白米一俵御書  弘安三年(1280年) 聖寿五十九歳御著作


 白米一俵・けいもひとたわら・こふのりひとかご、御つかいをもってわざわざをく
られて候。
 人にも二つの財あり。一には衣、二には食なり。
 経に云はく「有情は食に依って住す」云云。
 文の心は、生ある者は、衣と食とによって世にすむと申す心なり。
 魚は水にすむ、水を宝とす。木は地の上にをいて候、地を財とす。人は食によって
生あり、食を財とす。
 いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり。遍満三千界無有直身命ととかれて、
三千大千世界にみてて候財も、いのちにはかへぬ事に候なり。
 さればいのちはともしびのごとし。食はあぶらのごとし。あぶらつくればともしび
きへぬ。食なければいのちたへぬ。
 一切のかみ仏をうやまいたてまつる始めの句には、南無と申す文字ををき候なり。
 南無と申すはいかなる事ぞと申すに、南無と申すは天竺のことばにて候。漢土・日
本には帰命と申す。帰命と申すは我が命を仏に奉ると申す事なり。
 我が身には分に随ひて妻子・眷属・所領・金銀等をもてる人々もあり、又財なき人
々もあり。財あるも財なきも命と申す財にすぎて候財は候はず。
 さればいにしへの聖人賢人と申すは、命を仏にまいらせて仏にはなり候なり。
 いわゆる雪山童子と申せし人は、身を鬼にまかせて八字をならへり。薬王菩薩と申
せし人は、臂をやいて法華経に奉る。
 我が朝にも聖徳太子と申せし人は、手のかわをはいで法華経をかき奉り、天智天皇
と申せし国王は、無名指と申すゆびをたいて釈迦仏に奉る。
 此等は賢人聖人の事なれば、我等は叶ひがたき事にて候。

 ただし仏になり候事は、凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり。
 志ざしと申すはなに事ぞと、委細にかんがへて候へば、観心の法門なり。
 観心の法門と申すはなに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にまいら
せ候が、身のかわをはぐにて候ぞ。
 うへたるよに、これはなしては、けうの命をつぐべき物もなきに、ただひとつ候ご
れうを仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候にて候ぞ。
 これは薬王のひぢをやき、雪山童子の身を鬼にたびて候にもあいをとらぬ功徳にて
候へば、聖人の御ためには事供やう、凡夫のためには理くやう、止観の第七の観心の
檀ばら蜜と申す法門なり。
 まことのみちは世間の事法にて候。

 金光明経には「若し深く世法を識らば即ち是仏法なり」ととかれ、涅槃経には「一
切世間の外道の経書は皆是仏説にして外道の説に非ず」と仰せられて候を、妙楽大師
は法華経の第六の巻の「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」の経文に引き合
はせて心をあらわされて候には、彼々の二経は深心の経々なれども、彼の経々はいま
だ心あさくして法華経に及ばざれば、世間の法を仏法に依せてしらせて候。
 法華経はしからず。やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。
 爾前の経々の心は、心より万法を生ず。譬へば心は大地のごとし、草木は万法のご
としと申す。法華経はしからず。心すなはち大地、大地則ち草木なり。
 爾前の経々の心は、心のすむは月のごとし、心のきよきは花のごとし。法華経はし
からず。月こそ心よ、花こそ心よと申す法門なり。
 此をもってしろしめせ。白米は白米にはあらず、すなはち命なり。
 美食ををさめぬ人なれば力をよばず、山林にまじわり候ひぬ。されども凡夫なれば
かんも忍びがたく、熱をもふせぎがたし。食ともし。表○目が万里の一食忍びがたく、
思子孔が十旬・九飯堪ゆべきにあらず。読経の音も絶えぬべし。観心の心をろそかな
り。
 しかるに、たまたまの御とぶらいただ事にはあらず。教主釈尊の御すすめか、将又
過去宿習の御催か。
 方々紙上に尽し難し。恐恐謹言。


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