伯耆殿御返事  弘安二年(1279年)十月十二日 聖寿五十八歳御著作


 大体、『滝泉寺申状』の趣旨の通りに、書き上げるのが宜しいでしょう。
 ただし、鎌倉に押送された熱原の農民等が釈放されるならば、日秀等が、別に裁判
を行う必要はないでしょう。

 大進房や弥藤次入道等が熱原の農民を狼籍(暴行)して、殺害・刃傷に至ったこと
は、元来、行智の勧めによるものです。

 もし、再び、「『狼籍は、私どもが致しました。』という主旨の起請文を書け。」
と云われたとしても、絶対に書いてはなりません。

 その理由は、相手から殺害・刃傷された上に、重ねて起請文を書いて、無実の罪を
認めることは、古今未曽有の沙汰になるからであります。

 その上、行智の所行が『滝泉寺申状』に書かれている通りであるならば、その身を
置く場所もないほどの罪を犯していることになります。穴賢穴賢。

 この旨を承知して、問注(裁判)の際には、行智の指図による殺害・刃傷であるこ
とを、強々と申しなさい。
 必ずや、幕府上層部の者が聞くことになるでしょう。

 また、行智が証人を立てて、証言を行う際には、「彼等は、行智と同意した上で、
熱原の農民等の田畑数十枚を刈り取って、米を奪った者である。」と、主張しなさい。

 もし、また、行智が証文を出したならば、「その文書は、謀書である。」と、主張
しなさい。

 悉(ことごと)く、相手方証人の起請文を認めてはなりません。
 ただ、現証の殺害・刃傷(熱原の農民が行智等によって、殺害・刃傷されたこと)
のみを訴えなさい。
 
 もし、上記の義(日蓮大聖人の御指南)に背く者がいたならば、その者は、日蓮門
下の弟子ではありません。日蓮門下の弟子ではありません。

 恐々謹言

 弘安二年十月十二日                     日蓮 花押 

 伯耆殿(日興上人) 
 日秀・日弁等へ下す。 


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