忘持経事 建治二年(1276年)三月三十日 聖寿五十五歳御著作


 忘れ給ふ所の御持経、追って修行者に持たせ之を遣はす。
 魯の哀公云はく「人好く忘るる者有り。移宅に乃ち其の妻を忘れたり」云云
 孔子云はく「又好く忘るること此より甚しき者有り。桀紂の君は乃ち其の身を忘
れたり」等云云
 夫槃特尊者は名を忘る。此閻浮第一の好く忘るる者なり。今常忍上人は持経を忘
る。日本第一の好く忘るるの仁か。
 大通結縁の輩は衣珠を忘れ、三千塵劫を経て貧路に蜘チュウし、久遠下種の人は良
薬を忘れ、五百塵点を送りて三途の嶮地に顛倒せり。
 今の真言宗・念仏宗・禅宗・律宗等の学者等は仏陀の本意を忘失し、未来無数劫を
経歴して阿鼻の火坑に沈淪せん。
 此より第一の好く忘るる者あり。所謂今の世の天台宗の学者等と持経者等との日蓮
を誹謗し念仏者等を扶助する是なり。
 親に背きて敵に付き、刀を持ちて自を破る。此等は且く之を置く。

 夫常啼菩薩は東に向かひて般若を求め、善財童子は南に向かひて華厳を得る。雪山
の小児は半偈に身を投げ、楽法梵志は一偈に皮を剥ぐ。此等は皆上聖大人なり。
 其の迹を検すれば地住に居し、其の本を尋ぬれば等妙なるのみ。
 身は八熱に入りて火坑三昧を得、心は八寒に入りて清涼三昧を証し、身心共に苦無
し。譬へば矢を放ちて虚空を射、石を握りて水に投ずるが如し。

 今常忍貴辺は末代の愚者にして、見思未断の凡夫なり。身は俗に非ず道に非ず、禿
居士。心は善に非ず悪に非ず、羝羊のみ。
 然りと雖も一人の悲母、堂に有り。朝に出でて主君に詣で、夕に入りて私宅に返る。
営む所は悲母の為、存する所は孝心のみ。
 而るに去月下旬の比、生死の理を示さんが為に黄泉の道に趣く。
此に貴辺と歎いて云はく、齢既に九旬に及ぶ。子を留めて親の去ること次第たりと
雖も、倩事の心を案ずるに、去りて後は来たるべからず、何れの月日をか期せん。二
母国に無し、今より後誰をか拝すべき。

 離別忍び難きの間、舎利を頚に懸け、足に任せて大道に出で、下州より甲州に至る。
其の中間往復千里に及ぶ。
 国々皆飢饉して、山野に盗賊充満し、宿々粮米乏少なり。我身羸弱にして、所従亡
きが若く、牛馬合期せず。
 峨峨たる大山重々として、漫々たる大河多々なり。高山に登れば頭を天にウち、幽
谷に下れば足雲を踏む。鳥に非ざれば渡り難く、鹿に非れば越え難し。眼眩き足冷ゆ。
 羅什三蔵の葱嶺、役の優婆塞の大峰も只今なりと云云。

 然る後、深洞に尋ね入りて一庵室を見るに、法華読誦の音青天に響き、一乗談義の
言山中に聞こゆ。
 案内を触れて室に入り、教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五体を地に投げ、合
掌して両眼を開き、尊容を拝するに歓喜身に余り、心の苦しみ忽ち息む。
 我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口
なり。譬へば種子と菓子と、身と影との如し。

 教主釈尊の成道は浄飯・摩耶の得道、吉占師子・青提女・目ケン尊者は同時の成
仏なり。
 是の如く観ずる時、無始の業障忽ちに消え、心性の妙蓮忽ちに開き給ふか。
 然る後、随分に仏事を為し、事故無く還り給ふ云云。

 恐々謹言

 富木入道殿
 


目次へ