安国論副状 文永五年(1272年) 聖寿四十七歳御著作


 貴殿とは、未だに、御対面の機会はありません。
 けれども、国の重大事に関して、今回、書を奉ること(注、日蓮大聖人が『立正安国論』
を上奉されたこと)は、世間の常の習いとして、お受け止め下さい。

 そもそも、正嘉元年(1257年)八月二十三日戌亥の刻(午後九時頃)の大地震につい
て、日蓮は諸経の経文を引いて、その原因を考えました。

 その結果、「国中の人々が、念仏宗や禅宗等の邪義へ帰依しているために、日本国中の
諸天善神がお怒りになったことによって、引き起こされた災難である。」という結論に達
しました。

 もし、貴殿が、念仏宗や禅宗等を御対治されることがなければ、他国から、日本国が滅
ぼされることになるでしょう。

 これまでに発生していた災難は、日本国滅亡の悪瑞(悪い前兆)であります。
 私(日蓮大聖人)は、それらのことを論じた一通の勘文を撰述して、『立正安国論』と
名づけました。

 そして、正元二年(1260年)七月十六日(注、厳密に云えば、文応元年七月十六日で
ある。正元二年から文応元年に、年号が切り替わったのは、この年の四月十三日であった。)
宿屋入道を通して、故最明寺入道(北条時頼)殿に御覧いただくために、『立正安国論』
を進上させていただきました。

 (後欠)



■あとがき

 今回連載させて頂いた、『安国論副状』という御書は、『立正安国論』の『送り状』と
云われています。

 『副』という漢字は、副える(そえる)という読み方も出来ますので、『安国論副状』
は、“安国論に副えられた状”と読むことが出来ます。
 
 『安国論副状』の御真蹟は、明治8年の身延の大火で焼失しており、それまでは、上記
の箇所まで、断簡が保管されていた、と、伝えられています。
 また、『安国論副状』は、大石寺版の『新編御書』には掲載されていますが、学会版の
『御書全集』には掲載されていません。
 
 多くの学説では、「文永五年三月五日、北条時宗は、18才で執権の座に就いている。
執権就任直後に、日蓮大聖人は北条時宗に対して、『立正安国論』を上奉された。その際、
『立正安国論』に副えられた『送り状』が『安国論副状』である。」とも、云われています。

 しかし、筆者は、その学説に対して、疑いを持っています。

 その最大の理由は、「明治8年の身延の大火で焼失したとされている『安国論副状』を、
『宿屋入道許御状』と対比させると、ほとんど文面が一致している。」ということにあります。

 (注、後記の“参考文献”で、『宿屋入道許御状』の全文を掲載させて頂きます。ご参
照下さい。)

 やっぱり、筆者のような悪党には、「如何にも、文永五年に、日蓮大聖人が北条時宗に
対して、『立正安国論』を上奉されたかのように偽装するため、何者かが『宿屋入道許御
状』を“切り文”して、『安国論副状』という名前の御書に仕立て上げた。」と言う風に
も、思えてくるのです。    (^v^)

 そして、『御書全集』を編纂された日亨上人が、何故に、『安国論副状』を不掲載にさ
れたのか。

 日亨上人の御賢察には、到底、及ぶものではございませんが、もしかしたら、日亨上人
が、筆者の疑いと同様のご見解を持たれていたために、『安国論副状』を不掲載にされた
のかも知れません。

 しかるに、文献等の資料が少ないため、これ以上は、推測となってしまいます。
 読者の皆様も、一緒に、この謎をお考えになってみては、如何でしょうか。

 なお、大石寺版の『新編御書』では、『安国論副状』の御書も、『宿屋入道許御状』の
御書も、両方とも掲載しています。

 前回の連載でお伝えした、『安国論送状』の題名の件と同様に、宗門の御書編纂の担当
者は、このことにつきましても、何ら問題意識を持たなかったのでしょうか???     了
 
                     ◇◆◇◆◇◆

■参考文献

 『宿屋入道許御状』

 其の後書絶えて申さず、不審極まり無く候。
 抑去ぬる正嘉元年〈丁巳〉八月二十三日戌亥の刻の大地震、日蓮諸経を引いて之を勘へ
たるに、念仏宗と禅宗等とを御帰依有るがの故に、日本守護の諸大善神、瞋恚を作して起
こす所の災ひなり。
 若し此を御対治無くんば、他国の為に此の国を破らるべきの由、勘文一通之を撰し、正
元二年〈太歳庚申〉七月十六日、御辺に付け奉りて故最明寺入道殿へ之を進覧す。 
 其の後九箇年を経て、今年大蒙古国より牒状之有る由風聞す等云云。経文の如くんば、
彼の国より此の国を責めん事必定なり。
 而るに日本国中、日蓮一人彼の西戎を調伏すべきの人に当たり、兼ねて之を知り論文に
之を勘ふ。
 君の為、国の為、神の為、仏の為、内奏を経らるべきか。
 委細の旨は見参を遂げて申すべく候。
 恐々謹言。

 文永五年八月二十一日    日蓮 花押 
 宿屋左衛門入道殿 

 (新編御書370ページ、御書全集169ページ)

 (注、『宿屋入道許御状』の「抑去ぬる正嘉元年〈丁巳〉八月二十三日戌亥の刻の大地震
~故最明寺入道殿へ之を進覧す。」の箇所が、『安国論副状』の「抑正嘉元年〈太歳丁巳〉
八月二十三日戌亥の刻の大地震~故最明寺入道殿に之を進覧せしむ。」の箇所と、ほとんど
一致しています。)


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