阿部日顕の宗旨建立・初転法輪二回説の邪義を破折する


■あとがき

 先日の“あとがき”で、「このメルマガに、ルビを振って貰いたい。」という
御要望に関して、返答をさせて頂きました。

 でも、そういう御要望は、今も昔も、存在するようです。
 何故なら、現存する『兄弟抄』の御真蹟には、なんと、漢字にルビが振られて
いるからです!
    (^v^)

 勿論、日蓮大聖人御自身がルビを振られたわけではありません。
 後世の何者かの異筆によって、『兄弟抄』の御真蹟には、日蓮大聖人御直筆の
脇に、漢字のルビが振られています。


 昔は、漢字の識字率が著しく低かったために、誰かが、このような配慮(?)を
思い立ったのでしょう。

 一方、御書の尊信という観点から考えれば、「日蓮大聖人の御真蹟に、勝手に
ルビを振るなんて、トンデモナイことだ!」と、お怒りになる方がいらっしゃる
かも知れません。

 そういう信条をお持ちの方に取りましては、更に血圧が上がってしまいそうな
話を、次回の“あとがき”で、ご紹介します。    了



■あとがき

 前回の“あとがき”において、『兄弟抄』の御真蹟には、日蓮大聖人御直筆の
脇に、後世の何者かの異筆によって、漢字のルビが振られていることを、お伝え
しました。

 でも、世の中には、“上には上”がいます。

 聖人御難事に曰く、「去ぬる建長五年〈太歳癸丑〉四月二十八日に、安房の国
長狭郡の内、東条の郷、今は郡なり。天照太神の御くりや、右大将家の立て始め
給ひし日本第二のみくりや、今は日本第一なり。此の郡の内清澄寺と申す寺の諸
仏坊の持仏堂の南面にして、午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安
二年〈太歳己卯〉なり。」と。
 
 実は、この『聖人御難事』の御真蹟には、日蓮大聖人以外の何者かの異筆によ
って、「四月二十八日」の“四”の字を消して、その隣に“三”の字を書き加え
て、「四月二十八日」から「三月二十八日」へ変更しようとした痕跡が残っています。
 

 筆者のような小心者には、もう、“unbelievable!”としか、申し上げようがありません・・・。 

 善意で解釈すれば、「立宗宣言は“四月二十八日”ではなく、“三月二十八日”
であった。それなのに、日蓮大聖人が勘違いをされている。」と、上代における
日蓮門下の何者かが老婆心(大きなお世話?)を起こして、『聖人御難事』の御
真蹟を書き変えたのでしょう。

 しかし、『聖人御難事』は、単なる御消息文ではありません。

 『聖人御難事』は、日蓮大聖人が出世の本懐を遂げられること(本門戒壇大御
本尊の御図顕)を御宣言された、極めて重要な御書であります。

 そして、日蓮大聖人は、弘安二年十月に、御自身の出世の本懐を遂げられるま
での“起算日”として、「去ぬる建長五年〈太歳癸丑〉四月二十八日に・・・」と、御明記
されているのです。

 まさか、『聖人御難事』の御真蹟を書き変えた人間が、実際に、建長五年に立宗
宣言を行った訳ではないですよね。    (笑)

 勿論、建長五年に立宗宣言をなされた当事者は、日蓮大聖人です。
 にもかかわらず、立宗宣言をなされた日蓮大聖人御本人の御記述を、平然と反古
にしようとする輩の神経は、一体どういう構造をしているのでしょうか。

 佐渡御書に曰く、「かへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等が、念仏者
よりも久しく阿鼻地獄にあらん事、不便とも申す計りなし。」と。

 でも、これぐらいで、驚いてはいけません。
 世の中には、もっともっと、“上には上”がいるのです。   (^v^)

 そのことを、次回の“あとがき”で、お伝えします。  了
 



■あとがき

 前回の“あとがき”において、『聖人御難事』の御真蹟には、日蓮大聖人以外
の何者かの異筆によって、「四月二十八日」の“四”の字を消して、その隣に“三”
の字を書き加えて、「三月二十八日」へ変更しようとした痕跡が残っていること
を、お伝えしました。

 でも、世の中には、もっともっと、“上には上”がいるものです。

 それは、「日蓮正宗の阿部日顕管長が、自らの買春報道裁判を“和解”した日
でもあった平成十四年一月三十一日に、突如として、『清澄寺大衆中』の御書に
おける宗旨建立の記載を、「四月二十八日」から「三月二十八日」へと変更を命
じてしまったこと。
」です。     (^v^)

 また、その席上で、阿部日顕は、
 「建長五年三月二十八日には、日蓮大聖人が内証の宗旨建立を行って、不退転
の決意を固められた。その一ヶ月後の建長五年四月二十八日には、日蓮大聖人が
外用の宗旨建立を行った。」という主旨の説を公言しました。
 
 しかも、「一月一日に夢を見た。」「一月十三日に熱が出た。」「一月二十八日に
唱題をして心感があった。」「一月三十一日は不思議な日だ。」等の常軌を逸した
思いこみを述べながら・・・。

 兄弟抄に曰く、「心の師とはなるとも心を師とせざれとは、六波羅蜜経の文な
り。」と。

 では、阿部日顕の主張通りに、『清澄寺大衆中』の御金言を、「四月二十八日」か
ら、「三月二十八日」へ書き換えてみることにしましょう。

 清澄寺大衆中に曰く、「建長五年四月(三月)二十八日、安房国東条郷清澄寺
道善の房の持仏堂の南面にして、浄円房と申す者並びに少々の大衆にこれを申し
はじめて、其の後二十余年が間退転なく申す。」と。
 (新編御書946ページ、御書全集894ページ)

 賢明なる読者の皆さんは、もうお氣づきのことと存じますが、阿部日顕の主張を
受け入れて、『清澄寺大衆中』の御金言を「四月二十八日」から「三月二十八日」
へと変更してしまうと、既に、建長五年三月二十八日の時点において、日蓮大聖
人は御内証の決意を固められただけではなく、「浄円房と申す者並びに少々の大
衆にこれを申しはじめて」いるのですから、“内証の宗旨建立”だけに止まらず、
“外用の宗旨建立”までも行っていることになります。
    (大爆・大笑!)

 筆者から、この点を指摘されると、阿部日顕は、平成十四年三月二十八日に、
自説を修正して、

 「建長五年三月二十八日には、道善房や浄円房や清澄寺の順縁の者に対して、
日蓮大聖人が内証の宗旨建立の御説法(?)を行った。そのため、師匠の道善房
が激怒して、日蓮大聖人を清澄寺の道善房の坊から追放した。

 建長五年四月二十八日には、清澄寺の逆縁の者や地頭の東条景信等に対して、
日蓮大聖人が一期弘通の宗旨建立の御説法(?)を行った。そのため、地頭の東
条景信が激怒して、日蓮大聖人を清澄寺から追放した。」

 という主旨の『建長五年三月二十八日・四月二十八日、宗旨建立・初天法輪二回
説』を、発表するに至ってしまいました・・・・・。
 
 では、日蓮正宗史上、前代未聞の新説・珍説である、『建長五年三月二十八日・
四月二十八日、宗旨建立・初転法輪二回説』の矛盾を検証してみましょう。

 「仮に、三月二十八日に宗旨建立を行ったことによって、清澄寺の道善房の坊
から日蓮大聖人が追放されたのであれば、なぜ、日蓮大聖人は、四月二十八日ま
での一ヶ月間も、さほど寺域の広くない清澄寺の境内地に潜伏することが出来た
のか。


 「仮に、日蓮大聖人が、三月二十八日に、清澄寺の道善房の坊から追放された
のであれば、なぜ、四月二十八日に、清澄寺の僧侶・大衆や地頭の東条景信等を
前にして、再び、清澄寺で宗旨建立の御説法をすることが許可されたのか。


 「仮に、三月二十八日と四月二十八日の二回に渡って、日蓮大聖人が宗旨建立
を行ったのであれば、既に、三月二十八日の時点で初の御説法をされているため、
四月二十八日の宗旨建立は、二回目の御説法となる。そのため、四月二十八日の
宗旨建立の御説法は、“初転法輪”(注、成道された仏が初めて御説法をされる
こと)ではなくなってしまう。」


 等々、数多くの矛盾が生じていることは、子供でも、容易に認識出来ます。
 
 阿部氏の矛盾に満ち溢れた言動を見ていると、「昔、『聖人御難事』の御真蹟
を、“四月二十八日”から“三月二十八日”へ書き換えた増上慢の輩が、今日、
生まれ変わってきたのではないか。」とさえ、思えて来ることでしょう。   (^v^)

 次回の“あとがき”では、偽書を用いた、『日蓮大聖人正伝』の記述を取り上
げます。    了



■あとがき 

 宗門が出版している『日蓮大聖人正伝』(監修阿部日顕・発行代表藤本日潤)に
は、下記の記載(同著51ページ)があります。

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 蓮長は三月二十二日より二十八日の早暁にかけて、清澄寺の一室にこもり、こ
れからいよいよ地涌上行の再誕として、命にかけて題目を弘通する自らの大任の
もとに、如説修行の折伏を行ずるための深い思索を重ねられた。
 そうして三月二十八日、法華経の経文に照らして、いかなる無量の大難が競い
起ころうとも、その無数の大難を凌ぎ、南無妙法蓮華經の大法を弘通しなければ
ならないとの不退転の決意を固め、御内証のうえにおいて宗旨の建立をなされた
のである。しかしてこれより一ヶ月後の四月二十八日を期して、その第一声を放
つことを定められたのである。

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 この『日蓮大聖人正伝』の記載は、一見、もっともらしい説のように感じられます。
 でも、この説には、ちゃんと、“ネタ本”があるんです。

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 建長五年〈癸丑〉三月二十二日の夜より、一七日の間室内に入る。一七日を満
じて同二十八日早朝、朝日に向いて合掌し、十返計り始めて南無妙法蓮華經の七
字を唱へしより已来、念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の所以、戒律は虚妄の国
賊、真言は亡国の悪法、天台は過時の古き暦と、此の五箇条の法門を当地頭東条
左衛門景信に向かって之を謂ふ。

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 これが、『日蓮大聖人正伝』の記載の“ネタ本”となる、『法華本門宗要抄』の
御文(?)です。 
 でも、『法華本門宗要抄』は、なんと、“真っ赤な偽書”なんです!    (^v^)

 『法華本門宗要抄』は、古代から偽書と認定されているために、学会が出版し
た『御書全集』においても、宗門が出版した『新編御書』(監修阿部日顕・編纂
代表藤本日潤)においても、掲載されていません。

 勿論、『法華本門宗要抄』が偽書であることは、『新編御書』に携わった阿部
日顕も藤本日潤も、充分ご存知でした。

 (御丁寧にも、『新編御書』の10ページに、『法華本門宗要抄』は、偽書の
ために収録されていない旨が記されています。)

 以前、筆者は、ある御僧侶の方と、この件について、議論をしたことがあります。

 その御僧侶の方は、
 「重々、『法華本門宗要抄』が偽書であることは、認識している。
 だが、たとえ偽書であっても、資料的価値のあるものは採用すべきである。
 よって、『法華本門宗要抄』を根拠とした、『日蓮大聖人正伝』の記載には、
全く問題がない。」という主旨の事を、仰っていました。

 その御僧侶に対して、筆者は、こう云いました。

 「そもそも、偽書に、資料的価値など存在するわけがない。
 偽書は、どんなに精巧なものであっても、所詮、偽書の域を超えるものでは
ない。

 仮にも、『法華本門宗要抄』に、資料的価値が存在するならば、日蓮大聖人は、
“四箇の格言”(念仏・禅・律・真言)ならぬ、“五箇の格言”(念仏・禅・律・真言・天台)
を、地頭の東条景信に向かって説かれたことになるではないか。


 裁判における物証の認定では、『疑わしきは採用せず』が、大原則である。
 ならば、御法門における物証の認定においても、『偽書は採用せず』が、それ
以上の大原則であろう。

 加えて、世間法における“偽証”の罪よりも、仏法における“偽書”の罪の方が、
遥かに重い罪である、と、云わざるを得ない。


 結局、『法華本門宗要抄』の偽書を用いて、宗旨建立の義を解釈するならば、
偽書を偽造した犯人の悪心によって、正邪の判断が狂わされていくことは、必然
的な帰結である。
」という主旨の事を、反論させて頂きました。

 メルマガの読者の皆さんは、どちらの考えに、軍配を上げるのでしょうか。

 なお、阿部日顕・藤本日潤は、自ら、『波木井殿御書』を偽書と認定しておきな
がらも、『建長五年三月二十八日・四月二十八日、宗旨建立・初転法輪二回説』
を印象づけるために、昨年の立宗七百五十年記念法要の特別展において、偽
書の『波木井殿御書』を大石寺の大講堂に展示していたことも、一言、申し添え
ておきます。


 (これまた、御丁寧にも、『新編御書』の10ページに、『波木井殿御書』は、
偽書のために収録されていない旨が記されています。)

 開目抄に曰く、「今末法の始には良観・念阿等、偽書を注して将軍家にささぐ。
あに三類の怨敵にあらずや。 」と。   了
 

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