月水御書 文永元年(1264年)四月十七日 聖寿四十三歳御著作


 貴女(大学三郎殿の奥様)からお伝え承った御消息の状(お手紙)には、「法華
経(二十八品)を、日毎に一品ずつ、二十八日の間に、一部(法華経全体)を拝読
しておりました。現在は、薬王品(法華経薬王菩薩本事品第二十三)の一品だけを、
毎日の所作にしています。ただ、元のように、法華経を一品ずつ、拝読した方が宜
しいのでしょうか。」と、お記しになってありました。

 法華経は、一日の所作において、一部(法華経全体)八巻・二十八品、或るいは
一巻、或るいは一品・一偈・一句・一字、或るいは題目ばかりを、「南無妙法蓮華
経」と、ただ一遍唱えるだけでも、功徳があるものです。

 或るいは、また、一生の間に、ただ一遍、題目を唱えているのを聞いて随喜した
り、 或るいは、また、随喜している声を聞いて随喜したり等と、こういう風に、
五十展転して、(注、五十人の人に対して、次から次へと、教法を伝えていくこと。)
その最後になると、志も薄くなり、随喜の心が弱くなっていく事は、まるで、二~
三歳の稚児が頼りない存在であったり、牛馬等が前後を弁えないようなものです。

 けれども、法華経以外の他経を学んでいる人が、あたかも、舎利弗・目連・文殊
・弥勒等のように、利口で智慧が賢く、諸経を胸の内に浮かべておられる(暗記し
ている)方々の御功徳よりも、法華経を信じる人の御功徳の方が百千万億倍勝れて
いることは、経文、並びに、天台大師の御著作三十巻・妙楽大師の御著作三十巻の
中に、その根拠を見ることが出来ます。
     
 それ故に、経文(法華経薬王菩薩本事品第二十三)においては、「仏の智慧を以
て、その功徳が多いか少ないかを計ろうとしても、到底、その功徳の量を計り尽く
すことは得られない。」と、お説きになられています。

 つまり、仏の御智慧でさえも、「この人(法華経を信じる人)の功徳の大きさを、
計り知ることが出来ない。」ということです。

 仏の智慧の有り難さは、この三千大千世界において、七日(一週間)、もしくは、
二七日(二週間)等に渡って、降り続ける雨粒の数でさえ、お知りになっておられ
ますが、「ただ、法華経の一字を唱えている人の功徳だけは、計り知れない。」と、
見受けられます。

 ましてや、我等のような逆罪の凡夫が、法華経を信じる人の功徳の大きさを、如
何にして、知ることが出来るのでしょうか。
           
 しかしながら、現在、釈迦如来の御入滅後二千二百余年に及んで、五濁(注、劫
濁・衆生濁・煩悩濁・見濁・命濁という五つの濁り。劫濁→時代の濁り。衆生濁→
人間そのものの濁り。煩悩濁→煩悩に支配された本能的な濁り。見濁→思想の濁り。
命濁→生命自体の濁り。)が盛んになってから、年が久しく経過しております。

 ところが、貴女(大学三郎殿の奥様)が事に触れて、善事をお積みになっている
ことを有り難く思います。

 たとえ、善を為す人であったとしても、一つの善に対して、十の悪を造り重ねて、
結局は、小善に付けて、大悪を造っていながらも、内心において、「大善を修した。」
と云う慢心を起こす世と成っています。

 ところが、釈迦如来がこの世に御出現なされた国(インド)からは、二十万里の
山海を隔てて、東に寄った辺境の地の小島(日本)に貴女(大学三郎殿の奥様)が
生まれて、五障(注、「女人は、梵天王・帝釈・魔王・転輪聖王・仏身の五つには
なれない。」とする爾前経の教え。法華経提婆達多品第十二において、女人成仏が
初めて明かされる。)の雲が厚く、三従(注、「女人というものは、未婚の時は親
に従い、嫁しては夫に従い、夫亡き後は子に従うべきである。」という考え方。)
の絆に繋がれている女人の御身として、法華経を御信用されている事は、「有り難
い。」等々と申したとしても、到底、申し足りないことでございます。

 およそ、釈尊御一代の聖教を開いて見ながら、顕教・密教の二道を究められたよ
うな智者や学匠等であっても、近来は、法華経を捨てて、念仏を申しています。

 ところが、如何なる御宿善(過去世の善業)があったのでしょうか。この法華経
の一偈一句を行じる御身として、貴女(大学三郎殿の奥様)がお生まれになったの
は。

 さて、貴女(大学三郎殿の奥様)からの御消息(御質問のお手紙)を拝見すると、
「優曇華を見た眼よりも珍しく、一眼の亀が浮木の穴に出会うことよりも、僅かな
事柄であろう。」と、心ばかりではございますが、「有り難い御言葉である。」と、
思わせて頂きました。

 (注記、優曇華とは、三千年に一度開花すると云われる伝説上の植物。優曇華の
花が咲けば、金輪王や仏が出現すると云われる。また、仏の御出現に会い難いこと
への比喩に用いられる。そして、盲亀浮木の比喩は、大海に棲む片目の亀が、広大
な海の中で、自らが休むために、適当な穴が空いている栴檀の浮木に出会い難いこ
とを、人間に生まれて、しかも、正法に出会うことへの難しさに譬えた説話である。)

 しかし、私(日蓮大聖人)がそう思っている間に、一言であっても、一点であっ
ても、随喜の言葉を加えて、善根の余慶(仏道修行の善根によって生じる吉事)を
お積みになるためにも、貴女(大学三郎殿の奥様)を励ましたいのです。

 けれども、ただ、恐れている事は、「まるで、雲が月を隠したり、塵が鏡を曇ら
せるように、私(日蓮大聖人)が短く拙い言葉を発することによって、貴女(大学
三郎殿の奥様)の殊勝で目出度い御功徳を、申し隠してしまうのではないか。それ
によって、貴女(大学三郎殿の奥様)の信心を曇らせてしまうのではないか。」と、
思い悩むばかりでございます。

 しかしながら、貴命(大学三郎殿の奥様からの御質問)を、黙止するべきではあ
りません。
 「あたかも、一滴の水を江海に加えたり、たいまつの炎を太陽や月に添えたりす
るようなものかも知れませんが、私(日蓮大聖人)からの返信によって、信心の水
を増したり、信仰の光を添えて頂きたい。」と、お考えください。


 まず、法華経というものは、法華経全八巻であっても、一巻であっても、一品で
あっても、一偈であっても、一句であっても、もしくは、題目を唱えることであっ
ても、「その功徳は、同じ事である。」と、御理解ください。

 譬えると、大海の水は、一滴であっても、無量の江河の水を納めています。
 如意宝珠(注、意のままに、宝物や衣服・食物を取り出すと云われている、仏説
上の宝の珠。)は、一珠であっても、万宝を降らせることが出来ます。
 百千万億の大海の滴や宝珠であっても、また、これと同じ作用があります。

 法華経は、一字であっても、一つの大海の滴や宝珠のようなものです。
 そして、法華経の万億の字も、また、万億の大海の滴や宝珠のようなものです。

 しかし、法華経以外の諸経・諸仏の一字・一名号(名前・尊号)は、江河の一滴
の水や山海の一石のようなものです。
 その一滴には、無量の水の徳を備えていません。その一石にも、無数の石の徳を
具え合わせていません。

 もし、そうであるならば、この法華経は、何れの品で御座いましても、ただ、貴
女(大学三郎殿の奥様)が御信用をなされている品に、価値があるのでしょう。

 総じて、如来(仏)の聖教というものは、「何れの経典であっても、妄語だけが
存在する。」とは、承知しておりません。

 けれども、再び、仏教を勘案してみると、如来(仏)の金言の中にも、『大乗教
・小乗教』『権教(爾前経)・実教(法華経)』『顕教・密教』という違いが生じ
ているのは、経文より、事が起こっているからであります。
 随って、論師や人師の釈義(経論の意義の解釈)にも、それらの違いが、粗々と、
見受けられます。

 要点を取って申し上げると、「釈尊がお説きになられた、五十余年に及ぶ諸経の
中において、先に説かれた四十余年の諸経には、なお、疑わしさが存在する。」と
いうことです。

 仏(釈尊)自らが、無量義経において、「四十余年・未顕真実」(四十余年間は、
未だ、真実を顕していない。)と、仰せになられている経文を、目の当たりに、お
説きになられている所以です。
 
 一方、法華経(方便品第二)においては、「正直捨方便・但説無上道」(正直に
方便を捨てて、ただ無上道を説く。)と、仏(釈尊)自らが、一句の文字によって、
お定めになられています。
    
 その上、法華経見宝塔品第十一においては、多宝如来が大地より涌出なさって、
「妙法華経・皆是真実」(妙法華経は、皆、是れ真実である。)と、証明を加えら
れた後に、十方の諸仏が、皆、法華経の座にお集まりになられてから、御舌を出さ
れて、「法華経の文字は、一字たりとも、妄語となることはない。」という旨の助
成を添えられています。
 譬えると、大王と后と長者等の一味(集団)が、心を同じくして、約束をしたよ
うなものです。

 もし、法華経の一字であっても唱えようとする男女等は、十悪(殺生・偸盗・邪
婬・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・愚癡)、五逆罪(殺父・殺母・殺阿羅
漢・出仏身血・破和合僧)、四重禁(殺生・偸盗・邪婬・妄語)等の無量の(数え
切れない)重業に引かれて、悪道に墜ちそうになったならぱ、日月(太陽と月)が
東から出ない事があったとしても、大地が反覆する(ひっくり返る)事があったと
しても、大海の潮の満ち引きがなくなる事があったとしても、バラバラに割れた石
が元通りに重なり合う事があったとしても、江河の水が大海に入らない事があった
としても、法華経を信じている女人が、世間の罪に引かれて、悪道に堕ちるような
事は有り得ないのです。


 もし、法華経を信じた女人が、物を嫉む故に・腹黒い故に・貪欲の深き故に、それら
の所業に引かれて、悪道に堕ちたとします。

 ならば、釈迦如来・多宝如来・十方の諸仏は、無量広劫(量り知れないほどの長い期
間)より現在に至るまで持って来られた『不妄語戒』が、たちまちに破れるだけでなく、
調達(提婆達多)の『虚誑罪』にも勝って、瞿伽利(提婆達多の弟子)の『大妄語』に
も超えることでしょう。

 何故に、そのような事があるのでしょうか。そのような事は、あり得ません。
 法華経を持つ人は、頼もしく、有り難いのです。

 ただし、一生の間に、一つの悪も犯さず、五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒・
五百戒・無量の戒を持ち、一切経を暗記して、一切の諸仏・菩薩を供養し、無量の善根
をお積みになったとしても、法華経だけを御信用されることがなく、もしくは、法華経
を御信用されたとしても、法華経以外の諸経・諸仏と同格にお考えになったり、もしく
は、法華経と同格にお考えでなかったとしても、他の仏道修行を間断なく行じて、時々
しか法華経を行じなかったり、もしくは、法華経を用いることのない謗法の念仏者等と
語らって、「法華経は、末代(末法の時代)の機根に叶わない。」と申す者の所業を、
『罪』とお考えにならなければ、一生の間に行じられた所の無量の善根も、たちまちに
失せて、並びに、法華経の功徳も、しばらく隠れてしまって、その結果、阿鼻大城(地
獄)に堕ちてしまう事は、あたかも、雨が空に留まらないようなものであり、峰の石が
谷へ転がるようなものとお考えください。

 たとえ、十悪業(殺生・偸盗・邪婬・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・愚癡)
や五逆罪(殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧)を作った者であったとして
も、法華経に背く事がなければ、往生・成仏は疑いのない事でございます。

 その反面、一切経を持って、諸仏・菩薩を信じている持戒の人であったとしても、
法華経を用いる事がなければ、悪道に堕ちてしまうのも、疑いのない事と見受けられ
ます。

 私(日蓮大聖人)の愚見を以って、近来の世間を見ると、その多くは、在家・出家
に渡って、法華経を誹謗する者ばかりです。

 但し、貴女(大学三郎殿の奥様)の御不審(御質問)に関して、一言申し上げます。
 それは、「法華経は、何れの品であっても、先般、申し上げたように、愚劣な品は
ありません。けれども、特に、法華経二十八品の中において、勝れて素晴らしい品は、
方便品と寿量品です。それ以外の余品は、皆、枝葉であります。」ということです。

 ならば、常日頃の御所作には、方便品の長行と寿量品の長行を習い読まれるように
なさってください。また、別に、書き出されても、結構なことでございます。
 それ以外の法華経の二十六品は、あたかも、身に影が随うようなものであったり、
玉に財が備わっているようなものです。

 法華経の寿量品と方便品をお読みになれば、他の法華経の二十六品をお読みになら
なくても、自ずと、功徳が備わって参ります。

 法華経薬王品(薬王菩薩本事品第二十三)・提婆品(提婆達多品第十二)には、女
人の成仏・往生がお説きになられています。
 けれども、提婆品(提婆達多品第十二)は、方便品(方便品第二)の枝葉でありま
す。
 そして、薬王品(薬王菩薩本事品第二十三)は、方便品(方便品第二)と寿量品(如
来寿量品第十六)の枝葉であります。

 ならば、常日頃の所作としては、この方便品と寿量品の二品を行じられて、その他
の品は、時々、お時間のある際に、行じるようになさってください。


 また、御消息の状(大学三郎殿の奥様からのお手紙)には、このように記されてい
ました。

 「日毎に、三度ずつ、七つの文字(注、おそらく、『南無妙法蓮華経』の七文字と
思われる。)を拝し奉っております。
 そして、毎日、『南無一乗妙典』と、一万遍唱えています。
 ところが、例の事(生理)になってからは、御経(法華経)を読み奉っておりませ
ん。

 御経(法華経)を拝し奉ることも、『一乗妙典』と唱えることも、空(心の中)で
行っているのは、心苦しさがございます。
 ましてや、例の事の日数の程(生理の間)は、それを行うことさえ、叶わないのか
も知れません。

 今後、例の事(生理)の際には、幾日ばかりで、読み奉ることが可能になるのでし
ょうか。」と。

 この段(御質問)は、常に、一切の女人が、各々、御不審になって、お問い合わせ
になる事柄でございます。

 また、古来より、女人からの御不審(生理)について、申している人も多くいます。
 けれども、釈尊御一代の聖教においては、格別にお説きになられた箇所がない故に、
その証文を分明に提示された人もおりません。

 日蓮が、粗方、釈尊御一代の聖教を拝見する限り、酒肉(飲酒・食肉)や五辛(ニ
ラ・ラッキョウ・ネギ・ニンニク・ハジカミ)や淫事等の如く、不浄の行為を明確に
されながら、月日を指して(期限を示して)禁められた事のように、月水(生理)を
忌んだ経論は、未だに、心当たりがありません。

 そして、釈尊御在世の時も、多くの妙齢の女人が尼になって、仏法を行じられまし
た。
 けれども、月水(生理)の時だからと云って、嫌悪された事例はございません。

 上記の事柄を以って、推量させて頂くと、「月水(生理)というものは、体外から
来た不浄ではない。ただ、女人の性質として、生死の種を継ぐべき理であろう。」と
いうことです。

 また、月水(生理)の期間は、長い病のようなものです。
 例えると、屎尿等は、人の身体から出ます。けれども、よく、浄化(清潔に)して
おけば、別に、忌むべき存在ではありません。

 こういう様に、月水(生理)を捉える事が大切ではないでしょうか。
 因って、印度(インド)・尸那(中国)等においても、月水(生理)を、大層、忌
み嫌う風潮は聞こえてきません。

 ただし、日本国は、神国であります。


 この国の習いとして、仏や菩薩が垂迹(注、仏・菩薩が衆生を利益するために、種
々の場所で、様々な身となって、御姿を変えられること。)として御出現された際の
伝承があります。それが、不思議と、経論に相似する事も多く存在します。

 この事に背くと、現に、当罰があるのです。

 詳細に、経論を勘えて見ると、仏法の中には、『随方毘尼』(注、仏が制禁されて
いない事柄については、仏教の本義に違わない限り、各地域の風俗・習慣や時代の風
習等に従っても構わないとする教え。)という『戒の法門』が、これに当たるのです。

 この『戒の法門』の真意は、「あまり、重要でない事であれば、少々、仏教の教え
と違ったとしても、その国の風俗に合致させる必要がある。」ということです。
 仏(釈尊)は、そのことを、一つの『戒』として、お説きになられたのです。

 この『戒の法門』を知らない智者どもは、「神は、鬼神である。従って、敬っては
ならない。」等という強義を申して、多くの檀那を損なう(失う)事があるように見
受けられます。


 もし、そうであるならば、この国(日本国)の明神は、多分に、この月水(生理)を
忌まれています。
 そのため、生を、この国(日本国)に受ける人々は、大いに、月水(生理)を忌むこ
とになるのでしょう。


 ただし、この国(日本国)の明神は、「女人の(生理の)日々の所作(仏道修行)は、
苦しいものではない。(結構なことである。)」と、お考えになっているのでしょうか。

 その一方で、元から法華経を信じないような人々が、「法華経のことを、何としても、
讒言しよう。」と、思っています。


 ところが、さすがに、「直ちに、法華経を捨てよ。」とは云えないため、「身の不浄
(生理)等に付け込んで、法華経を遠ざけよう。」と、企んでいます。


 また、「不浄(生理)の時に、法華経を行じれば、経典を愚か(粗末)にする事にな
るのだ。」等と脅して、罪を得させようとするのです。

 これらの事を、すべて、お心得になって、月水(生理)の御時は、七日間ほど、そ
の気配があれば、御経をお読みにならないで、暗に(心の中で)、『南無妙法蓮華経』
とお唱えください。
 また、礼拝をする際にも、経(法華経の経典)に向かわれないようにして、拝する
ようになさってください。

 また、不慮に、臨終等が近づくような場合には、魚鳥等を召しあがっても、結構で
しょう。
 読経が出来る場合には、法華経をお読みになった上で、『南無妙法蓮華経』と唱題
なさってください。
 月水(生理)等を気にする必要がない事は、改めて、申し上げるまでも有りません。

 また、貴女(大学三郎殿の奥様)が『南無一乗妙典』とお唱えになっている事に対
しては、同じような事かも知れませんが、天親菩薩・天台大師等が唱えられたように、
ただ、『南無妙法蓮華経』とお唱えになってください。

 この事に関しましては、詳細な理由があります。それ故に、上記の如く、述べる次
第でございます。穴賢・穴賢。

 文永元年(1264年)四月十七日   日蓮 花押 

 大学三郎殿御内(奥様)御報



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