伯耆殿御書  弘安二年(1279年)九月二十日 聖寿五十八歳御著作


  (前欠)

 「木像や舎利(仏の骨)並びに法華経以外の余経を差し置いて、ただ法華経一部だ
けを置く。」と仰せの解釈と、「専(もっぱ)ら、直に法華経を持つことが、則ち、
最上の供養である。」と仰せの解釈を用いるべきです。

 その際に、「余経とは、小乗経のことだけを指すのか。」と問われたならば、
妙楽大師の『五百問論』における、「華厳経は、過去世からの福運を有した菩薩を教化
しているため、諸経と比較した場合には勝っているだけに過ぎない。釈尊が法華経の法
を以て、衆生を教化していることと、同類に扱ってはならない。故に、余経の一偈たりとも
受けてはならないのである。」と、仰せの解釈を引用しなさい。
 
  伯耆殿(日興上人)へ

  弘安二年九月二十日                   日蓮



■あとがき

 今回は、『伯耆殿御書』を配信致します。

 『伯耆殿御書』は、日蓮大聖人が日興上人へお与えになられた御書において、現存
する中では、もっとも年代が古い御書になります。

 なお、『伯耆殿御書』は、学会版の『御書全集』には収録されていないことを、御
承知下さい。

 北山本門寺には、日興上人の御直筆による、『伯耆殿御書』の古写本が現存してい
ます。
 けれども、上記の御金言以前の断簡が紛失しているため、全文の内容を窺い知るこ
とは出来ません。

 後年、何らかの形で、この御書等が新たに発見されるようなことがあれば、熱原法
難に関する重要な資料となるでしょう。

 仮に、読者の皆さんから、「弘安二年九月二十日に至るまで、何故に、日蓮大聖人
は、日興上人へ御書をお与えにならなかったのか?」と問われたならば、筆者はこの
ように答えます。

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 日興上人は、日蓮大聖人に対して、“常随給仕”をなさっていた。

 因って、弘安二年に至る迄は、常に日興上人が日蓮大聖人のお側にいらっしゃった
ため、日蓮大聖人は日興上人へ御書をお書きになられる必要がなかった。

 しかし、熱原法難が起こった弘安二年の九月頃、日興上人は南条時光殿等と共に、
富士方面の布教をなさっていた。

 そこで、その当時、身延にいらっしゃった日蓮大聖人が、日興上人へ御指示を与え
られる際には、御書をお書きになられる必然性が発生した。

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 上記の主張を、現代流に譬えてみると、「それまで、奥さんに一度も手紙を書いた
ことの無かった旦那さんが、単身赴任のため、奥さんと離れて暮らすようになった。
そのため、旦那さんは、結婚してから始めて、奥さんに手紙やメールを書くようにな
った。」ということになるのでしょう。    (^v^)

 なお、日蓮大聖人が『滝泉寺申状』で御引用されていた、妙楽大師の『五百問論』の
御文が『伯耆殿御書』にも御引用されています。
 そのことにも、御着目ください。     了


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