安国論御勘由来 文永五年(1268年)四月五日 聖寿四十七歳御著作


 正嘉元年〈太歳丁巳〉八月二十三日戌亥の時、前代に超えたる大地振。
 同二年〈戊午〉八月一日大風。同三年〈己未〉大飢饉。正元元年〈己未〉大疫病。同二
年〈庚申〉四季に亘りて大疫已まず。
 万民既に大半に超えて死を招き了んぬ。而る間国主之に驚き、内外典に仰せ付けて種々
の御祈祷有り。爾りと雖も一分の験も無く、還りて飢疫等を増長す。
 日蓮世間の体を見て粗一切経を勘ふるに、御祈請験無く還りて凶悪を増長するの由、道
理文証之を得了んぬ。
 終に止むこと無く、勘文一通を造り作し、其の名を立正安国論と号す。
 文応元年〈庚申〉七月十六日〈辰時〉、屋戸野入道に付し故最明寺入道殿に奏進し了ん
ぬ。此偏に国土の恩を報ぜんが為なり。
 其の勘文の意は、日本国天神七代・地神五代・百王百代、人王第三十代欽明天皇の御宇
に始めて百済国より仏法此の国に渡り、桓武天皇の御宇に至るまで、其の中間五十余代二
百六十余年なり。
 其の間一切経並びに六宗之有りと雖も、天台・真言の二宗未だ之有らず。
 桓武の御宇に、山階寺の行表僧正の御弟子に、最澄といふ小僧有り〈後に伝教大師と号
す〉。 
 已前に渡る所の六宗並びに禅宗之を極むと雖も、未だ我が意に叶はず。
 聖武天皇の御宇に、大唐の鑑真和尚渡す所の天台の章疏、四十余年を経て已後始めて、
最澄之を披見し、粗仏法の玄旨を覚り了んぬ。       
 最澄、天長地久の為に、延暦四年叡山を建立す。
 桓武皇帝之を崇めて、天子本命の道場と号し、六宗の御帰依を捨てて、一向に天台円宗
に帰伏したまふ。
 同じき延暦十三年に、長岡の京を遷して平安城を建つ。
 同じき延暦二十一年正月十九日、高雄寺に於て南都七大寺の六宗の碩学、勤操・長耀等
の十四人を召し合はせて、談じて勝負を決断す。
 六宗の明匠一問答にも及ばず、口を閉づること鼻の如し。
 華厳宗の五教、法相宗の三時、三論宗の二蔵三時の所立を破し了んぬ。但自宗を破らる
るのみに非ず、皆謗法の者たることを知る。
 同二十九日、皇帝勅宣を下して之を詰りたまふ。十四人謝表を作りて、皇帝に捧げ奉る。
 其の後代々の皇帝の叡山の御帰依、孝子の父母に仕ふるに超え、黎民の王威を恐るるに
勝れり。或御時は宣明を捧げ、或御時は非を以て理に処す等云云。
 殊に清和天皇は、叡山の慧亮和尚の法威に依りて位に即きたまふ、帝王の外祖父九条右
丞相は誓状を叡山に捧ぐ。
 源右将軍は清和の末葉なり。鎌倉の御成敗是非を論ぜず叡山に違背せば、天命恐れ有る
者か。
 然るに後鳥羽院の御宇、建仁年中に、法然・大日とて二人の増上慢の者有り。
 悪鬼其の身に入りて国中の上下を誑惑し、代挙って念仏者と成り、人毎に禅宗に趣く。
 存外に山門の御帰依浅薄となり、国中の法華真言の学者棄て置かせられ了んぬ。
 故に叡山守護の天照太神・正八幡宮・山王七社・国中守護の諸大善神、法味を喰はずし
て威光を失ひ、国土を捨て去り了んぬ。
 悪鬼便りを得て災難を致し、結句他国より此の国を破るべき先相と勘ふる所なり。
 又其の後文永元年〈甲子〉七月五日、彗星東方に出でて余光大体一国等に及ぶ。
 此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり。内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず。
予弥悲歎を増長す。
 而るに勘文を捧げて已後九箇年を経て、今年後正月大蒙古国の国書を見る。
 日蓮が勘文に相叶ふこと宛も符契の如し。
 仏記して云はく「我滅度の後一百余年を経て、阿育大王出世し、我が舎利を弘めん」と。
 周の第四昭王の御宇に、大史蘇由が記に云はく「一千年の外、声教此の土に被らしめん」
と。 
 聖徳太子の記に云はく「我が滅度の後二百余年を経て、山城国に平安城を立つべし」と。
 天台大師の記に云はく「我が滅度二百余年の已後、東国に生まれて我が正法を弘めん」
等云云。
 皆果して記文の如し。
 日蓮正嘉の大地震、同じく大風、同じく飢饉、正元元年の大疫等を見て記して云はく、
他国より此の国を破るべき先相なりと。
 自讃に似たりと雖も、若し此の国土を毀壊せば、復仏法の破滅疑ひ無き者なり。
 而るに当世の高僧等は謗法の者と同意の者なり。復自宗の玄底を知らざる者なり。定め
て勅宣・御教書を給ひて此の凶悪を祈請するか。
 仏神弥瞋恚を作し、国土を破壊せん事疑ひ無き者なり。
 日蓮復之を対治するの方之を知る。叡山を除きて日本国には但一人なり。譬へば日月の
二つ無きが如く、聖人肩を並べざるが故なり。
 若し此の事妄言ならば、日蓮が持つ所の法華経守護の十羅刹の治罰之を蒙らん。
 但偏に国の為、法の為、人の為にして、身の為に之を申さず。
 復禅門に対面を遂ぐ故に之を告ぐ。之を用ひざれば定めて後悔有るべし。
 恐々謹言。

 文永五年〈太歳戊辰〉四月五日   日蓮 花押 

 法鑒御房 


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