示同凡夫の故に不慮の書き謬り(あやまり)ならんか




  注記、

 『示同凡夫の故に不慮の書き謬りならんか』は、以前、筆者がMLを主宰していた、平成14年
6月23日に投稿した記事を、当時の筆者のWebサイトに掲載していたものです。

 『阿部日顕の宗旨建立・初転法輪二回説の邪義を破折する』の参考文書として、お読み下さい。    



  『示同凡夫の故に不慮の書き謬りならんか』


 筆者は、3月19日のMLにおいて、このように申し上げました。

 「コピーやスキャナーやパソコンや写真や活版印刷のない時代にあっては、誠に恐
れ多いことですが、御歴代上人が記述をされる際に、宗旨建立が建長五年三月二十八
日とケアレスミスで記載してしまったことが、後世に、そのまま伝わってしまった可能性
が全くないとは断言できません。

 また、重ね重ね恐れ多いことですが、日蓮大聖人の御書にも、ほんの僅かではあり
ますが、ケアレスミスは存在しています。

 辞典やインターネット等で簡単に検索できる時代ではないのですから、日蓮大聖人
が膨大な分量の御著作をされた中で、僅かな思い違いや書き損じをなされたことは、
致し方のないことです。
 勿論、その些細なケアレスミスによって、日蓮大聖人の仏法の正法正義が揺らぐもの
ではありません。」と。

 上記のメールに対して、匿名希望のMさんから、「日蓮大聖人のケアレスミスを、
具体的に教えてください。」という主旨のご質問を頂いております。

 そこで、この件につきまして、ご説明をさせて頂きます。

 日蓮大聖人のケアレスミスとして有名な箇所は、『観心本尊抄』に仰せになられた、
「二十九年の間は玄文等の諸義を説いて」との御一節が、実際には『二十九年』では
なく、『二十七年』のお間違いであったことです。

 日寛上人が『観心本尊抄文段』において、そのご事情を、お述べになられています。


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 「文に云う『二十九年の間は玄文等の諸義を説いて』とは、蒙に云わく『入滅の年
を除き二十九年の間を玄・文等の弘法に属するか。或いは五十七歳の止観の説法を
第三十年と為し、其の前を玄・文等の弘法に属するか』云々。

 寛案じて云わく、三十一歳玄義開講より五十七歳止観を説きたもう春に至るまで、
正に是れ二十七年なり。故に『二十九年』とは恐らく謬れり。応に『二十七年』に作
るべし。字形相似の故に伝写之を謬るか。

 今例文を考うるに、撰時抄の下に云わく『玄奘三蔵は六生を経て月氏に入って十九
年』云々。蒙抄の十一に云わく『月氏に入って十九年とは恐らくは謬れり、御直書は
十七年なり。語式の如し』等云々。既に十七年を以て謬って十九年に作る。今復然る
べきか。

 若し御真筆に縦い二十九年と有りと雖も、仍是れ示同凡夫の故に不慮の書き謬りな
らんか。例せば妙楽、証真に告ぐるが如し。又下の文の『諸論師の事章』の如きなり
云々。又御書の四・十三、第二・二十六、之を見合わすべし。」

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 この『観心本尊抄文段』の御文に、若干の補足説明をさせていただきます。

 日顕上人の“デタラメな28日の深義”にも、『録内御書』という書名が、たびたび登場
して参ります。

 江戸時代の初期に、日蓮大聖人の御書を集めて版文にした際には、まず始めに、『録内
御書』として、40巻・148通が発行されています。
 そして、その後に、『録外御書』25巻・259通が、追加して発行されています。

 その『録内御書』の注釈書として、日蓮宗不受不施講門派の開祖である安国院日講が
『録内啓蒙』を元禄8年に完成させています。

 なお、日寛上人は『三重秘伝抄』等において、安国院日講の『本迹一致』の教学を破折
されています。

 (余談になりますが、30万総登山の『特別記念展』を御覧になられた方々の証言によると、
「日顕上人の“デタラメな28日の深義”の正当性をデッチ上げるために、『波木井殿御書』の
“偽書”や“要法寺の文書”や“不相伝の輩の記述”等に加えて、“不受不施派の文献”まで
展示されている。」とのことです。)


 安国院日講は、『録内啓蒙』において、『観心本尊抄』の「二十九年の間は玄文等の諸義
を説いて」という御文における、『二十九年』という御金言に対して、

 「日蓮大聖人は、天台大師御入滅の年を除いた二十九年間を、法華玄義・法華文句等
の弘法に属されていたのではないか。あるいは、天台大師が五十七歳の時に行った摩訶
止観の説法を三十年目として、その前の二十九年間を、法華玄義・法華文句等の弘法に
属されていたのではないか。」

という主旨の解釈をしています。

 そして、安国院日講の『録内啓蒙』の見解に対する、日寛上人の反駁が、上記の『観心
本尊抄文段』の御文となります。

 上記の『観心本尊抄文段』の御指南を訳すと、

 「天台大師が三十一歳の時に法華玄義を開講されて以来、五十七歳の時に摩訶止観を
御説法されるまでの期間は、正しく『二十七年』である。

 故に、日蓮大聖人が、『観心本尊抄』において、『二十九年』とお書きになられたのは、
恐らく、お謬り(あやまり)になられたのであろう。

 『二十九年』と『二十七年』は、字の形が相似している故に、日蓮大聖人が御伝写を
お謬りになられたのではないか。

 たとえ、日蓮大聖人の御真筆に『二十九年』とお書きになられていたとしても、日蓮大聖人
が“示同凡夫”の故に、不慮のお書き謬りをなさってしまったのであろう。

 『撰時抄』には、「玄奘三蔵、月氏に入って十九年が間」と、日蓮大聖人はお書きになられて
いるが、正確には『十七年』である。
 『撰時抄』において、『十九年』と『十七年』を、日蓮大聖人がお謬りになられたことは、
安国院日講も認識しているではないか。

 ましてや、日蓮大聖人は、『開目抄』において、「尸那国の玄奘三蔵月氏にいたりて十七年」
と、正確に御記述されているのである。

 (注、玄奘三蔵の十七年間の行程が、後年、『西遊記』という物語になります。)

 従って、この『観心本尊抄』の御金言においても、天台大師が法華玄義を開講されてから
摩訶止観を御説法されるまでの期間を、『二十七年』ではなく『二十九年』と、日蓮大聖人が
不慮の書き謬りをなさってしまったのであろう。」

という主旨のことを、日寛上人は仰せになられています。

 日寛上人は、史実を御究明された上で、日蓮大聖人が、「字形相似の故に伝写之を謬る」
「示同凡夫の故に不慮の書き謬り」をなされたのであろうと、明確かつ論理的に結論づけられて
いるのです。

 それにしても、不受不施派の開祖である安国院日講と、日顕宗の開祖である阿部日顕氏の
屁理屈の付け方は、本当に瓜二つですね。       (^v^)

 では、ここで、皆さんに、お尋ねしたいことがあります。

 それは、「“仏宝”の日蓮大聖人であらせられても、『観心本尊抄』や『撰時抄』において、
「字形相似の故に伝写之を謬る」「示同凡夫の故に不慮の書き謬り」をなされた事実がある
ならば、“僧宝”の日興上人であらせられても、『安国論問答』において、「字形相似の故に
伝写之を謬る」「示同凡夫の故に不慮の書き謬り」をなされた可能性もあるのではないか。」

ということです。

 つまり、「日蓮大聖人が宗旨建立をなされた期日を、日興上人が『安国論問答』において、
建長五年三月二十八日と記述してしまったことは、日興上人の単純なケアレスミスだった
のではないか。そして、日興上人の『安国論問答』の記述に倣って、後年、日道上人の『御伝
土代』等の史伝書が書かれたり、御書の写本の記述を建長五年三月二十八日宗旨建立に
直されたのではないか。」
ということです。

 そして、「“仏宝”である日蓮大聖人が『出世の御本懐』をお遂げになられること=“法宝”
である本門戒壇大御本尊が御建立されることを、『聖人御難事』において、
 「去ぬる建長五年四月二十八日に、安房国長狭郡の内、東条の郷、今は郡なり。天照
大神の御くりや、右大将家の立て始め給ひし日本第二のみくりや、今は日本第一なり。
此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時に此の法門申しはじ
めて今に二十七年、弘安二年なり。」と仰せになられている以上、
 “仏宝”である日蓮大聖人と、“法宝”である本門戒壇大御本尊の御見解には、“僧宝”
である日興上人も、異論を挟むことはないであろう。
」と、筆者は考えています。

 皆さん、如何に、お考えでしょうか。

 『安国論問答』の建長五年三月二十八日宗旨建立の記述は、単なる日興上人のケアレ
スミスだったと考えておけば、何も、『日蓮正宗要義』や『日蓮大聖人正伝』において、
「日蓮大聖人は、建長五年三月二十八日に御内証の御決意を固められた上で、その1ケ
月後の建長五年四月二十八日に、清澄寺で初転法輪をされたのである。」と、大言壮語
していた日顕上人が、筆者から破折されるや否や、急遽、自らの珍説を撤回せざるを得
なくなるような恥を、世間に晒さなくてもよかったのです。


 ましてや、その後、日顕上人が新たに発表した、“更にデタラメな28日の深義”の矛盾点を、
再度、図示してみると、

---------------------------------------

 ・ 日蓮大聖人が建長五年三月二十八日に、道善房や浄円房や清澄寺大衆の順縁の者に
  対して、内証の宗旨建立を行った。


 (注、なぜ、道善房が“順縁”なのでしょうか?そもそも、“内証の宗旨建立”って、一体、どう
いうものなのでしょうか?)
                     ↓

 ・ その直後に、大聖人の師匠の道善房が激怒して、大聖人を勘当した上で、道善房の坊
  から大聖人を追放した。


 (注、道善房の坊から追放された大聖人は、その後、さほど寺域の広くない清澄寺の何処に、
滞在しておられたのでしょうか?)
                     ↓

 ・ 建長五年三月二十八日~四月二十八日の1ケ月間で、大聖人がお父様とお母様を折伏
  された。


 (注、大聖人がお父様とお母様を折伏されるまで、1ケ月も期間を要されたことへの証拠は、
どこにあるのでしょうか?)       
                     ↓

 ・ 日蓮大聖人が建長五年四月二十八日に、清澄寺大衆の逆縁の者に対して、一期弘通の
  宗旨建立を行った。


 (注、浄顕房と義浄房のように、清澄寺大衆の中にも、“順縁”の者がいたのではないでしょうか?)
                     ↓

 ・ その直後に、東条景信が激怒して、清澄寺から日蓮大聖人を退出させた。
                     ↓

 ・ 浄顕房と義浄房の手引きによって、日蓮大聖人は、建長五年四月二十八日に清澄寺を
  下山されて、鎌倉へ向かわれた。


---------------------------------------

ということになります。

 もう、繰り返して申し上げるまでもなく、
 「『安国論問答』における、建長五年三月二十八日宗旨建立の御記述は、日興上人が
『字形相似の故に伝写之を謬る』『示同凡夫の故に不慮の書き謬り』をなされた故と解釈
しておけば、日顕上人は、何も、これほど矛盾に満ちあふれた愚論を、無理矢理ひねり
出す必要はなかった。
」ということです。

 加えて、筆者は、「日興上人が『安国論問答』において、建長五年三月二十八日宗旨
建立の御記述をなされていることを、『御書全集』を編纂された総本山59世日亨上人
は、充分御承知されていた。にもかかわらず、あえて、『御書全集』の編纂に際して、
宗旨建立の期日を建長五年四月二十八日に統一する御配慮をなされた理由は、筆者
の主張と同様の御認識をお持ちになられていたからであろう。」
と、拝察しております。

 また、先日のMLで、日顕上人のお父様である総本山六十世日開上人は、日蓮大聖人
の宗旨建立が建長五年三月二十八日であることを、『日開上人全集』において、一言た
りとも仰せになられてはいないことを、筆者は、ご紹介させて頂いております。

 同様に、総本山二十六世日寛上人におかれましても、『文段』や『六巻抄』等の著書に
おいて、「日蓮大聖人の宗旨建立が建長五年三月二十八日である。」とは、一言たりとも、
お述べになられていません。

 ちなみに、日寛上人は、『立正安国論愚記』において、
 「終に人王八十五代後堀川院の貞応元年二月十六日午の剋を以て房州小湊の浦に生ま
る。御父は貫名五郎平重実の息・重忠なり。十二歳に入室し、十六歳に落髪す。学は八宗
に亘り蔵は三般に入る。建長五年四月二十八日、朝陽に眉を旋げて始めて経題を唱う、一宗
の濫觴此の一涓に在り。」と、仰せになられています。

 日顕上人の“デタラメな28日の深義”においては、身延系の不相伝の輩によって書かれた
『蓮公薩捶略伝』→『日蓮大菩薩略伝』や、『註画讃』→『日蓮聖人註画讃』の記述を多々引用
した上で、日蓮大聖人が18才であらせられた延応元年の時に、落髪=得度をされた旨が
述べられています。


 しかし、このMLで再三再四申し上げてきたように、日蓮正宗の通説においては、『妙法比丘
尼御返事』の御金言等を根拠として、日蓮大聖人が清澄寺に登られたのは12才であり、日蓮
大聖人が得度をなされたのは16才としていることは、日寛上人の『立正安国論愚記』の記述に
おいても、裏付けられることでしょう。

 皆さんのご意見を、お聞かせ下さい。
 また、以上を持ちまして、Mさんへの御返答とさせていただきます。    了


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