伯耆殿御返事・聖人等御返事の「あとがき」

   (弘安二年十月十二日・熱原三烈士処刑説)
 
   

■あとがき

 今回と次回は、『伯耆殿御返事』を配信致します。

 先日配信させて頂いた『伯耆殿御書』と同様に、『伯耆殿御返事』も、日興上人の
御直筆による古写本が、北山本門寺に現存しています。

 日蓮大聖人が「大体此の趣を以て書き上ぐべきか。」と仰せになられていることか
ら拝察させていただくと、「『伯耆殿御返事』は、『滝泉寺申状』の案文に御加筆・御
修正を加えられて、日興上人へ御返送なさる際の“添え文”ではないか。」と、筆者は
考えています。

 (しかし、これはあくまでも、筆者の“仮説”です。“史実”の実態を、これだけ
の資料で判断することは出来ません。筆者は、「“仮説”と“史実”の立て分けを行
うことが大切である。」と、考えています。)

 ところで、宗門が発行している『日蓮大聖人正伝』(監修阿部日顕・発行者藤本日
潤)には、下記の記載があります。

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 日興上人はすぐさま、幕府に真相を訴え、二十人の釈放と行智一派の糾弾、さらに
本院主に糺明を要求する申状の作成にかかり、大聖人のもとに案文を送り、指示を仰
いだ。それに対する返事が弘安二年十月十二日の『伯耆殿等御返事』である。
 この御状の冒頭に、「大体此の趣を以て書き上ぐべきか。但し熱原の百姓等安堵せ
しめば、日秀等別に問注有るべからざるか。」とあり、この御文から、十月十二日の
時点では神四郎らはいまだ牢中にあって、存命であったことがわかる。

 (日蓮大聖人正伝367~368ページより引用)

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 しかしながら、筆者は、『日蓮大聖人正伝』の説に、異を唱えています。

 つまり、「必ずしも、『この御文から、十月十二日の時点では神四郎らはいまだ牢中
にあって、存命であったことがわかる。』とは限らない。」
ということです。

 その理由は、次回の“あとがき”で申し上げます。

 その前に、もう一度、弘安二年十月当時の日蓮大聖人及び弟子檀那の御所在場所を、
ご確認下さい。

  【 日蓮大聖人 - 身延 】 

  【 日興上人 - 富士 】 

  【 日秀師、日弁師、熱原三烈士を含む農民二十名 - 熱原→鎌倉 】

 賢明なる読者の皆様の中には、この図を御覧になっただけで、筆者の主張をお酌み
取りいただける方がいらっしゃるかも知れません。     了



■あとがき

 前回と今回は、『伯耆殿御返事』を配信致しました。

 読者の皆様には、ここで、“三つの着目点”に留意して頂きたい、と、存じます。


 ・ 第一の着目点 (情報のタイムラグ)

 インターネットに載せられたデータは、僅か2秒間足らずで地球を一周する、と、
云われています。
 21世紀の現代社会は、こういう高度情報化社会の環境下にあります。

 けれども、13世紀の鎌倉時代においては、無論、インターネットはありません。
電話も、ファックスもありません。

 当然の事ながら、「鎌倉時代においては、数百キロ離れた場所にいる人へ、ある事
柄を伝えようとした場合、必ず“情報のタイムラグ”が発生する。」ということです。


 ・ 第二の着目点 (交通手段の違い) 

 21世紀の現代社会において、鎌倉から京都【鎌倉→京】へ移動するためには、横
須賀線に乗って新幹線の“のぞみ”に乗り換えれば、大体3時間強で到着します。

 しかし、これもまた当然の事ながら、鎌倉時代には、横須賀線もなければ新幹線も
ありません。

 鎌倉時代には、“人”もしくは“馬”以外に、“交通手段”がなかったのです。

 『新池御書』には、「鎌倉より京へは十二日の道なり」と、仰せの御金言がござい
ます。

 つまり、「13世紀の鎌倉時代において、【鎌倉→京】へ移動するには、約12日間を
要した。」ということになります。


 ・ 第三の着目点 (日蓮門下の指導体系)

 日興上人がお書きになられた『佐渡国法華講衆御返事』には、下記の御金言がござ
います。

 「なをなをこのほうもんハしてしをたたしてほとけになり候。してしたにもちかい
候へハおなしほくゑをたもちまいらせて候へともむけんちこくにおち候也。うちこし
うちこしちきの御てしと申すやからかしやう人の御ときも候しあひたほんてし六人を
さためおかれて候。そのてしのけうけのてしハそれをそのてしなりといはせんするた
めにて候。あんのことくしやう人の御のちもすゑのてしともかこれハしやう人のちき
の御てしと申すやからおほく候。これか大ほうほうにて候也。」

 この御金言から拝察させて頂くと、【日蓮大聖人】-【日興上人】-【日秀師・日弁師】
という“日蓮門下の指導体系”が、大聖人御在世の頃から成立していたようです。

 実質的に、『伯耆殿御返事』は、鎌倉に在していた日秀師・日弁師等への御指南に
なります。

 けれども、日蓮大聖人は、日興上人(伯耆殿)に対して御書をお与えになられた上で、
日興上人の弟子であった日秀師・日弁師に対して、御指南をお与えになられていること
を、どうかご留意下さい。


 ∴ 『日蓮大聖人正伝』の矛盾 

 前回の“あとがき”で引用させて頂いた、『日蓮大聖人正伝』(監修阿部日顕・発行者
藤本日潤)の記載を再掲します。

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 日興上人はすぐさま、幕府に真相を訴え、二十人の釈放と行智一派の糾弾、さらに
本院主に糺明を要求する申状の作成にかかり、大聖人のもとに案文を送り、指示を仰
いだ。それに対する返事が弘安二年十月十二日の『伯耆殿等御返事』である。
 この御状の冒頭に、「大体此の趣を以て書き上ぐべきか。但し熱原の百姓等安堵せ
しめば、日秀等別に問注有るべからざるか。」とあり、この御文から、十月十二日の
時点では神四郎らはいまだ牢中にあって、存命であったことがわかる。

 (日蓮大聖人正伝367~368ページより引用)

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 一方、筆者は、前回の“あとがき”で、「必ずしも、『この御文から、十月十二日の時点では
神四郎らはいまだ牢中にあって、存命であったことがわかる。』とは限らない。」
と、申し上げ
ました。

 その根拠を申し上げる前に、もう一度、弘安二年十月当時の日蓮大聖人及び弟子檀那の
御所在場所をご確認下さい。

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  【 日蓮大聖人 - 身延 】 

  【 日興上人 - 富士 】 

  【 日秀師、日弁師、熱原三烈士を含む農民二十名 - 鎌倉 】

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 では、「神四郎殿・弥五郎殿・弥六郎殿の熱原三烈士は、弘安二年十月十二日に処刑
された。」
と、“仮定”します。

 その際に、熱原三烈士が処刑された鎌倉の地から、日蓮大聖人がいらっしゃった身延の
地まで、第一報が伝達されるには、どれぐらいの時間を要したのでしょうか?
 
 筆者は、このように推測しています。

 「上記の“三つの着目点”、つまり、〈情報のタイムラグ・交通手段の違い・日蓮門下の
指導体系〉から鑑みると、最低でも、約3日を要したのではないか。

 そして、日蓮大聖人及び日興上人が御書をお認めになられてから御送付されるまで
の時間を加えると、約5日を要したのではないか。 」
と。

 つまり、【日秀師・日弁師・熱原三烈士-鎌倉】から【日興上人-富士】まで約3日、
【日興上人-富士】から【日蓮大聖人-身延】まで約2日、合計、約5日を要した、という
ことです。

 この場合には、弘安二年十月十二日+約5日=弘安二年十月十七日に、熱原三烈士
処刑の第一報が、日蓮大聖人の御許へ伝わったことになります。

 (読者の皆様には、この“仮定”を、心の片隅に置いて下さい。次回の“あとがき”の
重要なテーマになります。)

 勿論、「神四郎殿・弥五郎殿・弥六郎殿の熱原三烈士は、弘安二年十月十二日に処
刑された。」ということは、筆者の“仮定”であり“仮説”であります。
 “史実”との立て分けは、しっかりと行われなければなりません。

 しかし、「この御文から、十月十二日の時点では神四郎らはいまだ牢中にあって、存命
であったことがわかる。」と云う『日蓮大聖人正伝』の主張が矛盾していることは、明確で
あります。


 なぜなら、「13世紀の鎌倉時代(弘安二年)において、鎌倉で熱原三烈士が処刑され
た旨の報せが、数百キロ離れた身延にいらっしゃる日蓮大聖人の御許へ、その日
(十月十二日)の内に届くはずがない。」からであります。


 もう一点、『日蓮大聖人正伝』の矛盾を申し上げます。

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 さて、この『滝泉寺申状』が提出された弘安二年十月十五日、平左衛門尉頼綱の私
邸の庭を法廷として、熱原事件の尋問が行われた。この時は尋問というよりも、むし
ろ農民に対して権力をもって威嚇し、拷問を加えたというべきであろう。(中略)
 そして、狂乱の極に達した頼綱は、ついに神四郎・弥五郎・弥六郎の三人を事件の
首謀者として、暴虐無惨にもその場で斬首してしまったのである。
 時に弘安二年十月十五日のことであった。

 (日蓮大聖人正伝369~371ページより引用)

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 しかし、『滝泉寺申状』の“あとがき”でも申し上げたように、「『滝泉寺申状』の日付は、
“弘安二年十月 日”であって、“弘安二年十月十五日”ではない。」
ということです。

 勿論、『滝泉寺申状』の何処にも、“弘安二年十月十五日”の日付は、一切、書かれていま
せん。


 「畢竟、『弘安二年十月十五日滝泉寺申状日付説』は、『偽書を用いた宗旨建立二回説』等
と並んで、『日蓮大聖人正伝』(監修阿部日顕・発行者藤本日潤)における“最大の瑕疵”の
一つである。」
と、筆者は考えています。

http://nichiren-daisyounin-gosyo.com/atogaki-nikaisetsu.html

 次回は、『聖人等御返事』を配信します。     了



■あとがき

 今回から、『聖人等御返事』を連載致します。
 北山本門寺には、日興上人御直筆の『聖人等御返事』の古写本が現存しております。

 ところで、『日蓮大聖人正伝』(監修阿部日顕・発行者藤本日潤)には、下記の記
載があります。

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  『聖人等御返事』
 大聖人は十月十七日の酉の時に、二日前の十月十五日に斬罪に処せられたとの報を
聞かれるや、三烈士を心から追善回向されるとともに、すぐさま『聖人等御返事』を
したためられた。

 (日蓮大聖人正伝371ページより引用)

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 しかし、筆者は、「どのような手段を用いたとしても、弘安二年(1279年)当時において、
【日秀師・日弁師-鎌倉】→【日興上人-富士】→【日蓮大聖人-身延】間の数百キロに
及ぶ情報伝達が、十月十五日の酉時(午後六時頃)から十月十七日の酉時(午後六時頃)
迄の“丸二日間=48時間”で行われるようなことはあり得ない。」
と、考えています。

 一方、筆者は、前回の“あとがき”で、下記のように申し上げています。

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 では、「神四郎殿・弥五郎殿・弥六郎殿の熱原三烈士は、弘安二年十月十二日に処
刑された。」と、“仮定”します。

 その際に、熱原三烈士が処刑された鎌倉の地から、日蓮大聖人がいらっしゃった身
延の地まで、第一報が伝達されるには、どれぐらいの時間を要したのでしょうか?
 
 筆者は、このように推測しています。

 「上記の“三つの着目点”、つまり、〈情報のタイムラグ・交通手段の違い・日蓮
門下の指導体系〉から鑑みると、最低でも約3日を要したのではないか。
 そして、日蓮大聖人及び日興上人が御書をお認めになられてから御送付されるまで
の時間を加えると、約5日を要したのではないか。 」と。

 つまり、【日秀師・日弁師・熱原三烈士-鎌倉】から【日興上人-富士】まで約3日、
【日興上人-富士】から【日蓮大聖人-身延】まで約2日、合計、約5日を要した、という
ことです。

 この場合には、弘安二年十月十二日+約5日=弘安二年十月十七日に、熱原三烈士
処刑の第一報が、日蓮大聖人の御許へ伝わったことになります。

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 なんと、前回の“あとがき”の“仮定”の如く考えてみると、熱原法難の時系列が整合されて
くるのです!


 ・身延に在しておられた日蓮大聖人は、熱原農民の問注(裁判)等への御指南である
『伯耆殿御返事』を、『滝泉寺申状』の“添え文”として、富士に在しておられた日興上人へ
御送付なされた。 (身延、十月十二日)

                   ↓

 ・それと入れ違いで、鎌倉に在していた日秀師・日弁師は、熱原三烈士が処刑された旨の
御報告文書を、富士に在しておられた日興上人へ御送付された。 (鎌倉、十月十二日)

                   ↓

 ・日秀師・日弁師から、熱原三烈士処刑の御報告をお受けになられた日興上人が、日蓮
大聖人へ“御文”(上記の『聖人等御返事』の御金言参照)をお認めになられた。 (富士、
十月十五日午後六時頃)

                   ↓

 ・日蓮大聖人が、日興上人からの“御文”を御受領なされた。 (身延、十月十七日午後
六時頃)

                   ↓

 ・日蓮大聖人が『聖人等御返事』をお認めになられた。 (身延、十月十七日午後八時頃)


  ※ 上記の“仮説”に加えて、筆者には、下記の“仮説”も有しております。


 ・鎌倉に押送された熱原農民二十名の中で、代表格の神四郎殿・弥五郎殿・弥六郎
殿のお三方が、平左衛門尉頼綱父子によって、弘安二年十月十二日に処刑された。

                   ↓

 ・日蓮大聖人は、その事実を、弘安二年十月十七日の酉時(午後六時頃)にお知り
になられた。

                   ↓

 ・その直後、日蓮大聖人は、強信なる神四郎殿・弥五郎殿・弥六郎殿の死を『変毒
為薬』としてお受け止めになられた上で、御出世の御本懐である本門戒壇大御本尊の
御建立に取りかかられることを御決断なされた。

                   ↓

 ・日蓮大聖人は、神四郎殿・弥五郎殿・弥六郎殿の御名前の一文字ずつをお取りに
なられた『弥四郎国重(国の重臣である弥四郎)』を“己心の願主”として、また、
神四郎殿・弥五郎殿・弥六郎殿が処刑された『弘安二年十月十二日』を“己心の御建
立日”として、弘安二年十月十七日の戌時(午後八時頃)以降に、本門戒壇大御本尊
を御図顕なされた。



 このように考えなければ、筆者には、「なぜ、日蓮大聖人が『弥四郎国重』を願主と
して、『弘安二年十月十二日』に、本門戒壇大御本尊を御建立なされたのか?」という
疑問に対する返答を見出すことが出来ません。


 読者の皆様は、筆者の“仮説”を、如何にお考えでしょうか。     了



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