春之祝御書 文永十二年(1275年)一月 聖寿五十四歳御著作


 新春を祝ってから、既に、多くの日が経過しました。

 さて、私(日蓮大聖人)と故南条殿(南条兵衛七郎殿)とのお付き合いは、それほど
長い間ではなかったのです。
 けれども、あらゆる事において、心が通い合う関係でありましたので、大切な人と思
っておりました。

 ところが、まだ盛んな御年齢であったにもかかわらず、お亡くなりになってしまった
ことは、とても儚(はかな)いことでした。

 また、故殿(南条兵衛七郎殿)との別れが悲しかったため、あえて、鎌倉から上野の
地(静岡県富士宮市上野)まで下向して、御墓を拝見させて頂きました。
 

 その時(日蓮大聖人が南条家へ御下向をなされた文永二年)より後には、「駿河(静
岡)での便宜があった際に、故南条殿(南条兵衛七郎殿)の墓参に伺おう。」と、思
っていました。

 この度、身延の山へ入る際には、人目を忍んで、此処まで来訪しています。
 西山の入道殿(注、西山の入道殿とは、駿河国富士郡西山郷の地頭・大内太三郎
平安清殿のこと。所領の名に因んで、『西山殿』とも呼ばれている。)にも知られずに、
身延に来た次第です。

 故に、上野の地までお伺いしたかったのですが、私(日蓮大聖人)の力が及びませ
んでした。
 南条家の御墓所の近くを通りかかったにも関わらず、御参り出来なかったことが心
残りでありました。

 その心を遂げる(無念を晴らす)ために、「この御房(日興上人)を、正月(一月)
の内に派遣して、故南条殿(南条兵衛七郎殿)の御墓前で自我偈一巻を読ませよう。」
と、思いました。
 そのため、この御房(日興上人)を、南条家へ遣わしました。

 私(日蓮大聖人)は、「御殿(南条兵衛七郎殿)の御形見もない。」等と、嘆いて
おりました。
 しかし、殿(南条時光殿)を後継ぎとして、留め置かれたのですから、却って、喜
びを感じています。

 故殿(南条兵衛七郎殿)は、木の下・草葉の蔭にいらっしゃるため、通ってくる人
もいません。
 仏法を聴聞されたいのでしょうが、如何に、退屈していらっしゃることでしょうか。 
 そのことに思いを寄せると、涙が止まりません。

 従って、殿(南条時光)が法華経の行者(日興上人)とご一緒に、御墓へ参詣をな
さった暁には、どれほど、故殿(南条兵衛七郎殿)は、嬉しく思われることでしょう
か。
 どれほど、嬉しく思われることでしょうか。 


 (後欠)     


 ■あとがき

 本日より、『春之祝御書』を連載致します。   

 『春之祝御書』の御真跡(前半部分)は、大石寺に現存しています。
 そして、『春之祝御書』の対告衆は、当時17歳であった南条時光殿であります。


 この時点で、南条時光殿の父上であった南条兵衛七郎殿の御逝去から、10年の
歳月が経過しています。  

 『春之祝御書』の行間から、日蓮大聖人の温かくてやさしい御人柄が伝わって参り
ます。

 おそらく、日蓮大聖人は、神経がとても細やかで、周囲の方々に氣を配られる方だ
ったのでしょう。  了


目次へ