違いをして、
「法華経は、涅槃経に劣っている。」と、云っていました。

 けれども、専ら経文を開き見ると、法華経の開経である無量義経においては、華厳
部・阿含部・方等部・般若部等の四十余年の経々を挙げられて、「四十余年未顕真実」
等と、仰せになられています。

 また、法華経においては、「涅槃経に対して、我が身(法華経)が勝る。」という
主旨の内容が説かれています。

 また、涅槃経においては、「この経の出世は、(中略)法華経の中の八千の声聞に
対して、記別(未来の成仏の保証)を授かったことを得て、大果実を成じた後には、
秋収冬蔵(注、秋に収穫が終わり、冬に収蔵すること)の如く、更なる所作をする必
要がないようなものである。」等と、法華経に対して、仰せになられています。

 上記の経文は、涅槃経自体において、「我が経典は、法華経に劣っている。」と、
説かれている経文であります。


 このように、涅槃経の経文は、明瞭であります。
 けれども、南三・北七の諸宗派における、大智を有した諸の僧侶でさえ、迷ってし
まった経文であるため、末代の学者は、よくよく眼を留めなければなりません。

 前記の経文によって、ただ、法華経と涅槃経との勝劣のみならず、十方世界の一切
経の勝劣も知ることが出来ます。
 たとえ、その経文に迷ったとしても、天台大師・妙楽大師・伝教大師が一切経の勝
劣を御了見なされた後には、眼のある人々であるならば、認知すべき事柄となります。

 しかしながら、天台宗の貫主であった慈覚・智証でさえ、なお、この経文の解釈に
は暗いものがあります。
 ましてや、他宗の人々においては、尚更のことであります。

 或る人は、疑いながら、このように云っています。

 「漢土(中国)・日本に渡来した経々の中には、法華経より勝れた経典がなかった
としても、月氏(インド)・竜宮(竜王が住む宮殿)・四天王天(持国王天・増長天
・広目天・毘沙門天)・大日天・大月天・トウリ天(帝釈天王の住処)・トソツ天(内
院は弥勒菩薩の住処・外院は天界衆の欲楽処)等には、恒河沙(ガンジス河の砂)の
如く、多くの経々がある。
 ならば、その中には、法華経より勝れた御経があるだろう。」と。

 その疑問に対しては、このように、返答を云います。

 「一を以て、万を察するべきです。
 『庭戸(家の中)を出ることがなくとも、天下を知ることが出来る。』という諺は、
まさしく、このことに該当します。

 あなたの疑問は、あたかも、『我々は、南天だけを見たことがある。東天・西天・
北天の三方向の空を見たことがない。』と、癡人が疑って、云うようなものです。
 では、東天・西天・北天の三方向の空には、この日輪(太陽)以外に、別の日(太
陽)が存在するのでしょうか。

 同様に、山を隔てた場所から、煙が立っているのを見ていながら、『実際に、火を
見ていなければ、確かに、煙は上がっているけれども、火が燃えていないかも知れな
い。』と、云うのでしょうか。

 このように云う者は、一闡提(注、正法を信ずることなく、覚りを求める心もない
ため、成仏する機縁を持たない衆生)の人と知るべきです。
 まさしく、生盲の人(仏法に対する見識のない人)に、他なりません。」と。

 法華経法師品第十においては、釈迦如来の金口の誠言を以て、釈尊御一代・五十余
年の一切経の勝劣を定められた上で、「我が所説の経典は、無量千万億にして、已に
説き(爾前経)、今説き(無量義経)、当に説く(涅槃経)であろう。しかも、その
中に於いて、この法華経は、最も難信難解である。」等と、仰せになられています。

 この経文は、ただ、釈迦如来御一仏の御説であったとしても、等覚(菩薩の最高位)
以下の者は、仰いで信じるべきであります。

 その上、法華経見宝塔品第十一においては、多宝如来が東方世界よりお越しになら
れて、「釈迦牟尼世尊、所説の如きは、皆、これ真実なり。」と、御証明なされてい
ます。

 また、十方分身の諸仏は、法華経の会座に来集されてから、釈迦如来と同様に、広
く長い御舌を梵天に付けられて、法華経の真実を御証明なされています。
 その後に、十方分身の諸仏は、各々の国々へ、お還りになられています。

 『已今当』の三字(爾前経・無量義経・涅槃経)は、釈尊御一代五十年の御説法、
並びに、十方三世の諸仏の御経を、一字・一点も残さずに引き載せられた上で、法華
経に対比なされて説かれた教えであります。

 十方の諸仏は、法華経の会座において、『已今当』の三字(爾前経・無量義経・涅
槃経)に御判形(御証明)を加えられています。

 従って、十方の諸仏が、また、各々の自国へお還りになられた後に、十方の諸仏の
弟子たちに向かわれて、仮に、「法華経より勝れた御経がある。」と説かれたとして
も、その国土における所化の弟子たち(十方の諸仏の国土において、教化を受ける弟
子たち)は、果たして、信用されるのでしょうか。

 また、「自分は見ていないけれども、月氏(インド)・竜宮(竜王が住む宮殿)・
四天王天(持国天・増長天・広目天・毘沙門天)・大日天・大月天等の宮殿の中に、
法華経より勝れている経典があるのではないか。」と、疑いを起こす者がいたとしま
す。

 その場合には、反詰して、このように云いなさい。

 「ならば、今の大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・四天王(持国天王・増
長天王・広目天王・毘沙門天王)・竜王は、法華経の御座にいらっしゃらなかったの
でしょうか。

 もし、大日天王・大月天王等の諸天が、『法華経より勝れた御経が存在する。汝が
知らないだけだ。』と仰るのであれば、それこそ、大誑惑(大嘘つき)の大日天王・
大月天王であります。」と。

 もし、仮にも、このような不義を云う大日天王・大月天王がいたとしたら、日蓮は、
大日天王・大月天王を責め奉って、このように云います。

 「大日天王・大月天王は、虚空に住しておられますが、あたかも、我等凡夫が大地
に住んでいる如く、空から墜落されるようなことがないのは、上品の不妄語戒(最も
勝れた不妄語戒)の功徳力の故であります。

 もし、大日天王・大月天王が『法華経より勝れた御経がある。』と仰せになられる
ような、大妄語を発するのであれば、恐らくは、未だ、壊劫(注、四劫の一つ、世界
が壊滅する時期のこと。)に至らないうちに、大地の上にドッと落ちてしまうことで
しょう。

 その上、無間地獄の大城における、最下層の堅い鉄の場所まで落ちなければ、堕落
を止めることは出来ないでしょう。

 大妄語の人は、少しの瞬間も、空に住して四天下を廻ることは、出来ないのであり
ます。」と。

 ところが、華厳宗の澄観等や、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証
等のように、大智を有した『三蔵法師』『大師』等と呼ばれている者どもが、「華厳
経・大日経等は、法華経より勝れている。」と、法門を立てています。

 私(日蓮大聖人)どもの分斉では、及ばぬ事かも知れません。
 けれども、仏法の大道理の示される所から鑑みると、まさしく、彼等は、『諸仏の
大怨敵』に、他なりません。

 極悪の所行を犯した、提婆達多・瞿伽梨等であったとしても、物の数ではありませ
ん。
 大天(注、インドのマトラ国の人物。両親や阿羅漢を殺害した後に出家、慢心を起
こして、仏教教団分裂の因を作った。)や大慢(注、インドのマロウバ国のバラモン。
慢心を起こして、諸尊の像を刻んで椅子の脚とした。大乗経を誹謗したため、生身で
地獄に堕ちている。)の存在を、外に求めては(他人事としては)なりません。

 彼等の教えを信ずる輩は、恐ろしいことになります。恐ろしいことになります。


 質問致します。
 華厳宗の澄観、三論宗の嘉祥、法相宗の慈恩、真言宗の善無畏・弘法・慈覚・智証
等のことを、『仏の敵』と、貴殿は仰っているのでしょうか。

 お答えします。
 このことは、大いなる難であります。仏法における、第一の大事であります。

 愚眼を以て、経文を拝見すると、「法華経より勝れたる経典がある。」と云う人は、
「たとえ、如何なる人であったとしても、謗法の罪を免れる事が出来ない。」と、見
受けられます。

 故に、経文の如く、申し上げるのであれば、「如何なる理由を以て、『彼等が仏敵
ではない。』と、云えるのでしょうか?」ということになります。

 もし、また、恐れを為して、そのことを指摘せずに、黙止するのであれば、一切経
の勝劣は空しくなってしまうことでしょう。

 また、彼等を恐れるがために、各宗派の末流の人々だけを、『仏敵』と云ったとし
ます。

 この場合に、各宗派の末流の人々は、「『法華経より大日経が勝っている。』と、
申していることは、我見や私見ではない。当宗の祖師の御義である。持戒・破戒の修
行の違い、智慧の勝劣、身分の上下はあったとしても、学んだ所の法門においては、
違う事がない。」と、云うことになるでしょう。

 この場合には、各宗派の末流の人々に、咎(とが・過失)がなくなってしまいます。

 また、日蓮が、この事を知りながら、世間の人々を恐れて、申し上げなかったなら
ば、涅槃経において、「むしろ、身命を喪失したとしても、教えを隠匿してはならな
い。(寧喪身命不匿教者)」と仰せになられている、仏陀(釈尊)からの諫暁を用い
ない者となってしまいます。

 如何にすれば、宜しいのでしょうか。
 この事を云おうとするならば、世間からの難は、恐ろしいものがあります。
 黙止しようとするならば、仏(釈尊)からの諫暁を、免れる事が出来なくなります。
 進退は、ここに、窮まってしまいました。

 それは、尤も(もっとも)なことでしょう。

 法華経法師品第十の経文においては、「しかも、この法華経は、如来の御在世でさ
え、なお、怨嫉が多い。ましてや、如来の滅度の後には、尚更である。」と、仰せに
なられています。

 また、法華経安楽行品第十四においては、「一切世間において、怨が多いため、信
じ難い。」等と、仰せになられています。
     
 釈迦如来を、御母堂の摩耶夫人が御懐妊された際に、第六天の魔王が摩耶夫人の御
腹を通し見て、「我等が大怨敵である、『法華経』と申す利剣を、摩耶夫人が懐妊し
た。事の成ぜぬ先に(釈尊がお生まれにならないうちに)、何としても、亡き者にし
てしまおう。」と、考えました。

 そこで、第六天の魔王は、大医の姿に変身して、浄飯王宮に入りました。
 そして、「御産・安穏の良薬を持って来た、大医であります。」と喧伝して、毒を
后(摩耶夫人)に献じたのであります。

 その後、釈尊がお生まれになった際には、第六天の魔王が石を降らせたり、乳に毒
を混入させたり、そして、釈尊が城を出られる際には、第六天の魔王が黒い毒蛇に変
じて、道を塞いだりしました。

 それ以外にも、第六天の魔王は、提婆達多・瞿伽利・波瑠璃王・阿闍世王等の悪人
の身に入り込むことによって、或いは、提婆達多に大石を投げさせて、仏(釈尊)の
御身から血を出させたり、或いは、釈迦族の人たちを殺したり、或いは、釈尊の御弟
子等を殺害しました。


 これらの大難は、皆、第六天の魔王等によって、「仏・世尊に、法華経を説かせて
なるものか。」と、巧みに共謀されたものであります

 これらは、法華経法師品第十において、「如来の御在世でさえ、なお、怨嫉が多い。
(如来現在猶多怨嫉)」と、仰せになられている大難に該当致します。
 これらの大難は、遠い難(釈尊御在世当時の大難)になります。

 それよりも、近い難があります。
 舎利弗・目連・諸の大菩薩等も、法華経が説かれる以前の四十余年間は、法華経の
大怨敵の内に該当する人たちでした。

 法華経法師品第十の経文においては、「ましてや、如来の滅度の後には、尚更であ
る。(況滅度後)」と、仰せになられています。

 つまり、「未来の世には、また、これらの大難よりも、更に、恐ろしい大難が存在
するであろう。」と、お説きになられているのです。
                
 仏(釈尊)でさえも、忍び難いような大難を、凡夫は、如何にして、忍ぶ事が出来
るのでしょうか
 ましてや、「仏(釈尊)の御在世よりも、更に、大きな大難である。」と、伝えら
れています。

 それは、如何なる大難になるのでしょうか。

 提婆達多が長さ三丈(約9メートル)・広さ一丈六尺(約5メートル)の大石を投
げたり、阿闍世王が象を酔わせて、釈尊を殺害しようとしたことよりも、更に、超過
した大難であると思われます。

 法華経の経文には、「釈尊がお受けになられた大難よりも、更に、勝った大難であ
る。」という主旨のことが、お説きになられています。

 ならば、「たとえ、小さな過失がなかったとしても、大難に、度々、値う人こそ、
如来滅後の法華経の行者(注、日蓮大聖人のこと)である。」と、知るべきでしょう。
 
 付法蔵の人々(釈尊の仏法を順次に付嘱された二十四人の方々)は、四依の菩薩(釈
尊の滅後に正法を護持弘通して、人々の依り所となる四種の人格を有した菩薩)であ
ります。
 そして、付法蔵の人々は、仏(釈尊)の御使いであります。

 提婆菩薩は、外道に殺されています。
 師子尊者は、檀弥羅王に頭を刎ねられています。
 仏陀密多は十二年間、竜樹菩薩は七年間も、国王を改心させるために、赤旗を掲げ
通されています。
 馬鳴菩薩は、金銭三億の代償として、他国に身を移されています。
 如意論師は、謀略に陥れられたため、無念の死を遂げられています。
 
 これらの方々は、正法時代の一千年間の内に、御出現なさっています。

 像法時代に入って五百年、乃ち、仏滅後一千五百年と云われる時、漢土(中国)に
一人の智人が御出現なされました。
 その御名を、始めは『智ギ』、後には『(天台)智者大師』と号されています。

 天台大師は、「法華経の義を、ありのままに弘通しよう。」と、思われました。
 ところが、天台大師が御出現される以前の百千万の智者(他宗の僧侶)は、それぞ
れに、釈尊御一代の聖教を判じていました。
 結局の所、『十流』、所謂、『南三・北七』と呼ばれる宗派に分かれていました。

 このように、当時の漢土(中国)には、十流の宗派がありました。けれども、その
中の一流派を以て、最上としていました。
 所謂、『南三』の中で、第三番目に数えられる、光宅寺の法雲法師の一派でありま
す。


 この人(法雲法師)は、釈尊御一代の仏教を、五つに分けていました。
 その五つの中から、三経を選び出していました。
 所謂、華厳経・涅槃経・法華経であります。

 法雲法師は、「一切経の中においては、華厳経が第一である、大王の如し。涅槃経
が第二である、摂政・関白の如し。第三の位の法華経は、公卿等の如し。この三経以
下の経典は、万民の如し。」と、云っていました。

 この人(法雲法師)は、元々、智慧が賢かった上に、慧観・慧厳・僧柔・慧次等と
いう大智者から、法門を習い伝えられていました。
 それのみならず、『南三・北七』の諸師の義を責め破り、山林に交わって(こもっ
て)からは、法華経・涅槃経・華厳経の研鑽を積んでいました。

 そこで、梁の武帝は、法雲法師を召し出して、内裏の内に、寺院を建立しました。
 梁の武帝は、その寺院を『光宅寺』と名付けて、この法師(法雲法師)を崇めてい
ました。

 また、「法雲法師が法華経を講じた時、天から花が降る有様は、あたかも、仏(釈
尊)の御在世のようであった。」と、伝えられています。


 天監五年に、大旱魃があったため、天子(梁の武帝)は法雲法師を招請されて、法
華経を講じさせました。

 すると、法雲法師が法華経薬草喩品第五の「其雨普等・四方倶下」の二句を講じて
いた時、天から甘雨が降ってきました。
 そのため、天子(梁の武帝)は感激のあまり、即座に、法雲法師を僧正の位に任じ
ました。

 あたかも、諸天が帝釈天王に仕えるように、また、万民が国王を怖れるように、天
子(梁の武帝)自らが、法雲法師に仕えたのであります。

 その上、或る人が、「この人(法雲法師)は、過去に、灯明仏がいらっしゃった時
より、法華経を講じてきた人である。」という夢を見たそうです。

 法雲法師には、『法華経義疏』という著書が四巻あります。

 『法華経義疏』において、「この経(法華経)は、未だ、真理を明かしていない。」
と、法雲法師は云っています。
 また、『法華経義疏』において、「法華経には、異なった方便が記されている。」
等と、法雲法師は云っています。

 まさしく、「法華経は、未だ、仏理を極めていない経典である。」と、『法華経義
疏』には書かれているのであります。
 この人(法雲法師)の御義が、仏意に相い叶っているからこそ、天より、花も下り、
雨も降ってきたのでしょうか。

 このように、特筆すべき事があったため、「それでは、法華経は、華厳経・涅槃経
よりも劣る経典なのであろう。」と、漢土(中国)の人々は思うようになりました。
 その上、新羅・百済・高麗・日本の地まで、『法華経義疏』が弘まったため、大体、
世間一同が、法雲法師の御義を用いるようになりました。

 ところが、法雲法師が御死去されてから間もない頃、つまり、梁の時代の末・陳の
時代の始めに、智ギ法師(天台大師)と云う小僧が御出現なされたのであります。
 
 智ギ法師(天台大師)は、南岳大師と云う方の御弟子でありました。

 けれども、師匠(南岳大師)の義に、若干の不審をお持ちになっていたこともあっ
て、智ギ法師(天台大師)は、一切経が保管されている蔵に入り、度々、経典を御覧
になられました。
 その中でも、華厳経・涅槃経・法華経の三経を選び出されて、特に、華厳経を講じ
られていました。

 その他にも、礼文(仏を礼拝する賛嘆文)を造って、日々、功徳を積まれていたの
で、世間の人々は、「この人も、『華厳経第一』と、思っているのだろう。」と、見
ていました。

 ところが、智ギ法師(天台大師)は、法雲法師が一切経の中において、『華厳経第
一・涅槃経第二・法華経第三』と立てたことが、あまりに不審であったため、殊更、
華厳経を御覧になられていたのであります。
     
 このようにして、智ギ法師(天台大師)は、「一切経の中においては、『法華経第
一・涅槃経第二・華厳経第三』である。」と、見定められたのであります。

 そして、智ギ法師(天台大師)は、このように嘆かれました。

 「如来の聖教は、漢土(中国)に渡来した。けれども、人々を利益することはない。
 却って、一切衆生を、悪道に導びいている。それは、人師の誤りに依るものである。

 例えば、国の長である人が、東を西と言い、天を地と言い出したならば、万民は、
そのように心得るものである。
 その後に、身分の卑しい者が出来して、『あなた達が云っているところの西は、東
である。あなた達が云っているところの天は、地である。』と、真理を言ったとして
も、用いられることはないであろう。

 そして、その国の家来たちは、国の長の心に叶おうとするために、真理を言った人
を讒言して、討伐することであろう。」と。
  
 そのため、智ギ法師(天台大師)は、「如何にすればいいのか。」と、思いました。
 けれども、やはり、黙止するべきことではありません。
 因って、智ギ法師(天台大師)は、「謗法によって、光宅寺の法雲法師は、地獄に
堕ちた。」と、宣言なされたのであります。

 すると、その時、南三・北七の諸師(諸流派の僧侶)は、蜂の如く蜂起して、烏の
如く烏合してきました。
 南三・北七の諸師(諸流派の僧侶)は、智ギ法師(天台大師)に対して、「頭を割
ってしまうべきか、国から追放するべきか。」等と、申していました。

 その模様を、陳主(陳の国王)がお聞きになっていました。
 そして、南三・北七の諸流派の僧侶・数人を召し合わせた上で、陳主(陳の国王)
御自身も列座されて、それぞれの主張を御聴聞されたのであります。 

 その場には、法雲法師の弟子たちである、慧栄・法歳・慧コウ・慧ゴウ等という、
僧正・僧都以上の位を有した僧侶が百人以上いました。
 彼等は、各々、悪口を言って、眉を上げて、眼を怒らせて、手を上げて、拍子を叩
いていました。

 しかしながら、智ギ法師(天台大師)は、末座に坐して、顔色を変えず、言葉を誤
らず、威儀を静かにして、諸の僧侶の発言を一つ一つ書き取り、彼等の発言ごとに、
責め返していきました。

 逆に、智ギ法師(天台大師)は、彼等に詰問をなされて、「そもそも、法雲法師の
御義である、『第一華厳経・第二涅槃経・第三法華経』と立てている法門の証文は、
如何なる経典にあるのか。確かで、明らかなる証文を出してみよ。」と、責められま
した。

 すると、彼等は、各々、頭をうつ伏せて、顔色を失って、一言の返事もすることが
出来ませんでした。

 重ねて、智ギ法師(天台大師)は、このように、彼等を責められました。

 「無量義経には、正しく、『次説、方等十二部経・摩訶般若・華厳海空』等と、お
記しになられている。

 つまり、仏(釈尊)御自らが、華厳経の名を呼び上げられて、無量義経の中で、『華
厳経は、未顕真実(未だ真実を顕していない教え)である。』と、打ち消されている
のである。

 法華経より劣っている無量義経にさえ、華厳経は責められている。
 貴殿たちは、如何に心得ることによって、華厳経のことを、『釈尊御一代における、
第一の経典である。』と、言うのか。

 貴殿たちが、各々、御師(法雲法師)の味方をしようと思うのなら、この無量義経
の経文を破って、無量義経よりも勝れている経文を取り出して、御師(法雲法師)の
御義を助けてみなさい。」と。
 
 「また、涅槃経のことを、『法華経より勝れた経典である。』と言っているのは、
如何なる経文が根拠であるのか。

 涅槃経第十四巻(聖行品)においては、華厳経・阿含経・方等経・般若経を挙げら
れて、涅槃経に対する勝劣が説かれている。
 けれども、全く、法華経と涅槃経との勝劣は見受けられない。
 ましてや、涅槃経第九巻(如来性品)においては、法華経と涅槃経との勝劣が分明
になっている。

 所謂、涅槃経の経文においては、『この経(涅槃経)の出世は、(中略)、法華経
の中で、八千の声聞が記別(注、仏が未来世における弟子の成仏を明らかにすること)
を受けたことを得て、大果実を成じた(成仏した)ようなものである。
 あたかも、秋の収穫が終わり、冬のために蔵へ入れた後には、更なる所作をする必
要がないようなものである。』等と、仰せになられているではないか。」と。

 また、智ギ法師(天台大師)は、このように、彼等を責められました。

 「涅槃経の経文においては、明らかに、爾前経のことを、収穫前の『春・夏』の如
き存在と、位置付けられている。
 そして、涅槃経と法華経のことを、『菓実の位』と、お説きになられているのであ
る。

 その中でも、法華経のことを、『秋収冬蔵(注、秋に農作物の収穫をして、冬に蔵
へ入れること)の大菓実の位』と、お定めになられている。
 そして、涅槃経のことを、『秋の末・冬の始めのクン拾(注、収穫が終わった後の
落ち穂拾いのこと)の位』と、お定めになられている。

 この涅槃経の経文においては、『正しく、法華経に対しては、我が身(涅槃経)が
劣る。』と、承伏されている。

 また、法華経の経文においては、已説(爾前経)・今説(無量義経)・当説(涅槃
経)と申して、『この法華経は、前と並びとの経々(爾前経・無量義経)に対して勝れ
ているだけでなく、後に説こうとする経(涅槃経)に対しても、勝っている。』と、仏
(釈尊)が定められているのである。 」と。

 そして、智ギ法師(天台大師)は、このように、彼等を責められました。

 「既に、教主釈尊がこのようにお定めになられたのであるから、(仏弟子が)疑う
べきことではない。

 けれども、『我が滅後(釈尊の御入滅後)は、如何になってしまうのか。』と、教主
釈尊御自身が疑いをお思いになられた故に、東方・宝浄世界の多宝如来を証人に立て
られた。
 そして、多宝如来は、大地より踊り出られて、『妙法華経皆是真実』と証明された
のである。

 また、十方世界の分身の諸仏も、重ねて、お集まりになられた上で、広く長い御舌
を、大梵天に付けられた。
 そして、教主釈尊も、広く長い御舌を、大梵天に付けられたのである。」と。

 更に、智ギ法師(天台大師)は、このように、彼等を責められました。

 「それから、しばらくした後に、多宝如来は、宝浄世界へお帰りになられた。
 十方分身の諸仏は、各々の本国土にお帰りになられた。

 その後、多宝如来・十方分身の諸仏がおられなくなってから、教主釈尊が涅槃経を
説かれて、仮にも、『涅槃経は、法華経に勝る。』と仰せになったならば、果たして、
教主釈尊の御弟子たちが信用されるのであろうか。」と。

 このようにして、天台大師は、彼等(法雲法師の弟子である、僧正・僧都以上の位
を有した、慧栄・法歳・慧コウ・慧ゴウ等の僧侶)を責められました。

 すると、あたかも、日月(太陽と月)の大光明が修羅の眼を照らすように、また、漢
王の剣が諸侯の首に掛かるように、彼等(法雲法師の弟子である、僧正・僧都以上の
位を有した、慧栄・法歳・慧コウ・慧ゴウ等の僧侶)は、両眼を閉じて、頭を垂れた
のであります。
     
 天台大師の御様子は、狐やウサギを前にして、師子王が吼えた姿に似ていました。
また、鷹や鷲が、鳩や雉を責めた姿に似ていました。

 このような御様子でありましたので、「さては、法華経は、華厳経・涅槃経よりも
勝れた経典である。」と、震旦(中国)一国に流布するだけでなく、かえって、五天
竺(インド全土)までも評判が聞こえていきました。

 そして、天台大師は、「月氏(インド)の大小の諸論も、智者大師(天台大師)の
御義には勝つことが出来ない。教主釈尊が、再度、御出現されたのであろうか。仏教
が二度現れた。」と、賞賛されたのであります。


 その後、天台大師は御入滅なされました。
 中国では、陳・隋の世も代わって、唐の世となりました。
 章安大師も、御入滅なされました。

 そして次第に、天台大師の仏法を、習学する氣運が失せていきました。
 その頃、唐の太宗皇帝の時代に、玄奘三蔵と云う人が、貞観三年に、始めて月氏(イ
ンド)に入り、貞観十九年に帰国しました。

 玄奘三蔵は、月氏(インド)の仏法を尋ね尽くして、法相宗と云う宗義を渡来させ
ました。
 この宗派の教義は、天台宗と水火の関係でした。

 そうであるにもかかわらず、玄奘三蔵は、天台大師が御覧にならなかった、深密経・
瑜伽論・唯識論等を渡来させて、「法華経は、一切経に対しては勝れている。けれども、
深密経に対しては劣っている。」と、言い出しました。

 それに対して、天台の末学(天台宗の末流の学僧)たちは、智慧が薄かったが故に、
「天台大師は、それらの経論を御覧になっていなかった。玄奘三蔵の主張はもっともで
ある。」と、思ってしまいました。


 また、唐の皇帝の太宗は、賢王でありました。
 その上、玄奘三蔵に対する御帰依も、決して、浅くありませんでした。

 仏弟子として、言わなければならない事はありました。
 けれども、いつの時代であっても同様ですが、時の威(時の国王の権威)を怖れて、
申し上げる人はいなかったのです。

 「法華経が最上である。」という立場を覆して、玄奘三蔵どもが『三乗(声聞・縁
覚・菩薩)真実』『一乗(仏)方便』『五性各別』(注、声聞乗性・縁覚乗性・如来
乗性・三乗不定性・無性の“五性”は、各々が別の存在であり、決して変えることの
出来ないものとする法相宗の教義。)と主張した行為は、残念なことであります。

 天竺(インド)より渡って来た教義ですが、その実体は、月氏(インド)の外道が、漢
土(中国)に渡って来たのでしょうか。

 「法華経は方便の教え、深密経は真実の教え。」と云うのであれば、釈尊・多宝如
来・十方の諸仏の誠言も、かえって虚しくなり、玄奘や慈恩こそ、時の生身の仏とし
て、敬われていたのでしょうか。

 その後、中国では、則天皇后の時代になりました。

 以前、天台大師によって責められた華厳経に、また重ねて、新訳の華厳経が渡来し
てきました。
 すると、かつての憤りを果たそうとするために、新訳の華厳経を以て、天台大師に
責められた旧訳の華厳経を扶助することにより、華厳宗と云う宗派を、法蔵法師と云
う人が立てました。

 この宗派は、「華厳経を根本法輪とする。法華経を枝末法輪とする。」と、申して
いました。
 また、彼等は、「南三北七の諸宗派の教義は、第一華厳・第二涅槃・第三法華であ
る。天台大師の教義は、第一法華・第二涅槃・第三華厳である。今の華厳宗の教義は、
第一華厳・第二法華・第三涅槃である。」等と、申していました。

 その後、玄宗皇帝の時代に、善無畏三蔵は、天竺(インド)より、大日経・蘇悉地
経を渡来させました。
 金剛智三蔵は、金剛頂経を渡来させました。
 また、金剛智三蔵には、不空三蔵という弟子がいました。

 この三人は、月氏(インド)の人であり、家柄も高貴である上、人柄も漢土(中国)
の僧には似ていませんでした。

 加えて、彼等が説いた法門も、何とも言いようのない、目新しさがありました。
 それは、中国に仏教が伝来した後漢時代より、その当時(唐の時代)に至るまで存
在しなかった、印と真言という法門を新たに添えていたため、威光があるように見え
たからです。
 
 これらの人々(善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵)は、下記の義を主張しました。

 「華厳経・深密経・般若経・涅槃経・法華経等の勝劣は、所詮、顕教の枠内のこと
であり、釈迦如来の唱えた説の分を超えない。
 今の大日経等の経典は、密教であり、大日法王の勅言である。

 華厳経・深密経・般若経・涅槃経・法華経等々は、民の万言である。
 けれども、この大日経は、天子の一言である。

 華厳経・涅槃経等を大日経と比較すれば、梯子を立てたとしても、及ぶものではな
い。
 ただ、法華経だけが、大日経に相似した経典であろう。

 けれども、法華経は、釈迦如来の説法であり、民の正言の如きものである。
 この経(大日経)は、天子の正言の如きものである。

 言葉は似たようなものであるが、それを発する人柄には、天地雲泥の違いがある。
 譬えると、濁水に映った月と、清水に映った月ぐらいの違いがある。
 月の影は同じかも知れないが、水には、清濁の違いがある。」と。

 これらのことを、善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵が申していました。
 ところが、その根拠を、尋ね顕す人もおりません。

 そのため、諸宗は、皆、落ち伏して、真言宗に傾倒していきました。
 そして、善無畏三蔵・金剛智三蔵死去の後、不空三蔵が、また月氏(インド)に戻
って、『菩提心論』という論を渡来させたため、いよいよ真言宗の勢力が盛んになっ
ていきました。


 ただし、妙楽大師と云う方がいらっしゃいました。
 天台大師御在世から、二百余年後に、御生誕された方です。

 妙楽大師は、智慧が賢い人であった上に、天台大師の論釈を見極められておられた
ので、このようにお考えになっていました。

 「天台大師の論釈の御心は、『天台大師御入滅後に渡来してきた、深密経・法相宗、
また漢土(中国)において、一宗として立てられた華厳宗、そして大日経・真言宗よ
りも、法華経は勝れた経典である。』ということである。

 にもかかわらず、或いは智慧が及ばないためか、或いは人を畏れているのか、或い
は時の国王の威を恐れているのか。
 それらの故に、仏法の真理を云わないようである。

 このような有様では、天台大師の正義が失われてしまうであろう。」と。

 また、妙楽大師は、「法相宗と華厳宗と真言宗の邪義は、中国の陳・隋時代に存在
した、南三・北七の諸流派の邪義にも勝っている。」と、お思いになっていました。

 それ故に、妙楽大師は、三十巻の注釈書をお造りになりました。
 所謂、摩訶止観弘決十巻・法華玄義釈籤十巻・法華文句記十巻のことです。

 これらの三十巻の文(摩訶止観弘決十巻・法華玄義釈籤十巻・法華文句記十巻)は、
本書(天台大師三大部、摩訶止観・法華玄義・法華文句)の重複している箇所を削り、
不足分を加筆するだけでなく、天台大師の御在世には存在しなかった邪義の故に、天
台大師からの御責めを免れたようにも見受けられる、法相宗と華厳宗と真言宗を、一
時に破折された書物であります。


 それから、日本国においては、人王第三十代・欽明天皇の時代である、欽明十三年
〈壬申〉十月十三日に、百済国(朝鮮)より、一切経と釈迦仏の像が渡来してきました。

 また、用明天皇の時代には、聖徳太子が仏法を読み始められて、和氣妹子という臣
下を漢土(中国)に派遣されました。
 そして、聖徳太子が過去世で所持されていた、一巻の法華経を取り寄せられて、持
経と定められました。
 
 その後、人王第三十七代・孝徳天皇の時代には、三論宗・華厳宗・法相宗・倶舎宗・
成実宗が渡来してきました。
 人王第四十五代・聖武天皇の時代には、律宗が渡来してきました。それらを合わせ
ると、六宗となります。

 人王第三十七代・孝徳天皇から人王第五十代・桓武天皇の時代に至るまで、十四代・
百二十余年の間、天台・真言の二宗は、日本に存在しなかったのであります。

 桓武天皇の時代に、最澄(伝教大師)という小僧がいらっしゃいました。山階寺の
行表僧正の御弟子であります。

 最澄(伝教大師)は、法相宗を始めとして、六宗(法相宗・三論宗・華厳宗・倶舎
宗・成実宗・律宗)の教義を習い極めていました。

 しかしながら、最澄(伝教大師)は、未だに、仏法を習い極めたとは、お思いにな
っていませんでした。

 ある時、華厳宗の法蔵法師が著した、『起信論』の注釈書(起信論義記)を御覧に
なられたところ、天台大師の御解釈が引用されていました。
 そこで、最澄(伝教大師)は、「この天台大師の御記述にこそ、重要な法義が存在
するのではないか。」と、お考えになりました。

 最澄(伝教大師)は、「天台大師の注釈書は、この日本国に渡来しているのか。も
しくは、未だに渡来していないのか。」と、疑問をお持ちになりました。
 そのため、最澄(伝教大師)は、ある人に、その疑問をお尋ねになりました。

 最澄(伝教大師)の質問に対して、その人は、「大唐(中国)の揚州に存在する、
竜興寺の僧・鑑真和尚は、天台宗の末学である道暹律師の弟子である。鑑真和尚は、
天宝年間の末に、日本国へ渡って来られて、小乗教の戒を弘通された。けれども、鑑
真和尚は、天台大師の注釈書を持参されていながら、お弘めにならなかった。人王第
四十五代・聖武天皇の時代の出来事であった。」と、語りました。
 
 それに対して、最澄(伝教大師)は、「その天台大師の注釈書を拝見したい。」と、
仰いました。
 すると、その人は、天台大師の注釈書を取り出して、最澄(伝教大師)にお見せし
ました。

 最澄(伝教大師)は、天台大師の注釈書を一度御覧になっただけで、生死の酔い(迷
い・苦悩)を醒まされました。
 また、この天台大師の注釈書を以て、最澄(伝教大師)が六宗(法相宗・三論宗・
華厳宗・倶舎宗・成実宗・律宗)の教義を探求されたところ、一々に(あらゆる箇所
で)、邪見であった事が明らかになりました。

 そこで、最澄(伝教大師)は、「日本国の人々は、皆、謗法の者の檀家となってい
る。必ずや、天下は乱れるであろう。」と、お思いになりました。
 そのため、最澄(伝教大師)が直ちに願を発して、六宗の邪義を論難されました。

 すると、南都七大寺(東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺)
の六宗の碩学が蜂起して、京の都で烏合(集まり騒ぐこと)しました。
 そして、天下の者は、皆、騒ぎ立てました。
 また、南都七大寺・六宗の諸人等は、悪心が強盛でありました。

 しかしながら、桓武天皇は、去る延暦二十一年正月十九日に、高雄寺へ行幸になら
れて、南都七大寺(東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺)の
碩徳十四人(善議・勝猷・奉基・篭忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光
・道証・光証・観敏)と最澄(伝教大師)を召し合わせて、法論をさせたのでありま
す。

 華厳宗・三論宗・法相宗等の人々は、各々、自宗の元祖の教義に沿った主張をしま
した。

 最澄上人(伝教大師)は、六宗(法相宗・三論宗・華厳宗・倶舎宗・成実宗・律宗)
の人々が立てた法義の一つ一つを書き取られて、本経・本論(宗旨の根本となる経・
論)、並びに、諸経・諸論(宗旨の枝葉となる経・論)と照らし合わせて、邪義を責
められました。

 すると、南都七大寺の碩徳十四人は、一言も答えることが出来ずに、口が鼻のよう
になってしまいました。


 桓武天皇は驚きになられて、委しく、詳細を御尋ねになりました。
 また、桓武天皇は、重ねて勅宣(天皇の御命)を下されて、南都七大寺の十四人を
責められました。
 そして、南都七大寺の十四人は、桓武天皇に対して、承伏の謝表(伝教大師に承伏
する旨の書状)を奉ったのであります。

 その文書には、「南都七大寺・六宗の学匠は、(中略)初めて、仏教の至極の法門
を悟った。」等と、記されていました。

 また、その文書には、「聖徳太子の弘教・教化より以降、今に至るまで二百余年の
間、講ぜられた所の経論の数は多い。しかし、此処でも彼処でも、各々が理を争うだ
けで、その疑いは未だに解けていない。しかも、この最妙の円宗(天台法華宗)は、
なお、未だに宣揚されていない。」等と、記されていました。

 また、その文書には、「三論宗と法相宗との長年の争いも、たちまちに、氷の如く
解けた。この最妙の円宗(天台法華宗)との違いは、歴然として、既に明らかとなっ
た。あたかも、雲や霧が開けて、三光(太陽・月・星)を見るようである。」と、記
されていました。
 
 最澄和尚(伝教大師)は、南都七大寺の十四人の義を判じられて、このように仰せ
になられました。

 「各宗派の者たちは、本来、一本の軸であるはずの法華経の経典を講ずるために、
各々が法の鼓を深い谷に響かせている。
 各宗派の客と主人(僧俗)は、三乗(菩薩・縁覚・声聞)の路を徘徊して(さまよ
って)いる。
 にもかかわらず、各宗派は、法義の旗を、高い峰に打ち立てている。

 長老の者も幼年の者も、三界(欲界・色界・無色界)の煩悩を打破したものの、な
お、未だに、歴劫修行(注、爾前経の菩薩・声聞等が、無量劫という極めて長い期間
に渡って、仏道修行をすること。直達正観の対義語。)の過ちを改めることなく、大
白牛車(法華経の一仏乗の教え)を門外とすることによって、仏道修行を混同してい
る。

 このような有様では、如何にして、初発心の位(初めて菩提心を起こした位)に昇
り、阿荼を宅内に悟ること(注、初住位から妙覚位までの四十二位を覚ること。即身
成仏の意。)が出来るのか。」と。

 伝教大師に帰依されていた、和氣弘世・和氣真綱の二人の臣下は、このように云わ
れています。

 「南岳大師は、釈尊が霊鷲山でお説きになられた妙法(法華経)を、お聞きになら
れた。
 天台大師は、総持(善を持ち悪を起こさない)の経典である法華経の妙悟(妙法の
悟り・法華三昧)を、大蘇山で開かれた。

 にもかかわらず、法華一仏乗の教えが、権教に遮られて滞っている状況を嘆き、三
諦円融(注、法華経の教えによって、空仮中の三諦が円融すること。天台法華宗の教
義。)が未だに顕れていないことを悲しむものである。」と。

 また、南都七大寺の十四人は、「善議等の十四人は、過去世からの因縁に導かれて、
幸運に巡り会い、法華経の尊いお言葉を拝謁することが出来た。深い因縁がなかった
ならば、如何にして、聖なる世(桓武天皇の時代)に生まれることが出来たのであろ
うか。」等と、云っています。
     
 南都七大寺の十四人の立義は、華厳宗の法蔵・審祥、三論宗の嘉祥・観勒、法相宗
の慈恩・道昭、律宗の道宣・鑑真等に代表される、漢土(中国)・日本における宗派
の元祖たちの法門と同じであります。
 まるで、瓶が替わったとしても、中に入っている水が替わらないようなものです。

 しかも、南都七大寺の十四人が、各々の邪義を捨てて、伝教大師の法華経の法門に
帰伏した以上、末代の人間の誰人が、「華厳・般若・深密経等は、法華経に超過して
いる。」と、主張することが出来るのでしょうか。

 小乗の三宗(倶舎宗・成実宗・律宗)は、六宗(法相宗・三論宗・華厳宗・倶舎宗
・成実宗・律宗)の人々が学ぶ教典の中に入っています。
 大乗の三宗(華厳宗・三論宗・法相宗)が破折された以上、小乗の三宗(倶舎宗・
成実宗・律宗)の是非は、問題になりません。

 ところが、今の時代になって、それらの詳細を知らない者どもが、「六宗は、未だ
に、破折されていない。」と、思いこんでいます。

 そのことを譬えると、盲目の人が太陽・月を見ることが出来ない故に、また、聾の
人が雷の音を聞くことが出来ない故に、「天には、太陽・月が存在しない。空には、
雷の音が存在しない。」と、思い違いをするようなものであります。

 真言宗が日本に伝来してきたのは、日本の人王第四十四代・元正天皇の時代であり
ます。
 善無畏三蔵が大日経を渡来させたものの、弘通することなく、漢土(中国)へ帰っ
て行きました。

 また、玄ボウ等が、大日経の義釈十四巻を渡来させています。そして、東大寺の得
清大徳も、大日経の経釈を渡来させています。

 これらの経釈を、伝教大師は御覧になられていました。
 けれども、「大日経と法華経との勝劣は、如何なるものか。」と、お思いになるに
つれて、色々と疑問を持つようになられました。

 故に、伝教大師は、延暦二十三年七月に御入唐なされて、西明寺の道邃和尚や仏瀧
寺の行満和尚等とお会いになられた上で、止観・円頓(法華)の大戒を御伝受されま
した。
 また、霊感寺の順暁和尚にお会いになられて、真言の教義を御相伝されました。

 そして、伝教大師は、延暦二十四年六月に、日本へ帰国なされて、桓武天皇に御対
面されました。
 その後、桓武天皇は宣旨を下されて、六宗(法相宗・三論宗・華厳宗・倶舎宗・成
実宗・律宗)の学生(僧侶)に、摩訶止観や真言を習わせることによって、南都七大
寺に法華・真言の教義を置かれました。

 真言(密教・真言宗)と止観(摩訶止観・法華宗)との二宗の勝劣につきましては、
漢土(中国)において、多くの詳細な議論がありました。
 また、善無畏三蔵の『大日経義釈』においては、「理同事勝」(注、真言と法華は、
理において同じである。しかし、真言は事において、法華に勝っている、という邪義。)
と、書かれています。

 けれども、伝教大師は、「善無畏三蔵の誤りである。大日経は、法華経より劣っ
ている。」と認識されていたため、六宗(法相宗・三論宗・華厳宗・倶舎宗・成実宗・
律宗)に真言宗・法華宗を加えて、八宗と認定されなかったのであります。

 つまり、真言宗の名を削って、法華宗の内に入れた上で、七宗(法相宗・三論宗・
華厳宗・倶舎宗・成実宗・律宗・法華宗)と為されています。

 そして、大日経を、法華天台宗の傍依経(補助経典)と為して、華厳経・大品般若
経・涅槃経等と、同様の位置づけにされました。

 しかしながら、大事の大乗別受戒の大戒壇(注、伝教大師が比叡山に建立された、
大乗の別受戒を授ける、法華経迹門の円頓戒壇のこと。)を、我が日本国に建立する
か否かの議論が紛糾したからでしょうか、真言・天台の二宗の勝劣は、伝教大師の弟
子にも、明確に教えられることはなかったようです。
     
 ただし、伝教大師は、『依憑集』と云う文書において、「まさしく、真言宗は、法
華天台宗の正義を盗み取って、大日経に入れた上で、『理同』(注、真言と法華は、
理において同じである、という邪義。)としている。ならば、真言宗は、天台宗より
堕落した宗である。」と、仰せになられています。

 ましてや、不空三蔵は、善無畏三蔵・金剛智三蔵が入滅した後、月氏(インド)に
戻ってから、竜智菩薩とお会いした時に、このようなことを云われたそうです。

 「月氏(インド)には、御仏意を明らかにした論釈はない。
 漢土(中国)において、天台大師と云う人の御解釈こそ、邪正を選び、偏経・円経
(爾前経・法華経)を明らかにした文書である。

 あなかしこ、あなかしこ。
 どうか、月氏(インド)に、天台大師の書物を渡して欲しい。」と。

 このように、竜智菩薩から、懇ろに(真剣に)頼まれたということを、不空三蔵の
弟子である含光と云う者が、妙楽大師に語っています。 
 そして、それらの内容を、妙楽大師が『法華文句記』第十巻の末に、御記述されて
います。

 伝教大師は、その妙楽大師の御記述を、『依憑集』に御転載されているのです。
 従って、「法華経より、大日経は劣っている。」と御認識されていた、伝教大師の
御心は顕らかであります。


 ならば、釈迦如来・天台大師・妙楽大師・伝教大師の御心は、一同に、「大日経等
の一切経の中において、法華経はもっとも勝れた経典である。」という事は、明確で
あります。

 また、真言宗の元祖と称されている、竜樹菩薩の御心も、釈迦如来・天台大師・妙
楽大師・伝教大師の御心と同様です。
 竜樹菩薩の『大智度論』を、よくよく検討されるのであれば、この事は明確となり
ます。

 にもかかわらず、不空三蔵が誤って記述した『菩提心論』に、人々は、皆、騙され
て、法華経(法華宗)と大日経(真言宗)との勝劣に迷ってしまったようです。

 また、石淵の勤操僧正の御弟子に、空海と云う人がいました。
 後に、弘法大師と号した人です。

 弘法大師は、去る延暦二十三年五月十二日に、御入唐しています。
 漢土(中国)へ渡来した後に、金剛智・善無畏の両三蔵から数えて、第三代目の御
弟子となる恵果和尚と云う人から、密教の両界(金剛界と胎蔵界)を伝受されていま
す。

 そして、弘法大師は、大同二年十月二十二日に、御帰朝しています。
 平城天皇の時代のことでした。


 弘法大師が帰国された時には、既に、桓武天皇が御崩御されていました。
 そのため、平城天皇の下に、弘法大師が御見参をしました。
 すると、平城天皇から御重用されて、類を見ないほどの御帰依を受けました。

 けれども、平城天皇は、間もなく退位されて、嵯峨天皇に治世を継承されました。
 そして、弘法大師は、嵯峨天皇にも引き入れられて、御帰依を受けました。

 また、嵯峨天皇の治世であった、弘仁十三年六月四日に、伝教大師は御入滅なされ
ています。
 弘法大師は、その翌年の弘仁十四年から、天皇の御師となり、真言宗を立てて、東
寺を賜りました。
 そして、弘法大師は、真言和尚と号しました。

 この頃より、日本に、八宗(法相宗・三論宗・華厳宗・倶舎宗・成実宗・律宗・真
言宗・法華宗)が始まっています。

 弘法大師は、釈尊御一代の経典の勝劣を判じて、このように主張しています。

 「第一は、真言・大日経である。第二は、華厳経。第三は、法華経・涅槃経等であ
る。
 法華経は、阿含部・方等部・般若部等の経典に対すれば、真実の経典である。
 けれども、華厳経・大日経に対すれば、戯論の法(無益の法)となる。」と。

 また、真言宗の者どもは、このように主張しています。

 「教主釈尊は、仏である。
 しかし、大日如来に向かえば、無明の辺域(迷いの領域)と申して、皇帝(大日如来)
と捕虜(教主釈尊)の如き関係である。

 天台大師は、盗人である。
 真言の醍醐(醍醐味・最高の法門)を盗んだ上で、法華経を醍醐(醍醐味・最高の法
門)と記している。

 このように書かれていれば、一見、法華経は尊いと思われるが、弘法大師にお会いし
たならば、天台大師は物の数でもない。」と。
                 
 天竺(インド)の外道のことは、ひとまず、置いておきます。

 前記の弘法大師・真言宗の者どもの主張は、漢土(中国)の南三・北七の諸宗派の
者どもが、「法華経は、涅槃経に対すれば、邪見の経典である。」と云っていること
よりも、勝る邪義であります。
 また、華厳宗の者どもが、「法華経は、華厳経に対すれば、枝末の教えである。」
と申していることよりも、超過する邪義であります。

 例えると、彼の月氏(インド)の大慢バラモンが、大自在天・那羅延天・婆籔天・
教主釈尊の四人の御姿を高座の足に彫って、その上に登ってから、邪法を弘めたよう
なものです。

 伝教大師が御存命であったならば、必ずや、一言は、仰せになられていたでしょう。

 ならば、伝教大師の御弟子であった義真・円澄・慈覚・智証等が、何故に、御不審を
持たれなかったのでしょうか。
 まさしく、天下第一の大凶であります。


 慈覚大師は、去る承和五年に御入唐(中国)しています。
 その後、漢土(中国)において十年間、天台・真言の二宗を習っています。 

 慈覚大師が法全・元政等の八人の真言師から、法華経と大日経の勝劣を習学した折
には、「法華経と大日経は、『理同事勝』(注、真言と法華は、理において同じであ
る。しかし、真言は事において、法華に勝っている、という邪義。)である。」等と
伝えられました。

 一方、慈覚大師が天台宗の志遠・広修・維ケン等から習学した折には、「大日経は、
方等部に属する経典である。」等と伝えられました。

 慈覚大師は、承和十三年九月十日に御帰朝(日本へ帰国)しています。
 そして、嘉祥元年六月十四日には、朝廷からの修法の宣旨が下されています。

 法華経と大日経等の勝劣に関して、慈覚大師は、漢土(中国)における習学で知る
事が出来なかったようです。

 それ故に、慈覚大師は、金剛頂経の疏(金剛頂経の注釈書)七巻と蘇悉地経の疏(蘇
悉地経の注釈書)七巻、以上、十四巻を著しています。

 けれども、これらの疏(注釈書)の内容は、「大日経・金剛頂経・蘇悉地経(真言三部経)
の義と、法華経の義とは、その所詮(究極)の理が一同である。けれども、事相の印と真
言については、真言の三部経が勝れている。」というものです。

 これは、偏(ひとえ)に、善無畏・金剛智・不空が書いた、大日経の疏(注釈書)
の内容と変わりがありません。
                 
 しかしながら、慈覚大師は、自らの心に、なお、不審が残っていたのでしょう。
 あるいは、内心で理解していても、他の人の不審を晴らそうと思ったのでしょうか。

 そこで、慈覚大師は、これらの十四巻の疏(金剛頂経・蘇悉地経の注釈書)を、御
本尊の御前に差し置かれて、御祈請をしました。

 「このように書いたけれども、御仏意に適っているか否かは、計り難い。大日経の
三部経(大日経・金剛頂経・蘇悉地経)が勝れているのか。それとも、法華経の三部
経(法華経・無量義経・観普賢菩薩行法経)の方が勝っているのか。」と、慈覚大師
は御祈念をしました。

 すると、五日目の明け方、忽(たちまち)に、夢想(夢のお告げ)がありました。

 『青空に、大きな日輪(太陽)が懸かっている。矢を以て、日輪(太陽)を射つと、
矢が飛んで天に上り、日輪に的中した。日輪が動転して、間もなく、大地に落ちよう
としている。』と思ったところで、慈覚大師は夢から醒めました。

 慈覚大師は、悦びながら、「我に吉夢があった。法華経よりも真言が勝れていると
記した文書は、御仏意に適っている。」と、云いました。
 それから、宣旨(天皇の詔)を下して頂いて、日本国に弘通しました。

 ところが、その宣旨(天皇の詔)の内容は、「遂に知ることが出来た。天台宗の止
観と真言宗の法義とは、理が微妙に符合している。」等と云うものでした。

 御祈請の際には、「大日経より、法華経は劣っている。」と、慈覚大師は云ってい
ました。
 ところが、宣旨を申し下す際には、「法華経と大日経は、同じである。」等と、云
っています。


 智証大師(天台宗第五代座主)は、本朝(日本国)において、義真和尚・円澄大師
・別当光定・慈覚等の弟子であります。

 顕教・密教の二道については、大体、日本国において学んでいます。
 因って、智証大師は、天台宗(顕教)・真言宗(密教)との二宗の勝劣に御不審を
抱いたため、漢土(中国)に渡来したのでしょうか。

 智証大師は、去る仁寿二年に御入唐しています。
 漢土(中国)においては、真言宗を法全・元政等に習い、「およそ、大日経と法華
経とは、『理同事勝』(注、真言と法華は、理において同じである。しかし、真言は
事において、法華経に勝っている、と主張する邪義。)である。」との結論に達しま
した。
 それは、あたかも、慈覚大師の義と同様であります。

 その一方で、智証大師は、天台宗を良ショ和尚から習っています。
 真言宗と天台宗の勝劣につきましては、「大日経は、華厳経・法華経等に及ばない。」
等と云うものであります。
 
 智証大師は、七年間、漢土(中国)に滞在して、去る貞観元年五月十七日に御帰朝
しています。
 
 智証大師は、帰国後に『大日経旨帰』を著して、「大日経に対して、法華経は、なお、
及ばない。ましてや、他の経典は、尚更である。」等と、記しています。
 この解釈は、「法華経は、大日経より劣っている。」等と云うものであります。

 その一方で、智証大師は、『授決集』において、「真言宗や禅宗は、(中略)もし、
華厳経・法華経・涅槃経等の経典に対比するならば、所詮、摂引門(真実の教えに誘引
するための方便の教え)に過ぎない。」等と、記しています。

 また、智証大師は、『仏説観普賢菩薩行法経記』や『法華論記』において、「法華経
と大日経は、同じである。」等と、記しています。

 貞観八年〈丙戌〉四月二十九日〈壬申〉に申し下した勅宣には、「聞くところによ
ると、真言・止観両教の宗(真言宗・天台宗)は、同じように、『醍醐(最上の教え)』
と号して、共に、『深秘(秘蔵の教え)』と称している。」等と、云われています。

 また、六月三日の勅宣には、このように云われています。

 「先師(伝教大師)は、既に、両業(注、天台宗の僧侶が修学すべき、止観業→摩
訶止観、遮那業→真言密教の課程のこと。)を開き、そのことを以て、自らの仏道と
為している。

 代々の座主は、それを相承しているため、両業(止観業・遮那業)を兼ね伝えない
者はない。
 後進の輩は、何故に、先人の歩んだ道に背く事が出来るのであろうか。

 聞くところによると、比叡山の僧等は、専(もっぱ)ら、先師(伝教大師)の義に
相違して、偏執の心を成している。
 ほとんど、余風(他宗の教え)を扇揚して、旧業(先師の教え)の興隆を顧みない
ようである。

 およそ、先師(伝教大師)から伝授された仏道は、一つでも欠ければ、不可である。
 法を伝弘する者の勤めとして、むしろ、両業(止観業・遮那業)を兼備するべきで
あろう。

 今より以後は、宜しく、両教(法華の教え・真言の教え)に通達した人を以て、比
叡山延暦寺の座主と為し立てて、恒例と為すべきである。」と。


 ならば、慈覚・智証の二人は、伝教大師や義真和尚の御弟子に該当します。
 慈覚・智証は、漢土(中国)に渡来してから、改めて、天台宗・真言宗の明師に会
っていながらも、二宗(天台宗・真言宗)の勝劣については、思い定めることが出来
なかったのでしょうか。
 
 或る時は「真言が勝れている。」と云い、或る時は「法華が勝れている。」と云い、
或る時は「理同事勝』(注、真言と法華は、理において同じである。しかし、真言は
事において、法華に勝っている、と、主張する邪義。)』等と云っています。

 そして、宣旨を申し下された際には、「二宗(天台宗・真言宗)の勝劣を論じよう
とする人は、違勅の者(天皇の名に背く者)である。」と、戒められています。

 これらの発言は、皆、「自語相違」と云うべきであります。
 他宗の人は、おそらく、用いないものと見受けられます。

 ただし、「二宗の斉等(注、天台宗・真言宗が同等の教えであること)とは、先師・
伝教大師の御義である。」と、宣旨には引用されています。

 しかし、そもそも、伝教大師が何れの書物において、このようなことを書かれてい
るのでしょうか。
 この事を、よくよく尋ねる必要があります。
     
 慈覚・智証、及び、日蓮が、伝教大師の御事に不審を申し上げることは、親に向か
って年を争ったり、日天(太陽)に会い奉って、どちらがよく見えるかを争うような
ものです。

 けれども、慈覚・智証の御味方をしようとする人々は、明確な証文(証拠の経文)
を提示するべきであります。
 結局の所、信を得ようとするためには、証文(証拠の経文)が必要となるからです。

 玄奘三蔵は、月氏(インド)の『婆沙論』を見た人であります。
 けれども、天竺(インド)に渡ったことのない法宝法師に、『婆沙論』の翻訳を責
められています。

 法護三蔵は、インドの法華経(梵本)を見た人であります。
 けれども、法華経嘱累品第二十二の先後に関して、インドの法華経(梵本)を見て
いない漢土の人(中国の人→妙楽大師)から、誤りを指摘されているではありません
か。

 たとえ、慈覚が伝教大師に会い奉りて、法門を習い伝えていたとしても、また、智
証大師が義真和尚から口決(口伝による相承)を受けていたとしても、伝教大師・義
真和尚の正文に相違していたならば、如何にしても、不審を加えざるを得ません。

 伝教大師の『依憑集』と云う文書は、伝教大師第一の秘書(秘伝の書)であります。
 『依憑集』の序文において、伝教大師は、このように仰せになられています。

 「新しく到来した真言宗は、則ち、筆授の相承を忘失している。(注、『大日経疏』は、
善無畏が口述して、天台僧の一行が筆記した書物である。この書物は、天台宗の立
場から大日経を解釈して、筆授の相承を行っている。にもかかわらず、現在の真言宗
は、一行からの相承を忘失している、という意味。)

 古くから到来している華厳宗は、則ち、天台宗から影響を受けた軌範があることを
隠している。

 空理に沈澱している三論宗は、弾訶の屈恥(注、三論宗の嘉祥大師が、天台大師に
論破されて、屈服したこと。)を忘れて、称心の酔い(注、三論宗の嘉祥大師が、称
心精舎の章安大師に心酔したこと。)を覆っている。

 万有の現象に執着する法相宗は、撲揚の智周が、天台大師に帰依したことを否定し
ている。 
 また、青竜寺の良賁が、天台大師の判経(経典の判釈)を用いていたことを排除し
ている。 (中略)

 謹んで、『依憑集』の一巻を著して、我(伝教大師)と同心の後哲(後世の学者・
僧侶)に贈る。
 その時が興るのは、日本第五十二代天皇・弘仁七年〈丙申〉の年である。」と。

 『依憑集』の序文に続いて、次の正宗分(依憑集の本論)においては、「天竺(イ
ンド)の名僧が、『大唐(中国)の天台の教釈こそ、もっとも、邪正を選ぶことに適
している。』と聞いたが故に、渇仰しながら、訪問してきた。」と、云われています。

 また、「これは、中国(注、仏教の中心となる国→インドのこと)に法を失って、
正法の存在を、四維(周囲の国)に求めていることではないか。しかも、この国(大
唐→中国のこと)には、この事を認識している者は少ない。まさしく、魯人のようで
ある。(注、魯の国の人々が、孔子の偉大さを理解することなく、粗略に扱ったこと
を意味している。)」等と、云われています。


 この文書(依憑集)は、法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗の四宗を責められている
文書であります。
 仮にも、天台・真言の二宗が同一味(同等)であるならば、何故に、真言宗を責め
る必要があるのでしょうか。

 しかも、『依憑集』においては、不空三蔵等のことを、『魯人の如し』等と書かれ
ています。
 もし、善無畏・金剛智・不空の真言宗に価値があるならば、何故に、『魯人』と悪
口を行う必要があるのでしょうか。

 また、天竺(インド)の真言が、天台宗と同等、あるいは、それ以上に勝れている
のであれば、何故に、天竺(インド)の名僧が不空に頼んで、「中国(注、仏教の中
心の国→インド)には、正法がない。」と云う必要があるのでしょうか。

 それはともかく、慈覚・智証の二人は、言葉の上で、「伝教大師の御弟子」と名乗
っておりますけれども、心中は、御弟子ではありません。

 その故は、この書(依憑集)において、「謹んで、『依憑集』の一巻を著して、同
我(伝教大師と同心)の後哲(後世の学者・僧侶)に贈る。」等と、仰せになられて
いるからです。

 『同我』(伝教大師と同心)の二字は、「真言宗は、天台宗より劣っている。」と
習学してこそ、『同我』(伝教大師と同心)に相応しいのであります。

 慈覚・智証が自ら願い出てから、申し下された宣旨(天皇の詔勅)には、「専(も
っぱ)ら、先師(伝教大師)の義に相違して、偏執の心を成している。」等と、云わ
れています。
 また、「およそ、先師(伝教大師)から伝授された仏道は、一つでも欠ければ、不
可である。」等と、云われています。 

 この宣旨を規範とするならば、慈覚・智証こそ、『専(もっぱ)ら、先師(伝教大
師)に違背する人』になります。

 このように責めるのは、恐れ多いことです。
 けれども、「この事を責めなければ、大日経と法華経との勝劣が破れるであろう。」
と考えたが故に、命(日蓮大聖人の御命)を的に懸けて、責める次第であります。

 この二人の人々(慈覚・智証)が、弘法大師の邪義を責めなかったのは、極めて道
理(当然)のことでしょう。

 ならば、粮米(糧食の米)を尽くして、人々を煩わして、漢土へ渡来することより
も、本師・伝教大師の御義を、よくよく学究するべきではなかったのでしょうか。


 結局、比叡山の仏法は、ただ、伝教大師・義真和尚・円澄大師の三代だけに過ぎ
なかったのではないでしょうか。

 天台宗の座主は、既に、その実体が、『真言の座主』に移っています。
 名と所領は、天台宗の本山(比叡山延暦寺)であります。けれども、その主は、真
言師になっています。

 ならば、慈覚大師・智証大師は、『已今当』(注、法華経が、已・爾前経、今・無
量義経、当・涅槃経の三説に超過した最勝の教えであることを、法華経法師品第十で
お説きになられていること。)の経文を破った人になります。

 『已今当』の経文を破られるのであれば、まさしく、釈迦如来・多宝如来・十方分
身の諸仏の怨敵に他なりません。
 
 弘法大師こそ、『第一の謗法の人』と思われます。
 けれども、この事(注、慈覚・智証が天台宗・比叡山を真言化したこと)は、それ
(弘法大師の謗法)とは比べ物にならないほどの悪事であります。

 その理由を申します。
 
 水と火・天と地のように大きく異なることは、同じ悪事であったとしても、人々が
用いる事がなければ、その悪事が成就することはありません。 
 弘法大師の御義は、あまりにも悪事であったが故に、弟子たちも用いることがなか
ったのです。

 事相(注、事実の相貌。理性・法性の反対語。ここでは、印と真言を指されている。)
だけは、門家(天台宗・比叡山一門)が採用しています。

 けれども、その教相(教義)の法門は、弘法の義を主張しにくかったが故に、善無
畏・金剛智・不空・慈覚・智証の義を採用しています。
             
 慈覚・智証の義においては、「真言宗と天台宗とは、『理同』(理が同じ)である。」
等と申していたので、人々は、皆、「なるほど、そうであろう。」と思っていました。

 このように思うが故に、『事勝』(注、真言宗は、事相の印と真言において、天台
宗に勝るという邪義。)の印と真言に執着して、天台宗の人々でさえも、画像・木像
の開眼の仏事を行おうと目論んでいたために、日本国の人々一同が真言宗に墜ちて、
真の天台宗の人間は、一人もいなくなってしまいました。

 例えると、法師(男僧)と尼(女僧)、黒色と青色は紛らわしいので、視力の弱い
人は見間違えることがあります。
 一方、僧と男、白色と赤色は、視力の弱い人でも迷いません。ましてや、眼の良い
者であれば、尚更です。

 慈覚・智証の義は、法師(男僧)と尼(女僧)、黒色と青色のようなものです。
 故に、智人も迷い、愚人も誤った結果、この四百余年の間は、比叡山、園城寺、東
寺、奈良、五畿(山城・大和・河内・和泉・摂津)、七道(東海・東山・北陸・山陰
・山陽・南海・西海)、日本一州(全国)が、皆、謗法の者となってしまいました。

 そもそも、法華経第五巻・安楽行品第十四においては、「文殊師利菩薩よ、この法
華経は諸仏・如来の秘密の蔵(教え)である。諸経の中において、最も、その上に在
る。」と、仰せになられています。

 この経文の如くならば、法華経は、大日経等の一切経の頂上に住されている正法で
あります。
 そうであるならば、善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等は、この経文を、
如何に解釈されるのでしょうか。
     
 法華経第七巻・薬王菩薩本事品第二十三においては、「よく、この経典を受持しよ
うとする者も、また、同様である。一切衆生の中において、また、第一の者である。」
等と、仰せになられています。

 この経文の如くならば、法華経の行者は、川流江河の中における大海、衆山の中に
おける須弥山、衆星の中における月天(月)、衆明の中における大日天(太陽)、そ
して、転輪聖王・帝釈天王・諸王の中における大梵天王のような存在であります。

 伝教大師の『法華秀句』と云う書においては、「この経も、また、同様である。(中略)
諸の経法の中において、最も、第一の経典である。よく、この経典を受持しようとす
る者も、また、同様である。一切衆生の中において、また、第一の者である。」と、
法華経薬王菩薩本事品第二十三の経文を御引用された上で、「以上は、経文である。」
と、伝教大師がお書きになられています。

 その次の箇所では、「天台大師の『法華玄義』に云はく」等と、『法華玄義』を御
引用された上で、「以上は、『法華玄義』の文である。」と、伝教大師がお書きにな
られています。

 そして、伝教大師は、上記に御引用された御文を御解釈されて、このように仰せに
なられています。

 「当に知るべきである。
 他宗が所依とする経は、未だ、最も、第一ではない。その経を持つ者も、また、未
だ、第一ではない。

 天台法華宗が所持する法華経は、最も、第一であるが故に、よく、法華経を持つ者
も、衆生の中の第一である。

 これらのことは、既にお説きになられた、仏説に拠るものである。決して、自賛で
はない。」と。
  
 続いて、伝教大師は、別の御解釈の文書へ譲られる事に関して、「委曲(詳細)の
『依憑集』において、具体的に、別巻で記してある。」等と、お書きになられていま
す。

 伝教大師は、『依憑集』において、このように仰せになられています。

 「今、我が天台大師が、法華経を説き、法華経を御解釈することは、群衆の中でも、
特に秀でており、唐の時代においても、独り抜きん出ている。

 明らかに知るべきである。如来の使いであることを。
 讃歎する者は福を安明に積み、誹謗する者は罪を無間地獄に開くであろう。」と。

 法華経・天台大師・妙楽大師・伝教大師が仰せになられた、経・釈の御心の通りで
あるならば、今、日本国には、法華経の行者が一人もいないことになります。

 月氏(インド)においては、教主釈尊が法華経見宝塔品第十一において、一切の仏
をお集めになられてから、大地の上に居かれました。
 そして、大日如来だけを、宝塔の中の南の下座に据え奉りてから、教主釈尊は、北
の上座にお着きになられました。

 この大日如来は、大日経における胎蔵界の大日如来(胎蔵界曼荼羅の大日如来)、
及び、金剛頂経における金剛界の大日如来(金剛界曼荼羅の大日如来)の主君であり
ます。
 そして、両部(胎蔵界・金剛界)の大日如来を、「郎従(従者)等」として認定さ
れた多宝如来の上座に、教主釈尊が居座をなされました。

 これ(教主釈尊)こそ、即ち、法華経の行者であります。
 天竺においては、以上の通りです。

 漢土(中国)においては、陳の帝の時代に、天台大師が南三・北七の諸宗派に責め
勝たれて(破折をなされて)、現身(生きている間)に、『大師』号を得られました。

 伝教大師が「群衆の中でも、特に秀でており、唐の時代においても、独り抜きん出
ている。」と仰せになられているのは、この事を指しています。

 日本国においては、伝教大師が南都六宗に責め勝たれて(破折をなされて)、日本
で始めて、第一の大師号である、『根本大師』となられました。

 月氏(インド)・漢土(中国)・日本において、ただ、三人(釈尊・天台大師・伝
教大師)だけが、「一切衆生の中において、また、第一である。」に該当されること
でしょう。


 故に、伝教大師は、『法華秀句』において、このように仰せになられています。

 「浅き(浅い教え・爾前経・易信易解)は持ち易く、深き(深い教え・法華経・難
信難解)は持ち難い。それは、釈尊が御判断された所見である。
 浅き(浅い教え・爾前経・易信易解)を去って、深き(深い教え・法華経・難信難
解)に就くのは、丈夫(如来の別号)の心である。

 天台大師は、釈尊に信順して、法華宗を助けて、震旦(中国)に布教なされた。
 比叡山の一家(日本天台宗)は、天台大師からの相承を受けられて、法華宗を助け
て、日本に弘通した。」と。

 仏滅後・一千八百余年(正法時代~像法時代)の間に、法華経の行者は、漢土(中
国)に一人(天台大師)・日本に一人(伝教大師)の以上二人、そして、釈尊を加え
奉りて、以上三人となります。

 外典(仏教以外の外道の書)において、「聖人は、一千年に、一度出る。賢人は、
五百年に、一度出る。黄河は、ケイ水(濁った水)と渭水(清らかな水)に分かれて、
流れている。五百年には半分の河が清み、千年には両方の河が共に清む。」と申して
いる事と、一致しているのであります。
     
 さて、日本国においては、伝教大師の時代の比叡山だけに、法華経の行者がいら
っしゃいました。

 義真和尚・円澄大師は、比叡山の第一・第二の座主でした。
 ところが、第一の義真和尚だけが、伝教大師に似ている存在でした。
 第二の円澄大師は、半分は伝教大師の御弟子、半分は弘法の弟子でした。

 第三の慈覚大師は、当初、伝教大師の御弟子に似ていました。
 しかし、御年四十歳の時に、漢土(中国)へ渡来してからは、名だけが伝教大師の
御弟子で、その跡を継いでおりましたけれども、慈覚大師の法門は、全く、御弟子と
呼べる内容ではありませんでした。

 それでも、円頓戒(注、『円頓』とは、「円満にして偏らず、速やかに成仏する。」
という義。『円頓の教』は法華経であり、この経旨によって立てられた戒を、『円頓
戒』と云う。)だけは、伝教大師の御弟子に似ていました。


 その姿は、蝙蝠鳥(コウモリ)のようでした。
 つまり、鳥でもなく、ネズミでもなく、梟鳥禽(母を食べるフクロウ)や破鏡獣(父
を食べる破鏡という獣)のようであったからです。
 慈覚大師は、法華経という父を食い、法華経の持者という母を噛んでいたのです。

 「日(太陽)を射る」と、慈覚大師が夢に見たのは、この事であります。
 それ故に、慈覚大師の死去の後には、墓が無くなる事態を迎えています。

 後日、智証大師の門家である園城寺と、慈覚大師の門家である比叡山が、修羅と悪
竜の戦いのように、合戦を暇なく行うようになりました。
 その結果、園城寺を焼失し、比叡山も焼かれました。

 智証大師が本尊としていた、慈氏菩薩も焼けました。
 慈覚大師の本尊(大日如来)を安置していた、比叡山の大講堂も焼けました。

 彼等は、現身(生きている間)に無間地獄を感じています。
 ただ、比叡山の根本中堂だけが残りました。
  
 弘法大師も、また、行跡がなくなっています。

 弘法大師には、「東大寺の受戒を受けていない者を、東寺(注、京都市に在する、
真言宗の本山)の長者(法主)としてはならない。」等と云う、御戒めの書状があり
ます。

 しかしながら、寛平の法王(宇多天皇)は、仁和寺を建立されてから、東寺の法師
(僧侶)を移した上で、「我が寺(仁和寺)においては、比叡山の円頓戒を持ってい
ない者を、住持(寺の住職)としてはならない。」と仰せの宣旨を、明確に下されて
います。

 ならば、今(大聖人御在世当時)の東寺の法師(僧侶)は、鑑真(注、鑑真は東大
寺に戒壇を建立されている。)の弟子でもなければ、弘法の弟子でもありません。

 彼等は、戒だけが伝教大師の御弟子であります。
 また、正式に言うと、伝教大師の御弟子ではありません。
 何故なら、伝教大師からの法華経の御指南を破失しているからです。


 弘法大師が去る承和二年三月二十一日に死去した際には、公家から使者を派遣され
て、遺体を葬られました。

 その後、誑惑(欺き・惑わす)の弟子等が集まって、「弘法大師は、亡くなったの
ではなく、御入定(禅定に入る)されたのだ。」と、云っていました。

 或る者は、「髪を剃って差し上げるぞ。」と云っていました。

 或る者は、「弘法大師が三鈷(注、三鈷杵のこと。真言密教の祈祷に用いる道具。)
を漢土(中国)から投げたら、日本の高野山に落下した。」と、云っていました。

 或る者は、「日輪(太陽)が夜中に出てきた。」と、云っていました。

 或る者は、「弘法大師は、現身(生きている間)に、大日如来と成られた。」と、
云っていました。

 或る者は、「弘法大師は、伝教大師に、十八道(十八の契印を用いる密教の修法)
を教えられた。」と云って、師(弘法大師)の徳を挙げながら、智慧に代え(見せか
け)ました。

 彼等は、自らの師(弘法大師)の邪義を扶助して、国王・臣民を誑惑(欺き・惑わ
す)しているのです。
  
 また、高野山には、本寺・伝法院という、二つの寺があります。

 本寺は、弘法が立てた大塔であり、本尊は、胎蔵界の大日如来です。
 伝法院は、正覚房が立てた寺院であり、本尊は、金剛界の大日如来です。

 高野山の本寺と末寺(伝法院)は、昼夜を分かたずに、合戦をしていました。
 その有様を例えると、まるで、比叡山と園城寺のようでした。
 誑惑(欺き・惑わす)が積もって、日本に、二つの災禍が出現したのでしょうか。

 糞(フン)を集めて、栴檀(センダン・香木)と為したとしても、焼いた時には、
ただ、糞の臭いしかしません。
 それと同様に、大妄語を集めて、仏寺と号したとしても、ただ、無間大城(地獄)
に墜ちるだけです。
              
 ニケン外道(釈尊御在世当時の六師外道の一つ)の塔は、数年間、利生(利益)
が広大でした。
 けれども、馬鳴菩薩の礼拝を受けると、忽(たちま)ちに崩れてしまいました。

 鬼弁婆羅門は、隠れていた帷(垂れ幕)によって、長年、人を誑(たぼらか)して
いました。
 けれども、アスバクシャ菩薩(馬鳴菩薩)に責められると、妖術を破られてしまい
ました。

 拘留外道は、石となってから、八百年が経過していました。
 けれども、陳那菩薩に責められると、水になって(石が裂けて)しまいました。

 道士(道教の修行者)は、数百年の間、漢土(中国)を誑(たぼらか)していまし
た。
 けれども、摩騰・竺蘭に責められると、道教の経典を焼いてしまいました。

 秦の皇帝に仕えていた趙高が国を取ったのと同様に、また、漢の皇帝に仕えていた
王莽が位を奪ったのと同様に、伝教大師御入滅後の日本天台宗の僧侶や真言宗の僧侶
は、法華経の位を奪い取って、大日経の所領としてしまいました。

 法王(法華経)は、既に、国から去ってしまいました。
 ならば、如何にして、人王(国主)が安穏としていられるのでしょうか。

 日本国は、一同に、慈覚・智証・弘法の流れを汲むようになってしまいました。
 一人として、謗法を犯していない者はおりません。


 ただし、このような事に陥った根源を勘案してみると、あたかも、大荘厳仏の世の
末のようであり、一切明王仏(師子音王仏)の末法のようであります。

 (注記、『大荘厳仏の世の末』とは、仏蔵経において、大荘厳仏の涅槃の後に、空
の法義を継承した普事比丘が、四比丘の衆から誹謗されたことを示されている。
 『一切明王仏』は、『師子音王仏』のお書き誤り。諸法無行経において、師子音王
仏の末法に、諸法の実相を説かれた喜根比丘が、勝意比丘等から誹謗されたことを示
されている。)

 威音王仏(威音王如来)の末法においては、改悔があったとしても、なお、千劫と
いう極めて長い間、阿鼻地獄(無間地獄)に堕ちました。

 (注記、威音王仏とは、法華経常不軽菩薩品第二十に説かれている如来のこと。威
音王如来の像法の末に御出現された常不軽菩薩は、一切衆生を但行礼拝した。しかし、
増上慢の四衆から、杖木瓦石等の迫害を受けられている。一方、常不軽菩薩を迫害し
た者たちは、その罪によって、千劫の間阿鼻地獄に堕ちたが、法華経との逆縁によっ
て救済されている。上記の御金言は、その法華経常不軽菩薩品第二十の御記述の内容
を指されている。)

 ましてや、日本国の真言師・禅宗・念仏者等は、一分の改心もありません。
 法華経譬喩品第三に仰せの「如是展転、至無数劫」(是くの如く展転して、無数劫
の間、無間地獄に至る。)は、疑いのないことでしょう。

 このような謗法の国になってしまったため、諸天からも捨てられました。
 諸天がこの国を捨てられると、古くから日本国を守護されていた善神も、祠を焼き
払われて、寂光土の都へお帰りになってしまいました。
           
 ただ、日蓮だけが、この国に留まり残って、謗法を告げ示すと、国主は、この事(日
蓮大聖人の折伏)を怨みました。
 そのため、数百人の民を用いて、或いは罵詈を行ったり、或いは悪口を言ったり、
或いは杖木で打ったり、或いは刀剣で斬ったり、或いは宅々ごとに封鎖したり、或い
は家々ごとに追い払いをしました。

 それが叶わなければ、今度は、国主自らが手を下して、二度までも、私(日蓮大聖人)
を流罪(伊豆御流罪・佐渡御流罪)に処しました。
 そして、去る文永八年九月十二日には、龍口の地において、私(日蓮大聖人)の首を
切ろうとしました。
           
 最勝王経(金光明経)においては、「悪人を愛敬して、善人を治罰する由来の故に、
他方(他国)から怨賊が到来して、国の人民は喪乱に遭遇する。」等と、仰せになら
れています。

 大集経においては、「もし、また、諸の武士や国王が諸の非法を行って、世尊の声
聞の弟子を悩ませたり、もしくは、毀(そし)ったり、罵(ののし)ったり、刀杖を
以て打撃したり、及び、衣や鉢等の種々の資材・仏具を奪い、もしくは、他者からの
給施(布施)に妨害を起こす者があるならば、我等は、彼等に対して、自ずと、即座
に、他方(他国)からの怨敵を蜂起させるであろう。及び、自国内の領土にも、また、
兵が決起して、疫病・飢饉・季節はずれの風雨・闘争・訴訟が発生するであろう。ま
た、その王をしても、権力が久しいことはなく、また、当に、自らの国を亡失させる
であろう。」等と、仰せになられています。


 これらの経文の通りであるならば、日蓮がこの国にいなければ、仏(釈尊)は大妄
語の人となって、阿鼻地獄(無間地獄)は如何にしても脱れることが出来ないでしょ
う。

 去る文永八年九月十二日に、私(日蓮大聖人)は、平左衛門尉並びに数百人の兵士
に向かって、「日蓮は、日本国の柱である。日蓮を失うことになれば、日本国の柱を
倒す行為になる。」等と、云いました。

 前記の経文(最勝王経・大集経)には、「国主たちが、悪僧どもの讒言によって、
もしくは、諸の人々の悪口によって、智人を刑罰に処するならば、即座に、戦が起こ
り、また、大風を吹かせたり、他国から攻められるであろう。」という主旨のことが
記されています。

 去る文永九年二月の北条一門の同士討ちの戦(二月騒動)、文永十一年四月の大風
の発生、文永十一年十月に大蒙古が襲来したことは、偏(ひとえ)に、日蓮に起因す
ることであります。

 ましてや、以前より、私(日蓮大聖人)は、これらの事を勘文(立正安国論等の御
提出)しておりました。誰人を以て、疑うことが出来るのでしょうか。
                
 弘法・慈覚・智証の誤り、並びに、禅宗と念仏宗に基づく災いが相次いで起こった
有様は、まさしく、逆風に大波が起こったり、大地震が重なったようなものでありま
す。
 従って、次第に、日本国も衰えて参りました。

 太政入道(平清盛)が国の実権を握った後に、承久の時代に入ってから、三名の上
皇が流罪に処されて、世(国権)は、東(鎌倉)に移りました。
 けれども、ただ、国の中が乱れただけであって、他国から攻められる事はありませ
んでした。

 その当時も、謗法の者は、国に充満していました。
 けれども、その謗法を明示して、顕すほどの智人がいなかったのです。

 そのことを譬えると、眠れる師子に手を付けなければ、吼えないようなものであり
ます。
 速い流れであっても、櫓(ろ)を差さなければ、波は高くなりません。
 盗人であっても、盗みを止めさせなければ、怒ることはありません。
 火は、薪を加えなければ、炎が盛んになることはありません。

 謗法があったとしても、それを顕す人がいなければ、国も穏やかであるように、見
受けられる事と似ています。

 その例を提示すると、日本国に仏法が渡来し始めた頃に、始めは何事もなかったの
ですが、物部守屋が仏像を焼いたり、僧を迫害したり、寺の堂塔を焼いたため、天か
ら火の雨が降り、国に疱瘡(ほうそう)が発生して、兵乱が続いたようなものです。
   
 しかし、この度(日蓮大聖人御在世当時)は、その当時とは比較にならないほどの
状況であります。

 謗法の人々も、国に充満しています。それに対して、日蓮の大義(日蓮大聖人の御
法義)も強く攻めかかっています。
 その様子は、修羅と帝釈との合戦や、仏と魔王との合戦にも、劣るものではありま
せん。

 金光明経(最勝王経)においては、「時に、隣国の怨敵が、このような念を起こす
であろう。当に、四兵(象兵・馬兵・車兵・歩兵)を揃えて、その国土を崩壊させる
であろう。」等と、仰せになられています。

 また、金光明経(最勝王経)においては、「時に、王が様子を見終わって、即ち、
四兵(象兵・馬兵・車兵・歩兵)を率いて、その国に行軍して、討罰を為そうとする。
我等は、その時、当に、眷属や無量無辺の薬叉等の諸天善神と共に姿を隠しながら、
守護・助勢を行う。ならば、その怨敵によって、自然に(自ずと)、降伏することに
なるであろう。」等と、仰せになられています。

 最勝王経(金光明経)の経文は、以上の通りであります。
 また、大集経や仁王経にも、同様の内容が記されています。 

 これらの経文(金光明経・大集経・仁王経)の通りであるならば、正法を行ずる者
を国主が怨み、邪法を行ずる者の味方を国主が行うならば、大梵天王・帝釈天王・大
日天王・大月天王・四天王等が隣国の賢王の身に入れ代わって、その国を攻めるよう
に見受けられます。

 例えると、仏教に敵対した訖利多王を雪山下王が攻めたり、仏法の僧侶を弾圧した
大族王を幻日王が滅ぼしたようなものであります。

 訖利多王と大族王は、月氏(インド)の仏法を失わせた王であります。
 漢土においても、仏法を滅ぼした王は、皆、賢王に攻められています。

 けれども、この度(日蓮大聖人御在世当時)は、その当時と比較にならないほどの
状況であります。

 国主は仏法の味方をするようでありながら、実際には、仏法を失う法師(僧侶)の
味方をしている故に、愚者は、全ての状況を知ることが出来ません。
 智者であったとしても、通常の智人には、知り難いものがあります。
 諸天であったとしても、劣った天人には、知らないこともあるでしょう。

 ならば、古来の漢土(中国)・月氏(インド)の乱れよりも、現在(日蓮大聖人御
在世当時)の日本国の乱れの方が大きいことになります。


 法滅尽経においては、「私(釈尊)が涅槃した後、五逆罪(殺父・殺母・殺阿羅漢・
出仏身血・破和合僧)の盛んな濁った世に、魔道が興こり、盛んになる。そして、魔
が沙門(僧侶)の姿となって、我が道(仏道)を壊乱するであろう。(中略)悪人は
海中の砂のように多く、善者は極めて少ない。一人、若しくは、二人ぐらいであろう。」
と、仰せになられています。

 涅槃経においては、「このような涅槃経典を信ずる者は、爪の上に載った土のよう
に少ない。(中略)この経を信じない者は、十方世界が所有する大地の土のように多
い。」等と、仰せになられています。

 これらの経文(法滅尽経・涅槃経)は、私(日蓮大聖人)の肝に染みました。

 当世の日本国においては、「自分も、法華経を信じている、信じている。」と、諸
の人々が言っています。
 彼等の言葉の通りであるならば、一人も、謗法の者がいないことになります。

 しかしながら、これらの経文(法滅尽経・涅槃経)おいては、「末法には、謗法の
者が十方世界の大地の土のように多く、正法の者は爪の上に載った土のように少ない。」
という主旨のことが記されています。
 従って、経文と世間の人々の評価は、水と火のように、異なっています。

 世間の人々は、「日本国においては、日蓮一人だけが謗法の者である。」等と、云
っています。
 これもまた、経文とは、天と地のように、異なっています。

 法滅尽経においては、「善者は一人。若しくは、二人。」等と、仰せになられてい
ます。
 涅槃経においては、「信ずる者は、爪上の土。(爪の上に載った土のように少ない)」
等と、仰せになられています。

 経文の通りならば、日本国においては、ただ、日蓮一人だけが『爪上の土』であり、
『一人・二人』に該当するのであります。

 経文を用いるべきなのでしょうか。それとも、世間の人々の言葉を用いるべきなので
しょうか。


 質問致します。

 涅槃経の経文には、「涅槃経の行者は、爪の上に載った土のように少ない。」等と、
仰せになられています。

 ところが、貴殿の義においては、「法華経の行者は、爪の上に載った土のように少
ない。」等と、云われています。
 これは、如何なることでしょうか。

 お答えします。

 涅槃経においては、「法華経の中の如し。」等と、仰せになられています。

 妙楽大師は、『法華文句記』において、「大経(涅槃経)自らが、法華経を指して、
至極の経典と為している。」等と、仰せになられています。

 『大経』(大般涅槃経)と云う経典は、涅槃経のことです。
 涅槃経においては、法華経を『至極の経典』と指しています。

 ところが、涅槃宗の人が、「涅槃経は、法華経に勝っている。」と申していること
は、あたかも、主人を所従と言い、下郎(部下)を上郎(上長)と言っているような
ものであります。
   
 涅槃経を読むということは、法華経を読むということであります。
 譬えば、賢人は、自分のことを見下されたとしても、国主を重く扱う者のことを悦
ぶようなものです。
 涅槃経は、法華経を見下して、自ら(涅槃経)を誉める人のことを、返って、敵と
して憎むのであります。

 この例を以て、知るべきです。
 華厳経・観無量寿経・大日経等を読む人も、「法華経が劣っている。」と思いなが
ら読むことは、それらの経々(華厳経・観無量寿経・大日経等)の心に背いているの
であります。

 この件によって、知るべきです。
 法華経を読む人が、この経(法華経)を信じるようであったとしても、「諸経にお
いても、得道(成仏)が出来る。」と思うことは、この経(法華経)を読まない人に
該当するのであります。
           
 例を挙げると、三論宗の嘉祥大師は、『法華玄論』と云う十巻の文書を作って、法
華経を讃歎しました。

 けれども、妙楽大師は、嘉祥大師を責められて、「法華経に対する毀(そし)りが、
その書物の中に在る。何故に、法華経の弘教・讃歎と成るのであろうか。」等と、仰
せになられています。

 このように、嘉祥大師は、法華経を破る人でした。しかし、その後、嘉祥大師は見
解を翻して、天台大師に仕えました。

 そして、「私(嘉祥大師)は、人前で法華経を読まない。何故なら、私(嘉祥大師)
が法華経を読むならば、悪道が免れ難いからだ。」と云って、七年の間、自らの身を
橋として、天台大師の踏み台にされました。

 法相宗の慈恩大師には、『法華玄賛』と題した、法華経を讃歎している文書が十巻
あります。
 伝教大師は、その文書を責められて、「法華経を讃歎していると雖も、還って、法
華経の心を殺している。」等と、仰せになられています。
           
 これらの事例から考えてみると、法華経を読んで讃歎する人々の中に、無間地獄に
墜ちる者が多く存在しています。

 嘉祥大師や慈恩大師でさえ、既に、一乗(一仏乗の教え=法華経)を誹謗した人に
なります。
 ましてや、弘法・慈覚・智証が、何故に、法華経を蔑如した人にならないのでしょ
うか。

 嘉祥大師のように、主宰していた講を廃止して、集っていた聴衆を解散して、自ら
の身を橋として、天台大師の踏み台になられたとしても、なお、それ以前に犯した、
法華経誹謗の罪は消えることがないでしょう。

 法華経常不軽菩薩品第二十において、不軽菩薩を軽蔑して毀(そし)った者どもは、
その後、不軽菩薩に信伏随従を申し上げました。
 けれども、未だに、重罪が残って、千劫という極めて長い間、阿鼻(無間)地獄に
堕ちたのであります。


 ならば、弘法・慈覚・智証等は、たとえ、翻す心があったとしても、なお、人前で
法華経を読むのであれば、重罪は消え難いのです。
 ましてや、彼等には、翻す心もありません。また、法華経を失い、真言密教を昼夜
に行い、朝夕に伝法している者どもであります。

 世親菩薩・馬鳴菩薩は、小乗経を以て、大乗経を破った罪に対して、舌を切ろうと
さえしました。
 世親菩薩は、「仏説であったとしても、阿含経(小乗の経典)を、戯れにも、舌の
上には置かない。」と、誓いました。
 馬鳴菩薩は、懺悔のために、『大乗起信論』を作って、小乗経を破折されました。
    
 嘉祥大師は、天台大師を招請されてから、百人余りの智者の前で、五体を地に投げ、
全身から汗を流し、紅の涙を流しながら、「今からは、弟子を見ない。法華経を講じ
ることもない。弟子の顔を眺めて、法華経を読み奉るならば、如何にも、私(嘉祥大
師)に力があって、法華経を知悉しているように、誤解をされるからだ。」と、云い
ました。

 そして、嘉祥大師は、天台大師より高僧・老僧であったにもかかわらず、わざと、
人が見ている時に、天台大師を背負われて河を越えたり、御説法の高座に近づいてか
ら、天台大師を自ら(嘉祥大師)の背中に乗せられて、高座に上らせ奉ったのであり
ます。

 最終的に、嘉祥大師は、天台大師が御臨終を迎えられた後に、隋の皇帝の許に見参
をされました。
 その際に、嘉祥大師は、まるで、小児が母に先立たれた時のように、足を擦りなが
ら泣いていました。


 嘉祥大師の『法華玄論』を見ると、特段、法華経を誹謗した疏(注釈書)ではあり
ません。
 ただ、『法華玄論』には、「法華経と諸大乗経(法華経以外の全ての大乗経)には、
法門に浅深があったとしても、その心は一つである。」と、書かれてあります。
 これが、謗法の根本になるのでしょうか。

 華厳宗の澄観においても、真言宗の善無畏においても、彼等の著書には、「大日経
と法華経は、理が一つである。」と、はっきり書かれてあります。
 嘉祥大師に罪科があるならば、善無畏三蔵も、謗法の罪科を脱れ難いのです。
     
 そもそも、善無畏三蔵は、中天(中インド)の国主でした。
 善無畏三蔵は、その位を捨てて他国に赴き、殊勝・招提の二人に会ってから、法華
経を伝授されました。
 そして、百・千にも及ぶ石の塔を立てたため、法華経の行者のように見受けられま
した。

 しかしながら、善無畏三蔵は、大日経を習い始めてから、「法華経は、大日経より
劣っている。」と、思うようになったのでしょうか。

 当初、善無畏三蔵は、それほど、上記の義を抱いていなかったのです。
 けれども、漢土(中国)に渡来して、玄宗皇帝の師となった頃から、天台宗を嫉ん
で思う心が芽生えたのでしょう。

 それ故に、善無畏三蔵は、忽(たちま)ちに、頓死(急死)しました。
 そして、二人の獄卒から、鉄の縄を七本付けられて、閻魔大王の王宮に連れて行か
れました。  

 それから、善無畏三蔵が「命は、未だに尽きていない。」と云うと、閻魔王宮から
帰されました。

 すると、法華経謗法の罪と思ったのでしょうか。
 善無畏三蔵は、真言宗の観念や印・真言等を投げ捨てて、法華経譬喩品第三の『今
此三界』(注、「今、此の三界は、皆、是れ我が有なり。」→「欲界・色界・無色界
の三界は、皆、仏が所有されている。」という意味。)の経文を唱えると、鉄の縄も
切れて、この世に戻されました。

 また、善無畏三蔵が、玄宗皇帝から祈雨を仰せつけられた際には、忽(たちま)ちに、
雨が降りました。
 けれども、大風が吹いて、国を破壊しました。

 結局、善無畏三蔵が亡くなった際には、弟子等が集まって、臨終の立派な様子を褒
めていました。
 けれども、善無畏三蔵は、無間大城(無間地獄)に堕ちました。
 
 質問致します。
 何故に、善無畏三蔵が地獄に堕ちた事を知っているのでしょうか。

 お答えします。
 彼の伝記(宋高僧伝)を見ると、「今、善無畏の遺体を観ると、身体が次第に縮小
して、黒い皮膚が陰惨に広がり、骨が露わになっている。」等と、記されています。

 善無畏三蔵の弟子等は、師の死後に、地獄の相が顕れた事を知らずして、善無畏三
蔵の徳を称えているように思われます。
 けれども、書き表した筆記は、返って、善無畏三蔵の過失を記述しているのです。

 前記の通り、善無畏三蔵が死亡した後には、「身体が次第に縮小して、黒い皮膚が
陰惨に広がり、骨が露わになっている。」等と、伝記(宋高僧伝)に書かれています。

 しかしながら、「人が死んだ後に、色が黒くなることは、地獄の業である。」と、
お定めになられた事は、仏陀(釈尊)の御金言(正法念経等が御出典)であります。

 では、善無畏三蔵が地獄に墜ちた業因は、何事になるのでしょうか。

 善無畏三蔵は、幼少の時に、国主の位を捨てています。これは、第一の道心であり
ます。

 その後、善無畏三蔵は、月氏(インド)の五十余りの国において、修行しています。
 慈悲の深さのあまりに、善無畏三蔵は、漢土(中国)にも渡来しています。

 天竺(インド)・震旦(中国)・日本・一閻浮提(全世界)の中に真言を伝えて、
鈴を振りながら弘経したことは、まさしく、この人(善無畏三蔵)の徳であります。

 にもかかわらず、「如何にして、地獄に堕ちたのであろうか。」と、後生を願おう
とする人々は御尋ねをするべきです。  
 
 また、金剛智三蔵は、南天竺(南インド)の大王の太子(皇太子)でありました。
 金剛智三蔵は、金剛頂経を漢土(中国)に伝来させています。その徳は、善無畏三
蔵に匹敵しています。
 そして、善無畏三蔵と金剛智三蔵は、互いに師となりながら、真言密教を相伝しま
した。

 ところが、金剛智三蔵が玄宗皇帝の勅宣によって、祈雨をしたところ、七日の間に
雨が降ってきました。
 天子(玄宗皇帝)が大いに悦んでいると、忽(たちま)ちに、大風が吹いて来まし
た。

 王(玄宗皇帝)や臣下等は興醒めした故に、使者を派遣して、金剛智三蔵を追放し
ようとしました。
 けれども、どうのこうのと云っている間に、金剛智三蔵は、漢(中国)の国内に留
まることになりました。

 結局、金剛智三蔵は、玄宗皇帝の姫宮が御死去された際に、「生き返るための祈祷
を為しなさい。」という旨の御命を受けています。

 そのため、金剛智三蔵は、姫宮の身代わりとして、宮中の七歳の少女二人を、薪の
中に詰め込んで、焼き殺しています。

 まさしく、この事こそ、無慙(無惨)に思われます。しかも、玄宗皇帝の姫宮も生
き返らなかったのです。   
    
 不空三蔵は、月支(インド)から、金剛智三蔵の御供をしてきました。
 故に、不空三蔵は、これらの事(善無畏三蔵と金剛智三蔵の行状)を不審に思った
のでしょう。

 善無畏三蔵と金剛智三蔵が入滅した後に、不空三蔵は月支(インド)へ帰って、竜
智菩薩にお会いになりました。 
 そして、真言の教義を習い直して、天台宗に帰伏しました。
 ところが、心の中だけは、天台宗に帰伏していても、不空三蔵の身は、帰伏する事
がありませんでした。

 不空三蔵も、玄宗皇帝からの祈雨の勅宣を受けています。
 祈祷を始めてから三日が経つと、雨が降ってきました。
 天子(玄宗皇帝)はお悦びになって、御自らが御布施を下されています。


 ところが、しばらくすると、大風が荒れ下って、内裏を吹き破りました。
 そして、雲閣月卿(殿上人→玄宗皇帝)の宿所も、一ヶ所も残ることなく、破壊さ
れたように見えました。

 そのため、天子(玄宗皇帝)は大いに驚いて、「風を止めよ。」と、宣旨を出され
ました。
 しかし、風が吹いた後、一時的に止んだとしても、しばらくすると、また、風が吹
いてくる有様でした。
 そういう状況が数日間続いて、風が止む事はありませんでした。

 結局、玄宗皇帝の使者が派遣されて、不空三蔵が追放されることにより、風が止ん
だのであります。

 この三人(善無畏・金剛智・不空)が引き起こした悪風は、漢土(中国)・日本に
おける、一切の真言師が引き起こした大風の根源であります。

 なるほど、そういうことでしょう。
 去る文永十一年四月十二日の大風は、東寺第一の智者と称された、阿弥陀堂・加賀
法印の祈雨によって、吹いてきた逆風であります。

 この史実(文永十一年四月十二日の大風)は、善無畏・金剛智・不空の悪法を、少
しも違えることなく、伝えているのでしょうか。
 誠に、心憎いことであります。心憎いことであります。
                 
 弘法大師は、去る天長元年の二月の大旱魃(かんばつ)の際に、祈雨をしたことが
あります。
 その直前には、守敏が祈雨をして、七日の内に、雨を降らせました。
 ただし、京の都の中だけに雨が降って、田舎に雨が注ぐ事はありませんでした。

 その次に、弘法が受け継いで、祈雨をしました。
 一七日(一週間)経っても、雨の氣配はありません。
 二七日(二週間)経っても、雲さえありません。

 三七日(三週間)が経過すると、天皇が和氣真綱を使者として、御幣(神に奉ずる
幣)を神泉苑に捧げられました。
 すると、雨が三日間降りました。

 このような経緯がありながら、弘法大師並びに弟子等が、この雨を奪い取り、「自
らの祈雨によって、降らせた雨である。」と、言い触らしていました。
 そして、今(日蓮大聖人御在世当時)に至るまで、四百余年の間、「弘法の雨」と
言っています。 
                       
 慈覚大師は、「夢で、日輪(太陽)を射った。」と、云っています。
 一方、弘法大師は、「弘仁九年の春に、大疫病の治癒を祈ると、夜中に、大日輪(太
陽)が出現した。」と、大妄語を述べています。

 しかし、成劫以来、住劫の第九の減に至るまで、以上・二十九劫の間に、「日輪(太
陽)が夜中に出た。」という史実はありません。

 (注記、仏教の経典では、『成・住・壊・空』の『四劫』が説かれている。
 ある世界が成立して、流転・破壊を経てから、次の成立に至るまでの期間を、『成劫・
住劫・壊劫・空劫』の四つに分けられている。

 上記御金言の「成劫」とは、世界が生成していく時代のこと。
 また、上記御金言の「住劫」とは、世界が安定・構築していく時代のことになる。

 そして、『成劫・住劫・壊劫・空劫』は、それぞれ、二十劫ずつに分かれている。
 その一劫は、人寿が十歳から八万歳まで増えて、また、八万歳から十歳まで減ってい
く期間となる。

 上記御金言の「住劫の第九の減」とは、『住劫』の二十劫における、第九番目の減の
時期を意味している。
 また、上記御金言の「二十九劫が間」とは、『成劫』の二十劫+『住劫』の九劫=『二
十九劫』を意味している。)

 前記の通り、慈覚大師は、「夢で、日輪(太陽)を射った。」と、云っています。

 では、五千巻とも七千巻とも云われる内典(仏教の書物)や、三千巻余りと云われる
外典(仏教以外の書物)において、「日輪(太陽)を射る夢は、『吉夢』である。」と
いう事が記述されているのでしょうか。
 それとも、そういう記述は、存在しないのでしょうか。
                 
 修羅は、帝釈天王を怨んで、日天(太陽・大日天王)を射っています。
 ところが、その矢が返って、自ら(修羅)の眼に刺さっています。

 中国の殷の紂王は、日天(太陽・大日天王)を的にして射ったことにより、身を滅
ぼしています。

 日本の神武天皇の御時代には、度美長(注、長髄彦のこと。大和地方の土豪の首長)
と五瀬命(神武天皇の兄)が合戦をしています。

 その際、五瀬命(神武天皇の兄)の手に矢が刺さると、「我(五瀬命)は、日天(太
陽・天照大神)の子孫である。日(太陽)に向かい奉って、弓を引いたが故に、日天
(太陽・天照大神)からの責めを被ることになる。」と、五瀬命(神武天皇の兄)は
告げられています。


 インドの阿闍世王は、仏(釈尊)に御帰依をなされました。
 ある時、阿闍世王は、内裏(宮殿)に帰って、御眠りになっていました。

 すると、阿闍世王が驚いた様子で、「日輪(太陽)が、天から地に落ちる夢を見た。」
と、臣下たちに向かって語りました。
 臣下たちは、「仏(釈尊)の御入滅なのでしょうか。」と、云いました。

 須跋陀羅の夢も、また、同様のことを意味しています。

 (注記、須跋陀羅は、釈尊御入滅の直前に、教化を受けて得道した弟子である。
 ある晩、「一切の人が目を失い、裸形で闇の中に立っている。太陽は落ち、地は破
れ、大海は乾き、大風が須弥山を吹き散らしている。」という夢を、須跋陀羅が見た。
 その翌朝、須跋陀羅は、釈尊が今夜半に涅槃する知らせを聞いた。そのため、釈尊
の許へ、須跋陀羅はお会いに行かれた。
 その場で、須跋陀羅は出家して、釈尊御入滅の日の夜に、羅漢となっている。)

 我が国(日本国)において、日(太陽)を射ったり、日(太陽)が落ちたりするよ
うな夢は、特に、忌むべき夢であります。
 何故なら、神(守護の善神)のことを、『天照』(天照大神)と称しているからで
す。
 そして、国のことを、『日本』と称しているからです。

 また、教主釈尊を、『日種』と申し上げています。
 摩耶夫人(釈尊の御母様)が日(太陽)を御懐妊された夢を御覧になって、御授か
りになられた太子が、後に、教主釈尊となられたことに由来しています。  

 慈覚大師は、大日如来を比叡山に立ててから、釈迦仏を捨てています。
 そして、真言三部経(大日経・金剛頂経・蘇悉地経)を崇めて、法華三部経(法華
経・無量義経・普賢経)の敵となったが故に、この夢(太陽を射った夢)が出現した
のであります。

 ここで、事例を提示します。

 漢土(中国)の善導は、当初、密州の明勝という者にお会いして、法華経を読んで
いました。
 ところが、後に、道綽に会ってから、法華経を捨てて、観経(観無量寿経)に依拠
した疏(注釈書)を作りました。

 そして、善導は、法華経を『千中無一』(千人の中で、一人も成仏することが出来
ない。)と定めました。
 その一方で、念仏を『十即十生・百即百生』(十人いれば十人とも、百人いれば百
人とも、往生することが出来る。)と定めました。

 その後、自らの法義を成就させようとするために、善導は、阿弥陀仏の御前におい
て、「仏意に叶っているのでしょうか。それとも、叶っていないのでしょうか。」と、
祈誓を為しました。

 それから、毎晩、夢の中で、常に、一人の僧が来現して、善導に指導・教授をした
そうです。 
 そして、その僧は、「もっぱら、経法の通りにせよ。」と、語ったそうです。

 それらの事柄が、観念法門経(善導の著書)等に記されています。


 法華経方便品第二においては、「もし、法を聞く者があれば、一人として、成仏し
ないことはない。」と、仰せになられています。
 一方、善導は、「法華経は、千人の中で、一人も成仏することが出来ない。」等と、
云っています。

 法華経と善導の主張とは、水・火のように、正反対です。

 善導は、観経(観無量寿経)のことを、「十即十生・百即百生」(十人いれば十人
とも、百人いれば百人とも、往生することが出来る。)と、云っています。
 しかし、無量義経においては、観経(観無量寿経)等のことを、「未だに、真実を
顕していない。」等と、定義づけられています。

 無量義経と楊柳房(注、善導のこと。善導が柳の木から身を投げて死亡したことを
暗示されている。)の主張とは、天・地のように、正反対です。

 にもかかわらず、上記の内容を、「阿弥陀仏が僧となって来現されたから、善導の
主張は真実である。」と証明しようとしても、如何にして、本当の事と受け止められ
るのでしょうか。

 そもそも、阿弥陀仏は、法華経の御説法の座に来られて、舌を出されなかった(法
華経が真実の教えであることを証明されなかった)のでしょうか。
 観音菩薩・勢至菩薩は、法華経の御説法の座にいなかったのでしょうか。

 この事例を以て、類推しなさい。「慈覚大師の御夢は、災いである。」ということ
を。
   
 質問致します。

 弘法大師の『般若心経秘鍵』においては、このように云われています。

 「時に、弘仁九年の春、天下に大疫病が流行した。

 因って、嵯峨天皇御自らが筆端を黄金に染められて、紺色の紙を爪掌(手)に握り、
般若心経一巻を書写し奉った。
 私(弘法大師)は、般若心経講読の任に選ばれ、その立場に則って、経旨の大意を
綴った。
 
 すると、未だに、結願の詞(仏事の終結の際に発する言葉)を発していなかったに
もかかわらず、疫病から蘇生した人々が道に佇んでいた。
 そして、夜が変じて、日光が赫々と輝いていた。

 これは、愚身(弘法大師の身)の戒徳ではない。
 金輪(嵯峨天皇)の御信力の所為である。

 ただし、神舎に詣でようとする輩は、この秘鍵(般若心経秘鍵)を誦し奉るように
せよ。
 昔、私(弘法大師)は、霊鷲山の御説法の際に、莚(むしろ)に座して、親しく、
その深文を聞き奉っている。
 何故に、その義(霊鷲山の御説法の義)に達していないことがあろうか。」と。

 『孔雀経音義』(弘法の弟子・真済の著書)においては、このように云われていま
す。

 「弘法大師が日本へ御帰国した後に、真言宗を立てようと欲していた。そのため、
諸宗の人々を、朝廷に集合させた。諸宗の人々は、弘法大師の即身成仏の義を疑って
いた。

 そこで、弘法大師は、智拳の印(金剛界の大日如来が結んでいる拳の印)を結んで、
南方に向かうと、急に面門(口)が開いて、金色の毘盧遮那仏と成った。
 その直後には、すぐ、弘法大師の本体に戻っていた。

 すると、諸宗の人々は、「入我我入の事(注、仏が我が身に入ったり、我が身が仏
に入ったりする事)や即身頓証(即身成仏)の疑いは、この日を以て、釈然と氷解し
た。」と、語った。

 このようにして、真言瑜伽の宗(瑜伽の修行をする真言宗)と真言密教の曼荼羅の
道法は、この時から建立された。」と。

 また、『孔雀経音義』においては、このように云われています。

 「この時に、諸宗の学徒は、弘法大師に帰依して、始めて真言を得た。そして、諸
宗の学徒は、益々、要請をして、習学した。
 三論宗の道昌、法相宗の源仁、華厳宗の道雄、天台宗の円澄等は、皆、その法類で
ある。」と。

 『弘法大師伝』(弘法の伝記)においては、このように云われています。

 「日本へ帰国する船に乗られる日、弘法大師が発願して、『私(弘法大師)が学ん
だ所の教法に、もし、感応する地があるならば、この三鈷(注、三鈷の杵のこと、真
言密教の祈祷に用いる道具。)は、その場所に到るであろう。』と、仰った。

 それから、日本の方に向かって、弘法大師が三鈷を投げ上げると、遥かに飛んで、
雲に入った。
 こうして、弘法大師は、十月に御帰国された。」と。

 また、『弘法大師伝』においては、このように云われています。

 「高野山の下に、入定の所(禅定に入る場所)を決められた。(中略)日本に帰国
される船の海上から投げた三鈷は、今、新たに、此処で発見された。」と。

 この大師(弘法大師)の徳は、無量であります。まだ、その徳の二・三例だけを、
示したに過ぎません。

 弘法大師には、このような大徳があるにもかかわらず、何故に、この人(弘法大師)
を信じることなくして、還って、阿鼻地獄に堕ちると云うのでしょうか。

 お答えします。

 私(日蓮大聖人)も、そのように仰いで、信じ奉っています。
 ただし、古代の人々が、不可思議の徳を持っていた場合であっても、仏法の邪正は、
そのような事に依っておりません。
 
 インドの外道が、恒河(ガンジス河)の水を、自らの耳に十二年間留めたり、或い
は、大海の水を吸い干したり、或いは、太陽や月を手に握ったり、或いは、仏教徒を
牛や羊に変えたりしました。

 けれども、彼等は、益々、大慢を起こして、生死に迷う業因を積んでいったのであ
ります。

 このことを、天台大師は、『法華玄義』において、「名利を求めることによって、
見愛(注、三界の煩悩を総称した見思惑のこと。)を増す行為である。」と、御解釈
されていらっしゃいます。

 光宅寺の法雲が、忽(たちま)ちに雨を降らせたり、須臾(瞬時)に花を咲かせた
ことに関しても、妙楽大師は、『法華玄義釈籤』において、「感応は、このように勝
れていたとしても、なお、仏法の理には適っていない。」と、お書きになられていま
す。

 天台大師は、法華経をお読みになられて、須臾(瞬時)に、甘雨を降らせていらっ
しゃいます。
 また、伝教大師も、三日の間に、甘露の雨を降らせていらっしゃいます。

 しかし、天台大師も伝教大師も、雨を降らせたことによって、「御仏意に叶ってい
る。」とは、仰せになられていません。

 仮に、弘法大師が如何なる徳をお持ちであったとしても、法華経を『戯論の法』(児
戯に類した無益な法)と定めて、釈迦仏のことを『無明の辺域』(煩悩に縛られた迷
いの境地)と書かれている御筆(記述)を、賢い智慧をお持ちの人が用いてはなりま
せん。
 ましてや、上記に挙げられている、弘法大師の徳の数々には、不審な事があります。

 弘法大師の『般若心経秘鍵』においては、「弘仁九年の春、天下に大疫病が流行し
た。」等と、記されています。

 春は九十日(3ヶ月)あります。弘仁九年の何れの月、何れの日になるのでしょう
か。
 これが、第一の不審点です。

 そもそも、弘仁九年には、大疫病が発生していたのでしょうか。
 これが、第二の不審点です。

 また、弘法大師の『般若心経秘鍵』においては、「夜が変じて、日光が赫々と輝い
ていた。」と、記されています。
 この記述の真偽は、もっとも大事なことです。

 弘仁九年は、嵯峨天皇の御時代となります。
 そのような記述が左史・右史の記録(太政官の公文書)に掲載されているのでしょ
うか。
 これが、第三の不審点です。

 たとえ、左史・右史の記録(太政官の公文書)に掲載されていたとしても、信じ難
い事であります。
 何故なら、成劫二十劫・住劫九劫・以上二十九劫の間において、未だに、発生して
いない天変であるからです。

 夜中に、日輪(太陽)が出現したという事は、如何なる事でしょうか。
 また、釈迦如来御一代の聖教にも、そのような記載は見受けられません。

 「未来において、夜中に、日輪(太陽)が出る。」ということは、中国の三皇(伏
羲、神農、黄帝)・五帝(ショウコウ、センギョク、テイコク、帝堯、帝舜)の三墳
・五典(三皇・五帝に関連した書物)にも掲載されていません。

 仏教の経典においては、減劫(人寿が減少していく時代)の時にだけ、「二つの日
(太陽)、三つの日(太陽)、以下、七つの日(太陽)が出る。」という旨の御記述
があります。
 けれども、それは、昼間のことです。
 夜に日(太陽)が出現すれば、東・西・北の三方角は、一体、どうなるのでしょう
か。
 
 たとえ、内典(仏教の書物)・外典(仏教以外の書物)に記載されていなくても、
現実に、「弘仁九年の春、何れの月、何れの日、何れの夜の、何れの時に、日(太陽)
が出た。」という旨の公家・諸家・比叡山等の日記(記録)が存在するならば、少し
は、信じることも出来るでしょう。


 その次の『般若心経秘鍵』の記述では、「昔、私(弘法大師)は、霊鷲山の御説法
の際に、莚(むしろ)に座して、親しく、その深文を聞き奉っている。」等と、書か
れています。

 この記述は、この筆(般若心経秘鍵)を、他の人に信用させるために、創作した大
妄語でしょう。

 仮に、『般若心経秘鍵』の記述が真実であるならば、霊鷲山において、「法華経は
戯論、大日経は真実。」と、仏(釈尊)がお説きになられたことを、阿難・文殊が誤
って、「妙法華経は、皆、是れ、真実である。(妙法華経 皆是真実)」と、書いて
しまったことになるのでしょうか。その他、如何に解釈すれば、宜しいのでしょうか。

 語るに足りない淫女(和泉式部)や破戒の法師(古曾部入道)等が和歌を詠んで、
雨を降らせたにも関わらず、三七日(三週間)経っても、雨を降らせることが出来な
かった人(弘法)に、このような徳があるのでしょうか。
 これが、第四の不審点です。

 『孔雀経音義』においては、「弘法大師は、智拳の印(金剛界の大日如来が結んで
いる拳の印)を結んで、南方に向かうと、急に面門(口)が開いて、金色の毘盧遮那
仏と成った。」等と、記されています。

 この記述も、また、「何れの王、何れの年、何れの時」の出来事に該当しているの
でしょうか。

 漢土(中国)においては、『建元』の時代を始めとして、日本においては、『大宝』
の時代を始めとして、緇素の日記(僧侶・在俗の記録)が存在しています。
 そして、大事件が発生した時には、必ず、その年号が記されています。

 ところが、これほどの大事件があったにもかかわらず、王の名前も、臣下の名前も、
年号も、日時も、何故に、記されていないのでしょうか。 

 また、その次の『孔雀経音義』の記述においては、「三論宗の道昌、法相宗の源仁、
華厳宗の道雄、天台宗の円澄等は、皆、その法類である。」等と、記されています。

 そもそも、円澄は、寂光大師と称しています。日本天台宗・第二代の座主になりま
す。
 では、なぜ、その時に、日本天台宗・第一代の座主であった義真和尚や、日本天台
宗の根本(宗祖・本師)となる、伝教大師を招かなかったのでしょうか。

 円澄は、日本天台宗・第二代の座主であります。そして、円澄は、伝教大師の御弟
子でした。けれども、その一方では、弘法大師の弟子でもありました。
 
 従って、弟子の円澄を召くよりも、あるいは、三論宗の道昌、法相宗の源仁、華厳
宗の道雄を招くよりも、日本天台宗の伝教大師・義真和尚のお二人を召くべきだった
のではないでしょうか。
                 
 しかも、この日記(孔雀経音義)においては、「真言瑜伽の宗(瑜伽の修行をする
真言宗)と真言密教の曼荼羅の道法は、この時から建立された。」等と、記されてい
ます。
 この『孔雀経音義』の筆記は、「伝教大師・義真和尚が御存命されている時のもの
である。」と、見受けられます。  

 弘法は、平城天皇の御時代の大同二年(807年)から弘仁十三年(822年)ま
で、盛んに、真言宗を弘めた人であります。
 その時、このお二人(伝教大師・義真和尚)は、現に、御存命でいらっしゃいまし
た。
 
 また、義真和尚は、天長十年(833年)まで生きていらっしゃいました。
 ならば、その時(833年)まで、弘法の真言宗は、弘まっていなかったのでしょ
うか。
 このように、『孔雀経音義』には、色々と、不審な点があります。

 そもそも、孔雀経の注釈書(孔雀経音義)は、弘法の弟子である真済が、自ら記し
た書物であります。
 因って、その内容は、信じ難いものがあります。

 また、真済は、邪見の者ではないでしょうか。
 このような書物を作成する際には、公家・諸家・天台宗の円澄の記述を引用して、
正当性を立証するべきでしょう。
 併せて、三論宗の道昌・法相宗の源仁・華厳宗の道雄の記述も引用するべきです。

 そして、『孔雀経音義』においては、「急に面門(口)が開いて、金色の毘盧遮那
仏と成った。」等と、記されています。

 「面門」とは、口のことです。口が開いたのでしょうか。
 「眉間が開いて」と書こうとしたものを、誤って、「面門(口)」と書いてしまっ
たのでしょうか。
 謀書(偽書)を作成するが故に、このような誤りがあるのではないでしょうか。
                 
 『孔雀経音義』においては、「弘法大師は、智拳の印(金剛界の大日如来が結んで
いる拳の印)を結んで、南方に向かうと、急に面門(口)が開いて、金色の毘盧遮那
仏と成った。」と、云われています。
 
 しかし、涅槃経の第五巻においては、このように仰せになられています。

 「迦葉は、仏(釈尊)に申し上げた。

 世尊よ。我(迦葉)は、今、この四種の人(注、如来の御入滅後に依り所となる人。
須陀オン・斯陀含・阿那含・阿羅漢)に依らない。

 如何なる理由の故か。
 それは、『瞿師羅経』の中において、仏(釈尊)が瞿師羅の為に、このようにお説
きになられているからである。

 『もし、大宇宙の天魔が、仏法を破壊しようと欲するが故に、身を変じて、如来の
像(姿)となったとする。

 その有様は、仏の相好である三十二相・八十種好を具足しており、荘厳なる輝きを
発している。
 そして、その円満なる顔の光は、満月の明かりのように、遍く行き渡っている。

 眉間の白毫相(注、仏の眉間に白毛があること。三十二相の一つ。)は雪よりも白
く、(中略)、左の脇より水を出したり、右の脇より火を出したりする。』と、お説
きになられているからである。」と。


 また、涅槃経の第六巻においては、このように仰せになられています。

 「仏(釈尊)は、迦葉に対して、このように告げられた。

 『私(釈尊)が般涅槃(御入滅)した後に、 (中略)
 この魔波旬(第六天の魔王)が、段々と、当に、我が正法(釈尊の仏法)を破壊す
るであろう。 (中略)

 第六天の魔王が姿を変化させて、阿羅漢の身や仏の色身となるであろう。
 そして、第六天の魔王が、有漏の形(煩悩を有している身)でありながら、無漏の
身(煩悩を離れた身→仏の御身)に変じて、我が正法(釈尊の仏法)を破るであろう。』」
と。

 弘法大師は、「法華経は、華厳経・大日経に対しても、戯論(稚戯の如き拙い教え)
に過ぎない。」等と、云っています。
 しかも、弘法大師は、「仏身を現じた。」と、云っています。

 これらのことを、「第六天の魔王が、有漏の形(煩悩を有している身)でありなが
ら、仏の御身に変じて、我が正法(釈尊の仏法)を破るであろう。」と、涅槃経にお
いて、お記しになられているのであります。
               
 涅槃経で仰せになられている、『正法』とは、法華経のことになります。
 故に、その次の涅槃経の経文においては、「久しく、既に、成仏している。」と、
仰せになられています。
 また、涅槃経の経文では、「涅槃経は、法華経の中の如し。」等と、仰せになられ
ています。

 釈迦如来・多宝如来・十方の諸仏は、「一切経の中において、法華経は、真実の教
えである。大日経等の一切の経典は、不真実の教えである。」等と、仰せになられて
います。

 しかし、弘法大師は、「私(弘法大師)は仏身を現じた。華厳経・大日経に対すれ
ば、法華経は戯論となる。」等と、云われています。

 仏説が真実であるならば、まさしく、弘法は、天魔になるのではないでしょうか。

 また、三鈷(注、三鈷杵。真言密教の祈祷に用いる道具。)の記述は、特に不審が
あります。
 「漢土(中国)の人が、日本にやって来て、三鈷を掘り出した。」ということも、
信じ難いものがあります。

 以前から、人を遣わして、三鈷を埋めていたのではないでしょうか。
 ましてや、弘法は、日本の人であります。高野山に三鈷を埋めることは、簡単に出
来るはずです。
 
 弘法には、このような虚偽の話が多くあります。
 これらの事例を以て、「弘法は、御仏意に適っている人である。」と、認知するこ
との証拠とはなりません。
     
 そして、真言宗・禅宗・念仏宗等が次第に興隆してきた頃に、人王第八十二代・尊
成隠岐の法王(後鳥羽法皇)が、権太夫殿(北条義時)を滅ぼそうとして、年々、計
画を練っておられました。

 特段のことをしなくても、隠岐の法王(後鳥羽法皇)は国主(天皇)のお立場でし
たから、あたかも、師子王が兎(うさぎ)をねじ伏せるように、鷹が雉(きじ)を取
るように、権太夫殿(北条義時)を屈服させることは容易のはずでした。

 その上、隠岐の法王(後鳥羽法皇)は、比叡山・東寺・園城寺・奈良七大寺・天照
太神・正八幡・山王神社・加茂神社・春日神社等に、数年の間、或いは調伏の祈祷を
させたり、或いは神に祝詞を申し上げていました。

 にもかかわらず、戦が始まってしまうと、権太夫殿(北条義時)の攻撃を、二日・
三日の短期間さえも防ぐことが出来ずに、順徳上皇は佐渡の国(新潟県)へ、土御門
上皇は阿波の国(徳島県)へ、後鳥羽上皇は隠岐の国(島根県)へ流罪となってしま
いました。
 最終的に、この三人の上皇は、流罪の地で崩御なされたのであります。
                 
 権太夫殿(北条義時)を調伏するための上首(代表者)であった、仁和寺御室(道
助法親王・後鳥羽上皇の第二皇子)は、ただ、東寺を追放されただけではありません。
 眼の如く寵愛されていた、第一の天童・勢多伽(道助法親王の長男)が首を切られ
たことは、調伏の祈祷が逆の作用をもたらした証拠であります。

 それは、「まさしく、『還著於本人』(注、法華経観世恩菩薩普門品第二十五の経
文が出典。法華経の行者を謗ったり害する者は、かえって、自分自身に、その果報を
受けるようになること。)の故である。」と、見受けられます。 

 しかし、この惨事は、まだ、僅かの事であります。
 この後、必ずや、日本国の国臣・万民が一人も漏れなく、まるで、乾草を積んで火
を付けられたように、大山が崩れて谷が埋められたように、我が国(日本国)が他国
から攻められる事が出来するでしょう。

 この事を、日本国の中において、ただ、日蓮一人だけが知っていたのであります。

 もし、この事を言い出したならば、「殷の紂王が比干(紂王の忠臣)の胸を裂いた
ように、夏の桀王が竜蓬(桀王の諫臣)の首を切ったように、ケイヒン国(インド)
の檀弥羅王が師子尊者(付法蔵・二十四人目の伝灯者)の首を刎ねたように、天竺
(インド)の道生(注、一闡提でも成仏出来ることを説いた僧、鳩摩羅什の弟子)が
蘇山へ流されたように、宋の徽宗(老荘思想を信奉していた皇帝)が法道三蔵(徽宗
を諫めた宋代の僧)の顔に焼き印を押したように、私(日蓮大聖人)も、同様の処遇
を受けることになるであろう。」ということは、かねてから知っていました。

 けれども、法華経勧持品第十三においては、「我、身命を愛せず。但、無上道を惜
しむ。」と、お説きになられています。

 また、涅槃経においては、「むしろ、身命を喪失したとしても、仏の教えを隠匿し
てはならない。」と、お諫めになられています。
                 
 「今世において、命を惜しむのであれば、一体、いつの世において、仏に成る事が
出来るのであろうか。また、如何なる世において、父母・師匠を救い奉る事が出来る
のであろうか。」と、ひたすら思い切って、この事を申し始めました。

 すると、案に違わず(予想していた通り)、或いは所を追われたり、或いは罵られ
たり、或いは討たれたり、或いは疵(きず)を被ったりしているうちに、去る弘長元
年〈辛酉〉五月十二日に御勘氣(注、幕府からの咎めを受けて、罪を付されること。)
を受けて、伊豆国・伊東に流されました。

 その後、弘長三年〈癸亥〉二月二十二日に、赦免となりました。

 私(日蓮大聖人)は、その後も、ますます菩提心を強盛にして、正法を申しました。
 すると、ますます大難が重なっていく事は、あたかも、大風によって、大波が起こ
っていくような状況でした。

 昔、威音王仏の世に御出現された不軽菩薩が杖木で責められたことに対しても、「我
が身に、過去世からの罪が存在するためである。」ということを、私(日蓮大聖人)
は認知させられました。

 また、歓喜増益仏の末の世に御出現された覚徳比丘がお受けになられた大難に対し
ても、「私(日蓮大聖人)受けた大難には及ばない。」と、思われます。

 日本六十六箇国・島二つの中において、一日・片時たりとも、如何なる地において
も、私(日蓮大聖人)の住むべき場所はなかったのであります。


 古代には、小乗教の二百五十戒の戒律を持って、忍辱の行を積んだ羅喉羅(釈尊の
十大弟子の御一人・密行第一)のような持戒の聖人であっても、富楼那(釈尊の十大
弟子の御一人・説法第一)のような智者であっても、日蓮に会ったならば、悪口を吐き
ます。

 根が正直であって、魏徴(唐の太宗皇帝の諫臣)や忠仁公(清和天皇の摂政であっ
た藤原良房)のような賢者等であっても、日蓮を見れば、理を曲げて、非道を行います。

 ましてや、世間の一般の人々は、私(日蓮大聖人)に対して、あたかも、犬が猿を
見た時のように、猟師が鹿を追い込めた時のように、接しています。


 日本国の中には、一人として、「彼(日蓮大聖人)の言うことには、理由があるの
だろう。」と、云う人がいません。それも、道理でしょう。

 人々は、念仏を申しています。
 ところが、私(日蓮大聖人)は、その人たちと向かい合うたびに、「念仏は、無間
地獄に堕ちる。」と、言っています。
 
 また、人々は、真言を尊んでいます。
 ところが、私(日蓮大聖人)は、「真言は、国を亡ぼす悪法である。」と、言って
います。

 そして、国主は、禅宗を尊んでいます。
 ところが、日蓮は、「禅宗は、天魔の所為である。」と、言っています。

 故に、自ら招いた禍でありますので、日本国の人々が私(日蓮大聖人)を罵ったと
しても、咎めてはおりません。
 たとえ、咎めたとしても、相手は、一人ではありません。

 そして、人々から殴打されたとしても、痛くはありません。
 何故なら、私(日蓮大聖人)は、当初から、難を受けることを承知していたからで
す。

 私(日蓮大聖人)は、このようにして、ますます身命も惜しまずに、力を尽くして、
謗法を責めました。

 すると、禅僧数百人・念仏者数千人・真言師百千人が、或いは奉行に付いたり、或
いは権力者に付いたり、或いは権力者の女房に付いたり、或いは後家尼御前(権力者
の未亡人)等に付いて、無尽の(あらゆる)讒言を為しました。

 最終的には、「日蓮は、天下第一の大事である日本国を失わせようと呪詛している
法師である。日蓮は、故最明寺殿(北条時頼)や極楽寺殿(北条重時)のことを、『無
間地獄に堕ちた。』と申している法師である。御尋問をされるまでもない。直ちに、
首を斬るべきである。日蓮の弟子たちに対しても、或いは首を斬ったり、或いは遠国
に流罪したり、或いは牢に入れるべきである。」と、尼御前たちがお怒りになったの
で、そのまま刑が執行されたのであります。
 
 去る文永八年〈辛未〉九月十二日の夜は、相模の国・龍口の地において、首を斬ら
れるはずでした。

 ところが、どうしたことでしょうか。
 その夜は生き延びて、依智(現在の神奈川県厚木市依知)という所へ移送されました。

 また、文永八年九月十三日の夜には、「日蓮が赦免されるだろう。」と、多くの者
が騒いでいました。

 ところが、どうしたことでしょうか。
 佐渡の国まで流されることになりました。

 佐渡の国においては、「今日、日蓮の首を斬るだろう。」「明日、日蓮の首を斬る
だろう。」と云われている間に、四年の歳月が経過しました。

 結局、文永十一年〈太歳甲戌〉二月十四日に赦免されて、文永十一年三月二十六日
に鎌倉へ入りました。

 そして、文永十一年四月八日には、平左衛門尉に見参(面会)して、様々な事を申
しつけました。(注、日蓮大聖人の三度目の国家諫暁)

 その際に、私(日蓮大聖人)は、「今年中に、必ず、蒙古が押し寄せて来るであろ
う。」と、平左衛門尉に申しておきました。


 そして、文永十一年五月十二日に鎌倉を出て、この山(身延山)に入りました。
 私(日蓮大聖人)は、偏(ひとえ)に、父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国恩を報
じようとするために、我が身を破り、命を捨てたのです。
 けれども、身命が失われなかったので、この山(身延山)へ入ることにしました。

 また、賢人の習いとして、「三度、国を諫めたとしても、用いられることがなけれ
ば、山林に交わりなさい。」と、云われています。これは、古代からの定説であります。 
 
 この功徳は、必ずや、上は三宝(仏・法・僧)から、下は大梵天王・帝釈天王・大
日天王・大月天王までも、ご存知のことでしょう。
 私(日蓮大聖人)の父母も、故道善房の聖霊も、助かることでしょう。

 ただし、疑問に思うことがあります。

 目連尊者は、母の青提女を助けようと思いました。けれども、青提女は、餓鬼道に
墜ちてしまいました。
 大覚世尊の御子であっても、善星比丘は、阿鼻地獄へ墜ちてしまいました。

 これらの事例は、「仮に、その人を、力の限り、救おうと思ったとしても、自業自
得の結果であるものは、救い難い。」ということを意味しています。


 故道善房は、大切な弟子のことですから、「日蓮が憎い。」とは思わなかったので
しょう。
 けれども、極めて臆病である上に、「清澄寺を離れたくない。」と、執着した人(道
善房)であります。

 「地頭の東条景信が恐ろしい。」と、道善房は云っていました。
 また、提婆達多と瞿伽利(注、提婆達多を師匠として、舎利弗や目連を誹謗したた
め、地獄に堕ちた釈迦族の者)との関係のような、円智と実成(注、二人とも、日蓮
大聖人に敵対した清澄寺の住僧と思われる。)が清澄寺の上と下に居て、道善房は脅
されていました。

 それらのことを必要以上に恐れて、愛おしいと思う年頃の弟子等さえも捨ててしま
った人(道善房)ですから、「後生は、如何なるものになるのか。」と、疑っています。

 ただ一つの救いは、東条景信と円智・実城が先に死亡したことです。
 それによって、道善房は、何らかの救済になったと思われます。

 けれども、彼等(東条景信・円智・実城)は、法華経の十羅刹女の責めを被って、
早々に亡くなったのであります。

 後に、道善坊は、少しだけ、法華経を信じるようになりました。
 しかし、それは、喧嘩をした後の乳切木(護身用の棒)のようなものです。また、
昼の灯火のようなものです。
 それらは、時機を逸してしまえば、何の役にも立ちません。

 その上、如何なる事があったとしても、子や弟子等に対しては、不便に思うもので
あります。

 力のない人ではなかったにも関わらず、佐渡国まで流されていた私(日蓮大聖人)
の許を一度も訪れなかった事は、道善房が法華経を信じていなかった証しになるでし
ょう。


 それにしても、嘆かわしいことでありますので、彼の人(道善房)の御死去の報せ
を聞いた際には、仮に、火の中に入ったとしても、水の中に沈んだとしても、道中を
走り続けたとしても、清澄寺へ行きたかったのです。

 「御墓を叩いて、法華経を一巻読誦しよう。」と、私(日蓮大聖人)は、強く思い
ました。

 けれども、賢人の習いとして、自分(日蓮大聖人)の心の中では、遁世(隠遁の身)
と思っていなくても、世間の人は、私(日蓮大聖人)のことを、遁世(隠遁の身)と
認識しているでしょうから、見境もなく走り出したならば、「最後まで、意志を通す
ことの出来ない人だ。」と、思うに違いありません。
 
 ならば、如何に、私(日蓮大聖人)が道善房のことを思っていたとしても、参上す
るべきではありません。


 ただし、各々御二人(浄顕房・義浄房)は、日蓮が幼少であった頃の師匠でいらっ
しゃいます。

 勤操僧正・行表僧正は、伝教大師の御師でありました。ところが、後になると、返
って、伝教大師の御弟子となられています。

 私(日蓮大聖人)と浄顕房・義浄房の関係は、それと同様です。

 日蓮が東条景信に憎まれて、清澄山を出た際に、私(日蓮大聖人)を追って、浄顕
房・義浄房が清澄山を忍び出られたことは、天下第一の法華経の御奉公であります。
 故に、後生に対して、疑いをお持ちになってはなりません。


 質問致します。
 法華経一部・八巻・二十八品の中において、何物が肝心になるのでしょうか。

 お答えします。

 華厳経の肝心は、大方広仏華厳経です。
 阿含経の肝心は、仏説中阿含経です。
 大集経の肝心は、大方等大集経です。
 般若経の肝心は、摩訶般若波羅蜜経です。
 双観経の肝心は、仏説無量寿経です。
 観経の肝心は、仏説観無量寿経です。
 阿弥陀経の肝心は、仏説阿弥陀経です。
 涅槃経の肝心は、大般涅槃経です。

 このように、一切経においては、皆、『如是我聞』(注、仏教の経典の冒頭には、
共通して、『如是我聞→是くの如く、我は聞いた。』と記されている。)の語句の
上に記された題目が、その経の肝心となっています。
                   
 大乗経は大乗経なりに、小乗経は小乗経なりに、それぞれの経典の題目を以て、肝
心としています。
 大日経・金剛頂経・蘇悉地経等においても、また、同様であります。

 仏も、また、同様のことが云えます。
 大日如来・日月燈明仏・燃燈仏・大通仏・雲雷音王仏等々、これらの仏も、また、
その御名前の内に、種々の徳を備えられていらっしゃいます。

 今、この法華経においても、また、同様であります。

 法華経序品第一の冒頭の『如是我聞』の上にお記しになられた、『妙法蓮華経』の
五字は、即ち、法華経一部・八巻の肝心であり、また、一切経の肝心であり、そして、
一切の諸仏・菩薩・二乗(声聞・縁覚)・天・人・修羅・竜神等の頂上の正法であり
ます。
      
 質問致します。

 『南無妙法蓮華経』と、その意味を理解していない者が題目を唱えていたとします。
 その一方で、『南無大方広仏華厳経』と、その意味を理解していない者が題目を唱
えていたとします。

 これらの二つの行為は、同等になるのでしょうか。また、その題目を唱える功徳に、
浅深の差別があるのでしょうか。

 お答えします。
 それらの二つの行為の功徳には、浅深等の差別があります。

 疑問があります。
 その根拠は、如何なるものでしょうか。

 お答えします。

 小河は、露・涓(しずく)・井(井戸水)・渠(溝水)・江(入り江の水)等を収
めることは出来ます。けれども、大河を収めることは出来ません。

 大河は、露・涓(しずく)・井(井戸水)・渠(溝水)・江(入り江の水)、及び、
小河を収めることは出来ます。けれども、大海を収めることは出来ません。

 阿含経は、露・涓(しずく)・井(井戸水)・渠(溝水)・江(入り江の水)等を
収めた小河のようなものです。
 方等経・阿弥陀経・大日経・華厳経等は、小河を収めた大河のようなものです。

 それに対して、法華経は、露・涓(しずく)・井(井戸水)・渠(溝水)・江(入
り江の水)・小河・大河・天雨等の一切の水を、一滴たりとも漏らさぬ大海となりま
す。
 
 それを譬えると、身体に熱のある者が大寒水の辺(ほとり)で寝ていれば、涼しく
感じます。けれども、小水の辺(ほとり)で臥しているだけでは、依然として、身体
が苦しいようなものです。

 五逆罪(殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧)の謗法を犯した大一闡提人
(注、正法を信ずることなく、覚りを求める心もないため、成仏する機縁を持たない
人)が、阿含経・華厳経・観無量寿経・大日経等の小水の辺(ほとり)で臥している
だけでは、大罪の大熱を冷ますことが出来ません。

 しかし、法華経の大雪山の上に臥したならば、五逆罪・正法誹謗・一闡提等の大熱
は、忽(たちま)ちに退散するのであります。
 
 ならば、愚者(機根の乏しい末法の衆生)は、必ず、法華経を信ずるべきでありま
す。

 各々の経典の題目を唱えること自体は、易しい行為です。それは、何れの経典の題
目を唱える場合でも、同じです。
 けれども、愚者と智者が題目を唱える功徳には、天地雲泥の差があります。

 (注、上記は、「たとえ、愚者であったとしても、法華経の題目を唱える者の功徳
は勝れている。しかし、智者であったとしても、爾前経の題目を唱える者の功徳は劣
っている。」という意味。)

 それを譬えると、大きな綱は、大きな力を持っている者であっても、切り難いので
す。
 しかし、小さな力しか持っていなくても、小刀を持っていれば、容易に、大きな綱
を切ることが出来ます。

 同様に、堅い石を、鈍刀で切ろうとすると、大きな力を持っている者であっても、
割り難いのです。
 しかし、利剣を持っていれば、小さな力しか持っていなくでも、割ることが出来ます。
 
 更に譬えると、たとえ、成分を知らなくても、薬を服すれば、病は治癒します。
 しかし、単なる食物を服しただけでは、病が治癒しません。

 また、仙薬(不老不死の薬)を飲めば、寿命を延ばすことが出来ます。
 けれども、凡薬(凡庸な効能の薬)を飲んだだけでは、病を癒せたとしても、寿命
を延ばすことが出来ません。


 疑問があります。
 法華経二十八品の中において、何が肝心となるのでしょうか。

 お答えします。

 ある者は、「法華経の各品は、皆、それぞれの事情に従って、肝心となる。」と、
云っています。

 ある者は、「方便品第二・如来寿量品第十六が肝心となる。」と、云っています。

 ある者は、「方便品第二が肝心となる。」と、云っています。

 ある者は、「如来寿量品第十六が肝心となる。」と、云っています。

 ある者は、「方便品第二の『開・示・悟・入』の法門(注、衆生に対して、仏の知
見を開かせ、示し、悟らせ、入らしめること。)が肝心となる。」と、云っています。

 ある者は、「方便品第二の『諸法実相』の法門(注、十界の諸法が、悉く、実相の
当体であり、妙法蓮華経の当体であること。)が肝心となる。」と、云っています。
                 
 質問致します。
 あなたのお考えは、如何でしょうか。

 お答えします。
 「南無妙法蓮華経が肝心となる。」ということです。

 その証拠は、如何なるものでしょうか。

 お答えします。
 阿難尊者と文殊師利菩薩等は、『如是我聞』(注、是くの如く、我は聞いた。)等
と、云われています。それが、証拠となります。

 質問致します。
 その真意は、如何なるものでしょうか。

 お答えします。

 法華経が御説法されていた八年の間、阿難尊者と文殊師利菩薩は、この法華経の無
量の義を、一句・一偈・一字も残すことなく、御聴聞されています。
 そして、阿難尊者と文殊師利菩薩は、仏(釈尊)の御入滅後、仏典結集をなされて
います。

 九百九十九人の阿羅漢が筆に墨をつけていた際に、阿難尊者と文殊師利菩薩は、『妙
法蓮華経』と(阿羅漢に)書かせてから、『如是我聞』と(阿難尊者と文殊師利菩薩
が)お唱えになりました。

 この仏典結集の所行こそ、「『妙法蓮華経』の五字は、法華経一部・八巻・二十八
品の肝心となる。」ということへの証拠であります。
   
 故に、過去の日月灯明仏の時代から、法華経を講じていたと云われている、光宅寺
の法雲法師は、「『如是』とは、将(まさ)に、所聞(仏から聞いた教え)を伝えようとして、
経典の最前の題目に、法華経一部全体の法門を提示しているのである。」等と、云わ
れています。

 霊鷲山において、法華経を目の当たりに聴聞されたと云われている天台大師は、『如
是』とは、所聞(仏から聞いた教え)の法体である。」等と、仰せになられています。

 章安大師は、このように、仰せになられています。
 「記者(天台大師の法門を御解釈された章安大師)は、このように、解釈して云う。
『思うに、序王(天台大師の序文)は、法華経の『玄意』(深い意味)を述べられて
いる。そして、法華経の『玄意』(深い意味)は、法華経の『文心』(経文の心)を
述べられている。」と。

 この章安大師の御解釈において、「『文心』とは、題目である。そして、題目は、
法華経の心である。」という事が云われています。

 妙楽大師は、『法華玄義釈籤』において、「釈尊御一代の教法を収めることは、法
華経の『文心』より出ていることである。」等と、仰せになられています。
 
 天竺(インド)には、七十箇国があります。その総名は、月氏国と云います。
 日本には、六十箇国があります。その総名は、日本国と云います。

 『月氏』という名の内に、七十箇国、及び、その国々の人間や家畜や珍宝等が、皆、
入っています。

 『日本』という名の内に、六十六箇国があります。
 出羽国の鷲の羽も、奥州(東北)の金も、及び、国の珍宝や人間や家畜も、そして、
寺塔も神社も、皆、『日本』という二字の名の内に収まっています。


 天眼(天人の眼)を以て、『日本』という二字を見れば、日本の六十六箇国、及び、
その国々の人間や家畜等を見ることが出来ます。

 法眼(仏法の眼)を以て、『日本』という二字を見れば、人間や家畜等がこちらで
死んでいたり、あちらで生まれたりしている状況を見ることが出来ます。

 それを譬えると、人の声を聞いて体格を把握したり、足跡を見て身体の大小を推測
するようなものであります。
 そして、蓮を見れば、池の大小を計る事が出来ます。また、雨を見れば、竜の大き
さを考えられます。

 これらの事例には、皆、「一つの物事に、一切が含有されている。」という道理が
示されております。


 阿含経の題目には、概ね、一切の法門があるようにも見えます。
 けれども、ただ、小乗の釈迦仏が一仏いらっしゃるだけで、その他の仏は説かれて
いません。

 また、華厳経・観無量寿経・大日経等には、一切の法門があるようにも見えます。
 けれども、二乗(声聞・縁覚)を仏に成す法門(二乗作仏)と、久遠実成(注、法
華経本門の如来寿量品第十六において、釈尊が五百塵点劫という久遠の昔に、法身・
報身・応身の三身を備えられた仏に成道されていた真実を明かされたこと。)の釈迦
仏が説かれていません。

 それを例えると、花が咲くだけで、果実が実らないようなものです。
 雷が鳴るだけで、雨が降らないようなものです。
 鼓を叩いても、音が鳴らないようなものです。
 眼があっても、物を見ることが出来ないようなものです。
 女性であっても、子供を産めないようものです。
 人間であっても、命がなく、また、神(魂)がないようなものです。

 大日如来の真言・薬師如来の真言・阿弥陀如来の真言・観世音菩薩の真言等も、ま
た、同様のことであります。
                
 それらの経典(爾前経)の中においては、あたかも、大王・須弥山・日月・良薬・
如意宝珠・利剣等のように扱われています。

 けれども、法華経の題目と対比すれば、天地雲泥の勝劣が存在するだけでなく、そ
れらの経典(爾前経)のいずれにおいても、当初から備えていた自用(はたらき)が
失われます。

 それを例えると、多くの星の光が、一つの日輪(太陽)に奪われるようなものです。
 たくさんの鉄が一つの磁石によって、鉄の特質が失われるために、引き寄せられる
ようなものです。
 大剣が小火の中に入れられると、その用(特性)を失うようなものです。
 牛乳・驢乳(ロバの乳)等が、師子王の乳に出会えば、水と成るようなものです。
 多くの狐が術を使っても、一匹の犬に遭遇すれば、その術の力を失うようなもので
す。
 狗犬(小犬)が小虎に遭遇すると、顔色が変わるようなものです。

 「南無妙法蓮華経」と唱えるならば、南無阿弥陀仏の用(はたらき)も、南無大日
真言の用(はたらき)も、観世音菩薩の用(はたらき)も、一切の諸仏・諸経・諸菩
薩の用(はたらき)も、皆、悉く、妙法蓮華経の用(はたらき)によって、失なわれます。
 
 それらの経々は、妙法蓮華経の用(はたらき)用を借りなければ、皆、無駄なもの
となってしまいます。
 それは、当時(現在)、眼の前にある道理であります。

 日蓮が「南無妙法蓮華経」と弘めれば、南無阿弥陀仏の用(はたらき)は、あたかも、
月が隠れるように、潮が干いていくように、秋冬に草が枯れるように、氷が太陽の光
で溶けるように、その用(はたらき)が失われていく様子を見なさい。


 質問致します。

 もし、本当に、この法(妙法蓮華経)が尊いとするならば、何故に、迦葉・阿難・
馬鳴・竜樹・無著・天親・南岳・天台・妙楽・伝教等は、あたかも、善導が南無阿弥
陀仏を勧めて、漢土(中国)へ弘通したように、また、慧心・永観・法然が日本国を、
皆、阿弥陀仏の信仰に為したように、お勧めにならなかったのでしょうか。

 お答えします。

 この難(論難)は、古くからの難(論難)であります。
 今に始まった事ではありません。

 馬鳴菩薩・竜樹菩薩等は、仏(釈尊)の御入滅後六百年・七百年頃に、御出現され
た大論師であります。

 これらの人々が世に出られて、大乗経を弘通されると、諸々の小乗の者が疑って、
このように云いました。

 「迦葉・阿難等は、仏(釈尊)の御入滅後二十年から四十年ほど御存命になられて、
正法を弘められた理由は、如来(釈尊)御一代の肝心を弘通されるためであろう。

 ところが、これらの人々(馬鳴菩薩・竜樹菩薩等)は、ただ、如来(釈尊)の『苦・
空・無常・無我』の法門だけに特化して、法門を説いている

 今、如何に、馬鳴・竜樹等が賢かったとしても、迦葉・阿難等に対して、勝るもの
ではない。 〈これが第一の論難〉

 迦葉は、仏(釈尊)にお会いになられて、解脱(覚り)を得られた人である。
 しかし、これらの人々(馬鳴菩薩・竜樹菩薩等)は、仏(釈尊)にお会いになって
いない。 〈これが第二の論難〉

 インドの外道は、『常・楽・我・浄』の法門を立てている。
 それに対して、仏(釈尊)は、世に御出現なされて、『苦・空・無常・無我』と、
お説きになられている。
 ところが、この者ども(馬鳴菩薩・竜樹菩薩等)は、『常・楽・我・浄』と云って
いる。 〈これが第三の論難〉」と。
 
 そこで、仏(釈尊)も御入滅になられて、また、迦葉等もお亡くなりになりました
ので、第六天の魔王が小乗の者どもの身に入れ替わって、「仏法を破り、外道の
法と為してしまおう。」と、しているのであります。

 それ故に、「仏法の怨敵に対しては、頭を割れ、首を切れ、命を断て、食物を止め
よ、国を追放せよ。」と、諸の小乗の人々が申していました。

 けれども、馬鳴菩薩・竜樹菩薩は、ただ、一人・二人であります。
 馬鳴菩薩・竜樹菩薩は、昼夜に渡って、悪口の声を聞き、朝暮に渡って、杖や木で
撲たれたました。
              
 しかしながら、この二人(馬鳴菩薩・竜樹菩薩)は、仏(釈尊)の御使いでありま
す。

 まさしく、摩耶経においては、「仏滅後六百年に馬鳴が出現して、仏滅後七百年に
竜樹が出現するであろう。」と、お説きになられています。
 その上、楞伽経等にも、同様の事柄が記されています。
 また、付法蔵経においても、同様の事柄が記されているのは、申し上げるに及びま
せん。

 けれども、諸の小乗の者どもは、それらの経典の御記述を用いずに、ただ、理不尽
に、馬鳴菩薩・竜樹菩薩を責めたのであります。

 法華経法師品第十においては、「如来現在・猶多怨嫉・況滅度後」(如来の御在世
でさえ、なお、怨嫉が多い。ましてや、御入滅の後には、尚更である。)と、仰せに
なられています。

 馬鳴菩薩・竜樹菩薩は、上記の経文の意義を、この時に当たって、少々、御自身の
罪障を知ることにより、身読なされたのであります。

 提婆菩薩が外道に殺されたり、師子尊者が首を斬られたことも、この事例を以て、
推察していきなさい。 

 また、仏滅後・一千五百余年において、月氏(インド)の東の方角に、漢土(中国)
という国がありました。
 その国(漢土)の『陳』・『隋』の時代に、天台大師が御出世なさっていらっしゃ
います。

 この人(天台大師)は、このように仰いました。

 「如来(釈尊)の聖教には、大乗教もあれば、小乗教もある。顕教もあれば、密教
もある。権教(爾前経)もあれば、実教(法華経)もある。

 迦葉・阿難等は、一向に(もっぱら)、小乗教を弘めた。

 馬鳴・竜樹・無著・天親等は、権大乗教を弘めて、実大乗教の法華経については、
ただ、指を指(さ)して、法義を隠されていた。

 或いは、法華経の表面的なことだけを述べられて、法華経の始・中・終(全体)に
ついては述べられなかった。

 或いは、法華経の迹門のことだけを述べられて、法華経の本門については説き顕さ
れなかった。

 或いは、法華経の本門と迹門のことを説かれていても、法華経の観心(注、一念三
千の法門のこと。末法においては、事の一念三千・三大秘法の御本尊となる。)につ
いては説かれていなかった。」と。

 すると、漢土(中国)における南三・北七の十家の流れを汲む、千万人の数の末弟子
は、一時に、どっと嘲笑しました。そして、彼等は、こう云いました。

 「世も末になると、不思議なことを云う法師が出現するものだ。

 時によっては、我等を偏執する(執拗に中傷する)者がいたとしても、後漢の永平
十年〈丁卯〉の年(仏法が中国に伝来した年)から、今、陳・隋の時代に至るまでの
三蔵・人師二百六十余人に対して、『物を知らない。』と申した上に、『謗法の者で
ある。悪道に墜ちた。』と云う者(天台大師)が出現した。

 この者(天台大師)は、あまりにも狂氣じみているために、法華経を持って来られ
た鳩摩羅什三蔵に対しても、『物を知らない者だ。』と申している。」と。

 また、南三・北七の十家の流れを汲む、千万人の数の末弟子は、このように、天台
大師を罵りました。

 「漢土(中国)のことは、さて、置いたとしても、この者(天台大師)は、月氏(イ
ンド)の大論師である、竜樹・天親等の数百人の四依の菩薩(注、仏滅後に、正法を
護持・弘通して、人々の拠りどころとなる四種の菩薩のこと。)に対しても、『未だ
に、実義を述べられていない。』と云っている。

 この者(天台大師)を殺そうとする人がいたとしても、鷹を殺すようなものだ。
 鬼を殺すよりも、この者(天台大師)を殺した方が有益である。」と。

 また、妙楽大師の時代には、月氏(インド)から、法相宗・真言宗が渡来してきま
した。
 そして、漢土(中国)においても、華厳宗が開かれました。
 妙楽大師は、それらの宗派の者を、とにかく責められたので、これもまた、騒ぎに
なりました。


 日本国においては、仏滅後・一千八百年に当たる頃、伝教大師が御出現なされまし
た。

 伝教大師は、天台大師の御注釈書を御覧になられた上で、欽明天皇の時代から二百
六十余年間に及ぶ、南都六宗の教えを責められました。

 すると、南都六宗の者どもは、「釈尊御在世当時の外道や、漢土(中国)の道士(道
教の僧)が、日本に出現した。」と云って、伝教大師を誹謗しました。

 そして、伝教大師は、「仏滅後・一千八百年間において、月氏(インド)・漢土(中
国)・日本に存在しなかった、円頓の大戒(注、円頓の経典である法華経の教旨に則
った、大乗戒壇のこと。)を比叡山延暦寺に立てよう。」と、仰せになられました。

 それのみならず、伝教大師は、「西国(九州)・筑紫国の観音寺の戒壇、東国(関
東)・下野国の小野寺の戒壇、中国(近畿)・大和国の東大寺の戒壇は、いずれも同
様に、小乗教の臭糞の戒壇である。その価値は、瓦や石程度のものである。その戒を
持つ法師等は、野干(狐)や猿猴(猿)等の如き存在である。」と、仰せになられま
した。

 それに対して、南都六宗の者どもは、このように、伝教大師を罵りました。

 「たいへん不思議なことではないか。法師(僧侶)に似た大蝗虫(イナゴ)が、国
に出現した。仏教の苗は、一時にして、失われてしまうだろう。

 殷の紂王・夏の桀王(注、いずれも、中国の悪王として知られる。)が法師(僧侶)
となって、日本に生まれたのである。
 仏教を破壊した、後周の宇文(武帝)・唐の武宗が、再び、世に出現したのである。

 仏法も、ただ今、まさに、失われてしまうだろう。この国も、滅びてしまうだろう。」
と。


 このように、大乗と小乗の二種類の法師が同時期に出現した状況は、あたかも、
修羅と帝釈天王、秦の項羽と漢の高祖を、一国に並べたような模様でした。
 
 そして、諸の人々は、手を叩き、舌を震わせながら、このように、伝教大師を罵り
合っていました。

 「仏(釈尊)の御在世には、仏(釈尊)と提婆達多との間で、二つの戒壇に関する
争い事があったため、若干の人々が死んだ。
 そのため、他宗(天台宗以外の宗派)に背く事には、理解が出来る。

 しかし、我々の師匠である天台大師でさえもお立てにならなかった、円頓の戒壇
(注、円満かつ速やかに成仏する教法の戒壇=法華経の戒壇)を、伝教が『建立す
るべきである。』と主張していることは、誠に、不思議ではないか。

 何と、恐ろしいことであろう。何と、恐ろしいことであろう。」と。

 それでも、経文には、明確に、戒壇建立の意義がお説きになられています。
 そのため、比叡山の大乗戒壇(法華経の戒壇)は、既(弘仁14年・823年)に、
建立されたのであります。
                 
 従って、内証(心中の覚り)が同じであったとしても、その方々が流布された教法
の価値としては、迦葉尊者・阿難尊者よりも、馬鳴菩薩・竜樹菩薩等の方が勝れてい
ます。
 また、馬鳴菩薩等よりも、天台大師の方が勝れています。
 そして、天台大師よりも、伝教大師の方が超越されています。(注、天台大師が建
立出来なかった法華経の戒壇を、伝教大師が比叡山に建立されたため。)

 つまり、「世が末になると、人の智慧は浅くなり、仏教は深くなる。」ということ
です。

 それを例えると、軽病には凡薬(通常の薬)で済んだとしても、重病には仙薬(不
老不死の薬)が必要となるようなものです。
 そして、弱い人には、強い味方がいることによって、助けることが出来るようなも
のです。

 質問致します。
 天台大師・伝教大師が弘通されなかった正法があるのでしょうか。

 お答えします。
 有ります。

 求めて、質問致します。
 それは、何物でしょうか。

 お答えします。
 三つあります。
 末法のために、仏(釈尊)が留め置かれた正法です。

 それは、迦葉尊者・阿難尊者等や、馬鳴菩薩・竜樹菩薩等や、天台大師・伝教大師
等が弘通されなかった正法となります。

 求めて、質問致します。
 その形貌(形や姿)は、如何なるものでしょうか。

 お答えします。

 一つには、日本及び一閻浮提(世界全体)が、一同に、本門の教主釈尊(人法一箇
の大御本尊)を本尊とするべきであります。

 所謂、宝塔(注、法華経見宝塔品第十一において、虚空会の儀式で涌出した七宝の
塔。)の内に在す、釈迦如来・多宝如来・その他の諸仏、並びに、上行菩薩等の地涌
の四菩薩が脇士となります。

 二つには、本門の戒壇であります。

 三つには、日本・漢土(中国)・月氏(インド)・一閻浮提(世界全体)において、
人ごとに、智慧のある者・智慧のない者を区別することなく、一同に、他事(他の教
えや修行)を捨てて、「南無妙法蓮華経」と唱えるべきであります。
        
 しかし、この事(本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目)は、未だに、広まってい
ません。
 一閻浮提(世界中)の内で、仏滅後・二千二百二十五年の間、一人も唱えておりま
せん。 

 日蓮一人が、「南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経」等と、声も惜しまずに、唱えて
いるのであります。

 そのことを例えると、風の強さによって、波に大小が生じたり、薪の量によって、
炎の高低があったり、池によって、蓮の大小が異なったりするようなものです。
 また、雨の大小は、竜によって定まります。

 そして、「根が深ければ、枝が茂る。水源が遠ければ、川の流れは長い。」と、云
われていることも、同様の事例になります。

 周の時代が七百年も続いた要因は、文王(周王朝の創始者である武王の父)が『礼
孝』を重んじたからであります。

 その一方、秦の時代が長く続かなかったのは、始皇(始皇帝)の左道(誤った政治)
に因るものです。


 日蓮の慈悲が広大であるならば、「南無妙法蓮華経」は、末法万年の他、未来までも
流れていくことでしょう。
 日本国の一切衆生の盲目を開いていく功徳があります。それによって、無間地獄へ
の道を塞ぎます。
 この功徳は、伝教大師・天台大師を超えて、竜樹菩薩・迦葉尊者にも勝れています。

 極楽における百年の修行の功徳は、穢土(娑婆世界)における一日の功徳に及びま
せん。
 正像二千年(正法時代・像法時代の二千年間)の弘通は、末法の一時の弘通に劣り
ます。
 
 これは、ひとえに、日蓮の智慧が賢いからではありません。
 末法という『時』の必然性であります。

 春には花が咲き、秋には果実が実り、夏は暖かく、冬は冷たくなります。
 『時』の必然性があるからこそ、季節が運行しているのではないでしょうか。

 法華経薬王菩薩本事品第二十三においては、「私(釈尊)が入滅した後、後の五百
年の間(末法)に、広宣流布をして、閻浮提(世界中)において、悪魔・魔民・諸の
天竜・夜叉・鳩槃荼(鬼神)等に隙を与えることによって、この教えが断絶するよう
なことがあってはならない。」等と、仰せになられています。

 もし、この経文が空しいものとなってしまうのであれば、法華経において、成仏の
記別(注、仏が未来世における弟子の成仏を明らかにすること)が与えられていたと
しても、舎利弗は、華光如来となる事が出来ません。

 迦葉尊者も、光明如来となる事が出来ません。
 目連尊者も、多摩羅跋栴檀香仏となる事が出来ません。
 阿難尊者も、山海慧自在通王仏となる事が出来ません。
 摩訶波闍波提比丘尼も、一切衆生喜見仏となる事が出来ません。
 耶輸陀羅比丘尼も、具足千万光相仏となる事が出来ません。

 そして、法華経で説かれた『三千塵点』(注、法華経迹門でお説きになられた、久遠
の三千塵点劫の過去のこと。)も戯論となり、『五百塵点』(注、法華経本門でお説き
になられた、久遠の五百塵点劫の過去のこと。)も妄語となるでしょう。

 恐らく、教主釈尊は無間地獄に堕ちて、多宝如来は阿鼻地獄の炎にむせび、十方の諸
仏は八大地獄を栖として、一切の菩薩は百三十六の地獄の苦しみを受けることになるで
しょう。

 何故に、そのような義(あり得ない仮定)が成り立つのでしょうか。
 そのような義(あり得ない仮定)が成り立たないのであれば、日本国の人々は、一同に、
「南無妙法蓮華経」と唱えることになります。


 ならば、咲いた花は、根に返っていきます。果実の真味(成分)は、土に留まります。
 この功徳は、故道善房(日蓮大聖人の師匠)の聖霊の御身に集まることでしょう。

 南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。

 建治二年〈太歳丙子〉七月二十一日           この書(報恩抄)を記しました。

 甲州(山梨県)波木井の郷・身延山の岳より、安房国・東条郡・清澄山在住の浄顕房・
義城房(日蓮大聖人の修業時代の兄弟子)の許へ、奉送致します。



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