平左衛門尉頼綱への御状(十一通御書) 文永五年(1268年)十月十一日 聖寿四十七歳御著作
 

 蒙古国の国書が到来したことにつきまして、言上させていただきます。

 そもそも、先年(文応元年・1260年)、日蓮が考察させていただいた、『立正安国論』
における『他国侵逼難』の予言が、少しも違うことなく符号しております。

 それ故に、「重ねて、諫訴の書状を提出することにより、この国を覆っている重苦しい
状況を払拭したい。」と、存じます。

 あくまでも、諫言の旗を公にすることが先決であり、争い事や諍(いさか)い事は、私的
で後廻しにすべき問題です。

 しかしながら、貴殿は、一天の屋棟(時の最高権力者)であります。
 そして、日本国の万民は、貴殿の手足のような存在であります。

 にもかかわらず、どうして、この日本国が滅亡していく事を、嘆かないのでしょうか。
 どうして、悪行を慎まないのでしょうか。

 一刻も早く、当然のこととして、退治を加えた上で、謗法の過失を制するべきであります。

 改めて考えてみれば、一乗の教えである妙法蓮華経は、諸仏が覚りを開いた極理であり、
諸天善神が威食とする経典であります。

 この妙法蓮華経を信受すれば、何故に、七難(人衆疾疫難・他国侵逼難・自界叛逆難・
星宿変怪難・日月薄蝕難・非時風雨難・過時不雨難)が到来したり、三災(穀貴・兵革・
疫病)が興起することがあるのでしょうか。
 妙法蓮華経を信受すれば、そのようなことはありません。

 ところが、鎌倉幕府は、この事を申し上げている日蓮を、流罪に処しています。
 必ずや、日月や星宿は、罰を加えることでしょう。

 聖徳太子は、悪逆であった守屋氏を倒して、仏法を興隆させました。
 藤原秀郷は、平将門の乱を平定して、名を後代に留めています。

 であるならば、法華経の強敵であるところの、貴殿(平左衛門尉)が御帰依されている
寺の僧侶を退治して、宜しく、諸天善神の擁護を蒙るべきであります。

 『貞永式目(御成敗式目)』を拝見すると、非拠の事(根拠のないこと)を制止するの
は、分明であります。
 必ずや、日蓮の諫訴の書状の提出に関しても、『貞永式目(御成敗式目)』の条項を、
御採用しなければなりません。

 貴殿(平左衛門尉)がそのように対応しなければ、まさしく、貴殿(平左衛門尉)自身
が、『貞永式目(御成敗式目)』を破ることになります。

 以上の論旨を以て、方々へ、愚状を進呈しております。

 所謂、鎌倉殿(執権北条時宗)、宿屋入道殿、建長寺、寿福寺、極楽寺、大仏殿、長楽
寺、多宝寺、浄光明寺、北条弥源太殿、並びに、この書状を合わせて、十一箇所に送付し
ました。

 各々方が御評議を行った上で、速やかに、御報告を頂戴したい、と、存じます。

 もし、そのようにされるならば、卞和(べんか)が璞(あらたま)を磨いて玉と成した
り(注、苦難の後に、価値あるものが認められることの譬え)、法王髻中(けいちゅう)
の明珠(注、正法の素晴らしい教えが現れることの譬え)が、その時に顕れることでしょ
う。

 全く、私(日蓮大聖人)自身の為には、この諫状を提出しておりません。
 神の為、君主の為、国の為、一切衆生の為に、言上しているものでございます。

 恐々謹言

 文永五年(1268年)十月十一日    日蓮 花押

 平左衛門尉殿



■あとがき

 本日から、『平左衛門尉頼綱への御状』(十一通御書)を連載します。   
 改めて申し上げるまでもなく、“平左衛門尉頼綱”とは、龍口法難において、日蓮大聖
人を斬ろうとした、あの“平左衛門尉”のことです。    了



■参考文献

 『貞永式目(御成敗式目)』

 五十二の二、御評定の間、理非決断の事

 右、愚暗の身、了見の及ばざるに依って、

 一、若し、旨趣・相違の事、更に、心の曲がる所に非ず。
 二、其の外、或いは人の方人と為って、
 三、道理の旨を知りながら、無理の由を称じ申し、
 四、又、非拠の事を為して、証跡有りと号し、
 五、人の短を顕わさざらんが為に、子細を知らしめながら、善悪に付きて申さざるは、
意と事と相違し、後日の批謬出で来たらんか。

                      ◇◆◇◆◇◆

■あとがき

 『貞永式目(御成敗式目)』は、貞永元年(1232年)に、北条泰時等によって制定
された、鎌倉幕府の法令です。
 そして、『貞永式目(御成敗式目)』は、日本の武家社会における最初の成文法になり
ます。

 『貞永式目(御成敗式目)』の内容は、源頼朝以来の鎌倉幕府の慣習や不文律を基盤に
した上で、構成されています。また、信仰・道徳、土地・財産、守護・地頭の職務内容、
裁判制度、家族・相続等々、多くの分野に及んでいます。

 なお、『貞永式目(御成敗式目)』は、後世の武家社会にも、強く影響を与えており、
室町幕府や戦国時代の諸大名の法律にも、その精神が受け継がれています。

 また、江戸時代の寺子屋教育においては、習字の教科書としても、『貞永式目(御成敗
式目)』が用いられています。

 日蓮大聖人は、評定所(裁判所)等における御評議の場においても、『貞永式目(御成
敗式目)』の原理・原則を採用しなければならないことを、鎌倉幕府の重臣であり、時の
最高権力者であった、平左衛門尉頼綱に対して諭されておられます。     了



■あとがき

 上記の御金言における“法王髻中の明珠”の譬えは、法華経安楽行品第十四に、出典が
あります。

 髻中の明珠とは、転輪聖王が髻(もとどり・髪を頭の頂に集めて束ねたもの)の中に、
大切にしまっていた無上の宝珠のことです。
 転輪聖王は、戦において、最も勲功のあった者にだけ、これまで誰にも与えなかった、
無上の宝珠を与えています。

 この髻中の明珠とは、一往は、法華経の意を示しています。
 しかし、再往は、三大秘法の南無妙法蓮華経の意を示すものであります。

 次に、“卞和の璞”の故事を紹介します。
 “卞和の璞”は、中国の古典である『韓非子』に、出典があります。

 下記に、その故事を要約してみました。

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 中国の周の時代(春秋時代)のことです。

 卞和と云う人が、楚の国の荊山の中で、素晴らしい『石』を見つけました。
 この石は、磨けば光り輝く明珠となる、『璞(あらたま)』の原石でした。

 卞和は、この『石』を、楚の国のレイ王に、献上しました。
 レイ王は、すぐに、この『石』を、玉磨きの名人に見せました。

 すると、玉磨きの名人は、「この『石』は、『璞(あらたま)』ではなく、単なる石こ
ろである。」と、玉を磨きもせずに決めつけてしまいました。

 怒ったレイ王は、卞和の左足を断って、山中に追放しました。

 数年が過ぎて、レイ王の太子である武王が世を継いだ時に、再度、卞和は、この『石』
を献上しました。
 ところが、武王は、この『石』を見ることもなく、卞和の右足を断ってしまいました。

 卞和は両足を失ってから、二十余年の長い間、この『石』を抱きしめながら、洞窟の中
で暮らしておりました。

 武王が亡くなってから、太子の文王が、王位を継ぎました。

 ある時、文王が、荊山に狩りに行くと、洞窟の中で、卞和が『石』を抱きながら泣いて
いるのを見つけました。
 そして、文王は、卞和から一部始終を聞いてから、この『石』を磨かせることを命じま
した。

 すると、この『石』は、鮮やかに、輝き出しました。
 当初から、卞和が主張していたように、この『石』は、『璞(あらたま)』の原石であ
り、光り輝く『名玉』になりました。

 この『名玉』は、国王が外出する際に七輌の車を照らしたため、『照車の玉』と称され
ました。
 また、夜の町を煌々と照らしたために、『夜光の玉』と称されました。
 また、卞和の名を取って、『和氏の璧』と呼ばれることになりました。

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 今日は時間が足りなかったために、上記の“卞和の璞”の説明は、若干、大雑把な出来
になってしまいました。  

 いい加減な筆者であることは、皆様もよくご存知のことと思われますので、どうか、お許し
下さい。    了



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