法華取要抄 文永十一年(1274年)五月二十四日 聖寿五十三歳御著作


     法華取要抄
                     日本国の仏門 日蓮が之を述べます。
 
 よく考えてみると、インドから中国を通じて日本に渡来してきた、仏教の經典
や論(注、仏教の経典の意を論じた書物)は、五千余巻とも七千余巻とも云われ
るほど、膨大なものであります。

 それらの膨大な仏教の經論について、勝劣・浅深・難易・先後を判断すること
は、とても難しいものであります。
 自らの見解によって、經論の勝劣・浅深・難易・先後を判断しようとしても、
到底出来るものではありません。

 また、他人の見解に随ったり、宗派の主張に依存することによって、經論の勝
劣・浅深・難易・先後を判断しようとしても、混乱して誤ってしまうものであり
ます。

 すなわち、華厳宗では、「一切經の中で、この華厳經が第一である」と、云っ
ています。
 法相宗では、「一切經の中で、深密經が第一である」と、云っています。
 三論宗では、「一切經の中で、般若經が第一である」と、云っています。
 真言宗では、「一切經の中で、大日經・金剛頂經・蘇悉地經の大日三部經が第
一である」と、云っています。

 禅宗では、「釈尊の教えの中では、楞伽經が第一である」と云ったり、「首楞
厳經が第一である」と云ったり、「禅宗では、經論の文字の教説によらずに、心
から心へと伝えられる悟りの『教外別伝』を重んじる」と、云ったりしています。

 浄土宗では、「一切経の中で、阿弥陀經・無量寿經・観無量寿經の浄土三部經
が、末法に入ってからは、衆生の機根と仏の教法が相応しているために、第一で
ある」と、云っています。 

 倶舎宗や成実宗や律宗では、「長阿含・中阿含・増一阿含・雑阿含の四阿含經
(小乗經)並びに律宗の論は仏説である。華厳經や法華經等の大乗經は仏説では
なく、外道の經である。」と、云っています。

 この他、宗派によって、様々な主張があります。


 これらの宗派の元祖の方々を申し上げると、華厳宗は、杜順・智厳・法蔵・澄
観であります。
 法相宗は、玄奘・慈恩であります。
 三論宗は、嘉祥・道朗であります。
 真言宗は、善無畏・金剛智・不空であります。
 律宗は、道宣・鑑真であります。
 浄土宗は、曇鸞・道綽・善導であります。
 禅宗は、達磨・慧可等であります。

 これらの宗派の元祖の方々は、經・律・論の三蔵に通達しており、皆、聖人で
あり賢人である、と云われています。彼等の智慧は太陽や月のように輝き、徳は
天下に及んでいます。

 その上、それぞれが經・律・論の三蔵に依拠して、証拠を示した上で、宗旨を
建立しています。
 従って、国王・大臣から万民にいたるまで、これらの宗派の元祖の方々の教え
を仰いでいます。
 たとえ、末代の学識の乏しい者が、いくら彼等の主張を批評したとしても、信
用する人はいないでしょう。

 しかしながら、せっかく宝の山に登りながら、瓦や石ばかりを拾っていたり、
せっかく栴檀という香木の林に入りながら、屍のような悪臭を放つ伊蘭という
植物を取ってしまったならば、必ず後悔を残すことでしょう。

 故に、万人からどのように非難されたとしても、これらの宗派の主張を取捨し
なければなりません。
 そして、我が門下の者は、詳細に、諸宗の教判と主張について、研究すべきで
あります。

 諸宗の祖師たちの中には、旧訳(注、鳩摩羅什等による、唐の時代以前の翻訳)
の經典や論だけを見て、新訳(注、玄奘等による、唐の時代以後の翻訳)の經典
や論を見ていない者や、その反対に、新訳の經典や論だけを見て、旧訳の經典や
論を捨て置いている者がいます。

 また、自宗の曲解に執着したり、仏の教法を無視して、己義に随っている者が
います。そして、愚かな見解を經典や論に加筆して、後代に遺していく者がいま
す。

 これらの諸宗の祖師たちは、たまたまウサギが木の株に激突した所を見て、そ
こにいれば間違いなくウサギを捕獲することが出来るだろうと勘違いをして、ず
っとその場所に張り付いているような、愚かな人々であります。

 団扇(ウチワ)の形によって、天に輝く月の存在を知り得たならば、その後に
は、月の形とは似て非なる団扇を差し置いて、実際の天月を仰ごうとすることが、
真に智慧のある人の行動であります。
 それと同様に、仏教においては、非を捨てて理を取ろうとする人こそが、智人
であります。

 今、經典を注釈した論師の末流や、論に疏釈を加えた人師の本流等の邪義を捨
て置いて、もっぱら、根本の經典や根本の論を開いて見ることにしましょう。

 すると、釈尊御一代における五十年の御説法の中では、法華經第四の巻の法師品
における、「私(釈尊)が説いた数多くの經典、すなわち、已に説いたところの法
華經以前の爾前經、今説いたところの無量義經、当に説こうとしているところの涅
槃經、これらの『已・今・当』の三説よりも、この法華經が最も優れている。(取
意)」と、仰せになられていることが、最も大切な教えであります。

 諸宗の論師や人師も、必ず、この法華經法師品の經文を見ていることは、間違い
ありません。

 にもかかわらず、その誤りを改めない理由は、自らが拠り所とする經典に同様の
内容が書かれていることに迷っていたり、自らの本師(注、宗派の元祖)の間違っ
た考えに執着していたり、王や臣下が帰依してくれないことを恐れるからでしょう。

 法華經法師品の内容に似ている經論の文を列挙します。

 金光明經の「この金光明經は諸經の王である」という經文。
 密厳經の「この密厳經は、すべての經典の中で最も優れている」という經文。
 六波羅蜜經の「総持(注、陀羅尼→善を持って失なわないこと)こそ、諸經の中
の第一である」という經文。
 大日經の「何が菩提かと云えば、この大日經に説かれているように、心の本性を
知ることである」という經文。
 華厳經の「この經は、最も難しくて信じがたい」という經文。
 般若經の「この經に説かれている法性真如の他には、何もない」という經文。
 大智度論の「般若(智慧)波羅蜜が第一である」という論の文。
 涅槃論の「今、この涅槃經の理は、最も優れている」という論の文、等々があり
ます。

 これらの多くの經論の文は、法華經法師品の「法華經は、『己・今・当』の三説
に超過している。」という法門と、似たような内容を持っています。

 しかしながら、これらの例は、大梵天王や帝釈天王や四天王が説いたと云われ
ている經典と比較した場合において、諸經の王と云われているだけに過ぎません。

 あるいは、小乗經と比較した場合において、諸經の中の王である、と云われて
いるだけに過ぎません。

 あるいは、華厳經・勝髪經等の經典と比較した場合において、一切經の中では
勝れている、と云われているだけに過ぎません。 

 結局、比較の対象がまちまちであって、「釈尊御一代の五十年の説法における、
大乗・小乗、権教・実教、顕教・密教等のすべての經典に対して、諸經の王の中
でも、大王の如き存在である。」というような内容では、全くないのであります。

 所詮、比較の所対によって、經々の勝劣を知らなければなりません。
 あたかも、征服した敵の強さによって、その人の力量を知ることと、同様であ
ります。

 その上、諸經の勝劣の説示は、釈尊一仏だけによって、浅深が論じられていま
す。
 法華經のように、多宝如来や十方分身の諸仏からの証明は、全くありません。
 釈尊一仏だけが説いた經文(私説)と、多宝如来と十方分身の諸仏からの証明
がある法華經(公事)を、混同してはなりません。

 諸經においては、声聞・縁覚の二乗や凡夫に向かって、小乗經が説かれていま
す。
 また、諸經においては、文殊・解脱月・金剛サッタ等の弘伝に努める菩薩に向か
って、大乗經が説かれています。
 諸經は、法華經のように、久遠実成の釈尊からの教化を受けた、上行菩薩等の地涌
の菩薩に向かって説かれた經典では、全くないのであります。

 今、法華經とその他の諸經とを比較してみると、釈尊御一代のすべての御説法
に対して、法華經が超過していることを示されている特徴として、二十種が挙げ
られています。

 その中でも、最も重要なことが、二つあります。
 それは、「三・五の二法」であります。

 その中の「三」とは、法華經化城喩品に説かれている、釈尊の三千塵点劫以来
の教化を意味しています。

 法華經以前の諸經では、釈尊の因位(注、釈尊が菩薩として修行されている間
の位のこと)を、或いは三阿僧砥劫という期間であると云ったり、或いは動喩塵
劫という期間であると云ったり、或いは無量劫という期間であると云ったりして
います。

 法華經以前の諸經においては、大梵天王が第六天の魔王・帝釈天王・四天王等
と共に、二十九劫以前の昔から、この娑婆世界を統治している、と、云っていま
した。
 従って、この娑婆世界を統治していたのは、釈尊と大梵天王等の天王と、どち
らが先だったのかということに関して、論争がありました。
 
 しかしながら、釈尊が菩提樹の下に座して、一本の指を上げて悪魔を退散させ
た後には、大梵天王は頭を下げて、魔王は合掌しました。
 そして、三界(欲界・色界・無色界)のすべての人々は、釈尊に帰伏申し上げ
たのであります。

 また、諸経の諸仏と法華経の釈尊について、因位(注、釈尊が菩薩として修行
されている間の位のこと)を比較してみると、諸仏は三阿僧祇劫、或いは五劫と
いう期間であった、と説かれています。

 しかし、法華経化城喩品において、「釈尊は三千塵点劫の長遠なる昔より、娑婆
世界の一切衆生に、成仏の因縁を結ばれていた菩薩であった。」と、説かれています。
 このため、この世界のすべての六道(注、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の
人々は、娑婆世界以外の他の菩薩とは全く縁がないのであります。

 法華経化城喩品には、「その時に仏の説法を聞いた者は、各々、縁のある仏の
世界に生まれる。」等と、仰せになられています。

 天台大師は『法華文句』に、「西方浄土と娑婆世界は、教主の仏が別である。
故に、西方浄土の阿弥陀如来と娑婆世界の衆生との間には、親子の関係が成り立
たない。」と、云われています。

 妙楽大師は『法華文句記』に、この文を解釈して、「阿弥陀如来と釈迦如来は、
まったく別の仏である。(中略)
 ましてや、仏と衆生との過去世からの因縁も別であり、仏から受ける教化の導き
も同じではない。
 仏が衆生に成仏の因縁を結んでいくことは、あたかも、親が子を生むようなもので
ある。
 そして、仏が衆生を教え導いていくことは、あたかも、親が子を育てるようなも
のである。
 従って、生みの親と育ての親が異なるのであれば、真の親子の義が成立しない。」
と、云われています。

 つまり、当世の日本国の一切衆生が、阿弥陀如来の来迎を待っていることは、
譬えてみれば、牛の子に馬の乳を呑ませたり、瓦で作った鏡に天月の影を浮かべ
ようとするような、愚かな行為であります。

 また、果位(注、修行の結果によって得られた仏果の位のこと)について、諸
経の諸仏と法華経の教主釈尊を比較してみると、諸経の諸仏は、十劫・百劫・千
劫に成仏した仏でありますが、法華経の教主釈尊は、既に五百塵点劫の長遠なる
過去において、妙覚の覚りの位に登られていた仏であります。

 大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等のあらゆる十方の諸仏は、皆、私どもの本
師である教主釈尊の従者であります。
 教主釈尊を天の月に譬えるならば、教主釈尊以外の諸仏は、水の上に浮かぶ影
に過ぎません。

 華厳経で説かれている、十方の諸仏の台上の中央にいらっしゃる毘盧遮那仏や、
大日経や金剛頂経で説かれている、胎蔵界・金剛界という両界の大日如来は、法
華経宝塔品に御出現された多宝如来の脇士として、多宝如来の左右にお仕えして
いる仏であります。
 それは、あたかも、王様の左右にお仕えしている臣下のような存在であります。

 更には、この多宝如来でさえも、法華経寿量品でお示しになられている、久遠
実成の教主釈尊の従者であります。

 この娑婆世界の国土の我ら衆生は、五百塵点劫の長遠なる過去から、教主釈尊
の愛子でありました。
 その教えに背いた不孝の失によって、今日まで、我ら衆生が教主釈尊の愛子で
あることに、氣が付かなかったのであります。
 そして、他の国土世間の衆生とは、全く関係性が異なっているのであります。

 教主釈尊と我ら衆生との関係は、五百塵点劫の昔に、縁を結んでおります。まる
で、天の月が清い水に影を宿すようなものであります。

 縁が結ばれていない諸経の仏(阿弥陀如来・大日如来・薬師如来等)と我ら衆生
との関係は、あたかも、耳が聞こえない人には雷の音が聞こえないことや、目が
見えない人には太陽や月が見えないことと、同じようなものであります。

 しかしながら、ある真言宗の人師は、釈尊を貶めて、大日如来を仰ぎ崇んでい
ます。
 また、ある浄土宗の人師は、「釈尊とは縁がない。阿弥陀如来とは縁がある。」
と、説いています。
 また、ある律宗の人師は、小乗教の経典に説かれている釈尊を尊んでいます。
 また、ある華厳宗の人師は、華厳経の経典に説かれている釈尊を尊んでいます。
 また、ある天台宗の人師は、法華経迹門の始成正覚の釈尊を尊んでいます。

 これらの諸師やその檀那たちが、法華経寿量品の久遠実成の教主釈尊を忘れて、
諸経の諸仏を崇めていることを例えてみると、阿闍世太子が頻婆沙羅王を殺した
り、釈尊に背いて提婆達多に従っていることと、同じようなものであります。

 二月十五日は釈尊御入滅の日であります。また、十二月十五日も、すべての三
界(欲界・色界・無色界)の慈悲深き父でいらっしゃる釈尊の御遠忌に当たりま
す。

 にもかかわらず、善導・法然・永観等が、提婆達多のような師に騙されて、阿弥
陀如来の日としてしまいました。

 また、四月八日は釈尊の御誕生の日であるにもかかわらず、薬師如来の日とし
てしまいました。
 私どもの慈悲深き父である釈尊の御入滅の日を、他の仏の命日としてしまうこ
とは、果たして、孝養の者としての行為になるのでしょうか。

 法華経寿量品には、「我もまた世の父であり、迷える子を治療して、回復させ
ようとするがための故に。」等と、仰せになられています。

 天台大師の『法華玄義』には、「最初に、この仏に従って、道心を発した。そ
して、この仏に従って、覚りの地に至った。すべての川が大海に流れ込むことと
同じように、因縁に牽かれて、この仏の御許に生まれるのである。」と、云われ
ています。
 
 質問致します。
 そもそも、法華経は誰のために、説かれているのでしょうか。

 お答えします。
 まず、法華経二十八品において、前半の迹門の十四品を見てみると、方便品第二
から人記品第九に至るまでの八品について、二つの意があります。

 この八品を、始めから順序通りに読んでみると、第一には菩薩→第二には声聞・
縁覚の二乗→第三には凡夫を教化するために説かれている、と、考えることが出来
ます。

 しかし、迹門十四品の末尾から、【安楽行品第十四→勧持品第十三→提婆達多品
第十二→宝塔品第十一→.法師品第十】と、順序を逆にして読んでみると、この八品
は、釈尊御入滅後の人々のために説かれていることが、本意となります。

 却って、釈尊御在世の人々のために説かれているということは、傍意(二次的な
意図)であります。
 そして、釈尊の御入滅後の中でも、正法一千年・像法一千年は傍意であり、末法
のために説かれているということが、正意であります。

 更には、末法の中でも、日蓮のために説かれているということが、正意の中の正意
であります。

 質問致します。
 その証拠は、どこにあるのでしょうか。

 お答えします。
 法華経法師品第十には、「釈尊御入滅の後には、釈尊御在世の時よりも、なお怨
嫉が多い。」と、お説きになられています。
 この経文が、その証拠となります。

 疑問があります。
 「末法の中でも、日蓮のために説かれているということが、正意の中の正意であ
ります。」ということに関する、証拠の経文はどこにあるのでしょうか。

 お答えします。
 法華経勧持品第十三には、「諸の無智の人々が、悪口罵詈等をしたり、刀や杖に
よって迫害を加えるであろう。」と、お説きになられています。
 この経文が、その証拠となります。

 質問致します。
 それは、自讃に過ぎないのではないでしょうか。
 
 お答えします。
 未来を予見された法華経の経文が、私が受けた法難と該当するために、喜びが身に
余って堪えがたく、自ら讃歎せざるを得ないのであります。

 質問致します。
 法華経の本門の目的は、如何なるものでしょうか。

 お答えします。
 法華経の本門の説法には、二つの目的があります。
 
 第一の目的は、法華経涌出品第十五の前半で、略開近顕遠(注、釈尊が久遠
実成を、ほぼ説き明かされたこと)を、お示しになられたことであります。
 これは、法華経以前の爾前経、及び、法華経前半の迹門十四品までに、釈尊
が御在世当時に教導してきた弟子たちを、救うためであります。

 第二の目的は、法華経涌出品第十五の後半(半品)で、弥勒菩薩が疑問を提示
して釈尊に御説法を願った(動執生疑)箇所から、その次の寿量品第十六の全部
(一品)と、その次の分別功徳品第十七の前半(半品)に至るまで、合わせて一
品二半(寿量品一品・涌出品の後半・分別功徳品の前半)において、広開近顕遠
(注、釈尊が久遠実成を、正式に説き明かされたこと)をお示しになられたこと
であります。
 これは、ただ一向に、釈尊御入滅後の衆生を、救うためであります。

 質問致します。
 略開近顕遠の内容は、どういったことになるのでしょうか。
 
 お答えします。
 文殊・弥勒等の諸々の大菩薩や、大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・
衆星・竜王等は、釈尊が三十歳で初めて成仏されてから般若経を説かれるまでの
間は、一人も釈尊の弟子ではありませんでした。 

 これらの菩薩や天界・人界の者たちは、釈尊が成仏して説法を開始される以前
に、既に悟りの境界に到達しており、別教や円教に位置づけられる法門を演説し
ていたのであります。

 その後に、釈尊は、阿含部・方等部・般若部の経典を説かれていますので、こ
れらの菩薩や天界・人界の者たちが、釈尊の阿含部・方等部・般若部の説法を聞
いたとしても、改めて得られるような利益はなかったのであります。 

 既に、彼らは勝れた別教や円教の法門を知っていましたから、それより劣って
いる蔵教や通教の法門について知っているのは、当然のことでした。

 詳細に論じれば、これらの菩薩や天界・人界の者たちは、釈尊の師匠、もしく
は、善知識であって、釈尊に随っている弟子ではありませんでした。

 ところが、法華経の迹門の中心(迹門熟益三段の正宗分)である、方便品第二
から人記品第九までの八品が説かれるに至って、これらの菩薩や天界・人界の者
たちは、今までに聞いたことのなかった法門を始めて聞いたために、釈尊の弟子
となったのであります。

 舎利弗や目連等は、鹿野苑における釈尊の最初の御説法の際に、初めて仏道を
求める心を起こした弟子であります。

 しかしながら、これらの者に対しては、四十余年間に渡って、権法(方便の教
え)だけが説かれてきました。
 その後、法華経に至って、ようやく、実法(真実の教え)が授与されたのであ
ります。

 そして、法華経の本門の涌出品第十五において、略開近顕遠(注、釈尊が久遠
実成を、ほぼ説き明かされたこと)をお示しになられた際に、華厳経の説法の時
以来、釈尊が説かれる法を聴聞してきた大菩薩、声聞・縁覚の二乗、大梵天王・
帝釈天王・大日天王・大月天王・四天王・竜王等は、妙覚(注、菩薩の修行にお
ける五十二位の最高位で、仏の悟りの位のこと)の位、もしくは、妙覚に準ずる
位にまで登られました。

 このため、今、私どもが天を仰げば、生身の仏が、その本来の妙覚の位に居し
て、衆生に利益を与えている姿を見ることが出来ます。

 質問致します。
 広開近顕遠(注、釈尊が久遠実成を、正式に説き明かされたこと)が説かれて
いる法華経寿量品は、誰のために説かれているのでしょうか。

 お答えします。
 法華経本門の一品二半(寿量品一品・涌出品の後半・分別功徳品の前半)は、
始めから終わりまで、まさしく、釈尊御入滅後の衆生のために説かれています。
 そして、釈尊御入滅後の中でも、今、末法の時における、日蓮等のためにこそ、
広開近顕遠の法門が説かれているのであります。

 疑問があります。
 そのような法門は、前代未聞であります。その根拠は、経文に説かれているの
でしょうか。
 
 お答えします。
 私の智慧は、前代の賢人に及ぶものではありません。
 たとえ、私が経文を引用したとしても、誰も信じる人はいないことでしょう。
 卞和の啼泣の故事や、伍子胥の悲傷の故事と、同様のことであります。

 法華経分別功徳品第十七には、「悪世末法の時」等と、仰せになられています。

 法華経神力品第二十一には、「仏(釈尊)の入滅の後に、この法華経を持とう
とする者に対して、諸仏は、皆、歓喜して、無量の神力を現わされた。」等と、
仰せになられています。 

 法華経薬王品第二十三には、「私(釈尊)の入滅の後に、後の五百歳(末法)に
広宣流布して、この裟婆世界において、法華経の教えが断絶することはない。」
等と、仰せになられています。

 また、法華経薬王品第二十三には、「この法華経は、娑婆世界に生きる人々の
病の良薬である。」等とも、仰せになられています。

 涅槃経には、「たとえば、七人の子がいたとする。父母の愛情は、平等に、七
人の子に注がれている。けれども、病氣の子がいれば、重点的に、父母の慈悲の
心が注がれる。それと同様である。」と、説かれています。

 七人の子の中で、一番目と二番目に病が重いのは、一闡提(正法を信じないた
めに成仏の機縁がない者)と謗法(正法を謗ずる者)の衆生であります。

 諸々の病の中では、法華経を誹謗することが、最も重い病になります。
 そして、諸々の薬の中では、南無妙法蓮華經こそ、最も優れた良薬となります。

 この一閻浮提の娑婆世界は、縦も横も七千由善那という膨大な大きさで、その
中に八万の国があります。
 釈尊御入滅後の正法時代一千年・像法時代一千年、合わせて二千年間において、
未だに法華経の教えは広宣流布しておりません。

 仮に、末法の世に当たって、法華経が流布しなかったならば、釈尊は大妄語の
仏となり、多宝如来の証明は泡沫のように消え、十方分身の諸仏が広長舌相を示
されたことも、裂けやすい芭蕉の葉のように破れてしまうことでしょう。
 
 疑問があります。
 法華経宝塔品第十一において、「法華経の教えは、皆是真実である。」と、多宝如来
が証明されたこと。
 法華経神力品第二十一において、十方分身の諸仏が広長舌相を示して、法華経の教えを
讃歎されたこと。
 法華経涌出品第十五において、地涌の菩薩が大地より涌き出てこられたこと。
 これらのことは、一体、誰人のために、お示しになられたのでしょうか。

 お答えします。
 上記のことに関して、世間の人々は、釈尊御在世当時の衆生のために示されて
いる、と解釈しています。
 しかし、日蓮は、そのように考えません。

 現世の立場から論じてみると、釈尊の十大弟子であった舎利弗や目連は、智慧
第一(舎利弗)・神通第一(目連)の大聖者と尊ばれています。
 けれども、過去世の立場から論じてみると、舎利弗は金竜陀仏、目連は青竜陀
仏でありました。 

 そして、未来世の立場から論じてみると、舎利弗は成仏の記別を与えられた後
に、華光如来となられます。

 また、霊鷲山における法華経の説法から論じてみると、舎利弗や目連は、見思
惑・塵沙惑・無明惑の三惑という一切の迷いを、即時に断ち尽くした大菩薩とな
ります。

そして、舎利弗や目連の本地(注、仏や菩薩の本来の境地のこと)は、内心には
菩薩の覚りを秘めていながらも、外見には声聞・縁覚の二乗の姿を示していた古
菩薩でありました。

 一方、文殊師利菩薩・弥勒菩薩等の大菩薩の本地は、過去世に成道された古仏
が、現世に出現されて、菩薩の姿を示されているのであります。

 また、大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・四天王等は、ブッダガヤの
菩提樹下で、釈尊が初めて成道を得られる以前からの大聖者でした。
 その上、大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・四天王等は、法華経以前
の爾前経の教えを、一言にして覚られていました。

 以上、ここまで申し上げてきましたように、釈尊の御在世においては、一人た
りとも、無智の弟子の者はおりません。

 釈尊の御在世当時に、無智の弟子の者がいなかったのであれば、一体、誰の疑
問を解決するために、多宝如来の証明や、十方分身の諸仏の広長舌相や、地涌の
菩薩の御出現の必要性があったのでしょうか。

 いくら考えても、理由が見当たらないのであります。

 法華経法師品には、「釈尊の御在世ですら怨嫉が多い。ましてや、釈尊の御入
滅後は、尚更のことである。(況滅度後) 」と、仰せになられています。

 また、法華経宝塔品には、「この法華経の法を、永久に伝えようとする。(令
法久住)」と、仰せになられています。

 これらの経文から推測して考えてみると、法華経が説かれているのは、ひとえ
に、末法に生きる私どものためである、ということであります。

 随って、天台大師は、今の末法の世のことを指して、「後の五百歳(末法)に
おいて、永遠に妙法の利益を受ける。」と、云われています。

 また、伝教大師は、今の末法の世のことを指して、「正法時代・像法時代は、
ほぼ過ぎ去って、末法の世がたいへん近くにある。」等と、記されています。

 伝教大師が「末法の世がたいへん近くにある。」と仰った真意は、伝教大師御
在世の像法時代は法華経流布の時ではなく、末法の時代こそが真の法華経流布の
時である、ということを説明されるためであります。

 質問致します。
 釈尊が御入滅されてから二千年余りの間に、正法時代の一千年に御出現された
竜樹菩薩や天親菩薩も、次の像法時代の一千年に御出現された天台大師や伝教大
師も、弘められなかった秘法とは、一体、何物でしょうか。

 お答えします。
 それは、『本門の本尊』『本門の戒壇』『本門の題目の五字』の三大秘法であ
ります。

 質問致します。
 では、なぜ、正法時代・像法時代に、三大秘法を弘通されなかったのでしょう
か。

 お答えします。
 仮に、正法時代・像法時代に三大秘法が弘まっていたならば、正法時代に弘まっ
た小乗経の教えや、正法時代に竜樹菩薩や天親菩薩が弘めた権大乗経の教えや、
像法時代に天台大師や伝教大師が弘めた法華経迹門の教えが、一瞬のうちに、滅
尽してしまったからであります。

 質問致します。
 では、仏法が滅尽してしまうような三大秘法の教えを、末法の世において、弘
通されようとしているのは、何故でしょうか。

 お答えします。
 釈尊の仏法が滅んでしまった末法の時代には、大乗教も小乗教も、権教も実教
も、顕教も密教も、その教えだけは残っているものの、その教えのとおりに修行
しても、成仏する人がいなくなってしまうからであります。

 末法においては、一閻浮提の娑婆世界の人々が、皆、謗法を犯すようになって
しまいます。

 そこで、謗法を犯す逆縁の衆生に対しては、ただ、妙法蓮華經の五字(三大秘
法)によって仏種を授けるようにしなければ、成仏することが出来なくなります。
 それは、あたかも、法華経不軽品にお示しになられている不軽菩薩の御教導と、
同様のことであります。

 私の門弟は、妙法蓮華經の五字(三大秘法)を信じる、順縁の衆生であります。
 しかし、日本国の多くの人々は、妙法蓮華經の五字(三大秘法)を誹謗する、
逆縁の衆生であります。

 疑問があります。
 なぜ、広く法華経全般の教えを説かずに、また、略して法華経の主旨を示さずに、
法華経の要だけを、お取りになるのでしょうか。

 お答えします。
 玄装三蔵は、『略』を捨てて、『広』を好みました。
 そして、四十巻の大品般若経を、六百巻に広げて訳しました。

 羅什三蔵(鳩摩羅什)は、『広』を捨てて、『略』を好みました。
 そして、全てを訳せば千巻にも及ぶ大智度論を、百巻に略して訳しました。

 日蓮は、『広』も『略』も捨てて、ただ、『肝要』を好むのであります。
 所謂、『肝要』とは、上行菩薩が釈尊から伝授された、妙法蓮華經の五字(三大
秘法)であります。

 中国の奏の九包淵は、馬を見分ける際に、黄色を帯びた病氣の馬を排除して、
優れた駿馬だけを選択した、と云われています。
 中国の東晋の僧の史陶林は、経を講説する際に、細かい解釈を捨てて、経の元
意だけを取った、と云われています。

 宝塔に入った釈尊が多宝如来と座を並べて(二仏並座)、十方分身の諸仏が集
まり来て、地涌の菩薩を召し出された上で、末法の衆生のために、法華経の肝要
を取って授与されたのが、妙法蓮華経の五字(三大秘法)であります。

 当世(末法)の人々は、その教えに対して、異議を申し立てるようなことが
あってはなりません。

 疑問があります。
 今の世(末法)に、この法(三大秘法)が流布する場合には、何か先兆はある
のでしょうか。

 お答えします。
 法華経方便品には、「如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如
是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」と、『十如是』が関連して不可分であ
ることを、お説きになられています。

 天台大師は、『法華玄義』において、「クモが巣を掛ければ、喜び事がやって
来る。カササギが鳴けば、客人がやって来る。日常の小さな事でさえ、このよう
な前兆がある。ましてや、妙法が弘まるという大事においては、尚更のことであ
る。」という意味のことを、云われています。
 
 質問致します。
 もし、あなたが仰る通りであるならば、妙法蓮華經の五字(三大秘法)が流布
していく先兆は、既に発生しているのでしょうか。

 お答えします。
 去る正嘉元年には、大地震が起きました。そして、去る文永元年には、大彗星
が到来しました。
 それ以降、今日に至るまで、様々な種類の大規模な天変地夭が発生しています。

 これらは、皆、妙法蓮華經の五字(三大秘法)が流布していく先兆であります。

 仁王経に説かれた七難や二十九難や無量の難、及び、金光明経・大集経・守護
経・薬師経等の諸経に説かれている諸々の災難は、すべて現前しています。

 ただし、仁王経に説かれている、「二つ、三つ、四つ、五つの太陽が出現する」
という大難だけは、これまでに現われていませんでした。

 ところが、佐渡の国の住民は、口々に、「今年の一月二十三日の申の時(午後
四時頃)、西の空に、二つの太陽が出現した。」と、話していました。
 そして、ある佐渡の国の住民は、「三つの太陽が出現した。」等と、話してい
ました。
 また、「今年の二月五日には、東の空に、明星が二つ並び出ていた。明星と明
星の間は、三寸ばかりであった。」等と、話していました。

 これらの大難は、日本国の歴史上、未だに発生したことがなかったのでありま
す。

 最勝王経(注、金光明経の新訳、金光明最勝王経のこと)の王法正論品には、
「軌道を外れた流れ星が墜落したり、二つの太陽が同時に出たり、他国から怨賊が
攻めて来て、国民は喪乱に遭遇する。」等と、云われています。

 首楞厳経には、「二つの太陽が現れたり、二つの月が現れたりする。」等と、記
されています。

 薬師経には、「度々、日蝕や月蝕が発生する難が起こる。」等と、云われていま
す。

 金光明経には、「しばしば彗星が現れたり、二つの太陽が並んで現れたり、頻繁
に日蝕が起こる。」と、記されています。

 大集経には、「実に仏法が衰えれば、たちまちに、太陽や月の光は失われてしま
う。」等と、記されています。

 仁王経には、「太陽や月の運行が乱れたり、季節が逆転したり、赤い太陽や黒い
太陽が現れたり、二つ・三つ・四つ・五つの太陽が並び出たり、日蝕によって太陽
の光が無くなったり、太陽に一重・二重・三重・四重・五重の日輪が現れる。」等
と、云われています。
 
 これらの太陽や月等の難は、仁王経の七難や二十九難や無数の諸難の中でも、最
悪の大難であります。

 質問致します。
 これらの大・中・小の諸難は、如何なる因縁によって、起こるのでしょうか。

 お答えします。
 最勝王経には、「非法を行ずる者に尊敬の念を起こしたり、善法を行ずる人を
苦しめて治罰するからである。」等と、云われています。

 また、法華経や涅槃経にも、同様の内容が説かれています。

 金光明経には、「悪人を尊敬し、善人を治罰するが故に、星宿の運行や風雨の
時節が乱れてしまう。」等と、云われています。

 大集経には、「実に仏法が隠没すれば、このような不善業の悪王や悪僧が、我
が正法を破壊するであろう。」等と、云われています。

 仁王経には、「聖人が去る時には、必ず、七難が起こる。」等と、云われてい
ます。

 また、仁王経には、「法律に依ることなくして、正法の僧を捕縛する様子は、
あたかも、牢獄の囚人に対する取り扱いのようである。このような事態が発生す
る時には、仏法の滅亡が近づきつつある。」等と、云われています。

 また、仁王経には、「多くの悪僧たちは、己の名誉や利益を求めるために、国
王や太子や王子の前で、自ら、破仏法・破国の因縁となるような説法をするであ
ろう。そして、王は善悪を分別することが出来ずに、悪僧の言葉を信聴するであ
ろう。」等と、云われています。

 これらの経文の明鏡によって、現在の日本国を照らし合わせてみると、天災地
変の大難の有様は、完全に符合しています。

 見識ある我が門弟は、この事実を見極めなさい。

 そして、日本国には悪僧たちが存在して、天子や王子や将軍等への讒訴を企て
ているために、聖人が失われようとしている世であることを、当に知るべきであ
ります。

 質問致します。
 弗舎密多羅王がインドの仏教を迫害した時や、唐の会昌天子(武宗)が中国の
仏教を弾圧した時や、物部守屋が日本の仏教の流布を妨害した時には、何故に、
このような大難が起こらなかったのでしょうか。
 また、提婆菩薩や師子尊者等が殺害された時には、何故に、このような大難が
起こらなかったのでしょうか。

 お答えします。
 災難というものは、人に随って、大小の違いが生じてしまうからであります。
 
 正法・像法時代の二千年間の悪王や悪僧たちは、外道の教えを用いたり、道教
の士を称したり、邪神を信じたりすることによって、仏法を破っていました。
 彼等は、大いに仏法を滅失させたように見えます。
 けれども、まだまだ、その過失は軽かったのです。

 一方、当世の悪王や悪僧たちは、小乗を以て大乗を破ったり、権教を以て実教
を失ったりすることによって、仏法を滅失させています。
 そして、当世の悪王や悪僧たちは、僧を殺したり、寺塔を焼いたりするのでは
なく、人の心を削って(注、内面的・精神的に堕落させて)、仏法を自然に滅ぼ
そうとしています。

 故に、当世の悪王や悪僧たちの謗法は、正法・像法時代の二千年間の悪王や悪
僧たちにも増して、重大になっているのであります。
 
 我が門弟は、現在の日本国の大難を見据えて、法華経の教えを信用しなさい。

 眼を怒らせて鏡に向かえば、眼を怒らせた自分自身が鏡に反映されています。
 それと同様に、天が怒って災難をもたらしている原因は、人間が謗法の失を
犯していることを反映しているからであります。
 
 二つの太陽が並んで出現していることは、一つの国に、二人の国王が並び立と
うとする前兆です。必ず、王と王との戦争が起こります。

 太陽や月の運行を、星が乱していることは、臣下が王を犯そうとする前兆です。
 太陽と太陽が競って出現していることは、世界中に争いごとが起こる前兆です。
 明星が並んで出現していることは、太子と太子との争いごとが起こる前兆です。

 このように国土が乱れた後に、上行菩薩等の聖人が出現して、法華経本門の
三つの法門(三大秘法)を建立して、全世界一同に、妙法蓮華経の五字(三大
秘法)が広宣流布していくことは疑いないでしょう。



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