報恩抄送文 建治二年(1276年)七月二十六日 聖寿五十五歳御著作


 御状給はり候ひ畢んぬ。
 親疎と無く法門と申すは心に入れぬ人にはいはぬ事にて候ぞ。御心得候へ。
 御本尊図して進らせ候。
 此の法華経は仏の在世よりも仏の滅後、正法よりも像法、像法よりも末法の初めに
は次第に怨敵強くなるべき由をだにも御心へあるならば、日本国に是より外に法華経
の行者なし。これを皆人存じ候ひぬべし。

 道善御房の御死去の由、去ぬる月粗承り候。自身早々と参上し、此の御房をもやが
てつかはすべきにて候ひしが、自身は内心は存ぜずといへども、人目には遁世のやう
に見えて候へば、なにとなく此の山を出でず候。
 此の御房は、又内々人の申し候ひしは、宗論やあらんずらんと申せしゆへに、十方
にわかて経論等を尋ねしゆへに、国々の寺々へ人をあまたつかはして候に、此の御房
はするがの国へつかはして当時こそ来たりて候へ。

 又此の文は随分大事の大事どもをかきて候ぞ、詮なからん人々にきかせなばあしか
りぬべく候。又設ひさなくとも、あまたになり候はばほかさまにもきこえ候ひなば、
御ため又このため安穏ならず候はんか。
 御まへと義城房と二人、此の御房をよみてとして、嵩がもりの頂にて二・三遍、又
故道善御房の御はかにて一遍よませさせ給ひては、此の御房にあづけさせ給ひてつね
に御聴聞候へ。
 たびたびになり候ならば、心づかせ給ふ事候なむ。
 恐々謹言

 七月二十六日                            日蓮 花押


 清澄御房


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